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──第一話──
「剣士と王族の少女たち」

八景

 風呂は、なかなかに広い。
 浴場棟は男女に分かれ、それぞれがかなり大きな屋内浴場になっている。
 温泉が湧いているわけではないので、薪をたいて湯を沸かしていた。
 かなりの数の女生徒が入っているはずだが、湯気に満たされ、視界はないに等しい。
 話し声や、湯をかける音だけが聞こえてきた。
 トレスは入浴の支度をするために自室へ戻ったとき、木剣も一緒に携えている。
「そんなもの持ってきて、ふやけない?」
 全身を湯にしずめながら、ジャンヌが聞いてきた。
 トレスはすぐ横の浴槽のへりに腰掛けて、常に木剣に手をかけている。
 髪は頭に巻き付けて、手ぬぐいを巻き、湯につからないようにしていた。
「ニスが塗ってあるからね。あとでよく乾燥させれば、大丈夫」
「そう……ならいいけどね。確かに、しばらく警戒を厳重にしとくべきだからね……にししても、すごい体ね。筋肉が浮き上がってるじゃない」
 ジャンヌはそういいながら、トレスを見る。
 まあ、たしかに半端な鍛え方はしていないので、華奢なジャンヌに比べれば、筋肉はついているだろう。
 とはいえ、ただ筋肉を鍛えるのは、結果的に動きを鈍くするだけなので、必要な部分に絞って鍛錬しているのだが……ここらへんの事情を説明するのは、トレスには困難だったので、「まあね」とだけ答えておいた。
 かわりに、こう聞いてみる。
「……それより、さっきは驚いたよ。あの騒動は、計算してやったんだろ?」
 質問というよりは、確認のつもりだ。
 ジャンヌも、心得たもの。
「ま〜ねっ。これで明日からあの連中も、動きが取りづらくなるはずよ。
 適当に騒いでれば、ああなることは予想してたけど、まあ、上々かしら……単純な扇動よ。理想をいえば、反論してくる奴もこっちで用意できればよかったけど、急に思いついたことだから、その場で調達したの」
「あたしゃ、喧嘩になるんじゃないかって、ヒヤヒヤしてたよ。」
「そういうはならないよう、注意はしてたけど、最悪の場合はトレスに任せようと思ってたから……ちゃんと、警戒してくれてたでしょ」
「一応はね……でも、あそこにいる宝蓮[フォリア]族全員が敵になったら、ちょっとマズいと思ってたけど」
「そしたら、西振[セイシン]族も黙ってないわ……騒ぎのどさくさに脱出できるでしょうね」
「……そこまで考えて、行動してるんだ」
 まるで、未来に起こる出来事を知っているみたいだな。
 などというトレスの思考を見通したように、ジャンヌはいう。
「大筋で、何通りかの展開は予想するけど、そこから先はなりゆき任せね」
「そうなのか?……あたしには、全部ジャンヌの手の平で動いてるように見えたけど……ほら、いるじゃん。軍記物で、なんでも思い通りに戦争する軍師とかさ」
「あ、知久藩[シルクファン]とか、端月翁[ハヅキおう]のことかしら?……確かにあの手の話では、神がかり的な軍略を立案したりするけどね。
 でも、そういう話はだいたい、後世の人が実話をもとに、勝手に造ってるのよ……史実を調べてみれば、優秀ではあっても超人的ではないことがわかるわ。普通の人から見るとその種の知謀が、なにか神秘的な能力に見えるみたいね」
 ジャンヌのいう、知久藩[シルクファン]とか、端月翁[ハヅキおう]というのは、真那砂[マナサ]半島では超有名人だし、プリムローズ大陸でもそこそこ知られているので、トレスももちろん知っている。
 ただ、トレスが思い浮かべたのは、真那砂[マナサ]半島出身者として大陸国家で活躍した人々のことだったのだが、まあ、同じようなものだ。
 トレスは苦笑する。
「さっきのジャンヌは、神がかり的に見えたよ」
「そうなの?……たしかに為政者としては、周囲に無謬[むびゅう]……いえ、決して間違わない存在だと思わせることも必要だけど……ただ、わたし自身は、先の展開をあるていど予測はするけど、そこから先は、場の状況に応じて行動してるだけなのよ」
「じゃ、あたしが警戒してたのは、無駄じゃなかったわけだ」
「もちろんっ、それも要素のうちよ……頼りにしてるわっ」
 自信たっぷりな返事。
 さっきのこともあり、トレスはちょっと意地悪な質問をしてみる。
「だったらジャンヌは、あたしが裏切る可能性も、計算してるの?」
 どうせ、「もちろん」と即答すると思ったのだが、そうではなかった。
 ジャンヌはしばらく考えてから、慎重に答える。
「……どうかしら?確率的には、知り合ったばかりのトレスが裏切る可能性は否定できないわ……でも、なんでか知らないけど、わたしは、あなたが裏切らないと信じてるのよね……自分でも、不思議だけど」
「そうなのか?……じゃ、一緒に住もうって言ったり、部屋を鍛錬用に提供してくれたのは、何か打算があってのことじゃないの?」
「……そうね……護身のためって理由はあるけど、打算だけで考えれば、わたしの行動はちょっと軽率だと思う。一緒に住もうなんて、知り合ったばかりの相手に、いきなりする提案じゃないわ。
 でも結果的に、トレスは十分、強かったし、こうして話もできるぐらいだから、間違った判断ではないでしょ……我ながら、面白い展開だと思ってるんだけどね」
 トレスには、ジャンヌが真面目に答えているように見えた。
 じゃあこれは、彼女にとっても予想外の展開なのか……ちょっと安心。
 その表情をみて、ジャンヌがちょっと、顔をしかめていう。
「……トレス、念を押しておくけど……」
 こんどはトレスにも、彼女の意図が理解できたので、こう答える。
「はいはい、わかってるよ。ジャンヌは希代の悪女になる予定だから、間違っても『実はいい奴』なんて、思わないからさっ」
「なんか、馬鹿にされてる気もするけど、ま、よろしいっ」
「馬鹿にするのは、ジャンヌの十八番[オハコ]だろ?」
「そりゃま、そうなんだけどねっ」
 二人して、ニヤリとする。
 それから二人して、背中を流しっこしてから、風呂を出た。
 つくづく、庶民的な王女だと思う。
 こういう王女を、気が狂っているというなら、それもまんざらじゃないな。

九景

 湯上がり。
 浴衣姿の二人が自室へ戻ると、部屋への階段の入口に、一人の少女が待っていた。
 伝紗[ディンシャ]族の容姿をしており、二つに分けた、三ツ編みの銀髪に、赤い目。
 分厚い、大きな丸眼鏡をかけて、大陸風のローブをまとい、手には二冊の立派な装丁の本を抱えている。
 おなじ伝紗[ディンシャ]族ふうの外見をもつトレスに比べると、ずっと細身で華奢な体つき。
 なで肩で、体格だけならジャンヌに近い。
 伝紗[ディンシャ]族もいろいろだなと、ジャンヌは思った。
「こんばんわ」
 少女はぺこり、と頭をさげて挨拶する。
 それに合わせて、三ツ編みがゆれた。
「こんばんわっ」
「……こんばんわ」
 いくらか、トレスの反応が硬いのは、気のせいか?
 少女は、そばかすだらけの顔を破顔させ、自己紹介した。
「はじめまして……わたし、絵嘉禎[エカテリーナ]麻鐘[マーベル]っていいます。あの、トレスティ=アフタヌーンさん、は……」
 わかっちゃいるが、一応、確認しておこうという感じの言葉。
 なかなかに、慎重だ。
「あたし、だけど……」
 トレスの声は、やっぱり強ばっている。
 握られた木剣が、わずかに震えた。
 どうしたのかしら?
 トレスの返答に、元から愛想のいいエカテリーナの顔が、さらにほころんだ。
「え〜っ、やっぱりですかぁ?お会いできて、光栄です〜」
 エカテリーナはそういって、トレスの手を取り、ぶんぶんとゆする。
 トレスは、されるがままだ。
 おいおい。
「ちょっと、エカテリーナさんっ?いったいどういう理由で、トレスと会うのが光栄なの?」
 なにやら、水叢[ミナムラ]国第四王女をさしおいて、という響きになってしまう。
 いや別に、そういうつもりはないのだが……
 エカテリーナは、ジャンヌをきょとん、と見る。
「わたしのこと、エリ〜と呼んでくだすぁいっ」
「くだすぁい、じゃなくてぇ……」
 ジャンヌが言いかけたとき、エカテリーナもといエリーは、手に持つ本を、びしっと突き出した。
 少しくたびれた感じの、真っ赤な装丁の表紙に、金糸の文字。
 流れるような渓声良[ケセラ]文字で、「グリューファン ミスト」と書かれ、その下に著者名として「クミルホフ=モレンティ」と記されている。
 本字表記すれば「九粒範の霧」といった所か。
 「九粒範」というのは、半島南部の景勝地の名前。
 たしか数年前、王宮でも評判になった詩集だ。
 風雅な趣味にはうといジャンヌだが、目を通した覚えがある。
 本字をつかわず、渓声良[ケセラ]文字のみで表現したことが賛否両論だったが、奔放な不定型詩の語感が、情景をうまく描写した、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]朝時代ならではの、新しいタイプの詩として絶賛されていた。
 同音異義語を表現できない渓声良[ケセラ]文字でも、技巧をこらせば、けっこう豊かな表現力が得られるものだと、感心したことを思い出す。
 これ以降、しばらく総渓声良[ケセラ]文字の詩集がブームになったが、ただ単純に、本字の詩を渓声良[ケセラ]文字に置き換えただけのものが多く、「九粒範の霧」の練り込まれた文体が、改めて評価されたとか、されないとか。
 薦められはしたものの、軽く流し読みしただけなので、ジャンヌには作品的にいいのやら悪いのやら、よくわからない。
 中をぱらぱらめくってみると、書き込みがびっしりとされている。
 なかなかに、達筆だ。
 かなり、読み込んでいるようだ。
 ひとしきり、「グリューファン ミスト」を見てから、ジャンヌはエリーにいう。
「ま、ともかく詳しく話を聞きたいから、部屋に入って……」
「はい〜」
「ちょっと、二人とも……」
 トレスの異論を無視して、二人は部屋への階段を昇った。

 手際よくジャンヌが煎れた緑茶をすすりながら、三人はベットや椅子に腰掛けている。
 ひとしきり、だだっ広い部屋の様子に感心するエリーが大人しくなるのを待って、会話を再会した。
「ずずずっ……この本が、どうかしたのよ?」
 その言葉に、エリーはちょこんと首をかしげる。
 特定の種類の男性に、影響力のある表情だ。
「ですから〜、この詩集の作者が、トレスティさんのご両親なんです〜……ずずっ」
「はい?」
 不意打ちを食らったジャンヌがトレスを見ると、彼女は後ろを向いて、頭をかいている。
 あらためて、本の表紙を見るが、著者名には「クミルホフ=モレンティ」と書かれているだけだ。
「トレスの両親って……ずずっ……これ、ペンネームなの?」
「ちがいます〜、前半の『クミルホフ』さんがお父様で、後半の『モレンティ』さんが、お母様です〜……ずずずずずっ」
「『クミルホフ=アフタヌーン』と『モレンティ=アフタヌーン』夫妻の共著ってわけ?……ずずずずっ」
「ずずずっ……です〜」
 言ってることは理解できるのだが、この五臓六腑が融解しそうな言語表現は、どうにかならんものか?頭イタっ。
「……ま、そう言われてみれば『モレンティ』ってのは、『トレスティ』と同じ語感ね」
「え〜、お二人は、紫陽花[オルテンシア]大學出身の、有名な吟遊詩人夫婦で、お父様のクミルホフさんが原文を起こして、お母様のモレンティさんが、渓声良[ケセラ]文字に翻訳したそ〜です〜……ずずずっ」
「ふ〜ん。原文を訳したのか……ずずずずっ……そのわりに、翻訳っぽい硬さがないけど……ま、夫婦ならそこらへんの意志疎通が、しっかりしてるのかもね……ずずずっ」
「わたし、この詩集を読んで、すっごく感激して〜、今年の新入生にその娘さんがいらっしゃるって聞いて、ぜひお会いしたかったんです〜」
 その、お会いしたかった娘さんは、さっきから黙りこくってますけど。
 ジャンヌは、トレスを見る。
「トレスーっ、はなし聞いてる?」
「聞こえてるよっ……ん、ぐぐぐっ」
 ぶすっとした表情のまま、トレスは冷えかかった緑茶を流し込んだ。
「何かコメントは?」
「……何かって、親父やお袋のことは、あたしには関係ないっ」
「そんなぁ〜、ケンカされてるんですか〜?」
 と、エリー。
 湯飲みを両手で持って、目をうるうるさせている。
「べ、別に、仲が悪いわけじゃないし、嫌いなわけでもない……」
「だったら、なに?」
「生き方が、違うってだけだ……あたしは詩歌[しいか]をこねくりまわして、生きてくつもりはないっ」
「まーねー。トレスは、チャンバラ小娘だしねー」
「ほっとけっ!」
「でも、でもっ、トレスさんは、詩作を専攻されてますよね〜」
「そりゃま、そうなんだけど……」
「あなた、詳しいわね」
 ちょっと、意外。
「えっとえっと、学生課に知り合いの人がいて〜、その人に調べてもらったんです〜」
「ふーん」
「それで、トレスさ〜んっ」
「お、おう……で、あたしはさ、本当は剣術で身を立てたいと思ってるんだけど、やっぱ名のある親の子供だと、そうもいかなくてさ……それで、約束したんだ……」
「約束、ですか〜?」
「……」
「そう……親の母校のこの大學を、ちゃんと卒業できたら、あとは好きにしていいって約束」
「……ああ、だから、ろくにこの国のことも知らずに、入学したわけか」
「そういうこと」
「トレスさんも、大変なんですね〜」
 ジャンヌはちょっと、納得する。
 考えてみれば、ジャンヌはトレスのことを、何も知らなかった。
 自分の秘密にばかり気を取られて、この剣客志望の少女の事情には無関心すぎたかもしれない。
 まあ、トレスも特に話そうとはしなかったが。
 トレスは、エリーの方をむく。
「そういうことだから、あんた……えーと、エリーさんだっけ。悪いんだけど、もう、帰ってくれないかな?」
「はい〜、わっかりました〜。じゃ、一つだけお願いしたいことが、あるんです〜」
「なにさ?」
 帰れといわれても、悪びれた様子もみせず、エリーは二冊ある本のうち、最初に見せなかったほうの本を手に取った。
 見れば、なんのことはない、同じ「クリューファン ミスト」である。
 ただし、こっちは新品のように状態がいい。
「何?……二冊、同じ本を持ってるわけ?」
「マニアの基本、です〜。どっちも初版本ですよ〜」
 どうも、保存用と閲覧用ということらしい。
「それを、どうしろと?」
「この本に、サインください〜」
「あ、あたしの?」
「ちがいます〜、「クミルホフ=モレンティ」さんのサインです〜」
「でも、それなら親父かお袋に……」
「お二人は、日々放浪生活されてますから、いつお会いできるかわかりません〜。ですからトレスさんに、代筆してほしいんです〜」
「サインって……そういうものなのか?」
 トレスは救いを求めるように、ジャンヌを見た。
「し、知らないわよ。この娘が書けっていうなら、書いてあげたら?」
「おねがい、します〜」
 エリーは、トレスに保存用の「クリューファン ミスト」の表紙をめくって渡し、携帯用のペンセットを差し出す。
 トレスはそれを引ったくるようにして、本にむかう。
「ここに書けば、いいんだな」
「はい〜」
「本字でいいのか?」
「いいえ〜。渓声良[ケセラ]文字で、おねがいします〜」
「そうかいっ」
 がり、ががり、がりっ。
「ほらっ。これでいいだろっ」
 見るも無惨な、ペン字署名が完成する。
 スペルは合っているようだが、美意識のかけらもない金釘流。
 力の入れすぎで、ところどころ線がにじんでいた。
「ありがと、ございます〜」
 本を受け取ると、エリーは眼鏡をくいっとなおして、挨拶した。
 ほ、本当にいいのか、それで。
「ではではっ、わたし、これで失礼します〜」
「ああ」
「それじゃ……」
 一度は、階段に向かおうとしたエリーだが、急にぴたっと止まる。
「あっ、そでした〜」
 そういって、左足を軸に、くるりと振り返る。
 ちょっと間を置いて、二本のお下げ髪が、ぱふりと右腕を打った。
「コレ、お二人に渡すよう、いわれました〜」
 エリーは袖口から、一通の書状を取り出すと、トレスに渡す。
「じゃ、そゆことで〜。サイン、ありがと、ございましたぁ〜」
 ぱたぱたと手をふりながら、エリーは下へ降りる階段のふたをあけ、去っていった。
「うーん、なんか独特の間のある娘ねぇ」
「ああ、まったく……ん?」
「どうしたの?」
 みると、トレスは書状の面に書かれた墨文字を見つめている。
 そこには大きく筆書きで、「果たし状」と書かれていた。
 雲烟飛動[うんえんひどう]……荒々しい筆致のなかにも、どこかしら気品ただよう、なかなかの書である。
「あらまぁ……これは、これは」
 ジャンヌは呆れた。
 書はたいしたものだが、使いの人選が尋常ではないな。
 などと思っている横で、トレスはしばらく、真剣に文字を見つめていたが……
「どうしたの?……早く、中を見てみましょうよ」
「ジャンヌ……あのさ」
「ええ、ついに連中も本気になったって、所かしら」
「いや、そうじゃなくて……」
「あら、わたしはべつに、トレスが負けるなんて思ってないわよ」
「だから……」
「?……」
 なんか、会話がかみ合ってないような……
 トレスは辛抱たまらん、という表情でジャンヌにいう。
「あ、あのさ、この手紙、何て書いてあるのっ?」
 沈黙。
「……え?……『ハタシジョウ』じゃ、ないかな?」
「ハタシジョウ……果たし状って……ええぇっ?」
 オーバーアクションにのけぞる、トレス。
 おもろい。
「喧嘩の申し込みよ……まさか、果たし状の意味は、わかるわよね」
「そりゃ、もちろん……」
 ばさばさ。
 トレスが震える手つきで、書状を開く。
 中は巻紙になっていて、一続きの書になっている。
 ずいぶんとまあ、古式ゆかしい書面だ。
 当然、中も荒々しい筆文字で書かれている。
「……」
 またまた、沈黙するトレス。
「読みましょうか?」
「……頼む」
 決まり悪そうな、トレス。
 ジャンヌは受け取った書状を、声に出して読み上げた。
 世の中には、「上手すぎて読めない字」というのもあるのである。

十景

 トレスの朝は鍛錬と共にはじまる。
 あけて、華九月[はなくがつ]白六日[はくむいか]の早朝。
 彼女は、いつも通りのメニューをこなしている。
 着衣は、部屋を片づけたときと同じ、シャツと短いズボンの稽古着。
 昨日までは、波止場のあたりを走っていたのだが、今日は新しい部屋の中を軽く三百周ほど。
 一周[セキ](約五十メートル)として、十五[トウ](約十五キロ)は走れたか。
 同じ場所をぐるぐる回っていたので、最後は周回数がよくわからなくなってしまったが、いつものペースで半刻(一時間)、走ったから、まあこんなもんだろう。
 昨日の騒ぎで、砂時計が壊れなくてなによりである。
 硯なぞ、どうでもいいのだ……親不孝。
 普通に走ったあとは、柔軟体操で体をほぐしてから、部屋の隅までダッシュ百本。
 そのあと軽く体操して、慣らしは終了。
 腕立て、腹筋、背筋を百本ずつやったあと、手製の器具を使い、剣術に必要な筋力、握力を重点的に鍛えた。
 それが済んでから、ようやく木剣を握る。
 ちょっと疲労していたが、特に気にしない。
 経験からいって、すこし疲れているくらいの方が、無駄な力が入らなくていいのだ。
 まず、木剣で素振り千本。
 それからムシロを巻いた棒に打ち込み百本、なのだが、引っ越したばかりなので、まだ用意ができていない。
 そのかわり、次にやるイメージトレーニングを、いつもの倍、することにした。
 部屋の隅に移動し、三白眼で木剣を構える。
 最初の敵は、昨日の襲撃者たち。
 昨日の状況を思い出しながら、動いてみる。
 まず最初は、実際に襲いかかってきた奴で、不用意な打撃を切っ先を逆にして受け流したはずだ。
 その時の動きを再現して、動く。
 ぶっ。
『かしゅっ』
 仮想敵の棒が、トレスの木剣の腹をすべる。
 現実では、敵はそのままつんのめって右脇を抜けたため、容易に背後へ打ち込めたのだが……やっぱり、訓練を積んだ相手なら、こうはいくまい。
 そう思い、仮想敵の強さを上げてみる。
 想像の中で、仮想敵は攻撃をトレスに受けられたと見ると、すばやく身を引いて、体勢を立て直そうとした。
 そこを、突く。
 ぶんっ。
『どすっ』
 仮想敵は、喉に木剣を突き込まれ、吹っ飛ばされた。
 よしよし。
 ……ただ昨日の場合、その前に大八車で疾走していたため、今以上に疲労が蓄積していた。
 だから実際に、このイメージ通りに動けたとは限らない。
 後々を考えれば、もうすこし力を押さえて疾走した方がよかったかもしれないな。
 反省。
 ……それに、今のように思い切り急所に突きを入れたりしたら、下手をすると相手が死んでしまうかもしれない。
 木製とはいえ、重い棒を振り回すのは、とても危険な行為である。
 威力が落ちてもいいから、もう少し本気で打ち込める武器はないものだろうか?
 などと悠長に考えていると、想像上の敵が一斉に襲いかかってきた。
 やばっ。
 ぼーっとしてれば、現実の敵だって黙ってはいまい。
 剣を中段に構え直す。
 いつしか、仮想敵の暴漢たちの武器が、木剣から真剣に変わっている。
 そして、トレス自身が持つ剣も、木製の長剣から、反りのある真剣に変わっていた。
 刃をきらめかせて、金属製の殺意が殺到する。
 一歩、後退。
 部屋の隅──昨日の状況では、壁と大八車のつくる角──にいるので、囲まれる心配はない。
 それに、集団で殺到すれば、おのずと攻撃も、突きか上段からの打ち下ろしに限られる。
 いや、全員で突きが、もっとも有効だな。
 暴漢たちは、顔のない、おなじ姿の没個性なものへ変化している。
 トレスの薄暗い意識の中で、その七人の仮想敵が、一糸乱れぬ連携をもって突き込んできた。
『でやっ!』
 七つの打突の焦点には、トレス。
 このままでは、串刺し確定。
 そう判断するより早く、トレスは剣を下段に構え直し、大きく踏み出す。
「たぁっ!」
 集団の中央に飛び込み、正面の突きを三本、払い上げる。
『ちゃちゃきぃん』
 中央と右側の二撃は打ち払ったが、のこり一撃が払いきれず、左の脇腹をえぐる。
 だが、致命傷ではない。
 そのまま正面の敵に、左肩から体当たりを敢行。
 敵がどんな奴か決めてなかったので、とりあえず吹っ飛んだことにする。
 直後、振り上げた刃で、すれ違いざまに右の敵を斬る。
 急所の脇腹を斬られた敵は、血を吹きながら、後方に流れて行く。
 足をふんばり、勢いを殺して、反転。
 あとは、乱戦だ。
 目につく敵を、片っ端から斬る。
 あと何人だ?
 すでに、状況を把握するどころではない。
 致命傷は避けているが、何個所か、刃を受けている。
 まだ、動けるのか?
 自分でも、どうなっているのか、よくわからなくなってきた。
 敵が何人いて、何人倒したのか?自分は生きているのかも、仮定できない。
 ただ、やみくもに剣をふりまわすだけ。
「トレス……」
 どこかから、ジャンヌの声が聞こえる。
 そうだ、自分の役目は、彼女を守ることだ。
 この状況で、ジャンヌが標的にされないわけはない。
 そう気づき、転倒した大八車の付近を見る。
 ちょうど、仮想敵の一人が、ジャンヌに刃を突き立てようとしている瞬間だ。
 走っても間に合わない。
 咄嗟に、剣を槍投げのように投擲する。

 んっぶんっ……ごっごん!!……がん、がらららら。

 屋根裏部屋の壁に、木剣が斜めにぶつかり、床に転がった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ……はああっ?」
 荒く息をつきながら、トレスは呆けている。
 なにが現実か、認識できない。
「何やってんのよ……」
 背後から声。
 びくっと振り向けば、着物げな寝巻姿のジャンヌが、眠そうにトレスを見ている。
 専用の高枕を使っているので、例の複雑な髪型は崩れていない。
 「はぁ、はぁ……鍛練、してるぅ……はぁ……」
 まだ、状況が把握できなかったが、とりあえず返事をした。
 それだけは、覚えている。
「……ふぁぁぁ。ん、んっ……そうなの?わたしには、ただ闇雲に剣を振り回してるだけに見えたけど?」
「はぁ、はぁ……乱戦を、想定して、稽古してたっ……」
 その答えに、自分で納得する。
 たしかにその通り、昨日の状況をもとに、乱戦の真剣勝負を演じていたのだ。
「ふうぅん……で、最後になんで、剣を投げ捨てたの?」
「はぁ……それは……」
 それは、今まさに刃に倒れようとしたジャンヌを救うため、なのだが……
「敵が一人……はぁ……いや、仮の敵だけど……そいつが背中を、見せてたから、んんっ……剣を投げれば、当るかなぁって、思ってさ」
 嘘はない。
 状況を完全には、説明していないが。
 ジャンヌは欠伸を左手で隠しながら、右手で目やにをこすっている。
 かなり寝ぼけ気味だが、しかし、洞察力は鈍っていない。
「でもさぁ……ふぁあぁぁっ……その投げた剣、横になって壁にぶつかったわよ……それじゃ、敵に刺さらないんじゃない?」
「……そ、そうかい?」
「ふぁっ……そうよっ」
 いや、まったくもって、その通り。
 たしかにあんな投げ方では、敵を刺し貫くことは不可能だ。
 気をそらせることはできたとしても、無力化できるとは思えない。
 ああいう場合、活劇の講談なんかだと、うまく命中してカッコイイのだが……
「……その、咄嗟のことだったからさ……うまくいくと、思ったんだけど……はぁ……そういや、剣を投擲する訓練なんて、したことなかったしな……当るわけ、ないか」
 トレスは息をはずませながら、はっはっはと、照れ笑い。
 もう勘弁してくれ。
 ジャンヌは、あいかわらず眠そうに、こちらを見ている。
「まぁ〜いいけど、トレス……武器を手放しちゃって、いいわけ?乱戦なら、ほかの敵はみんな倒したの」
「いや……その、想定した数が多すぎて、動きを把握しきれなくなっちゃってさ……半分以上は倒したつもりだけど、最後はかなりデタラメに動いてたから、よくわからない……で、でも、もし敵が残ってたとしても、誰かが落とした剣を拾って戦うさっ」
 おおっ、なんか上手く説明できたぞ。
 これなら文句あるまい。
「なるほどね……まぁ、頑張って」
「ああ……」
 それだけいうと、ジャンヌは部屋の隅に置かれた水桶にむかう。
 とた、とた、とた。
 ふぅ、やれやれ……うまく誤魔化せたな。
 とた、とた……とんっ。
「?……」
 寝巻姿の少女は立ち止まり、ぼそりと言う。
「でも、本番では外さないでね……わたしの命が、かかってるんだからさ」
「っ!?……」
 とたた、とた、とた、とたっ……
 かえす言葉のないトレスを尻目に、ジャンヌは水桶の前に立ち、ぱしゃぱしゃと顔を洗った。
 計算してるのか?
 いや、間違いなく、最大の効果を狙った発言に違いない。
 決闘してやらんぞ!
 咄嗟に、そう言いかけたが、やめる。
 じゃやめたら? と言われるのが、トレスには一番こまるのだから……
 嫌な王女だ。

十一景

 昼、トレスとジャンヌは、図書館にいる。
 今日は講義がないので自習、というわけだ。
 ここ、紫陽花[オルテンシア]大學図書館は、那水中央図書館につぐ蔵書をほこり、数々の歴史的価値のある書物の原本を所有している。
 二人は、一階の閲覧室の隅のカウンター席に、机を並べて座っていた。
 机は一続きだが、席ごとに衝立てが設けてあるので、あまり他人の目を気にしなくてよい。
 ちなみに、トレスは昨日とおなじ赤い着物に、茶色い短袴。ジャンヌは黒髪を結い、昨日と違うかんざしを刺して、昨日と違う、青い朝顔の図柄が染め付けられた着物を着ている。
 トレスが赤、ジャンヌが青、という色づかいは変わっていない。
 ジャンヌが史書を読みふける横で、トレスは昨日エリーに手渡された書状を読んでいる。

『オマエは腕に自信があるようだが、オレの方が強い。
 そのナマイキなヘシ鼻っ柱を折ってやるから、一対一で勝負しやがれ。
 もしオマエが勝ったら、西振[セイシン]族を狙うのはやめてやる。
 時間は運七日導一刻(今晩、午前零時)、場所は紫大内、飯石[イイシ]森はずれの広場。
 武器は得意なものを、好きなだけもってこい。逃げたら承知しないぞ。
和吐[カズト]鋭利剣[エイリケン]

 大仰な言い回しで書かれているが、要約するとそういうことらしい。
 はじめは、毛筆のうねりまくった文字がまったく意味不明だったが、ジャンヌに読んでもらったおかげで、おぼろげながら、何が書いてあるのか読める……気がする。
 ただトレスには、最初の一文『先の乱闘における勇戦を見るに、貴殿が己の技量を賭すに足る剣士であると確信し[そうろう]』が、なんで『オマエは腕に自信があるようだが、オレの方が強い』になるのか、よくわからない。
 内容的には合ってるのかもしれないが、かなりジャンヌの主観が入っているのではないか?……とは思うのだが、文章のことで彼女に意見するだけの度胸はない。
 いやまぁ、それはいい。
 この勝負に勝てば、暴漢たちが西振[セイシン]族がを襲うのをやめると宣言したことと、勝負の時間と場所、武器の所持が自由であることなどは、トレスが読んでも間違いないのだから。
 それよりも問題なのは、署名にある和吐=鋭利剣。
 こいつが間違いなく、昨日のあの男である……トレスはそう確信していたが、まさか正々堂々と決闘を申し込まれるとは思っていなかった。
 辻斬りでも仕掛けてくるかと思い、風呂にまで木剣を持っていったのだが、無用の心配だったようである。
 ……いや、一応は用心しておくべきかもしれないな。
 敵がおとなしく条件を守るとは、限らないのだから。
 そう思いなおしてから、トレスはジャンヌから与えられた課題──果たし状の内容を書き写す──を再開する。
 大學の講義によっては、古書を参照しなければならない場合もあるので、この程度の崩し字は読めて当然なのだとか。
 たしかに、素人目にも立派な本字の書であるし、書き取りの手本に最適……なのかもしれないが、仮にも今夜、命のやり取りをしようという人間が、それを通告した書を手本に書き取りしてる、という状況は、根本的に何かが間違ってる気がする。
 手製のノートに、鉛筆で果たし状の内容を書き写しながら、トレスは力強くそう思っていた。
 そう思っている、だけだったが。

 ジャンヌは史書のページを繰りながら、横目でトレスを見た。
 ちゃんと、書き取りをしているようだ。
 結構。
 ふたたび、視線を書にもどす。
 いま彼女が読んでいるのは、西振樫武[セイシンカシム]朝時代、洛朱万[ラクシュマン]という人が著わした歴史書、「歴世記[れきせいき]」の列伝二十八巻「柏崎史[カシワザキし]丸茶諭[マルティーニュ][でん]」である。
 ここにあるのは「歴世記」の写本を複製した印刷物のようだが、たしか原本は、真那砂[マナサ]水叢京の王宮にあるはずだ。
 印刷技術の発達により、かつての貴書が、誰でも手軽に読めるようになった。
 特にここ那水の地では、たいがいの本なら図書館へ行けば閲覧できるし、応分の金銭を支払えば入手も可能である。
 よい時代だ。
 「柏崎史丸茶諭[マルティーニュ]伝」という本は、伝紗[ディンシャ]朱樹朝時代から西振樫環[セイシンカシワ]朝時代にかけて真那砂[マナサ]半島南部を支配した、柏崎国の宰相、丸茶諭[マルティーニュ]の一代記である。
 彼の異名は「端月翁[ハヅキおう]」。
 昨日、浴場棟で話題にでた、「神がかり的な手腕」を持つとされる人物の一人だ。
 月の伴星である端月が出現した年に生まれたため、後代になって、彼を「端月翁[ハヅキおう]」と呼ぶようになったのだという。
 彼が柏崎国の宰相をつとめたのは、ほんの十年足らずだが、その期間に、国内の社会機構を根こそぎ改変してしまった。
 徴税法から、墓地の埋葬法まで、ありとあらゆる物が変わってしまう。
 軍事力が縮小されたため、武士階級は激怒し、年貢の算定法が変わったため、農民は混乱し、経済機構が再編されたため、利権を失った商人は狼狽し、嗜好品への課税が少なくなったため、職人と貴族階級は狂喜乱舞し、学問と芸術が民衆に開放されたため、国民の知的水準が向上した。
 丸茶諭[マルティーニュ]の行った改革は、民衆に受け入れられず、彼は失意のうちに失脚する。
 そして、隠居生活に入った彼は、二度と権力を手にすることはなかった。
 在任中は、最低の評価しか受けなかった丸茶諭[マルティーニュ]ではあるが、彼の引退後、社会制度を元に戻そうとした人々は、はたと気づく。
 たしかに丸茶諭[マルティーニュ]の行った改革は、旧来の習慣を無視した、独善的なものかもしれない。
 しかし同時に、旧弊にしばられない、無駄のない、洗練された社会変革ではなかったか?
 「これまでと違う」という理由で認められなかった丸茶諭[マルティーニュ]の改革が、のちに「でも、このほうが良い」という評価に置き換わったのだ。
 結局、いくつかの変更はあったものの、その後も丸茶諭[マルティーニュ]が構築した社会機構は存続した。
 軍事力にたよらず、経済力と文化の保護によって、柏崎国は繁栄の絶頂を迎えることになる。
 丸茶諭[マルティーニュ]は、ただやみくもに社会改革を行ったのではない。
 各国から専門家を招聘し、既知世界の現在から過去にいたる、あらゆる社会制度を研究させ、その中から柏崎国にもっともふさわしい社会改革を実行したのである。
 歴史的に見ても、これほど理想主義を、現実に実行してみせた為政者は存在しない。
 唯一の誤算は、彼の社会改革が、すぐには民衆に受け入れられなかったことである。
 いくら理想的な社会システムを制定しても、それを理解し、納得させる努力を怠った。
 つまり、宣伝不足なわけで、この一点だけは、丸茶諭[マルティーニュ]の失策ということで、評価が一致している。
 そして柏崎国が滅亡した後も、丸茶諭[マルティーニュ]の制定した社会制度は様々な国家に引き継がれ、現在の文化国家としての真那砂[マナサ]半島の基礎となったのである。

 ……というのが、史実にもとづく丸茶諭[マルティーニュ]の業績なのだが、トレスがいう「神がかり的な手腕」というのはちょっと違う。
 おそらく、彼女が思い浮かべる丸茶諭[マルティーニュ]というのは、伝紗樫武[ディンシャカシム]朝時代に書かれた「端月翁[ハヅキおう]丸茶諭[マルティーニュ]」という戯作に登場する「端月翁[ハヅキおう]」のことだ。
 ちなみに、丸茶諭[マルティーニュ]を「端月翁[ハヅキおう]」と命名したのが、この話の作者「九談封現[クダンホウゲン]」である。
 この作品では、権力の座を追われたかに見えた端月翁[ハヅキおう]だが、実は柏崎国の平和を守るため、日夜、暗闘を繰り広げていたことになっているのだ。
 いつもは隠居所の縁側で日向ぼっこをする毎日なのだが、いざ不穏な気配あらば、一騎当千の部下達を使い、悪人共に天誅を下す。
 対する敵は、時には悪徳商人、時には腐敗官僚、時には国家転覆を狙う秘密結社、時には長屋の夫婦喧嘩の仲裁と、多岐にわたる。
 それら様々な問題に、端月翁[ハヅキおう]は正義と人情味あふれる裁きを下していく。
 当時の柏崎国は治安がよかったはずなので、そんな悪人が跳梁しているはずもないし、もしそうなら
個々の悪を潰すよりは、権力を奪取してでも社会悪を根絶やしにすべきだとジャンヌは思うのだが、そういう展開にはならない。
 実際は、失脚後に評価の一変した丸茶諭[マルティーニュ]ではあるが、彼が再び権力の座に就くことを恐れた柏崎国の権力者によって日夜監視されていたため、悪と戦うどころか、外部と接触することすら困難だったようである。
 そこらへんも、戯作では監視役の役人がおマヌケで、いつも端月翁[ハヅキおう]に出し抜かれてしまうし、柏崎国の上層部に端月翁[ハヅキおう]の協力者がいて、助力してくれたりもする。
 つまり、一般的に知られた丸茶諭[マルティーニュ]の活躍はフィクションであって、彼の業績が正当に評価された上での名声ではないのだ。
 たしかに「端月翁[ハヅキおう]」こと「丸茶諭[マルティーニュ]」が没した通砂一〇〇二年から三年後、柏崎国が西振樫環[セイシンカシワ]朝に併呑され、滅亡したのは事実である。
 ひょっとしたら、隠居したはずの丸茶諭[マルティーニュ]が、本当に隠然たる発言力をもっていたのかもしれないし、そういう説をとなえる歴史家もいる。
 だが、そんな記録は残っていないし、丸茶諭[マルティーニュ]個人の力がなければ存続できない国家だとしたら、それこそ、彼の社会改革が失敗した何よりの証明だろう。

 史実をもとにした「柏崎史丸茶諭[マルティーニュ]伝」によれば、彼がいかに慎重かつ大胆な社会改革を行ったかがよくわかる。
 しばしば攻撃の対象となる「改革内容の宣伝不足」という点にしても、丸茶諭[マルティーニュ]はそれなりに配慮はしているのだが、あまりにも革新的すぎて民衆がついてこれなかった、という面もあるのだ。
 著者の洛朱万[ラクシュマン]が、かなり丸茶諭[マルティーニュ]に好意的であるという点を差し引いたとしても、これだけの改革を現実に実行して見せたという一点だけで、絶賛に価するとジャンヌは思う。
 べつに民衆の安寧のために、隠居してから暗闘などしなくとも、丸茶諭[マルティーニュ]は十分に革新的かつ、有能な為政者なのだ。
 端月の出現による社会不安と、その後の混乱、そして民衆の理解。
 なるほど、丸茶諭[マルティーニュ]を「端月翁[ハヅキおう]」と命名したセンスはたいしたものだが、妙なヨタ話で、実際の丸茶諭[マルティーニュ]像をねじ曲げるような行為は、逆に本人の名声を害する行為なのではないか?
 だいたい、当時の人々は伝紗朱樹[ディンシャアカギ]朝の滅亡を目の当たりにしているわけで、その一因となった端月の存在を、忌わしい物ととして捉えていたのである。
 現在、あるいは「端月翁[ハヅキおう]丸茶諭[マルティーニュ]」の書かれた伝紗樫武[ディンシャカシム]朝時代のように「端月の出現は単なる自然現象」と言い切れるほど、当時の民衆は理性的ではなかった。
 まちがっても、丸茶諭[マルティーニュ]に対して「きっと端月翁[ハヅキおう]様が助けてくださる」なんて言うわけがないし、もし頼りにする人物なら、「端月翁[ハヅキおう]」などという忌わしい名前で呼ぶことはありえない。
 宿敵である秘密結社の頭目が成人したのが、実は丸茶諭[マルティーニュ]の没後であることなど、その他、細かい点をあげれば、つじつまの合わないことおびただしい。
 にもかかわらず「端月翁[ハヅキおう]丸茶諭[マルティーニュ]」は現代まで伝わっているし、今も新解釈と称する「端月翁[ハヅキおう]」モノが、戯作、演劇を問わず、発表されているようである。
 荒唐無稽なホラ話が、なぜいつまでも民衆に支持され続けるのか、ジャンヌは理解に苦しむのだ。
  
「ほら、できたぞっ」
 横で果たし状の書き取りをしてていたトレスが、完成した写しをジャンヌにさしだす。
 ジャンヌは「柏崎史丸茶諭[マルティーニュ]伝」から目を離し、周囲を見回した。
 まだ午前中で、講義を受けている生徒が多いということもあり、図書館を利用する生徒はまばらである。
「よろしい」
 大仰に書き取りを受け取って、さらりと目を通す。
 そして小學の教師がするように、赤いインクで添削した。
 いや、そうするモノだと聞いただけだが。
「まあまあ、ね」
 そういって、書き取りを返却する。
「うげぇ〜」
 真っ赤に添削されたそれを見て、トレスうめき声をあげた。  
 すこしは自信があったらしい。
 たしかに、ジャンヌから見ても「まあまあ」よく書けている。
 間違っているのは、崩した字を正式な本字に書き直すところだけで、文章の内容はかなり正確に把握できているようだ。
「ま、最初はそんなものよ……字が下手なのは問題だけど、ちゃんと読めてるみたいだから、見込みはあるわ」
「そうかい……?」
「ともかくまず、本を読むことね……読書量を増やせば本字に慣れるし、練習すれば字もマシになるわ……ともかく、会話には不自由しないんだから、はやく字を満足に読めるようになることね」
「読書は苦手だけど……そうも言ってられない、か」
「そういうこと……そうだっ、とりあえず、この本を読んでみたら?」
 そういって、ジャンヌは「柏崎史丸茶諭[マルティーニュ]伝」を差し出す。
「その本は……?」
「トレスの好きな、端月翁[ハヅキおう]の伝記よ」
「いやべつに、端月翁[ハヅキおう]が特に好きってわけじゃないんだが……」
 そういいつつも、トレスは興味ぶかげに本を受け取る。
 ちょろい。
 と思ったら、本を数ページめくっただけで、眉をひそめる。
「どうしたの?」
「……絵がないよ、コレ」
「そんな、戯作本じゃないんだからっ」
「……字が多いよ」
「活字だから、その果たし状よりは読みやすいはずよっ」
「……知らない字が……」
「辞書を引くようにっ」
「……内容がよく……」
「後ろに注釈がついてるっ……それでもわからなければ、他の本で調べるっ」
「……でもでも……」
「それでもわからなけりゃ、わたしが教えてあげるっ……異存、あるっ?」
「……いや、ないけど……」
「では今日は、この本を読むようにっ」
「……わかった……でも、さ……」
「まだ、何かっ?」
「……い、いや、あたしさ、今夜、決闘があるんだけど……」
「……そういえば……確かに」
「だろ、だろっ!」
「……そうね、なら今日は、午前中だけその本を読むっ……午後は寝るなり何なり、好きにしていいわっ」
「そ、そうかい……悪い」
「ただしっ!」
「た、ただしぃ?」
「ただし、その本を……ちょっと見せて……うん、貸出可能ね……その本を借りて、一旬(十日)以内に読破して、内容を本字で書いて提出することっ……いいわねっ」
「うはっ……い、いや、あの、その……えーと、わ、わかったよ。読むよっ」
「いいわねっ……間違っても『端月翁[ハヅキおう]丸茶諭[マルティーニュ]』のあらすじなんか、書くんじゃないわよっ」
「も、もちろん、そ、そんな真似するわけ、ない、じゃんっ……まかせとけよっ」
 トレスはそういいながら、しぶしぶと本に目を通しはじめた。
 と、同時に固まってしまう。
「ほらっ、わからない語句は辞書を引くっ!」
「うぃ〜っす」
 やる気なさげに、トレスは自前の本字辞書を引きはじめた。
 あんな小さな辞書で、どこまで読めるかわからないが、急に分厚い辞書をあてがったら、それこそ逃げ出すかもしれない。
 いきなり、レベルが高すぎたか?とも思うのだが、のんびり基礎からやってては、とても紫大の水準にはおいつけない。
 かなり荒療治だが、卒業して剣士になりたいなら頑張ることだ。
 トレスはそれを、理解しているはず。
 そう、信じたい。

 ……にしても……

 まじまじとトレスを見る。
 二、三行は読み進んだようだが、あまり順調には見えない。

 ……それにしても、この娘は気づいているだろうか?

 今日の決闘に勝利しなければ、一旬後にその本を読破して、内容を書き出すことなどできはしない、ということを。
 今日の決闘に勝利すると信じていればこそ、この課題を出したということを。
 彼女は、気づいているだろうか?

 ……気づくわけないか。

 手早く結論すると、ジャンヌは別の本を探しに本棚へ向かった。
 トレスのうめき声を残して。

十二景


「昨今、紫陽花[オルテンシア]大學に在籍する西振[セイシン]族の生徒が、一部の宝蓮[フォリア]族と思われる生徒に、暴行を受けるという事件が多発しております!
 これは、思想、言論の自由とと民族融和を掲げる大學の理念を、著しく損なう蛮行であり、長年にわたり築かれてきた、民族融和の精神と、相互の信頼関係を破壊し、過去の悪しき民族対立の歴史に逆行する、許すべからざる大罪であると結論します!
 この問題に対し、我々が解決しなければならないのは、次の三点であります!
 まず第一に、実害を被っている西振[セイシン]族の生徒の保護と救済が急務であります!
 第二に、一部の宝蓮[フォリア]族と思われる生徒の愚行により傷つけられた、宝蓮[フォリア]族全体の名誉を回復せしめること!
 さらに第三として、このような民族対立の構造を大學内に持ち込まんとする勢力の根絶であります!
 よって我々は、西振[セイシン]族と宝蓮[フォリア]族、ひいては良識あるすべての紫大生の手で、この問題を解決せんがために有志をつのり、『紫陽花[オルテンシア]大學治安回復推進連絡協議会』を設立し、自警団との連絡を密にしながら、生徒の保護と賊の捕縛を完遂することを、ここに宣言いたしますっ!」

 うお〜、ぱちぱちぱちぱちっ。

「ありがとう……では、我々の意志に賛同する者は、こちらに学部と氏名を……」
 紫陽花[オルテンシア]大學中央前広場にて、昨日ジャンヌにからんできた宝蓮[フォリア]族の生徒が、高らかに演説している。
 ほかにも、何人かの西振[セイシン]族と宝蓮[フォリア]族の生徒が、手製のビラを配っていた。
 周囲には、百名以上の生徒の人垣ができている。
 なかなか盛況のようだ。
 その集団からすこし距離をおいて、トレスとジャンヌは自室へと向かっている。
 トレスは、しょぼくれた目で騒ぎを一瞥すると、まったく無関心そうなジャンヌにいう。
「昨日の人たち、さっそく運動してるみたいだよ」
「そうね……」
 ジャンヌは、一瞥もくれようとしない。
「……そうねって、冷たいな……ジャンヌが焚きつけたんだろ?」
「あの、陳腐な義勇軍ごっこに、わたしも参加しろっていうの?」
「……まあ一応、そうするのが筋じゃないかかと、思う」
 彼女が第四王女であることとは別の理由で、ジャンヌに意見するにはそれなりに覚悟が必要なのだが、トレスは自分が正しいと思うことを言った。
 だが、ジャンヌは「ふんっ」と、鼻で笑う。
「……黒幕ってのはね……決して、表舞台には立たないものよっ」
 それだけ言うと、ジャンヌはすたすたと行ってしまった。
 トレスにはわけがわからなかったが、とりあえずジャンヌのあとを追う。
 小脇にかかえた本が、ずしりと重い。
 気が滅入っているいるせいで、実際の重さよりも重く感じられる。
 結局トレスは、「柏崎史丸茶諭[マルティーニュ]伝」あまり読み進めることができず、「丸茶諭[マルティーニュ]伝」とあと、最近出版されたという渓声良[ケセラ]文字が併記された「歴世記」の解説書、それに「辞選庵[じせんあん]」という厚手の本字辞書を図書館から借りた。
 これだけあれば、どうにかなるだろうと、ジャンヌが選んでくれたのである。
 ありがたい。
 ありがたすぎて反吐が出る。
 はやく、決闘の時間にならないかな?

★ Index  ★ Novel Index  ★ 設定資料集


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