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──第二話──
  はなち   やいば
花散 らす にて」

十三景
 
 時刻が来た。
 安儀螺屋[アギラや]裏手の、塀に囲まれた小さな空き地。
 そこが、トレスが二度目の真剣勝負をする場所。
 しかし対戦相手のレジーこと、レザノフ=ワーナーはまだ到着していない。
 さきほど使いの者が来て、仕事の関係で多少遅れる、とのことだ。
 まぁ、そういう事もあるだろう。
 トレスは、特に気にしていなかった。
 
 今、この場所にいるのはトレスとジャンヌ、それにシンカイ親子、あとフュール一家。
 さっきトレスが昏倒させたチデンも、妻の助けを借りてこの場にいる。
 幼い兄妹も、母親にしがみつきながら、何が起こるのかとせわしなく視線を巡らしていた。
 ちょっと時間ができたので、トレスは体を温めるために軽い運動をはじめる。
 剣士たるもの、いつ、いかなる瞬間でも全力を出せなければならない……というのが理想だが、このままじっとしているよりは、ずっといい。
 屈伸をしたり、足の筋を延ばしたりする、いつものメニューをこなす。
 ジャンヌがそばで、こちらを見守っている。
 トレスは、あとで聞こうと思っていたことを訊ねた。
「あのさ、ジャンヌ……なんで今回は、決闘するのを止めなかったのさ?……こないだとは、ずいぶん違うじゃないか?」
 不敵に笑う、ジャンヌ。
「あれだけの目に遭わせといて、今さら何いってんのよっ……わたしが止めたって、戦うって決めたら絶対に、止める気なんかないくせに……それと……」
 ま、そう言ってしまえば、その通りなのだが。
「それと?」
 ジャンヌは、ちらりと先程の試合の相手を見る。
 何のつもりだ?
 それから彼女はこちらに近づいてきて、周囲に聞こえないように、こう、ささやいてから、また元の場所に戻る。
 
「……腹を突かれた痛さを知ってる人を、放っておけないじゃないっ……借金地獄のことは、よく知らないけどねっ」
 
 ああ、そういう事か……
 トレスは了解した。
 先日、カズトとの決闘を止めようとしたジャンヌを沈黙させるため、さきほどのチデンと同じ目に遭わせたことがある。
 あの後、部屋にすっぱい臭いが充満して、しばらくベットを移動させたほどだった。
 風呂に入った時も、彼女の腹にアザが出来ていて、悪いことをしたなと反省した覚えがある。
 とりあえず、大怪我させずに黙らせるには、鳩尾[みぞおち]に一発食らわせるのが良い方法だと思っていたが、やっぱりやられた方は、たまったものではないらしい。
 考えてみれば、相手を傷つけずに倒すというのは、怪我で動けなくしたり、殺したりするよりも難しいことかもしれない。
 殺すことにも相応の覚悟は必要だが、それは気持ちの問題。
 怪我をさせずに相手を倒すには、殺す以上に技術が要る……ここしばらくの経験で、トレスはそれを実感していた。
 そういうのも、面白いかもな……
 ちょっと新しい視点が発見できた気がする。

十四景
 
 あの、にやけ男……決闘の時間に遅れて来るとは、いい度胸じゃない!
 落ち着き払ったトレスにくらべ、ジャンヌはだんだんと苛ついて来た。
 だいたい、約束の時間も守れなくて、商人が務まると思ってるの?
 と言ってやりたいのだが、相手がいない。
 トレスはトレスで、準備運動に余念がないようなので、ジャンヌはフュール一家の方に近づいた。
 ジャンヌが近づくと、フュール一家は一瞬、身構えたように見える。
 話すのはいいとして一体、誰に話しかけたものか……
 そう考えていると、むこうの方から声がかかる。
「あなた達、どういうつもりなの?」
 そう聞いて来たのは、妻のナセル。
 夫のチデンは、怯えたような目を向けているだけだ。
 さて、どんな話をすべきか……
 とりあえず、無難な返事をする。
「どうって、あなた達を助けるつもりよ?」
「助けてくれなんて、言った覚えはないわっ!……英雄を気取るつもり?大した偽善者ねっ!」
 ナセルが叫ぶ。
 どうやら誇り高い性分らしい。
 そういう性格、嫌いじゃないわ。
「……あなた達のためじゃない。勘違いしないで……ただ、結果として、あなた達が助かるというだけよ」
「何なの、それ?」
「……わたしの連れは、不緩士到[フュールシトウ]流の、そのまた出来損ないを痛めつけただけじゃ、満足できないの……勝つにしろ、負けるにしろね。
 だから、納得できる敵を連れてこい!……理由はなんでもいい、ああ、さっきの借金一家を助けるのを賭けにもう一回、勝負しろ!……そういうことなのよ。
 名誉の問題を言うなら、これ以上ないってほど、侮辱してるかもしれないけど、善意なんかこれっぽっちもない……偽善者と呼ばれる筋合いはないわっ!」
 ジャンヌの一喝に、ナセルはぐっと詰まる。
 どうする?
 そう思って待っていると、彼女はこう反論した。
「アタシ達が、レザノフに借金の無効を拒否したらどうするの?……この勝負は無効になるわっ!」
 面白くもない反論ね……がっかりだわ。
「好きになさい……ただし、勝負が決してからにしてもらえる?こっちとしては、トレスが真剣勝負できれば問題ないんだから……勝者の権利を放棄するのは、そちらの自由よ」
 その言葉に反論できず、ナセルは黙り込んでしまう。
 高度な議論を期待したのが間違いね。
 ナセルを論破したジャンヌは、話し相手を変更する。
 相手は、妻の影に縮こまっている、チデン。
 それにしても……よりによって不緩士到[フュールシトウ]流の末裔が、こうも軟弱者とは……まぁ、元がもとだけに……ねぇ。
 
 時は通砂一一三三年、朝紀で言えば臨供[りんく]一七五年、西振樫環[セイシンカシワ]朝時代。
 北方で急速に勢力を拡大した流恵九[リュッケナイン]の軍勢が、真那砂[マナサ]半島北西の助衆環[ジョシュワ]街道から侵入した。
 精強な大軍を擁する流恵九[リュッケナイン]軍に比べ、防衛する真那砂[マナサ]の軍隊は余りにも脆弱で、征服は時間の問題だった。
 しかし、この事自体は大した問題ではない。
 大陸から侵入した軍勢に、真那砂[マナサ]半島が支配されたことは何度もあるし、大国の版図に組み込まれた歴史もある。
 肝心なのは、流恵九[リュッケナイン]が道理をわきまえた統治者であるか?……その一点のみ。
 結果からすれば、流恵九[リュッケナイン]は政治的には全くの無能であり、数々の混乱を残して真那砂[マナサ]半島を去ることとなる。
 真那砂[マナサ]の破壊者として、流恵九[リュッケナイン]は現代にまで悪名を残した。
 半島を統一したために、一応は統一王朝の一つに数えられてはいる。
 しかし、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]朝をはじめ、他の王朝のような民族名と固有王朝名という定型の名が与えられず、単に流恵九[リュッケナイン]朝と呼ばれているのは、後世、通砂歴を制定した人間の、ささやかな侮辱と言えた。
 流恵九[リュッケナイン]によって侵略された真那砂[マナサ]半島にとって、もう一つの屈辱……それが、不緩士到[フュールシトウ]流である。
 
 当時の真那砂[マナサ]半島は、西振樫環[セイシンカシワ]朝によって百年以上も平和な期間が続いており、文化的には爛熟期に入っていた。
 多くの文化芸術が繁栄と衰退をくりかえし、優秀な文化人を多数、排出している。
 その一方で、長く対外戦争が行われなかった軍事面では、個人の刀剣技術を追求した、高度に細分化された剣術流派が数多く誕生した。
 ジャンヌは武器には詳しくなかったので知らなかったのだが、その多くの剣術流派が主に使用した武器、それが那刀[ナトウ]なのである。
 那刀[ナトウ]を大陸風に言えば、反りのある片刃両手剣、という位置づけになる。
 この形状は、古今東西の武器が追求している『突き』と『切り』という二大攻撃法を兼用し、使用者によって柔軟な戦法を可能としている。
 そのため、当時の真那砂[マナサ]半島には無数の那刀[ナトウ]剣術流派が存在し、それぞれが特徴のある那刀[ナトウ]の用法を追求していた。
 不緩士到[フュールシトウ]流は、その無数の那刀[ナトウ]剣術流派の一つである。
 この流派が、他の那刀[ナトウ]剣術と違っていたことは、不緩士到[フュールシトウ]流を極めた者は、人の限界を超えることが出来る……そう喧伝[けんでん]したこと。
 およそ、人間には不可能と思える奇跡の強さを発揮し、無類無双の最強剣技である……そう断言し、当時の民衆に信じ込ませることに成功してしまったのだ。
 石灯籠を断ち斬る……ぐらいは可愛いほうで、最終的には天を舞い、地を砕き、海を割るほどの強さが得られる!……とまで言い出し、多くの人々はそれを信じた。
 心ある人は、それが欺瞞[ぎまん]であることを知っていたが、多くの人にとって、その欺瞞こそが真実であり、精神的な拠り所となった。
 不緩士到[フュールシトウ]流が隆盛を極め、政治的にも大きな発言力を得るようになると、その傾向は加速した。
 嘘とわかっていても、力のある流派を立てれば利益を得られる……そう考えた者たちによって、不緩士到[フュールシトウ]流の無敵伝説は誇張に誇張を重ねていく。
 これが平和な時代であれば、他愛のない妄想で済んだかもしれない。
 不老不死の妙薬とか、鉛を金に変えるとか……その手の話はいくらでも事例がある。
 別段、特異な事ではない。
 だが不運なことに、不緩士到[フュールシトウ]流がこの世の春を謳歌[おうか]していた、まさにその時、流恵九[リュッケナイン]が侵略して来たのだ。
 
 不緩士到[フュールシトウ]流は、他流試合をしない。
 達人を越えた、真の超越者となった者が、俗人と刃を交えるわけがない……そう言って、嘘がばれるのを隠していた。
 それまで、真面目に那刀[ナトウ]剣術を極めんと研鑽[けんさん]していた流派の者たちは、ただ刃物を振り回すしか能のない二流剣士として蔑まれ、虐げられていた。
 そこに、軍事的な天才である、流恵九[リュッケナイン]の侵略である。
 当然ながら、人々は期待した。
 なにせ、達人を越えた真の超越者である。
 多少の軍事的な劣勢は、人間離れした強さで容易に挽回してくれる……そう、多くの民衆が期待するのも無理からぬこと。
 神秘に包まれた最強の流派、不緩士到[フュールシトウ]流が、その真の姿をあらわす……民衆は、侵略されたという恐怖よりも、そのことにに狂喜したという。
 無論、不緩士到[フュールシトウ]流が噂通りの強さ……とまではいかなくても、純粋に那刀[ナトウ]剣術として優れた流派なら、ここまで問題にはならなかったであろう。
 だが、自身も優れた剣士であった流恵九[リュッケナイン]は、不緩士到[フュールシトウ]流の実体を性格に把握していた。
 それどころか、その集団妄想を効果的に利用し、最大限の効率をもって、自身の征服事業を完遂せしめる。
 
 圧倒的な大軍をもって真那砂[マナサ]軍と対峙した流恵九[リュッケナイン]は、開戦を前にこう提案した。
 そちらの軍の中に、高名な不緩士到[フュールシトウ]流の剣士がいると聞く。
 数の上では、我々が有利であるが、そのような無双の剣士がいるとあっては、当方も慢心するわけにはいかない。
 そこでこの戦の勝敗を、双方が出した剣士による決闘によって決するのはどうだろうか?
 不緩士到[フュールシトウ]流が噂通りの強さなら、万に一つも勝ち目はないし、そうでなければ、数で勝る我らの軍勢が負けるわけがない。
 お互い、血を流さずに勝負を決することができれば、それに越したことはないではないか……と。
 
 かくて衆人環視の中、不緩士到[フュールシトウ]流の剣士と、流恵九[リュッケナイン]の精鋭である剣士との決闘が行われた。
 勝負の結果、不緩士到[フュールシトウ]流が奇跡の強さを発揮することもなく惨敗する。
 無類無双の名を確固たるものにした不緩士到[フュールシトウ]流の腐敗はすさまじく、ろくに剣を握ったこともない者が、達人を越えた超越者の位を金で買っていたという……まともに剣を振れる者がいたとしても、本当に強い者は、とっくに不緩士到[フュールシトウ]流を見限っていたので、二流以上の剣士などいなかった。
 大軍を見せつける……不緩士到[フュールシトウ]流との決闘を申し出る……相手を倒す、という行為を繰り返すことで、流恵九[リュッケナイン]は容易に勝利を重ねた。
 どれほどの大軍でも、無傷で勝つことはできない。
 普通に戦えば、少なからず犠牲が出るのは避けられないところだ。
 それを軍神ともいえる無敵の剣士を倒すことで、真那砂[マナサ]軍の戦意を喪失させ、自軍の被害を最小限におさえた。
 流恵九[リュッケナイン]は、わずが三ヶ月で真那砂[マナサ]半島を制圧し、百七十年以上続いた西振樫環[セイシンカシワ]朝は滅亡する。
 
 政治的失敗により、流恵九[リュッケナイン]朝はあっさりと崩壊するのであるが、その後に興った伝紗樫武[ディンシャカシム]朝および、西振樫武[セイシンカシム]朝によって、不緩士到[フュールシトウ]流はおろか、那刀[ナトウ]那刀[ナトウ]剣術そのものが、徹底的な弾圧を受けた。
 流恵九[リュッケナイン]戦争時代の醜態は、真那砂[マナサ]半島全体に、絶対的な那刀[ナトウ]剣術不信を抱かせてしまったのである。
 これ以後、那刀[ナトウ]剣術の使用はおろか、那刀[ナトウ]の所持、製造が禁止された。
 かわりに、大陸で普及した長剣[ロングソード]が使用されるようになり、複雑に細分化された那刀[ナトウ]剣術は急速に衰退する。
 那刀[ナトウ]剣術の敗退から四百年余り。現在では所持や製造こそ禁止されていないが、那刀[ナトウ]那刀[ナトウ]剣術そのものが忘れ去られ、流恵九[リュッケナイン]不緩士到[フュールシトウ]流の悪名だけが現代に伝わっている。
 その弾圧と歴史の隠蔽があまりにも徹底していたため、ついには那刀[ナトウ]那刀[ナトウ]剣術の存在そのものを忘却してしまうほどである。
 現代人にとって、不緩士到[フュールシトウ]流とは邪教のようなものであり、嫌悪の対象であるが、その実体と背景にある那刀[ナトウ]剣術はほとんど知られていなかった。
 宝蓮水叢[フォリアミナムラ]朝の人々にとって、那刀[ナトウ]は知る人ぞしる武器なのである。
 
 その、不緩士到[フュールシトウ]流の末裔が、目の前にいる。
 ジャンヌは、不思議な感慨を覚えた。
 チデン=フュール自身がどうという事はないのだが、歴史の証人を目の当りにする気分である。
 ジャンヌは、抱いた疑問を素直に口にした。
「チデン……フュールさん?……一つ質問があるのだけど、いい?」
「うう……ううううぅ〜っ」
 その言葉以前に、チデンはジャンヌを恐れるように、妻の背に隠れる。
 何も、取って食おうってわけじゃ……そう思ったが、よくよく見ると、どうも違う。
 チデンは、彼女が持っている希定を恐れているのだ。
 なるほど、悪名高き不緩士到[フュールシトウ]流が使用した武器に、必要以上の[おそ]れを感じるのは、わからないでもない。
 ジャンヌは希定を後ろ手に隠すと、もう一度、同じ質問を繰り返す。
「一つ質問があるのだけど、いい?」
 今度はチデンも反応し、わずかに首をかしげる。
「何であなた……フュールを名乗っているの?……この国で、不緩士到[フュールシトウ]流の末裔だなんて話をしたら、どんな目に遭うかなんて、よくわかっいるでしょ?」
 そうではないか。
 悪名高き家系なら、名を変えてひっそりと暮らし、ほとぼりが冷めるの待てばいいではないか?……ずっと名乗っていたかは知らないが、あまり賢いやりかたとは言えない。
 商売に失敗したというが、フュールの名を出せば、うまく行くものもうまく行かないのではないか?ジャンヌは、それが知りたかった。
 その問いに、チデンは何か答えようとするが、口をぱくぱくさせるばかりで言葉にならない。
 それでも辛抱強く返答を待っていると、子供たちが騒ぎはじめる。
 
「とーちゃんをいじめるなっ!」
「ぢめるなっ!」
 
 幼い兄妹が、ジャンヌに敵意を向ける。
 不緩士到[フュールシトウ]流の末裔は、世間に対してはともかく、自分の子供には愛されているようだ。
 昔に比べれば、随分と進歩してるじゃない……逆よりは、ずっといいわ。
 そう考えていると、チデンがおずおずと口をひらく。
 かすれがちな、弱々しい声である。
 
「……せ、先祖がどうであれ、わ、私はわたしが生まれた家を誇りに思っている……そ、その事で、人様にどう言われようと、か、関係ない。われら一族は、そうやって生きてきたし、子供たちもそうする、は、はずだっ」
 
 声は震えていたが、その言葉には自信と誇りに満ちている。
 ジャンヌには、そう感じられた。
 剣術は弱いかもしれないが、他に何か、周囲を惹きつける魅力を持っているのかもしれない……なら、それでいいじゃない。
「そう?……じゃ、不緩士到[フュールシトウ]流の誇りにかけて、この決闘を見守って下さる?」
 チデンの言葉に満足したジャンヌは、そういってトレスのそばに戻った。
 
 レジーが現れたのは、それからまもなくのことである。

十五景
 
「じゃ、はじめようか?」
 約束の時間を四半刻(約三十分)も遅れて、レジーは到着した。
 対するトレスの反応は、単純そのものである。
「いや、申し訳ない。仕事が長引きまして……」
「そりゃご苦労さん」
「こりゃどうも……」
 
 トレスは、ジャンヌに持ってきてもらった風呂敷包みを開く。
 中には、革製の帯……装帯[ハーネス]が入っている。
 着物のたるみを引き絞り、動きやすくするための帯だ。
 ジャンヌは確か、タスキとか何とか言ってたな……
 トレスはそう考えながら、装帯[ハーネス]を装着し、左の肩当てと、喉当ての位置を調節する。
 両腕をまわして、調子を確かめると、ジャンヌから希定を受け取った。
 そして、手首に巻いておいた髪留めで、長髪をまとめる。
 やっぱ、こうすると気持ちが引き締まるな。
「行ってくるよ」
「頑張って……って、言われなくても頑張るわよねっ」
 ジャンヌは、ちょっと緊張しているようだ。
「まーねっ」
 トレスが気さくな返事をすると、ジャンヌの表情が険しいものに変わり、そして告げる。
 
「ならば、我が名代として、あの卑劣漢[ひれつかん]の鼻面をへし折ってまいれっ!」
 
 もう驚きはしないが、これが彼女本来の喋り方なのだ。
 トレスは苦笑しながらも、うやうやしく返答する。
「仰せのままに」
 その言葉にジャンヌも笑い、最後にこう告げた。
「行ってらっしゃい」
 トレスはうなずいてから、レジーと対峙した。
 
「よろしいですかな?」
「ああ……」
 トレスは、紫銀の髪を馬尾[ポニーテール]にまとめ、赤い着物の両脇を装帯[ハーネス]で絞り、茶色い短袴と皮のブーツ、そして手には富良帝丸[フラディガン]希定[マレサダ]
 レジーは上着を脱いで、黒いズボンに、白いシャツ、そして腰に紺色の帯を巻いている。
 右手には細身の剣が握られ、なぜか左手には二輪の赤い花が……
 そのレジーが告げる。
「ではもう一度、決闘の方法を確認します。
 この戦いは、先に行われた牡幕[ボマーク]の第二戦となるわけで、しかも真剣勝負ということになりました。
 これはむしろ、牡幕[ボマーク]本来の姿とも言えるのですが、私としてはもう少し華のある決闘にしたいと思うのです……その演出のための小道具が、このバラなのですが……」
 そう言って、レジーは二輪のバラの花を差し出す。
 真那砂[マナサ]半島では、あまり見かけない花だ。
 受け取れ……そういう意味だと解釈したトレスが手を出すと、レジーは一輪だけ、バラを渡した。
「トレスさん……そのバラの花を、私の胸元に挿して下さい。わたしも、貴女の胸に挿しますので……」
 うっわぁ〜、恥ずかしいぃ〜。
 と、内心思ったが、せっかくの真剣勝負を無しにされても困るので、だまって言われた通りにする。
 ちょっと顔が赤らんでしまうのは、いたしかたのない所。
 多少、背伸びをしないとレジーの胸のポケットに届かないのが、なんかくやしい。
 トレスが挿し終わると、今度はレジーが彼女の赤い着物の合わせ目に、真紅のバラを挿す。
 間近に、レジーの蒼と黄金の瞳が見える。
 よくわからないが、トレスはドキドキしてしまった。
 互いの胸にバラを挿し終わった二人は、また距離を置く。
「ルールはいたって単純。勝負は一撃のみ……互いの胸のバラを、先に散らせた方が勝ち……それだけです。
 武器は、飛び道具以外のものなら、全て認めます。私は、安儀螺屋[アギラや]さんから借りたこの、細剣[レイピア]を使用しますが……トレスさんは、希定でよろしいのですか?」
「……ああ、これでいい」
「そうですか……他に、何か質問は?」
「一撃のみの勝負だと、決着がつかない……ってことはないか?」
「その場合、この賭けは成立しないことになりますが……おそらく、そういう結果にはならないと思いますよ」
 この男、大した自信だな……
「じゃぁさ、逆に胸の花を散らせるつもりが、うっかり相手の体を刺したらどうするのさ?」
「それは不幸な事故ですが……その場合は仕方ありません。いさぎよく、命を捨てる覚悟はできてますよ」
 その割に顔がにやけてるが……
「わかった、そのルールでいいよ」
「よろしい……では、牡幕[ボマーク]第二戦をはじめます」
 
 そして双方、剣を抜いた。
 
「……あ、鞘は放り投げないで下さいね。傷がつきますから」
「むっ……」
 トレスは仕方なく、鞘を預けにジャンヌの元へ戻った。
 ジャンヌも、何やら笑いをこらえているふう。
 あの男、なにか勘違いしてないか?
 かくいうレジーも、細剣[レイピア]の鞘をサザンに渡す。
 
 双方、抜き身の剣を持って、再び対峙した。

十六景
 
 試合は開始されたものの、双方ともうかつに踏み込まない。
 一撃勝負なだけに、前回にもまして交わりのない試合だったが、二人ともせわしなく立ち位置を変え、それぞれ最良の場所を得ようとしている。
 空は夕刻が近く、真紅の黄昏時が迫りつつあった。
 
「……まずいですよ、ジャンヌさんっ」
 サザンが小声で話しかけてきた。
 ジャンヌは、決闘から目を離さずに答える。
「何がよ?」
 そりゃま真剣勝負なんだから、まずいと言えばまずかろう。
「レジーさんは、こと、細剣[レイピア]にかけてはかなりの腕前なんですよっ」
「あの、針みたいな剣は、レイピアっていうんだ」
「そうですよ。大陸で主流になりつつある武器で……じゃなくて、何で武器が自由なのに、那刀[ナトウ]を使うんですか?」
「そりゃ、那刀[ナトウ]が好きだからでしょ……あなた、何がいいたいわけ?」
 さっぱり理解できない。
 サザンは一度、唾をのみこんで自分を落ち着かせると、丁寧に解説をはじめた。
「よく聞いて下さい……この勝負、胸のバラを散らせた方が勝ち……これはわかりますよね」
「ええ……そう言ってたもの」
「では、一撃でバラを散らすのにもっとも有効な攻撃方法は、何だと思いますか?」
 そういう専門的なことを聞かれても……と思ったが、ふと、レジーの剣をみて思いつく。
「そうね……こう、ひゅっと突くのがいいんじゃないかしら?」
 ジャンヌは身振りを交えて答える。
「そう、そうです。その通りですよっ……無駄のない、最小限の突きを繰り出すのが、最良の方法です……これだと、圧倒的にレジーさんが有利になってしまいますよっ」
 そう、なのかしら?
「……でも、トレスだって突くぐらい出来ると思うけど?」
「武器が違いますよ……確かに那刀[ナトウ]は『突く』ことも可能ですが、あくまで『突く』こともできるというだけで、『突く』ために造られたわけではありません……おわかりですか?」
 ここにきて、ようやくサザンの言わんとすることを理解しはじめる。
「つまり、にやけ男の武器は、突くために造られた物だって言いたいわけ?」
「ええ、細剣[レイピア]は切ることを捨てて、突くことを追求した武器です……強度はありませんが、生身を刺し貫くには十分です。これが普通の決闘なら、いくらでも戦いようもあるでしょうが、一撃のみの突き勝負に限定されると……はっきり言って、トレスさんに勝ち目はありませんよ……」
 確かに、見るからに軽そうなレジーの剣にくらべ、トレスの希定は頑強で鈍重である。
 大剣をへし折ることはできるかもしれないが、突くという一点に限定されると、いかにも使いにくそうだ。
 そうは思ったが、あえて聞いてみる。
「つまり、トレスが負けるっていうの?」
「……そういうことです。突きにも切りにも使えるという、那刀[ナトウ]の利点を逆手に取られました……那刀[ナトウ]をよく知っている、レジーさんならではの策略です」
 ってことは勝負する前から、トレスはあのにやけ男に負けてたってわけ?
 だが、ジャンヌは確信をもった口調で反論した。
「それをトレスが、知らないと思うの?」
「……え?」
「多分、トレスはあなたが言ったようなことは全部理解してて、それでもこの勝負を受けたんだと思うわ」
「……勝ち目があると?」
「ええ」
「ずいぶんトレスさんを、信頼してるんですね」
「まぁね……ともかく、勝負を見守りましょう」
「わかりました……」
 そしてサザンは、ジャンヌのそばを離れた。
 
 ……とは言ったものの、どうするつもりなのかしら?
 トレスを信頼しているのは事実だが、彼女の意図が読めないのは気に食わない。
 おそらく、サザンのいったことは本当なのだろう。
 まともに勝負したら、トレスには勝ち目はない。
 勝負は、やってみなければわからない!……などという、妄信的な蛮勇は論外だ。
 可能な限り、自分が有利な状況で勝負をするのが常道というもの。
 その点、トレスは卑怯な手段は好まないが、あえて不利な状況を選ぶほど愚かではない……と思う。
 だとしたら、武器の選択が自由にもかかわらず、なぜ希定を使うのか?
 
「知っててやってるはずだって、あの人は言ってたよ」
 元との場所に戻ったサザンは、父であるロクセンゴにそう告げた。
 もともと、ジャンヌに忠告させたのは彼である。
 サザン自身、状況を完璧に把握しているわけではない。
 息子の報告に、ロクセンゴはわずかに顔を歪める。
「……ふんっ。あの娘、剣士になるってのは本気らしいな」
「どういうことさ?」
「見てりゃわかる……まったくカズトといい、あの娘といい、よくよく性根が据わってやがるな」
 そう言って、つまらなそうに髭を撫でた。
「……?」

十七景
 
 狙いは胸に挿した一輪のバラ。
 ただ、それだけ。
 レジーは、勝利を確信した。
 トレスは一足刀の間合いで、愛用の太刀を中段に構えている。
 攻めるにも、守るにも適した構え。
 この後におよんでも、真剣勝負であることを捨てないつもりか。
 レジーは半身で細剣[レイピア]を構えながら、少女のこだわりに閉口する。
 これは、遊びだ。
 命の奪い合い、などという野蛮な行為ではない。
 その本質を理解できない、あるいは理解しようとしない者に、万に一つの勝利もない。
 その程度のことも、わからないのか、君は?
 
 トレスは、考えることを止めていた。
 どうすべきかは、もう決まっている。
 ただ、いつも通りやるだけだ。
 それを自分に確認させると、もう一度、大業物を構え直した。
 眼前に半身で立つ青年の胸には、自分と同じく、一輪のバラが挿してある。
 先に、相手の胸のバラを散らせた者が、この下らぬゲームの勝者となる。
 これは、遊びだ。
 そう思いたければ、勝手にするがいい!
 
 トレスとレジーの対峙を見つめながら、傍観者たるジャンヌは考えていた。
 彼女が、どうやって勝つつもりなのかを。
 ジャンヌは、こと剣術に関して、トレスが優れた洞察力と判断力、そして実行力の持主であるという事実を、率直に評価している。
 その彼女がなぜ、こうも不利な勝負……とも言えぬ座興に応じたのか?
 遊びなら負けてもいいと?
 ……いや、そうじゃない。
 そんな割り切り方ができる奴じゃない。
 だったら、どうする?
 勝ち目の薄い決闘遊技に勝つ……少なくとも、勝つ確率を高める方法は?
 それを、ずっと考えているのだが……ジャンヌの思考力をもってしても、答えは出ていない。
 だが、トレスの迷いのない目を見る限り、彼女自身には勝利する目算があるのは明らかだ。
 それが、もどかしい。
 なんでアイツに気づけて、私は気づかないのよ!

十八景
 
 まったく奇妙な娘だ……と、レジーは思う。
 あのカズトを倒した相手……話には聞いている。
 小兵ながら、鋭い剣さばきと、無類の切れ味を誇る剣を持つという。
 それが、この少女のことだったとは……
 まったくエリーも人が悪い……ま、それは今にはじまったことではないですが。
 にしても、あの切り欠きが、汲場狩鳴[クムバカルナ]をへし切った時のもの……噂の狩鳴[カルナ]切りだったとは……それならそうとトレスさんも一言、いってくれればいいのにっ!
 レジーはそう叫びたかった。
 落としてついた傷なら価値を落とすだけだが、実戦でついた傷なら、値は上がりこそすれ落ちることはない。
 証拠の品である、折れた汲場狩鳴[クムバカルナ]安儀螺屋[アギラや]にある。
 なにやら包丁になっていた気もするが、希定に箔をつけるのに何の問題もない。
 「名物、狩鳴[カルナ]切り希定[マレサダ]」……くくく。
 いやぁ〜、こいつは高く売れるぞっ!
 レジーはすでに、希定をどう売却するかを考えはじめていた。
 
 彼は純粋に商人でる。
 琶名[ワーナー]商会そのものは貿易商であるが、彼自身は那刀[ナトウ]をはじめ、美術刀剣を扱うことが多い。
 工芸品としてであっても、武器を扱う以上、もめ事に巻き込まれる危険は常につきまとう。
 そんな事情もあり、護身のために細剣[レイピア]を習った。
 といっても、実際に使えるのは突き[ファーント]だけだが。
 回避からの反撃や、多段突きなど高度な技もあるのだが、そこまでの技量はない。
 勝負を、突きの一発勝負に限定したのは、むしろレジー自身のためだった。
 逆に言えば、突くことに限れば、彼はどんな達人にも負けない自信がある。
 レジー自身が先に動くつもりはない……トレスが攻めてきた時に、彼女よりも早く正確にバラを突く、絶対的な自信が彼にはあった。
 那刀[ナトウ]剣術の用語で言えば、後の先という奴だ。
 
 レジーには、剣士という人種が理解できない。
 なぜ、剣などという実用的でない武器にこだわるのか?
 剣は軍属の象徴、武器の中の武器……たしかに、そういう認識はある。
 彼が商売をしている相手も、みな剣を好む。
 だが、実際に戦場で使われているのは、今も昔も槍と弓だ。
 素人が剣で切るのは困難であるが、槍で突くのは比較的容易だ。
 弓兵が弓矢の雨を降らせ、歩兵が槍ぶすまを作り、突進する。
 騎馬兵が使うのも、やっぱり槍だ。
 剣を使うのは、槍が折れたり、双方が接近しすぎて槍が使えない状況のみ。
 所詮、剣などというものは、補助武器にすぎないではないか……
 そんな中途半端な武器のために……しかも、実戦ではおよそあり得ない一対一の勝負にこだわるなど、レジーにはとても信じられない。
 そんなレジーでも、細剣[レイピア]だけは習う気になった。
 突く……ただそれだけの攻撃。
 双方、防具をつけないことを前提に、突きのみで相手を倒す。
 実際は、短剣で止めを刺すことのほうが多いようだが、そこまでするつもりもない。
 
 「突き」と「切り」のどちらが優秀な攻撃法か?……これは、世界の刀剣の歴史を見ても、いまだ結論のでない命題である。
 だが、レジーとしては、突きの方が優秀であると確信していた。
 物を切れば切れ味は鈍る……だが、突きの威力は鈍らない。
 先が折れなければ、多少、血で汚れても威力は変わらないではないか。
 そして、弓も槍も、その主たる攻撃は突きだ。
 剣という武器に対する、不必要な浪漫主義を排すれば、この世で実用に足る武器は、みな突きなのだ。
 突きと切り、双方を中途半端に折衷した那刀[ナトウ]ごときに、負けるつもりはない。
 この世に突きが、ある限り。
 
 どうやら、攻める気になったようだな……
 トレスの動きを見て、レジーはそう判断する。
 ようやく、こちらから攻めないことを理解したらしい。
 彼女の考えはわかっている。
 体を半身にして、右手を離した左片手突き。
 これなら胸のバラを遠ざけたまま、間合いを稼げるだろう。
 だが、それでもリーチはレジーのほうがわずかに長かった。
 先ほど希定を鑑定したのだから間違いない。
 来るとわかっている一撃……しかも間合いはわずかに届かず……
 それでも勝負する気か……惨めな勇気だな。
 
 そして、トレスは動いた。
 
 レジーの視界の中で、急速に希定の切っ先が迫る。
「?……」
 だが、その動きはレジーの予想とはちがい、両手[もろて]突き。
 これでは距離がかせげないではないか?……そう困惑する自分のほかに、もう一人の冷静な自分が攻撃を正確に修正する。
 突きだした細剣[レイピア]をトレスの胸元に合わせ、突進する威力で先にバラをつらぬく位置に合わせた。
 それでも、トレスの突進は止まらない。
 そう……まるで、初めからバラなど気にしていないように。
 
 そうか!……
 トレスの意図を把握した瞬間……
 細剣[レイピア]がトレスのバラを捉えた瞬間……
 そぉれまでぇっ!
 ロクセンゴの声。
 細剣[レイピア]の切っ先が、トレスの胸元に当たる。
 胸を貫かないよう、咄嗟に細剣[レイピア]を引く、レジー。
 それでもトレスは止まらない。
 舞い散る花びら。
 渾身の一撃が接近。
 迫る巨大な圧迫感。
 いい知れぬ恐怖。
 でえぇぇぇいっ!!
 トレスが吠える。
 
 一瞬後、レジーのバラが散った。
 交差する、二人。
 
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……ん、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……んぐっ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
 
 息を荒げながら、レジーはがっくりと膝をつく。
 トレスはふぅ〜っと息を吐いて、元の位置にもどる。
 
 なんだ……一体どういう事なんだ?
 私は勝ったではないか……
 いや……いいや……そうじゃない。
 そんな、単純な問題では……ない。
 
琶名[ワーナー]商会、おまえさんの勝ちだ……」
 ロクセンゴが、そう告げる。
「え、ええ……」
 どうにか答える、レジー。
 
「どうだ、琶名[ワーナー]商会……絵瑠部[エルベ]の研ぎ代は半額にしといてやるから、フュール親子の借金は、無しにしねぇか?」
 
 ……なにを言ってるんだ、この人は?
 前回の負けと、今回の勝ちは無関係じゃないか……
 そう言おうとして、レジーがロクセンゴの方を向いた瞬間、返答に詰まる。
 ロクセンゴの目に、射すくめられた。
「あ、ああ……ええ……べ、別に、それで構いませんよ……も、もともとフュール氏の借金など、たいした問題ではありませんからね……」
「悪ぃな……こいつは、貸しにしといてくれ」
「了解しました……」
 あまりにも理不尽な交渉……だが、それに反抗する気力が、いまのレジーにはなかった。

十九景
 
「やられたよ……」
 トレスはさばさばした顔で、帰ってきた。
 ジャンヌは、鞘を返す。
 なぜか彼女には、勝った人間がレジーのようには見えない……どういうこと?
「その割に、元気そうじゃない……負けたのよ、あなたっ」
 ちょっとムキになってみたりする。
「いや……レジーにじゃない。あっちのおっさんに邪魔されたよ」
「邪魔って……あの、それまでって声?」
「そうさ……じゃなきゃ、あいつの心臓、貫いてやるつもりだったのにっ!……ダメだね、あたしも」
 頭をぽりぽり掻く、トレス。
「貫く……って、あなたあのにやけ男を、殺すつもりだったの!?」
 思いのほか、声が大きくなってしまう。
 レジーやシンカイ親子まで、こちらを見ている。 
 トレスは別に、気にしてないようだ。
「どう考えても、突きの勝負じゃ勝ち目がないからさ……なら、相手を刺しちまえば、早いも遅いもないだろ?……レジーも、死ぬ覚悟はできてるって言ってたらな」
「じゃ、あの人が止めなかったら……」
「いー具合に、それまでって声が入ったから……思わず刃をひねって、花だけ斬っちゃったよ」
 そこでジャンヌは、レジーを見る。
 まるで敗者のように、がっくりと膝をついたまま……
 つまりレジーは、あやうく命拾いしたというわけか。
 
「おまえさん、とんでもない娘だな」
 ロクセンゴが近づいてきて、そう言葉をかける。
「あんたが止めなきゃ、勝てたのに」
 トレスも、不敵に応じる。
「ふん……うちの敷地で人殺しされちゃ、かなわんからな」
「それで損しちゃ、世話ないよ」
「……おまえさんの那刀[ナトウ]、見せてみな」 
 言われたトレスは、素直に希定を差し出す。
 ロクセンゴは希定を抜き、夕日にかざして刃文を見る。
「……!」
 わずかに、ロクセンゴの眉が動いたと思うと、すばやく鞘におさめ、返す。
 トレスは聞く。
「この那刀[ナトウ]、まだ使えるかな?」
「別に、まずい所はねぇよ」
「けど……欠けた所とかあるけど……」
「物打ちの傷なんてなぁ、逆に引っかけがあっていい位だ……[むこ]う傷だし、見映えを気にしないなら、そのままにしときな」
「……そうか、なら安心だ……なぁ、あんた、那刀[ナトウ]を修理できるんだろ?だったら、もし、こいつが本当に壊れたら、修理してくれるか?」
「……いつでも持って来な……ちったぁ負けてやる……ふん、今日は大損だぜ」
 ぶつくさ言いながら、安儀螺屋[アギラや]にもどって行く。
 
 ……そういう訳ですか。
 膝をついた場所で話を聞きながら、レジーは納得した。
 単なる商品にすぎなかったはずの那刀[ナトウ]が、あの瞬間、命を狙う凶器に変貌したのである。
 商人であるレジーが、その恐怖に耐えられるわけがない。
 この勝負、単なるゲームだと思っていたのは、自分だけだったのだ。
 トレスはあくまでも真剣勝負……命のやり取りにこだわっている……その心理は把握していたが、まさか殺してでも勝つ、という発想はレジーの理解を超えていた。
 それが、敗因……いや、勝因だったのか?
 彼女にとっても、ぎりぎりの選択だった……だからこそ、ロクセンゴの言葉一つで刃をねじってしまったのである。
 とても、レジーについて行ける世界ではない。
 戯れ[たわむ]に、牡幕[ボマーク]に挑戦した。
 木剣の勝負とはいえ、いつもは知り合いの剣士に依頼していたのだが……
『こんな思い、二度と御免だ!』
 そう、心の底から思うことで、レジーはようやく立ち上がることができた。
 
 ジャンヌは、ロクセンゴの背中を見送るトレスと並んだ。
「あの人、全部お見通しだったわけか……ちょっと悔しいわね」
「なんか、格が違うって感じがするよ……気にする事はないんじゃない?……まぁ、『にやけ男』の面子[めんつ]は潰したから、それで勘弁してよ」
「ふふ……フュール親子も、とりあえず借金からは開放されたみたいだし、ね」
 トレスの真意を見抜けなかったのは残念だが、あの親子のことで後味の悪い思いをしなくて済んだのだから、まぁ良しとすべきだろう。
 なにより、にやけ男のガックリが見られた訳だし……
 そう思うことにする。
「……で、どうするよ?これから」
 
「よかったら、食事して行きませんか?」
 と、サザンがトレスの問いに割り込んできた。
 
「いいのか?」
「ええ……歓迎しますよ!」
「じゃ、ご馳走になろうかしら?」
 夕暮れは、夕闇に変わろうとしている。
 
 ともかく、今日の決闘は終わったのだ。

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