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──第二話──
  はなち   やいば
花散 らす にて」

初景

「ちょっとトレス、起きてよ!」
 ジャンヌはうつぶせに寝ているトレスに声をかけた。
 いつもの、赤い着物に短袴という姿のまま、紫銀[しぎん]の髪の少女はベットに轟沈している。
「う、うぅ〜ん」
 ジャンヌの声に反応はするが、起きる気配はない。
 ばし、ばしっ!
「ほら、添削が終わったから、結果だけでも聞きなさいよ!」
 黒髪に青い着物姿の少女、ジャンヌは清楚ふうな外見とは裏腹に、乱暴な調子で手に持つ紙束でトレスの頬を打つ。
 さすがにトレスも、うざったそうに紙束の連打を手で遮ると、うっすらと目をひらく。
「……ワッハプン、マァム?」
 トレスは眠そうに、そう言った。
「……何?」
 ジャンヌが怪訝な表情で動きを止めていると、ようやくトレスがまともに反応する。
「……ふぁ……あ、ジャンヌ、おあよぅ……ふぁ……何?なんか用?……」
 目ヤニのついた目をごしごしと擦りながら、枕元に立つジャンヌを見上げる。
「いや……あなたの要約文を添削したけど……その、色々と問題はあるけど、とりあえず合格点だから、お疲れさまって……それだけを言おうと思って」
 なんだか気勢を削がれてしまったジャンヌは、ともかくも用件だけを告げる。
「……じゃ……もう本を読まなくていいの?」
 それを聞いていたトレスは寝ぼけまなこのまま、だるそうに聞く。
「今回の本はね……でも、あれくらい普通に読めないと、ここではやって行けない……って、トレス、聞いてる?」
「……むぅ〜ん。きいてるよぉ〜……くぅ〜」
 その言葉とは裏腹に、再びトレスは夢の世界へ。
「ま、用件はそれだけなんだけどさぁ……」
 ジャンヌは軽くため息をつくと、要約文の紙束を、トレスの机に置く。
 本当は、添削内容を詳細に説明し、今後の学習姿勢を厳しく戒めよう……などと考えていたのだが、とても無理ふう。
 だだっ広い屋根裏部屋の隅が、二人の生活空間。
 中央で左右に傾斜する屋根の両脇に、いくつも窓が穿たれ、東側から白い光りが差し込みはじめている。
 もう、朝なのだ。
 昨日……つまり、朝紀八十年、華九月白十六日が、ジャンヌがトレスに与えた課題である史書、「柏崎史[カシワザキし]丸茶諭伝[マルティーニュでん]」を読解し、要約文を提出する期限だったのである。
 
 にしても……ここまで無防備に眠りこけてて、いざ敵襲という時は大丈夫かしら?
 トレスの豪快な爆睡ぶりに、ジャンヌは一抹の不安を覚える。
 当面、その危険はないはずだったが、剣士としては、いついかなる瞬間でも、有事に備えるぐらいの気構えがなくてどうする!……と、思わなくもないが、その剣士に本来、不得手なはずの勉学を強いたのは、ジャンヌ自身なのだから、あまり大きいこともいえない。
 
 トレスとカズトの決闘から一旬(十日)。
 トレスにとっては、あの土蓮[ドバス]の青年との決闘よりも、その後の九日間の方が過酷だったかもしれない。
 なにせ、決闘でガタガタになった体に鞭打って、慣れない本字の読解と、急激に難易度を増す大學の講義、おまけに自身の鍛錬を両立させなければならなかったのだから……
 睡眠時間を削っての読書と勉強は、はっきり言って無茶だったと、課題を与えたジャンヌ自身も思うのだが、それでもトレスは完遂してみせた。
 どうにもならなければ、それなりに対応しようかとも思っていたのだが、質問こそ山のようにされたが、投げ出す気配はついに見せなかった。
 実は、勉強する才能があったのか……それとも、剣士になるために必要なら、いやな事でもできるのか……
 どちらにせよ、この難関を突破できるなら、今後の勉強にもついていける見込みはある。
 ここしばらくは、二人とも同じ内容の授業を受けるはずなので、ジャンヌがフォローしてやれば、どうにかなりそうだった……
 ま、それはいいとして……
「ふふあぁ〜……」
 横で気持ちよさそうに寝息を立てるトレスを見ながら、ジャンヌも手で口元をおおいながら小さく欠伸する。
 提出期限ぎりぎりで要約文を提出してくれたのはいいが、一字一句、丁寧に添削していたら、夜が明けてしまった。
 明けて今日は、華九月運十七日の朝。
 ジャンヌもまた、押し寄せる睡魔に抗うことなく、自身のベットに倒れ込む。
 授業もなく特にすることもない、怠惰な一日になるはずであった。
 

二景

 学生寮の屋根裏を、まるごと占有する部屋の中央。
 トレスは口に半紙をくわえ、板の間に胡座[あぐら]をかいている。
 わずかに湾曲した、黒塗りの刀装がほどこされた剣を左手に持ち、右手ですっと鞘を抜く。
 那刀[ナトウ]富良帝丸[フラディガン]希定[マレサダ]の、ぬらりと光る銀色の刀身が現れた。
 鞘を脇に置き、刃が上になるようにして鍔元から切先をまっすぐに見る。
 その鋭利な直線に、歪みはない。
 だがよく見ると、切先のすこし下に、わずかな白い光が見える。
 右手に持った半紙で[むね](刃のないほう)を持ち、剣を横にして切先を観察する。
 口は半紙でふさがっているが、鼻息も荒くならないよう、意識して呼吸をおだやかにする。
 湿気は、刃の大敵なのだとか。
 間近で見ると、濡れたような輝きを持つ刃が、単純な銀色ではないことがわかる。
 うっすらと、刃先の部分から棟への中間部分に、断続的なうねりが走っている。
 さらにじっくりと観察すると、うねりの他にも、微妙な点や曇りが表面に現れている。
 極限まで磨き上げられた表面に浮かぶ、不規則な模様。
 それはあたかも、夜空の雲や星のようだ。
 トレスはいつもその模様を見ていると、吸い込まれそうな気分になってくる。
 ひょっとして、あたしって怪しい奴?
 ……いやいや、今日はそんなモノに見とれている場合じゃない。
 気を取り直して、さっき見つけた白く光る場所に注目すると、そこだけ刃が小さく楔型にへこんでいた。
 それは、ほんのわずかの欠損ではあったが、今まではなかった傷である。
 おそらく十日前のあの日、カズトを大剣ごと斬った時にできたものだろう。
 決闘の直後、血を拭うために最低限の手入れはしたが、戦いの疲労と課題に追われ、今日まで放っておいてしまった。
 見た目、大きな傷はなかったので、あまり気にしていなかったが、全くの無傷とはいかなかったようである。
 剣を断ち、人間を切り裂きながら、その程度の傷しかないというのは、刃物としては凄いことなのかもしれないが、やっぱり気になってしまう。
 
 あの時の一撃はまったく手応えがなかった。
 今まで修練を積んできた中でも、最高の一撃であったにもかかわらず、である。
 理想的な斬撃というものは、案外、手応えのないものなのかもしれないな。
 
「!……」
 
 トレスはみたび、刃を観察していて気づく。
 欠けた刃もそうだが、その部分のすこし上、刃が描くうねりの境界線のあたりに微妙な白い曇りがある。
 刃自身が描く模様とは明らかに異なるそれは……カズトの体を斬った時にできた曇り  血曇り  である。
 丁寧に拭ったつもりだったが、まだ残ってたか……
 トレスは傍らに置いてある、白い布でくるんだ親指と人差し指を丸めたくらいの大きさの玉を手に取った。
 刃の油や汚れを取るもので、打粉[うちこ]という。
 それを、血曇りの残った部分に、ぽんぽんと当てる。
 白い粉が薄く付着した。
 彼女は打粉を元の場所に置くと、その隣に置いてある、白いふわふわした布を手に取る。
 この布は、フランネルという表面が起毛した柔らかな平織りの布地で、通称、ネルと呼ばれる。
 非常に柔らかいので、デリケートな面を拭くのに適している。
 トレスはもういちど、ネルを揉むようにくしゃくしゃにすると、広げて問題の箇所に、挟むようにしてあてがう。
 そして、すこし力を入れて、曇りのある部分を中心にネルを上下に動かす。
 力んで、鼻息が刃にかからないように注意しながら……
 なんどか刃の状態を確認しながらネルを上下すると、血曇りは完全に取れた。
 トレスはもう一度、刃の全体に薄く粉を打つと、全体を拭く。
 そして、光にかざして刃を見上げてみる。
 今度こそ、その表面に一点の曇りもない。
 
 ただ一ヶ所の切り欠きをのぞいて……
 
 ……にしても、この傷はどうしたものか。
 刃物が傷ついたら研ぐ……というのは常識であるが、この剣については、一概にそうとも言えない。
 トレスも、ナイフや包丁ぐらいなら自分で研げるのだが、そういうモノと同じように扱ってよいものだろうか?
 表面の微妙な変化が見えるほどで磨き上げられた刃を、自分で研ぐ自信はなかった。
 ここはやはり、専門の職人のような人に、研ぎを依頼するべきだと思うのだが、見知らぬ土地で、そんなものがあろうはずもない。
 道具である以上、使えば痛むのは当然としても、補修がきかないのは問題である。
 だいたい、この剣は一体、何なのだろう?
 「那刀[ナトウ]」というぐらいだから、てっきり真那砂[マナサ]半島固有の武器だと思っていたが、この国に来て以来、ついぞ同じ形状の武器にはお目にかかっていない。
 いくら、ここ那水[ナスイ]の地では学問が盛んであり、武芸は二の次とはいえ、剣を帯びた者がいないわけではない。
 役人にしろ、兵士にしろ、何かしらの武器を持つ者はいた。
 だが、トレスと同じ、那刀[ナトウ]を持つ者は、一度も見たことがない。
 王族であるジャンヌも、そんな種類の剣は見たことがないという。
 長剣や、カズトの瀬亞刀[セアトウ]は知っているというのだから、まんざら武器を知らないわけでもない。
 どーなってるのやら……
 
 それから一刻あまり(約二時間)、トレスは数日ぶりに鍛錬を行う。
 
 課題に追われていても、ジャンヌは鍛錬を行うことを認めてくれていた。
 いくら課題がこなせても、剣の腕が鈍っては困る……ということらしいが、さすがに毎日はできない。
 ジャンヌが認めないのではなく、課題に追われてトレス自身がが実行できなかったのだ。
 今日やっと課題がおわり、 久々に気がねなく体が動かせて、大いに満足。
 ちなみに、相棒のジャンヌはまだベットで睡眠中である。
 明け方近くまで、トレスの提出課題を採点して、そのまま寝てしまったらしい。
 なんか、ジャンヌに言われた気もするが、ともかく、合格であることだけは認識していたので、細かいお小言は、彼女が起きてから、じっくりと聞くつもり。
 読書もさることながら、紫大の授業も並行して消化し、さらに鍛錬も続ける……よくもまぁこの十日間、あの苦行をこなすことができた物だと自賛していた。
 しかし、この大學を卒業するためには、こういう日々が延々と続くわけで、そう思うとうんざりする。
 久しぶりに思い切り体を動かし、愛刀の手入れができたのはいいが、やっぱりこれからが不安なことに変わりはない。
 勉強が好きか嫌いかと問われれば、やっぱり嫌いだと思う。
 なにせ、自分がしたいのは剣術であって、詩吟[しぎん]ではない。
 風雅な教養とは無縁の、無骨な世界にあこがれるトレスには、ここの生活が苦痛でしかなかった。
 図らずも、ジャンヌと知り合ったおかげで今のところ、どうにか勉強について行くことはできるが、もし一人で勉強するはめになったとしたら、どうなっていた事か……
 いや、逆に三日と持たずに退学できて、よかったのではないか?
 確かに、じっくりと読めば、難解な歴史の本だって理解はできる。
 理解するということが、苦痛であると同時に、少なからず面白いということも経験した。
 しかしそれは、牢獄での暮らしに楽しみを見いだすようなものではないか? 
 なまじ、勉強を見てくれる相手が見つかったばかりに、苦痛を長引かせているのではないか……
 いやいや、そういう考え方は良くないか……
 苦痛でもなんでも、卒業すれば、はれて剣術に専念できるのだ……
 やっぱ、運が良かったと考えておこう……うん、そうしよう。
 
 気づいてみれば、いつしか鍛錬の手が止まっており、胡座をかいて黙考していた。
 
 後ろ向きになりがちな気持ちをふるい起こし、それを体言するかのように、トレスはすくっと立ち上がる。
「んっじゃ、もういっちょ鍛錬しますか!」
 彼女は首をぐるりと回すと、鍛錬用の長い棒を手に取る。
 そういや、木剣もどうにかしないとな……
 鍛錬に使っていた木剣も、カズトに切り折られてしまっている。
 いま使っているのは、大學の廃材置き場で見つけた棒きれを加工したもので、あまり具合はよくない。
 
 まぁ、五体満足でいられるだけで、十分と思うべきなんだろうけど……

三景

 どっどっどん、どっどっどん、どっどっどん、どんっ!
 軽快なリズムで、戸が叩かれる。
 
 どっどっどん、どっどっどん、どっどっどん、どんっ!
 ジャンヌは布団をかぶって、無視をきめこむ。
 
 どっどっどん、どっどっどん、どっどっどん、どんっ!
「こぉ〜んにぃ〜ちわぁ〜です〜」
 やがて扉のむこうから、妙に間延びした……だが、妙に印象的な声が聞こえてくる。
 それを聞いて、ジャンヌはがばっと起き上がる。
 
「はいよ……いま開けるっ」
 ジャンヌが寝床から飛び出すより早く、トレスが扉を開けた。
 床面と平行に設置された扉が、横に持ち上がる。
「ちょ、ちょっと待って!」
 そういうジャンヌの叫びも空しく、扉は開け放たれた。
 
「……なんだ、あんたか」
 
 嫌そうな気分を隠そうともせず、トレスは声の主にむかって言う。
「おひさしぶり、です〜」
 そういいながら声の主、エリーことエカテリナ=マーベルが、ずかずかと入ってきた。
 長い銀髪を、左右非対称の三つ編みに結い、赤い瞳に大きな丸眼鏡をかけている、伝紗[ディンシャ]族の少女だ。
 全体に緑を基調とした長衣を纏っている。
 いかにも、あどけなさを残した、純真無垢な少女……という容姿を備えているが、その実態は……
「なにか御用かしら?」
 ジャンヌはつとめて平静に……だが、エリー本人にはわかる棘を含んだ問いを発した。
 無論、その程度で臆する相手でないことは、百も承知。
「今日は、ちょっとお願いがあって来ました〜」
 エリーは、トレスの横を抜けて、ジャンヌの前にとことこ歩いてくる。
「……で、そのお願いの内容は?」
「えっと……てゆ〜か、これはエリーのお願いじゃなくて、カズト君からのお願いなんです〜」
「!?……カズトだって!?」
 はぁ?と、ジャンヌが怪訝な反応を示すより早く、カズトという単語にトレスが反応する。
 そこでエリーは、はじめて気づいたかのように、トレスの方に振り向いた。
「こないだは、ご苦労さまです〜」
 エリーはにこにことした表情を崩さず……だが、ジャンヌにははっきりとわかる悪意をこめて、トレスに言った。
「えっ?……何が?」
 だがトレスは、ぎょっとした表情のまま固まっている。
 どうやら、エリーの言わんとすることが理解できないようだ。
「ですから……えっと……その〜」
 エリーにとっても予想外の反応だったらしく、しばし思案げな顔をする。
「ご苦労さまって……サインしてやった事か?」
「そうではなくてですね〜、あの〜、その〜」
 エリーはちょっと、狼狽ぎみに顔をふるふるしてから、急にジャンヌのほうを見る。
「ちょ〜っと、い〜ですかぁ〜?」
 と言ってるそばから、ジャンヌを部屋の隅、トレスに声が聞こえない場所に連れて行く。
 置いてきぼりを食らったトレスは、ぽかんと突っ立っている。
 
「何かしら?」
 澄ました顔で、ジャンヌは言った。
 内心、先日の『お返しにキスしちゃったです〜事件』があるので、身構えている部分もあったが、そういうことは表情には出さない。
「とぼけてるのは、わかってるんです〜」
 エリーは眉間にしわをよせながら、口元に笑みを浮かべている。
 笑いながら怒るとは、器用な娘だ。
「あなたが見かけほど馬鹿じゃないことは、理解してるつもりよ」
「過分な評価、いたみいります〜」
 裏を返せば、見かけは馬鹿っぽいと言っているようなものだが、エリーは律儀に謝辞をのべる。
 意味が理解できないとも思えないので、あえて食ってかかるような愚は犯さないということか。
 ま、自分でもそうするかなと、ジャンヌは思う。
 これくらいやり込めれば十分だな。
 そこではじめて、ジャンヌは不敵な意志を表情にあらわす。
「だったら、わたしが説明する必要はないと思うけど、妄伝[モーディン]さん?」
 妄伝[モーディン]とは、那水[ナスイ]族を侮蔑する時の言葉である。
 当然ながら、うら若き少女が口にしていい言葉ではない。
 だがエリーはその言葉に、むしろほっとしたような笑みを浮かべる。
「さすが、土蓮[ドバス]にして西呪[セルジュ]のお姫様、です〜」
 同様に、土蓮[ドバス]宝蓮[フォリア]族、西呪[セルジュ]西振[セイシン]族の卑称である。
 面と向かって言えば、殴られても文句の言えない名前で呼び合う二人は、にっこりと微笑みあった。
 
「うふふふふっ」
「えへへです〜」
 
 端から見れば、仲の良い友人同士に見えないこともない。
 いや実際、同種の人間なのだが。
 二人は、小声でないしょ話をはじめる。
 
「じゃぁトレスさんには、エリーの正体を教えてないんですかぁ〜?」
「まぁね……あの娘は見ての通り、嘘がつけるほど器用じゃないし……余計な情報は、かえって混乱するでしょうからね」
「んでも、そーゆーことすると、適切な状況判断ができなくなりませんか〜?」
「状況を利用して混乱させるのは、そちらの勝手だけどね……にしても、トレスは……多分、カズトって奴もだろうけど、好きこのんで喧嘩を買うような連中よ?わたし達みたいに損得勘定なんかしないで殺し合える奴に、いちいち本当のことを説明する必要があると思う?」
「……たしかに、カズト君もやると決めたら、何言っても聞いてくれないです〜」
「でしょ?……だったら情報はこっちで管理して、必要な奴とだけ戦わせるのが得だと思わない?……どーせ、放っといても喧嘩する時はするでしょうし……こないだの決闘で、痛感させられたわ」
「です〜。なまじ信念があると、刺客としては使いにくいです〜」
「敵が都合良く、剣の達人ばっかりじゃないし……」
「無抵抗な相手を消す必要がある場合もあるです〜」
「やっぱあーゆー連中は、暴力機関としては使えないんじゃない?」
「まぁ、他にいくらでも方法はありますから、エリーはカズト君の好きにさせてます〜」
「たしかに、腕が立つのは事実だしね」
「です〜」
 
 ジャンヌとエリーはしばらく、陰謀家としての暴力のありかたについて語ってから、トレスのところに戻ってきた。
「話は終わったのか?」
 暇を持てあまして棒振りをしていたトレスが問う。
「まぁね」
「あ、トレスさん、さっき変なこと言っちゃいましたけど、全部忘れてください〜」
 ジャンヌの横で、エリーがにこにこと笑いながら言う。
「え?……あ、ああ、気にしてないよ」
 ジャンヌは呆れたようにエリーを見る。
「あなた、それで誤魔化してるつもり?」
「誤魔化すもなにも、現状が把握できてないと思います〜」
「そりゃ、そうだけど……」
「なんか……ずいぶんと、楽しそうだな?」
 一人、蚊帳の外のトレスは、怪訝そうにこちらを見ている。
 それに気づいたジャンヌは、あわてて言う。
「べ、別に仲がいいわけじゃないわよ……ちょっと趣味が似てたんで、そのことを話してただけなの……って、そういえばエリー、頼みがどーとか言ってたけど、何の頼みよ?」
「そーいや、そうだな……」
 あらためて、二人の少女に見つめられ、エリーは顎に右手を添えて考え込む。
 しばらく思案してから、彼女はぽんと手を叩く。
「ハイ、すっかり忘れてました〜。今日はお二人に、仕事をお願いしに来たんです〜」
 
「仕事ぉ?」
 ほぼ同時に、声を上げる二人。
「です〜」
 してやったりと、満足そうに微笑みながら、エリーは眼鏡のずれを直した。


四景
 
 昼過ぎ、トレスとジャンヌは那水[ナスイ]の街を歩いていた。
 それぞれ、無造作に垂らした紫銀[しぎん]の髪に赤い着物と、結った黒髪に青い着物という、いつもの出で立ち。
 トレスの腕には、赤い袋に包まれた棒状の物が、大切そうに抱えられている。
 見る者によっては、それが武器の類であることは容易に推察できるであろう。
 本来、紫大[しだい]では金属武器の持ち込みを禁止している。
 が、それは大っぴらには持ち歩けないというだけで、個人の責任で持ち込みは自由というのが実状である。
 下手に禁止すれば、逆に裏市場を形成するだけだからだ。
 ジャンヌはジャンヌで、手に青いふろしき包みを持っている。
 包みが丸くないので、何か角張ったものが入っているようだ。
 特にとがめられることもなく、紫陽花[オルテンシア]大學[だいがく]の敷地を出た二人は、エリーに指示された店に向かっている。
 
 エリーの依頼……それは那水[ナスイ]にある兵具[ひょうぐ]店、いわゆる武器屋で試合をして欲しい、というものであった。
 なぜ、トレスに?という当然の疑問に対し、エリーはこう、答えた。
『カズト君が、怪我しちゃったからです〜』
 つまり、カズトの代わりに、カズトを倒したトレスが試合に出て欲しいということなのだ。
 正体がバレていることを覚悟の上での申し出なわけで、図々しいというか、肝が据わっているというか……ともかく、ジャンヌはあきれた。
 だが、エリーの正体を知らないトレスは、彼女にこう聞いた。
 あんた、カズトが誰のせいで怪我したか、知ってるのか?……と。
 エリーは涼しい顔で言ったものだ。
『カズト君は、エリーに何があったか教えてくれないです〜。もともと無口な人なんで気にしてませんけど、約束の試合に出られないのは困った……って言うんです〜。で……トレスさんは、剣術をやってるっていうお話を思い出して、代役をお願いに来たんです〜』
 まさか、そのトレスが、カズトを傷病生活に追い込んだとは、これっぽっちも思っていない……という演技を、エリーは完璧にこなしていた。
 あいかわらず、彼女の当意即妙[とういそくみょう]な対処能力には舌を巻く。
 彼女が、紫陽花[オルテンシア]大學[だいがく]を陰で支配すると言われる、紫大一の學閥、紫陽花[オルテンシア]研究会の支配者、その人であるという事実を知っているジャンヌですら、不良に思いを寄せる純真な少女、という演技に飲まれそうになった。
 カズトと知り合いである、という事実は正直に話し、その関係を偽るということで虚偽に真実味を持たせる……彼女は、上手な嘘のつきかたというのを、よく知っている。
 実際は、カズトやあの三人組を含め、先日ジャンヌを襲った連中は、すべて彼女の手の者なのだ。
 その、好々とした外見とは裏腹に、権力のためならどんな汚いことでもする、陰謀家なのである。
 
 実を言うと、ジャンヌには、トレスにエリーの正体を信用させる自信がなかった。
 仮に信じたとしても、エリー自身が認めなければ、疑われるのはジャンヌの信頼である。
 肉体的な強さなら、そう見誤ることはないだろうが、権謀術数にかけてはトレスは素人だ。
 それなりに訓練しているジャンヌですら、容易に見抜けない相手。
 うかつに暴力のない暗闘の場に引っ張り込んでは、学業にしろ、剣術にしろ、本業がおろそかになりかねない。
 だから、陰謀面に関しては、ジャンヌ一人で対処する……そう決めていた。
 
 ただ、ジャンヌにも見抜けないことがある。
 それは、真実を知らないトレスは、こう聞いた時。
 なぁ、あんた……カズトとつき合ってるのか?
 その問いに、エリーは頬を赤らめて、小さく『です〜』とうなずいた。
 先日も、エリーはジャンヌにカズトのことを『ステディ』、つまり特定の交際関係にあると明言している。
 まぁ、カズトを体でモノにするぐらいの事は、鼻歌まじりにするだろうが、にしても、怪我で使い物にならなくなっても、まだ関係が切れていないというのは、どういうことか?
 考えられるのは三つ。
 
一つ、カズトの傷は、容易に治癒する程度なので、まだ刺客として使える。
二つ、カズトの血筋や財力に、利用価値がある。
 
 と、ここまではジャンヌでも想像できるのだが、もしカズトが剣士として再起不能で、血筋や財力には価値がないとしたら……
 
三つ、エリー自身が、カズトに……
 
 まさか、ね。
 ジャンヌはあわてて、その考えを打ち消した。
 それならいっそ、カズトはあの戦いの傷がもとで、すでに他界しており、彼が生きていることにしてトレスを利用しようとしている……という、第四の可能性のほうが、まだしも真実味がある。
 って……その可能性もあったわ!
 ジャンヌはその事実に気づき、愕然とする。
 確率は低いが、ありえない話ではない。
 カズトの復讐をしないことで、カズトの死をを隠す……だとしたら、エリーにどんな目算があるのか?
 ジャンヌは目的地に向かいながら、新たな可能性を検討していた……


五景
 
 那水[ナスイ]大路を、なにやら思案げに歩くジャンヌの横で、トレスは注意深く周囲を伺っている。
 いくら、西振[セイシン]族襲撃事件が落ち着いたからといって、彼女の役目が終わったわけではない。
 ジャンヌを守る……彼女が水叢[ミナムラ]国の王族に連なる者だからではなく、報酬が魅力的だからでもなく、ただジャンヌがトレスに依頼し、トレスがそれを受けた仕事だからだ。
 すべての危険から守る自信はなかったが、少なくとも自分が対処できる相手、つまり、暴力で向かってくる敵からは、何があっても守り抜かなければいけない。
 それが、剣士としての自分の義務である……トレスはそう、信じていた。
 
 今回の依頼を受けたのも、それが理由の一つである。
 武器屋からの依頼ともなれば、欠けてしまった希定[マレサダ]を補修することが可能かもしれない。
 少なくとも、この那刀[ナトウ]という剣が何であるか、手がかりがつかめるかもしれない。
 そして何より、あのカズトの代役として、試合ができる……奴が相手をする敵なら、相当の使い手に違いない。
 やっぱ、それが一番の理由かもしれないな……
 ジャンヌがあきれるわけだ。
 地位や名誉のためでなく、ただ強い敵に勝ちたい……そんな単純な思いを、ジャンヌは理解できないらしい。
 そういえば、カズトはどうなんだろう?
 トレスはふと、旧敵のことが気にかかった。
 奴も、誰かの手先なんだろうけど、やっぱり自分とジャンヌのように、己の力を利用されてもいいと思う奴がいるのだろうか?
 まぁ、そうでなければ、あいつが強い敵と戦うという以外の理由で、他人と勝負をするはずがない。
 あのカズトを使えるのだから、よほど頭のいい奴だろう……よほどの悪人かもしれないけど。
 たぶん、ジャンヌがそいつの正体を調べているのだろうし、ひょっとしたらもう、正体を知っているのかもしれない……実際は、何も聞かされていないが。
 それが不安かというと、そうでもないのだ。
 今後もそいつらの一派と戦うことになるのであれば、いずれ明らかになることだろう。
 正直言って、そーゆーことはジャンヌが考えたほうが、ずっと効率がいいと思うので、あまり深く考えないことにしている。
 わからんことを悩む前に、わからなければいけない悩みのほうが、ずっと多いわけだし……
 
 西振[セイシン]族の生徒が襲われる事件は、十日前の決闘以来、ぴたりと止んでいる。
 表向きは、例の長ったらしい名前の委員会による活動の成果、ということになっていた。
 そう言われてみると、トレスがカズトに勝ったから暴挙がおさまった……と言われても、まるで実感がない。
 実際、勝負に夢中で、自分の勝利にどういう意味があるかなんて、これっぽっちも考えてはいなかったのだから。
 委員会に参加した生徒の中には、事件沈静化後に、強い発言力を得た生徒もいるそうである。
 もっとも、ジャンヌはその程度の名声には興味がないらしい……というより、自分の勉強と同時にトレスの勉強の面倒を見て、課題の添削をするのに手一杯だったのかもしれないが、ともかく冷淡であった。
 トレスにとっても、それは同様である。
 勉強が大変だった、というのが一番の理由だが、その勉強が少なからず自分の認識を変えている……という事実が面白くもあったのだ。
 たとえば今、歩いている那水[ナスイ]大路は、港から紫大まで続く大路であるが、なぜ紫大への道だけがこんなに広いか?
 つい先日までは、変だなぁと思うのが精一杯だったのだが、今日までの勉強で、その疑問が氷解している。
 実は昔、那水[ナスイ]の街には追那城[オウナじょう]という城があり、那水[ナスイ]大路はその城へ続く道だったのだそうである。
 当時は那水[ナスイ]の象徴として、人々に親しまれていたそうだが、今から四百年ほど前に、なんとかいう暴君(名前は忘れた)に、真那砂[マナサ]半島が征服された時に焼失してしまったのだとか。
 以来、追那城は再建されず、かわりに紫陽花[オルテンシア]大學[だいがく]が創立され、現在に至るのだそうだ。
 最初、那水[ナスイ]の街が、がまるで紫大の城下町みたいだ……という感想を持ったのは、あながち的外れではなかったのである……という具合。
 不思議な感覚だ。
 つい最近まで、知りもしなかったことが、いつのまにか理解できるようになる。
 『知る』という努力を続けると、昨日と今日で、見える世界が違ってくるのだ。
 トレスは、これとよく似た感覚を知っている。
 そう、これは肉体の鍛錬と一緒なのだ。
 重い石が持ちあがるようになるとか、長い坂を一気にかけ上がれるようになるとか、水にもぐって、たくさん数をかぞえられるようになる、とか……そういった達成感が、勉強にもたしかに存在する。
 そう考えれば、勉強も悪くない……のか?
 まぁ実際は、あまりの無知に、ジャンヌのお目玉を喰らうことのほうが、ずっと多いのだが。
 ともかく、トレスは自分でもおどろくほど真面目に勉強していると思う。
 真面目に勉強すれば、紫大を卒業できるか?……といわれると、まだ自信はなかったが、勉強がつらいだけの作業じゃないと思えるようになったのは、大した進歩だと思う。
 それはそれとして……
 トレスは、最近身についた習慣  わからない事は、すぐに質問する!  を実行した。
 
「ジャンヌ、ちょっといいか?」
「んん……何よ?」
「いや、追那城が燃えたのって、いつだっけ?」
「千百四十年、流恵九[リュッケナイン]朝時代ね」
「……は、早いな」
「こないだ、講義で習ったばかりじゃない……年号なんて、全部覚える必要はないけど、有名な事件が起きた年ぐらい覚えときなさいよ」
「いや、四百年くらい前だってのは、覚えてたんだけど……」
「まぁ、追那城が焼失した年はともかく、通砂歴に挙げられてる統一王朝名と成立年代、それに朝紀名ぐらいは、急に聞かれても出てくるようにしときなさい……そんなに数も多くないし」
「うげ……い、いや、わかったよ……そういや、リュッケナイン朝って、続いた時代が短かったよな?」
「十三年ね。宝蓮帯尊[フォリアタイソン]朝に次ぐ、短命王朝だわ……悪名にかけては一番でしょうけどね」
「そうなのか?」
「名前からして、適当じゃない……流恵九[リュッケナイン]朝なんて」
「適当……なのか?」
「ま、トレスにはわからないかもしれないけど、真那砂[マナサ]半島の人間にとっては、忌まわしい名前よ」
「暴君……て奴?」
「結果的にはそうなんだけど、ちょっと違うわね……流恵九[リュッケナイン]自身は、戦争の名人ってだけの奴よ……ま、それと本人も、剣の達人だったらしいわよ、トレス」
「!……本当?……じゃ、戦争ってことは、この半島が侵略されたのか?」
「そっ……大軍を率いて、西振樫環[セイシンカシワ]朝を一気に滅ぼしたわ。で、流恵九[リュッケナイン]朝が成立したわけ」
「ほ〜お……で、なんで、十三年で滅びたのさ?」
「たしかに、流恵九[リュッケナイン]は戦争の名人だったけど、征服した後のことを考えてなかった……実際に悪さをしたのは、奴の家臣かもしれないけど、そーゆーのを平気でのばさらせるような奴だったわけよ……トレス、真那砂[マナサ]半島の国家を統治するときの原則は?」
「え……えっと、えと、えーと、うーと……ちょ、ちょっと待ってよ!」
「はいはい、ゆっくり考えてっ」
「……あ、ああっ、せ、せっ、西振[セイシン]族を大事にすること……だったかな?」
「んん〜。まぁ、正解にしてあげる……正確にいえば、西振[セイシン]族の文化を尊重すること、ね」
「あ、そうそう……うまく出てこなくてさ」
「ともかく、覚えてたなら上出来……で、まぁ、例の流恵九[リュッケナイン]朝は、その原則を、根本的に無視しちゃったわけよ……正体のはっきりした軍隊とは戦えても、不特定多数の民衆とは、戦いようがなかった……というより、戦うつもりもなかったのかもね」
「なんか、いー加減な奴だったんだな」
「喧嘩するしか能のない、野蛮人……ってのは、この国じゃ、一番軽蔑される人種だからね。そーゆー朴念仁[ぼくねんじん]の気まぐれで、この国をめちゃめちゃに破壊されたんだから……ほんと、忘れてしまいたいぐらい、いまいましい奴よ」
「喧嘩するしか能のない、野蛮人ねぇ……」
「そうよ?……それがどうかした?」
「いや……その、そーゆー奴が王様になっちゃったことが、不幸だったのかもなぁって、思ってさ」
「?……ま、そーゆーことね」
 
 そして二人はまた、沈黙のまま歩いた。
 ふたたび思案げなジャンヌ。
 今度はトレスも、なにやら考え込みながら、二人して目的地まで歩いた。

六景
 
 寝間着姿のカズト=エイリケンは、ベットから半身を起こし、窓外の景色を眺めていた。
 木々の間から、わずかに那水[ナスイ]の街と海が見える。
 カズトの胸には、幾重にも包帯が巻かれ、いくらか茶色く染まっている。
 ここは、紫陽花[オルテンシア]大學[だいがく]の敷地の中でも、ずっと外れの場所。
 一般の紫大生は知らない、秘密の療養所。
 トレスに斬られた彼が、運び込まれた場所である。
 斬られた直後は意識もあったのだが、傷を縫合した後に高熱を出した。
 そして三日三晩、昏睡状態にあったらしい。
 話によるとその間、あの女……エカテリーナ=マーベルがつきっきりで看病したのだという。
 峠を越え、意識を取り戻したとはいっても、まだ歩くこともままならない体である。
 正直言って、カズトは当惑した。
 喧嘩に勝ってこその自分である。
 あの女にとっって、敗北した自分にまだ、価値があるというのだろうか?
 俺に、何を期待しているというのだ?
 そう考えてから、カズトは自嘲する。
 わかりきったことだ。
 敵を倒す……それ以外、この俺に、なんの利用価値があるというのだ?
 おそらく、傷がなおれば、まだ使えると踏んでいるのだろう。
 まちがっても、鋭利剣[エイリケン]の家名……のはずはない。
 
 カズトの実家である、鋭利剣[エイリケン]家は、かつて宝蓮[フォリア]族の氏族の中でも名門で知られる一族であった。
 だが今は、名前だけは有名な貧乏氏族にすぎない。
 今から八十年前、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]朝成立期に、もうすこし上手く立ち回ることができれば、王族に連なる……どころか、王座すら狙える位置にいたのだそうだ。
 だが、当時の頭首であった彼の祖父が、昔気質の武人であったため、道理を重んじるあまりに権力の中枢から追放されたのである。
 ぶっちゃけた話、要領が悪くて利権をむしりそこなった、ということ。
 以来、鋭利剣[エイリケン]家は没落の一途をたどる。
 今でも食うに困らない蓄えはあるし、一応、収入もある。
 だが、没落氏族の、そのまた三男坊であるカズトが不良の道を歩むのは、いわば順当な堕落というものだ。
 喧嘩まがいの野試合から、玄人筋のやばい相手まで、素手、木剣、真剣を問わず、あらゆる敵と戦った。
 そして今日まで、勝たぬまでも、負けたことは一度としてなかったのである。
 ほんの、十日前までは。
 敵は、強かったと思う。
 真剣を持って、しかもそれを当然のように使い、向かってくる……それなりに長い、カズトの喧嘩歴でも、そう何回も戦ったことのない相手だ。
 しかも女となれば、類を見ない。
 はすっぱな女に絡まれたことはあるが、真剣を持った女……しかもどうやら、本気で剣士になろうとしている女に遅れを取ったのだ……剣士としての彼の矜持[きょうじ]が、傷つかないわけがなかった。
 しかし、それと同時に戦いに満足した自分もいる。
 実力伯仲同士、お互い、最強の剣を交えての真剣勝負……現実には、そう何度もあることではないのを、カズトはよく知っていた。
 ともかくも、あの戦いに臨んだことに、何ら後悔の念はない。
 それだけは、誰はばかることなく言えることだ。
 
 ここんっ。
「たっ、だ〜いま〜です〜!」
 ノックに返事する間もなく、病室に緑の服を着て、大きな丸眼鏡をかけた少女、エリーが入ってきた。
 両手に、包帯の入った籠を抱えている。
「包帯、おとりかえの時間、です〜」
「ああ……」
 カズトは剣呑[けんのん]に返事だけすると、自分で寝間着を脱ぎはじめる。
 軽く、全身に激痛が走るが、気にせず上半身をさらす。
 覚悟があれば、大抵の痛みは我慢できる。
 彼が緩慢な動きで肌をさらしてる間に、エリーはふたたび部屋の外に出て、そこに置いておいた桶と手ぬぐいを運ぶ。
 桶の中には湯が満たされ、白く湯気を上げている。
 華奢な体で桶を運ぶ姿は、端で見てても危なっかしい。
ベッド脇の机に一式を並べると、エリーはカズトに、ちょんとお辞儀をする。
「では〜、はじめちゃうです〜」
 言うが早いか、エリーは慣れた手つきで包帯をほどきはじめる。
 さすがに、カズトもそこまでは自力でやりようがないので、されるにまかす。
 やがて、血が付着した包帯を取り去り、あてがわれた布をはがすと、左肩から、[へそ]の近くまで、傾斜した縫い傷があらわになる。
 傷そのものは一直線の綺麗なもので、むしろ縫い傷のほうが汚いくらいだった。
 ところどころ、血が滲んでおり、化膿しかかった部分が[うみ]で固まっている。
 しかし、全体として傷は快方に向かっており、この調子で行けば、一月で歩けるようになると医師にも言われていた。
 エリーは、カズトの上半身が完全にさらされると、手ぬぐいを湯にひたし、ぎゅっと絞って広げてみせた。
 手ぬぐいから、湯気が昇る。
「ふっ、ふっ、ふっ……ごしごし、するです〜」
 なぜか怪しく笑いながら、エリーはカズトの肌を、丹念に拭きはじめた。
 
 清拭[せいしき]を受けながら、カズトは聞く。
「連中、依頼は受けたのか?」
 依頼とはもちろん、二人が向かった店での試合のことである。
 エリーは手を止めることなく、即答する。
「もちろん、です〜。事情をお話ししたら、お二人とも、快く引き受けてくれたです〜……カズト君が言った通り、トレスさんは特に興味を持ったみたいです〜」
「今時、那刀[ナトウ]を実用で使うような奴は、まずいないからな。あの女も修繕する店がなくて、困窮していた事だろう」
「ナトウって、そんなに珍しい武器なんですか〜?」
「手間のかかる武器だからな……で、どうなんだ?」
「どう?じゃ、わからないです〜」
「……どちらが勝つと見てる?」
「さぁ?です〜」
「双方、勝つ可能性があると?」
「エリーは、カズト君に勝つような相手が、絶対に負けるなんて思えないです〜」
「しかし、絶対に勝つとも限らないわけだな?」
「そこはそれ、です〜。ちょっと、入れ知恵しておいたです〜」
「……それで、お前にどういう利益があるのだ?」
「前回は、カズト君が負ける可能性を考慮してなかったのが、失敗です〜。今回は、どっちが勝っても、エリーが得するようになってるです〜」
「で……どちらが勝つと見てる?」
「……うぅ〜、えっと……ナイショです〜」
「お前にも読めないのか?」
「あの二人、どれくらいの力があるか、まだわからないです〜」
「危険な連中だとしたら、排除するのか?」
「そーかもしれないし、そーじゃないかもしれないです〜……んふっふぅ〜、えへへぇ〜です〜」
「?……何の笑いだ?」
「……だって……カズト君と、こんなにお話ししちゃったの、はじめてだな〜って思ったです〜」
「???」
「いや〜ん★、です〜」
 
 ぱしっ。
 軽くはたく音。
 不意の痛みに、カズトは息がつまった。

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