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──第一話──
「剣士と王族の少女たち」

四景

 岸壁に立つ、青い着物姿の少女は、潮の香りのする海をじっと眺めていた。
 ゆったりと上下する、波の水面。
 結い上げた黒髪に刺したかんざしの飾りが、潮風にちりちりと音を立てる。
 真那砂[マナサ]半島中央部に位置する都市、那水。
 真那湾に面した那水港には、数多くの船が錨をおろしている。
 内海をゆく船、外洋をゆく船。
 大きな船、小さな舟。
 四角い帆の船、三角の帆の船、四角と三角の帆を組み合わせた船。
 様々な国の、様々な種類の船が、港を埋めている。
 その船の群れの向こうに、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]国の首都、水京こと、真那砂[マナサ]水叢のある真那島が、大きく見えていた。
 彼女が生まれ育った水京へは、船でわずか一日の距離である。

 紫銀[しぎん]の髪に赤い着物姿の少女、トレスは、あずけておいた荷物を大八車に積み込んでいた。
 かたわらには、なぜか、ジャンヌの姿。
 あいかららず、律義に黒髪を結い、かんざしを刺している。
 どういう構造か知らないが、毎日結うのは大変そうだ。
 少し離れた場所で、なにやら海を見ている。
 大學における最初の講義をぶじ受講した二人は、午後、那水の街におりてきていた。
 二人が向かったのは、那水港。
 無数の土蔵が整然と立ち並ぶ、港の倉庫街。
 そこに預けてある、トレスの荷物を受け取りにきたのである。
 ジャンヌは昨日の約束を守り、トレスが自分の部屋に住めるよう、手続きを済ませていた。
 あとは、実際に引っ越すだけである。
 ではさっそくと、トレスはその日のうちに、用具室から大八車を借りて、港に預けた荷物を取りにいこうと考えていた。
 もちろん、一人で行くつもりだったのだが、なぜかジャンヌも同行することになる。
 身の危険を感じた、というよりも、単に那水の街を見物したかっただけの様子。
 やはり、自分の足で街にでたのは、これがはじめとのことである。
「よっしゃ、これで[しま]いだっ!」
 威勢のいい、小柄な黒い肌の人夫が、トレスの荷物を大八車に積み込んで、ロープで止めてくれた。
 宝蓮[フォリア]族のようにも見えるが、トレスには断定できない。
「ありがと、おつかれさん」
 トレスは大八車からおりた人夫に、ねぎらいの言葉をかける。
「しっかし、大丈夫かよ……けっこう重いぜ」
 いくつかの籠や袋に収められた荷物の山を見て、人夫がいう。
「大丈夫さ。あんたも、あたしの腕力、見てただろ」
「ま、たしかに大した力だが……ま、あんたがそういうなら、いいかっ……じゃ、支払いと行くか?」
 そういうと、人夫は自分の荷物の中から何枚か書類を取り出し、それに目を通す。
 本来は、倉庫の事務所でする手続きだが、たいした量の荷ではないので、略式で人夫が手続きをしてくれるようだ。
「保管料は五日間、諸経費込みで……十一[]と五百二十[セン]だな」
「わかった……」
 トレスは財布から、銀貨と銅貨を、所定の枚数だけ取り出して、渡す。
「ほいよっ、確かに……じゃ、ここと、ここに本字のサインと、拇印をくれ」
 そういって、板に留めた書類と、インクのついたペンを渡してくれる。
 何枚かの書類に、「トレスティ=アフタヌーン」の本字表記「紅素茶 午後雲」を書込む。
 すかさず朱肉の入った小さな壷を差し出されたので、それに右手の親指をつけて、拇印を押す。
 さっき授業で習った通り、この国では、なんだかんだで本字で字を書かされることのほうが多い。
 いままで、渓声良[ケセラ]文字で署名するよう言われたのは、港で入国手続をしたときだけである。
 人夫は書類を受け取ると、指ふき用の湿ったボロ布を渡してから、内容を確認する。
「トレスティ=アフタヌーン様、ね……はい、確かに……しっかし姉ちゃん、紫陽花[オルテンシア]に入学したのか?」
「あ、ああ……その通りだよ」
 ボロ布を返しながら、トレスはちょっと意外に思う。
 人夫が、文字を読めるとは思わなかったのだ。
 あまり学があるようには見えなかったが、人を外見で判断してはいけないということか。
「そうか……そいつは気合が入ってるな。俺も、いつかは大學に行くつもりだ。毎日、勉強もしてる……あんたも、がんばって卒業しろよ」
 そういって、人夫はニヤリと笑う。
「ああ、がんばるよ……あんたもなっ」
 トレスも笑いかえした。
 最後に保管証である割符と、受領書を交換すると、人夫は鼻歌を歌いながら、去っていった。

「あなたたち、なに笑ってたの?」
 人夫が見えなくなってから、ジャンヌはトレスに聞いてみる。
 離れた場所にいたので、人夫とトレスの会話はよく聞こえなかった。
 トレスは、大八車が引けるか、すこし力を込めて確認しながら、説明する。
 その中で、人夫が文字を読めることに驚いたという話に、ジャンヌは興味をもつ。
「じゃ、トレスはあの人夫が文字を読めたのは特別だと思うの?」
「ちがうのか?……あの人は大學に入りたいから、毎日勉強してて、それで文字が読めたんだろ?」
 ジャンヌは、ふっと笑う。
「そうじゃないと思うわ……だってこの国で、ふつうに育った人間なら、誰でも読み書きぐらい、できるもの……だいたい、文字が読めなくて、書類が扱えると思う?」
「そりゃそうだけど……」
 理屈ではそうだが……と、いいたげなトレス。
 いくら外見的には伝紗[ディンシャ]族でも、やっぱり異国人。
 さっそく契約通り、一般常識の講義に入る。
「トレス……この国にではね、小學っていう国営の学校があって、戸籍のある子供は、誰でも無料でそこに入学できるの。それほど高度なことを教えるわけじゃないけど、必要最低限の読み書きと計算力は身につけられる。だから常識的に、この国の人間なら、誰でも読み書きができると考えて、間違いないわ」
「……そっかー……あたしがいた国だと、文字の読み書きができる奴なんて、特別な奴だったな」
「他の国では、そうみたいね……」
「……本当、大陸一の文化国家ってのは伊達じゃないな。話では、さんざ聞かされてたけど、やっと実感が湧いてきたよ」
 しきりに感心しているトレス。
「……」
 そこで、ジャンヌは急にうつむいてしまう。
「どしたの?」
 ジャンヌは居心地の悪さに耐え切れず、ぼそりという。
「……トレス……実をいえば、さ……わたしも一般庶民と、直に接したことは、あまりないの。教育水準が高いってことは、もちろん知ってるけど、それを直に確かめたことはなかった。そういう意味では、わたしもトレスと同じなのよ」
 トレスは特に、驚いたふうもなく応える。
「……だろうね。昨日、はじめて現金で買い物をしたって、言ってたぐらいだし……でもさ、これから、そーゆーのを知っていけばいいだろ?それだって、勉強なんだからさ……」
 そういって、トレスは笑う。
「ええ、そうね……本当、その通りね」
 つられて、ジャンヌも笑った。
 ジャンヌはこの剣客志望の少女といると、なんだか心の底から笑えるような気がしていた。
 表裏のない、純粋で素朴な笑い。
 王宮では、かつて経験したことのない種類の笑いである。
 単なる利害の一致で手を組んでいるはずの相手に、なぜこうも笑えるのか?
 内心、ジャンヌは自分の笑声に、戸惑っていた。

五景

 港を後にしたトレスは、ジャンヌと一緒に那水大路をゆく。
 大八車は、トレス一人で引いており、ジャンヌはその脇を手ぶらで歩く。
 ジャンヌは「押すの手伝おうか?」と申し出たが、トレスはこう説明して断った。
 依頼主だからと、遠慮しているわけではない。
 まず、ジャンヌの細腕では、さしたる助けにはならない。
 それと、万一襲撃があった場合、ジャンヌが後ろで押していては、とっさにフォローできそうもない。
 だから、隣を歩いてくれるほうが、安心できる。 
 こう説明されると、ジャンヌも引き下がらざるをえなかった。
 なにやら、主人と召使ふうで、イヤなのだが……
 手持ちぶさたでしかたがないので、周囲の風景に目をやる。
 広い道の両脇に、店や露天が立ち並ぶ。
 右手に川。
 背後は海。
 前方と両側は、山に囲まれている。
 海に面し、三方を山に囲まれた那水の地形は、天然の要害なのだ。
 前方の山を背に、すこし高台になった場所に、目指す紫陽花[オルテンシア]大學の校舎が見えた。
 紫大は、那水大路の終端に位置している。
 こうして見ると、まるで那水の街そのものが、紫陽花[オルテンシア]大學の城下町のように見えた。
 視線を、近くに戻す。
 一見すると、平凡な街並みのようだが、道ばたで雅楽が演奏されたり、露店で古書や、細密画が売られていたりするあたり、那水がただの地方都市ではないことがうかがえる。
 なにせ、塀の落書の筆致にすら、どこか気品があるのだ。
 この街に集積された才能は、計り知れない。
 道ゆく人の顔ぶれはさまざまだが、やはり一番目立つのはジャンヌに似た、背の低い、黄色い肌の西振[セイシン]族。
 男性の西振[セイシン]族も、女性と同じく幾分、背が低い。
 教科書通りにいけば、次に多いのがトレスと同じ、伝紗[ディンシャ]族、次に宝蓮[フォリア]族となるはずだが、実際は伝紗[ディンシャ]族と宝蓮[フォリア]族の数は同じくらいで、むしろ宝蓮[フォリア]族のほうがわずかに多い。
 話には聞いていたが、これほど宝蓮[フォリア]族が勉強熱心とは思わなかった。
 中にはチンピラもいるようだが、山賊ふぜいも、それなりに努力してるものだ。
 そう、ジャンヌなりに評価を修正する。

「ジャンヌ……」
 紫大の正門がそろそろ見えてくるかという頃、トレスが小声で話しかけてきた。
「どうしたの?」
「……誰か、あたしたちを尾行してる」
「えっ?」
「ふり向くなっ!……そのままっ、そのまま普通に歩いて」
「……わかったわ……で、どうするの」
 あわてて、声をひそめるジャンヌ。
「……あの人数を相手にするのは、ちょっときついな」
「何人ぐらい?」
「さっきまで一人だったけど、人数が増えてる……昨日の連中もいるみたいだから……ざっと五、六人ってところかな」
「昨日の仕返しね……力で劣っても、数の有利で勝利を確実にしようってわけか……連中も、まんざら馬鹿じゃないわね」
「場所を選べば、戦えないこともないが……」
「けど、町中で戦うのは得策じゃないわ……那水は水叢[ミナムラ]国の領土だから、国の法が適用される……なんとか、紫大の敷地に入れない?大學内は治外法権だから、多少のもめ事なら、内部で処理できるはず……事件をもみ消すにしても、大學内のほうがやりやすいわ」
「わかった。ともかく、紫大に戻ればいいんだな……合図をしたら大八車に飛び乗ってくれ。そのまま、突っ走るから」
「わかった」
「じゃ、いくぞっ……よし、乗れっ」
 トレスの合図にあわせて、ジャンヌは大八車の前部、ちょうど荷物を背にするかたちで飛び乗る。
 ど、がらがらがらっ!。
 ジャンヌがいいと言う前に、大八車が急激に加速した。
 あわてて、荷を固定しているロープをつかみ、振り落とされないようにする。
 ものすごい、振動。
 うっかり喋ると、舌をかむ。
「追え!」
 後方から、そんな声が聞こえた。
 どうにかうしろを見ると、数人の男が必死の形相で追いかけてくるのが見える。
 紫陽花[オルテンシア]大學の校門は、もうすぐだ。
 木剣をもった一人の男が、急速に大八車のすぐ横まで追い上げてくる。
 がしっ。
 ジャンヌのすぐ左脇の荷物の角に、無骨な指がかけられた。
 振動のため手を離せないジャンヌには、ただ見ているしかない。
「敵よっ!」
 かろうじて、警告を発する。
 トレスはちらりと、うしろを見ると、取っ手を握りなおす。
 一瞬、体が沈み込んだように見える。
「うおぉぉぉぉぉぉぉ!」
 トレスの叫び。
 途端に、大八車が再度、加速する。
 荷物にかけられた指が、あっけなく外れた。
 力つきたのか、男は一気に減速して小さくなる。
 男が意気地ないというよりも、トレスの脚力がすごいのだろう。
 そのまま、校内に突入する。
 他の生徒が、何事かと見守る中を、大八車は一気に駆けぬけた。
 管理棟をぬけて、[セキ](約五十メートル)ほど走ると、ゴミの集積場が見える。
 學内のゴミが一手にあつまる場所であるが、回収した直後のためか、閑散としていた。
 土壁に阻まれ、行き止まりになっている。
「止まるぞっ!」
 トレスがそう叫ぶと同時に、急激な制動がかかる。
 ジャンヌは放り出されないよう、必死でしがみつく。
 敵との距離は、かなり離れていたのだが、トレスには後ろが見えないため、必要以上の速度が出ていた。
 おまけに、集積場への道はゆるい下り坂になっている。
 減速が間に合わない!
 そう悟って、ジャンヌは目を閉じた。

 その数瞬前、すでに通常の停車は不可能と判断していたトレスは、ジャンヌが目を閉じるのと同時に、体を左にひねった。
 どががががっ!
 車輪が地面を削りながら、後部が右に滑る。
 ほぼ真横にたったところで、トレスはもう一度おもいきり右足を蹴り出す。
 瞬間、負荷に耐え切れず右の車輪が外れたことが感覚でわかったが、かまわず、ありったけの力を取っ手にかけて、体を左に投げ出した。
 地面にぶつかる衝撃とともに、体を数回転がしてから、その勢いを利用して立ち上がる。
 ジャンヌは?
 そう思って視線をむけた瞬間、どすんと音がして大八車が壁に激突した。
 衝撃でロープがほどけ、荷物が散乱する。
 右の車輪が負荷に耐え切れず外れていたが、大八車は意図したとおり、反転していた。
 荷物を背にしてぶつかったため、ジャンヌも健在。
 よし。
 トレスはジャンヌの無事を確認すると、鋭い視線を後方に向けた。

 ジャンヌが目をあけると、なぜか大八車が後ろをむいて、壁に激突している。
 思ったより、衝撃は受けなかった。
 崩れた荷物にめり込む形になったため、負荷が少なかったようである。
 とっさに、トレスが向きを変えてくれたのかもしれない。
 多謝。
 とはいえ、大八車は傾き、ジャンヌはあられもない格好で荷物に埋もれている。
「ジャンヌ、無事か?」
 トレスの声。
「ええ、無事よ……」
 そういって、体を起こす。
 泥だらけのトレスが、すこし離れた場所で、奥からら走ってくる敵に視線を向けている。
 視線を外さず、トレスがいう。
「ジャンヌ……その荷物の中に、細長い、黒い籠があるはずだ。中にあたしの木剣が入ってるから、出してくれ」
「えっ?えっ?」
「早く!」
 トレスに急かされて、あわてて周囲を見回すと、たしかに少し離れた場所に、黒い漆塗りの籠が落ちている。
 ちょっとふらついていたが、かまず籠に飛びつく。
 蓋を持ち上げてみると、中に黒ずんだ木製の剣が入っていた。
 諸刃の長剣を模したそれは、木製とはいえかなり大きく、持つとずしりとした手応え。
 よく使い込んであり、傷だらけで、柄がてかっている。
「?……」
 そのままトレスに渡そうとして、気づく。
 黒い籠の中の、木剣があった場所の下から、赤い布に包まれた棒状の物が見えている。
 木剣ほど太くはないが、長さは同じくらいで、少し反っていた。
 隠蔽用につめてある着替えを取り除き、棒を持ち上げてみる。
 重い。
 その棒は見かけによらず、木剣と同じくらいの重量があった。
「そいつじゃない、木の方だっ!」
「あっ……そだっ」
 叫びで我に帰ったジャンヌは、棒をもどし、木剣に手をかける。
 そしてトレスの方へ、せいいっぱいの力を込めて投げた。
「うっ……」
 ジャンヌが唸る。
 力およばず、木剣はトレスの手前に落下してしまった。
 たが、彼女の方が身を躍らせて、空中でそれをつかむ。
「ありがとよっ!」
 そういいながらトレスが体を回転させ、立ちあがった時にはすでに、木剣を中段に構えている。
 ほれぼれするほど、見事な体捌き。
 うっすらと汗をかき、息も多少は荒れていたが、とても、あれだけの荷物を引いて疾駆した後とは思えない動きだ。
 敵もまさか、荷物を引いた小娘に引き離されるとは、思ってもみなかっただろう。
 連中を、大學内に引き込めただけでも、半分は勝ったようなものだ。
 さすがはトレス、剣客になろうというだけあり、半端な鍛え方ではないな。
 そう、ひとしきり感心してみる。
 ……だがジャンヌは、忘れたわけではない。
 たしかに、彼女はこう言った……
『そいつじゃない、木の方だ』
 ジャンヌは、赤い布に包まれた反りのある棒を見る。
 棒の全長のうち、四分の一ほどのところに、円盤状のふくらみ。
 間違いない。
 ジャンヌは確信した……この中に「木製ではない剣」が入っている、と。

 がっ、じゃっりっ。
 トレスは、不用意に右横から打ち込んできた男の一撃を、切っ先を後ろにして受け流す。
 どっ。
 そして、つんのめりながら脇を抜けた男の背に、木剣を叩きつける。
 動きをとめずに木剣を構えなおし、後に続こうとする連中を牽制した。
 ずざざざっ。
 うす汚れた男は、息を詰まらせてへたりこむ。
 さっき、もう一息で追いつかれそうになった奴だ。
 ごくろうさん。
 木製とはいえ、本気で打ち込めば、ただでは済まない。
 かといって、下手に手加減をすれば、反撃を食らう恐れがある。
 大怪我にならぬよう、かつ、しばらく動けないように打ち込むのは、なかなか難しい。
 トレスはもう一度、状況を確認する。
 場所はゴミ集積場。
 背後は土壁。
 左手に大破した大八車と、依頼人のジャンヌ。
 前は広場になっており、その先はゆるい登り坂の並木道。
 敵は全部で七人。
 みな、何かしら棒状の武器をもっている。
 右手でのびている奴が一人。
 坂を抜け、広場で二人を囲んでいる奴が四人。
 そのなかに、昨日のノッポとチビの宝蓮[フォリア]族。
 息を切らせながら、駆けよってくる奴が二人。
 そのうち一人は、デブの宝蓮[フォリア]族。
「へーっ、はぁーっ、ほーっ、待ちやがれだ〜よっ!」
「テメェが、おせぇんだっ!」
「そんな急いで、どこ行くだよ」
「あの娘に聞けっ!」
「……論争は、簡潔になっ」
 例の三人組が、例の不毛な会話をしている。
 みな息を切らせ、汗だくになっていた。
 鍛錬不足。
 三人組以外は、どう見ても街のならず者、といった風体。
 おそらく、金で雇われたのだろう。
 トレスはもういちど、剣を構えなおす。
 さすがに、先ほどの全力疾走がこたえている。
 握力は失せているし、膝も笑いかけ。
 本来なら、息を切らせてバラバラにやってくる連中を、反転して個々に撃破するつもりだったのだが、この状態で、それは無謀というものだろう。
 少しでも休むため、暴漢たちが終結するのを、じっと見ているしかなかった。
 しばしの対峙の後、動ける敵が六人、集結する。
 当然、むこうも疲労していたが、数では有利だ。
 一度にこられたら、おしまいである。
 背後は壁で、左手に大八車。
 ちょうど、角の隅っこのような状態になっている。
 逃げることはできないが、一斉攻撃を受ける危険は少ない。
 各個撃破が不可能な以上、ここでなんとかしよう。
「うう……」
 隣で、のびていた男が息を吹き返した。
 どすっ。
 とりあえず腹を蹴って、また動けなくする。
 敵は少しずつ、包囲を狭めていた。
 半端な攻撃は、通用しないと思っている。
 よしよし。
 むこうも、こちらが疲労していることに、気づいていない。
 もし、まともに戦ったら、負けないまでも、ただではすまないだろう。
 と、背後でジャンヌが声を上げる。
「トレス!……単体の敵は、大したことないわっ……すぐ自警団がくるから、もうすこし持ちこたえてっ!」
 んなこた、わかってる……そう返答しようとする前に、トレスは異変に気づいた。
 ジャンヌの言葉に、暴漢たちが動揺したのだ。
 宝蓮[フォリア]族の三人組以外の四人が、互いに顔を見合わせている。
「おい、金は払ってるんだ……たかが小娘一人、どうとでもなるだろ!」
 先輩こと、ノッポの宝蓮[フォリア]族が叫ぶが、四人は動かない。
 そりゃそうだ。
 当のノッポ自身が、トレスを恐れるあまり、腰がひけている。
 ジャンヌの言葉が、連中を釘付けにしているのだ。
 計算してやったのか?
 ……多分、そうなんだろう。
 まったく、なんて奴……ほんと、味方にして正解だな。
 ジャンヌを賞賛する意味をこめて、トレスは不敵に笑った。
 戦意をくじかれた暴漢たちは、なす術なく立ちつくしている。
 無言の対峙。
 やがて背後から、木製の槍を構えた集団が現れた。
 大學の自治を守る、紫陽花[オルテンシア]大學自警団の到着である。
「いたぞっ!学生を守れっ!」
 隊長らしき生徒が号令を発すると、集団が横一列に槍を構える。
「突撃っ!」
 集団が、小走りに前進を開始した。
 暴漢たちは、もう私刑[リンチ]どころではない。
 退路を断たれ、おろおろするばかり。
「うおっ、このままじゃ国の母ちゃんに、折檻されるだっ!」
「テメェの人生じゃ、どのみち母ちゃんに折檻されるんじゃねぇのか?」
「ぐぅおぉぉぉっ。いうな、いうでねぇっ!」
「だあぁっ、暴れるなっ。暴れるなら、向こうの連中とやれっ!」
「……落ち着け、落ち着くのだっ。冷静に状況を分析すれば、必ずやかつ、かつ、カツヲっ!」
 ノッポ先輩が、奇声を上げる。
「まず、あんたが落ち着けって……もう、逃げようがないだろ?さっさと降参させろよっ?」
 そのトレスの言葉は、果たして届いているのだろうか?
「……い、いや、違う、かつ、活路を見出せる……さ、さすれば、さ、賽銭[サイセン]器械[キカイ]もっ」
 リーダーがこの調子では、どうしようもない。
 ただ、立ちつくすしかない暴漢たち。
 だがその時……
「うぐぅわぁぁぁぁぁっ」
 突如、槍を構えた自警団の列が崩れた。
 何かに足を取られたようだ……ロープを張ったのか?
 確かめる間もなく、どこからか声がする。
「潮時だ……撤退しろ」
 低いが、よく通る男の声が、トレスの耳にまで届く。
 その言葉に弾かれたように、暴漢たちは呪縛を解いた。
「こっちだ……」
 男の声に導かれるように、暴漢たちは並木道の隙間……一見すると、通れそうもない場所に消えて行く。
「ま、待てっ!」
 隊長の必死の叫びも、混乱する集団のなかでは無力である。
「!?……誰か……いるのか?」
 暴漢たちが見えなくなる瞬間、並木道の間から剣を帯びた人影が見えた。
 無駄のない、ひきしまった長身。
 褐色の肌。赤毛を後ろで短く束ね、着流しに、使い込まれた木剣を腰に帯びている。
 男は、視線をわずかにトレスに合わせてから、静かに去った。
「トレス……どうなってるの?」
 疑問の声。
 ジャンヌが、うしろに立っていた。
 すこし振り返ってから、また前をむく。
 背後に困惑の気配があったが、トレスは沈黙を守った。
 きっと、話しても信じてはもらえないだろう。
 根拠はない。
 だが、確信していた。

 ……奴が、真の敵。

 ……奴は、強者。

 ……奴は、本物。

 ……奴と、本気で戦いたい。

 剣士としての本能が、高らかにそれを告げている。
 トレスは、あまりにも幸福だった。

六景

「しっかしま、想像以上に広い部屋だね」
 トレスは呆れるの通り越して、なかば感心している。
 ようやく、ジャンヌの部屋への荷物の搬入が、一段落した。
「広いだけよ」
 片づけを手伝いながら、ジャンヌが笑う。
 いまは青い着物ではなく、空色の浴衣に着替え、結った黒髪にに布巾を巻き前掛けをして、ばっちりお掃除スタイル。
 トレスも着物と短袴をぬいで、白いシャツと茶色い短パンという、鍛錬用の姿。
 紫銀[しぎん]の髪はうなじで縛っている。
 愛用の木剣に寄りかかりながら、トレスは改めて部屋を見回してみる。
 ここは三階建ての木造建築の屋根裏で、出窓からは那水の夜景が一望できた。
 部屋の大きさは幅三十[セキ](約三十メートル)、奥行十[セキ](約十メートル)という、やたらに大きな部屋である。ランプの光だけでは、部屋全体を照らすことはできない。
 ただし屋根裏であるため、天井高は中央部で三[セキ]あるものの、両側の窓際だと八十来(約八十センチ)ぐらいと、かなり圧迫感がある。出窓は片側四個所で、計八個所。
 一階まるごと貸し切り、といえば聞こえはいいが、お忍びとはいえ、この国の王女が使用する部屋としてふさわしいのかは、意見がわかれる所だろう。
 ジャンヌいわく「王女への体裁を守りつつ、若干の愚弄と、千万の皮肉が込められた意志による選択」なのだそうだが……よくわからん。
 出口は部屋の真ん中の床にあり、斜めになった梯子状の階段で昇降する。
 その穴を塞ぐための扉が、水平にはめ込まれている。
 トレスは部屋をぐるりと見渡し終わると、ジャンヌにいう。
「でもさ、こんだけ広いと、二人でも使い切れないよ」
 ジャンヌは、せっせと小物を整理しつつ、答えた。
 なんと勤勉な……本当に、王女か?
「どうせあなた、毎日、体を動かすつもりでしょ……これぐらいで丁度いいんじゃない?」
「でも、そんなことしたら、下の部屋に迷惑だよ」
「大丈夫よ……会話が漏れないよう床板を厚くして、防音を完璧にしといたから……飛んでも、跳ねても、下には響かないわっ」
「ほー、そうなんかい?」
 試しに軽く、木剣を床に突いてみる。
 こす、こす。
 たしかに、音が吸収されて響かない。
 今度は、ちょっと強めに足踏みしてみる。
 どす、どす、どすっ。
 やっぱり響かない。
 ぎす、げす、がす、ごすっ。
 容赦なく蹴ってみても、やっぱり大丈夫。
 相当、床板は厚そうだ。
 これなら密談しようが、剣術をやろうが、問題ない。
 やはり、ただでは転ばないな。
 屋根裏部屋をあてがわれても、王女特権で自分向きの部屋に改造していたか。
 その気になれば、華美な装飾もできただろうに、そんなものは一片もないあたり、共感できるセンスだ。
 ジャンヌはあらかじめ、自分の荷物を整理して、トレスが使う場所を確保してくれている。
 そもそも、ジャンヌの私物もさして多くはないので、トレスは楽々、自分の荷物を運ぶことができた。
 先ほどの騒ぎにより、トレスは若干のうち身、すり傷を負っていたが、彼女にしてみれば怪我のうちには入らない。ジャンヌに至っては、あれだけの騒ぎを体験したにもかかわらず、ほぼ無傷。
 彼女が無事だったことが、トレスには何よりの誇りである。
 あの後の自警団による事情聴取は、簡潔だった。
 トレスとジャンヌが事件現場で学生証の木札を提示し、襲撃の顛末を説明すると、驚くほどあっさりと解放してくれる。
 事情聴取にあたった自警団員によると、最近、西振[セイシン]族が標的にされており、今月だけでも、五件目も暴行事件が発生しているらしい。
 西振[セイシン]族ふうの容姿をしているだけで、無差別に危害を加えてくるので今後も注意が必要、とのこと。
 破損した大八車は大學の備品なので、自警団が回収してくれる。
 二人が被害者であることは、自警団が証明してくれるので、この件で叱責されることはないそうだ。
 トレスがのした男は、この大學の生徒ではなかったので、取り調べの後、那水の役人に引き渡すとのこと。
 金で雇われたならず者らしく、たいした情報は得られなかったようだ。
 結局、今日の騒動で一番被害を出したのは紫大自警団、ということになる。
 あとで判明したことだが、突進する自警団たちを転倒させたのは、横の並木道から放たれた分銅つきのロープだった。
 横合いから、絶妙のタイミングで放たれたため、なす術なく転倒させられたようである。
 重装歩兵[ファランクス]ばりの突進を、見事にすっ転ばされたわけで、骨折こそなかったものの、負傷者が量産されていた。
 トレスにだけは、分銅を放ったのがあの男であることがわかったが、その件に関しては、一切話さなかった。
 せっかく見つけた強敵を、失ってたまるものか。
 本気で、そう思っていた。
 自警団が去ってから、二人は散乱した荷物を集め、あたらしい大八車を借りて学生寮へ向かう。
 物的な被害は、衣服に泥がついたのと、親から入學祝いにと押し付けられた硯が割れたぐらいで、トレス的に大したことはない。
 荷物の大半は、今まで使っていた鍛練のための器具で、あとは西濱[セイハマ]語の教本や、本字の辞書などの書物が数冊と、着替えや、筆記用具などの雑用品が少々。
 机や椅子、ベットの類は、ジャンヌが貸出用の備品を手配してくれていたので、位置を決めるだけだった。
 さっき、ジャンヌが指示した場所は、部屋の隅、三角形の壁際。
 左側の斜辺にジャンヌの私物と、机、椅子、ベッドが置かれている。
 右側の斜辺を空けたので、そこを使え、というのだ。
 もともと部屋が広いので、反対側とはいえ、かなり距離はあく……のだが、それだと部屋の七割が空いてしまう。
 いわれた通り家具を移動させたが、つまり、残りの空きスペースは、トレスの鍛錬用に使え、とのことらしい。

「悪いね……ここまで気を使ってもらって」

 ぽつり、とトレスは言った。
 ごくごく控えめな、感謝。
 だがその言葉に、ジャンヌの動きがぴたり、と止まった。
 何事かと見ていると、ジャンヌはうつむいたまま、ずかずかとトレスの前までやってくる。
「?……」
 トレスがなす術なく見ていると、ジャンヌはくわっと顔をあげる。
「っ!?……」
 あまりの形相に、思わずトレスは後ずさった。
 暴漢にすら一歩も引かなかったトレスが、後ずさった。
 それほどの、形相。
 ジャンヌは底冷えのする声で、いう。
「トレスあなた……わたしのこと『結構いい人』だと、思ってるでしょ……」
「えっ……えっ?」
「どう思ってるの?……返答してっ」
 トレスには、ジャンヌの意図がわからなかったので、思った通りのことをいった。
「さ、最初は気の強い奴だと思ったけど……話をしてみると、案外まともかなって……」
 その言葉に、ジャンヌは血走った目で吠える。
「……愚鈍な剣客馬鹿に、何がわかるっ!」
 腕力ではなく気勢によって、トレスは目の前の少女に、新たな感情を抱いた。
 それは、恐怖である。
 恐怖にうち勝つために、トレスも吠えた。
「どういうことよっ!……ただ、聞かれたから正直に答えたのに、その言いぐさはなんだっ!。ざけんなっ……あたしに、あんたの何を理解しろってんだよっ!?」
 いいながら、トレスも本気で腹が立ってくる。
 そうだよ、なんであたしが、責められなきゃならないんだ。
 約束通り、きっちり守ってやってるじゃないか?
 だが、ジャンヌの怒りの方向は、すこし違った。
「わたしは……トレスが思ってるような善人じゃないっ!」
「……はぁ?」
「わたしは……わたしは王宮じゃ、変人の狂った王女だって言われてた。……言われるだけの狂気をもってると思ってた。
 わたしが本気になれば、万世に名を轟かすことができると……そう信じてたわ。王宮にいると、だれもがわたしを大切にしてくれる……でもそれは、わたしが水叢[ミナムラ]国の第四王女であるからであって、わたしだからじゃない。
 ここにいたら、ただの狂った王女ってだけで、飼い殺しにされるのがわかったから、……だから、ここに来たのに……ここに来れば、わたしは、わたし自身の力でのし上がれると思ったのに……なのに……」
「ジャンヌ……」
 トレスは、当初、感じていた怒りが引いていくのを感じている。
 それは、第四王女の目に、滴るものを見たせいかもしれない。
「そんな目で、わたしを見るなっ!!」
 ジャンヌは、またもや叫ぶ。
 そこには、先程の迫力はない。
 顔を上げて、滴がこぼれるのを、必死で耐えている。
「わた、わたしは……ヒック……わたしは将来、希代の悪女になるんだから……ヒック……歴史の講義じゃ、わたしの悪行が列挙され、その蛮行の数々に、後代の人々は眉をひそめ、わたしの時代に生まれなくてよかったって、胸をなでおろすのよ?……その、そのわたしが……ヒック……なんで、なんでこうも……ヒック……一方的に、やられっぱなしなわけ?……たかが、学生ごときに、このわたしが、やられっぱなしになるなんて、どういうこと?……ヒック……おかしい……おかしいよっ……ヒック……」
 思いのたけを放出すると、ジャンヌはベットにうつぶせになり、低く、くぐもったうめき声を上げはじめた。
 トレスには、どう答えていいかわからない。
 下手になぐさめても、また逆ギレされるだけだ。
 だが、これだけは言う。
「ジャンヌ……あんた、連中に好き放題ヤラれてるのが、気にくわなかったんだね」
 その言葉に、ジャンヌはうつむいたまま返事をしなかったが、答えがないということは、それが正解ということだろう。
 ジャンヌはそのまま、そっとしておくことにして、トレスは片づけを再開した。

 ジャンヌは、酩酊感を覚えていた。
 頭のなかがぐるぐる廻り、思考がまとまらない。
 いま、わたしは何を言ったのか?
 何かとてつもなく、みっともない事をいった気がする。
 いや、本当は何をいったか、ハッキリ覚えていた。
 なんて子供じみた、下らないことを言ってしまったのだろう?
 為政者は、決して臣下に弱味を見せてはいけない。
 ジャンヌはそう、信じていた。
 単なる部下なら、その通りだ。
 では、つい自分をさらけだしてしまうトレスとは、何者なのか?
 よく、わからない。
 だが、一方では、こうも思っている。
 あんなことを言って、トレスに、軽蔑されてしまっただろうか、と。
 他人にどう思われても、構わないはずではなかったか?
 自分は不完全でも、他人には完璧だと思わせなければいけないのではないか?
 だから、何があっても平然としたフリをしていたのではないか?
 昨日……宝蓮[フォリア]族の三人組に襲われている所を、トレスに助けられた時だって、本当はものすごく恐ろしかった。
 トレスと別れて、この部屋に戻ってから、恐怖感がこみ上げて来て、一人で泣いた。
 夜は、広い部屋に一人でいるのが怖くて、窓を閉め切って震えていた。
 さっきの騒ぎで、大八車に乗って爆走したときも、暴漢に囲まれていたときも、ものすごく怖かった。
 トレスに守ってもらうとしても、守られる者として最低限、足手まといにならぬよう、努めて恐怖感は押し殺していた。
 だが、昨日今日と蓄積されていた恐怖が、叫びとなって噴出したのだろう。
 そう、自己分析する。
 言いたいことをいったので、すこし気持ちが楽になったが、ちょっと格好悪いな……そう思えたとき、ジャンヌはうつむいたまま、笑った。
 でも恥ずかしいから、もうすこし、このままでいよう。

「……片づけはもういいでしょ。そろそろ、食事に行かない?」
 ジャンヌは、がばっと起きあがり、そう提案した。
 彼女が叫んでから、多少時間がたっており、トレスの片づけもほぼ終わっている。
 少し目が赤かったが、知的で冷静な瞳が戻っていた。
「そりゃいいけど、愚劣な剣客馬鹿と一緒でいいのかい?」
 トレスは皮肉げに言う。
 まだ腹が立っていたというのもあるが、ジャンヌの場合、下手に気を使わない方がいいように思えた。
 ジャンヌは不敵に笑う。
 予想通り。
「ええ……いまのわたしには、その程度で十分よ……でも、トレス。わたしは愚鈍な剣客馬鹿って言ったのよ……あなたは、愚劣じゃないわ……愚劣なのは、わたしの方でしょうね……」
 ジャンヌは自虐的にそういうと、下への階段へ向かって歩きはじめる。
 トレスには、「愚鈍」と「愚劣」の違いがわからなかった。
 あとで、辞書でも引いてみるか。
 そう思いつつ、最後の荷物をとりあえずベットの上に置いて、後を追った。

七景

「そんなもの、嫉妬に決まってるでしょっ!」
 学食棟の長机に座り、ジャンヌは飯粒を飛ばしながら、大声で言った。
 周囲の学生たちが、一斉にこちらを見るが、彼女は気にするふうもない。
 トレスはただ、なんで宝蓮[フォリア]族が西振[セイシン]族を目の敵にするのか、と聞いただけなのだが……まだ、怒ってるのかな?
 そう思いつつ、応じる。
「嫉妬って……なんで?宝蓮[フォリア]族はこの国を支配してるんだろ?」
 内容的にヤバいかかもしれないと、声をひそめて聞いたのだが、これではなんの意味もない。
 ジャンヌは平然とみそ汁に飯をブチ込み、豪快に掻き込んでいる。
 嫌な王女だ。
 トレスも、ぬか漬けをフォークで突き刺した。
「支配ったって……文化的には、西振[セイシン]族にオンブにダッコだし、独自の文化を創造するだけの能力もない。それに、いちばん劣等感を感じてるのが、当の宝蓮[フォリア]族なんだもの。
 西振[セイシン]族は、支配するのもされるのも慣れてるからどうってことはないけど、宝蓮[フォリア]族にはかなり、プレッシャーみたいね。」
「そんなもん、かね?」
 そういいつつ、冷えた豆腐に魚醤[ぎょしょう]をかける。
 魚醤とは、この国の食べ物にかける、黒くてしょっぱい調味料だ。
 名前に魚とついているが、別に生臭いわけではない。
 独特の風味があるのだが、トレスの母親が作る料理は必ずこの魚醤をかけて食べていたので、慣れたもの。
 ちなみに夕食の献立は決まっており、鯖の味噌煮と冷やっこ、赤茄子[トマト]が具の味噌汁と麦飯、あと、きゅうりの糠漬け。
 それ以外のものが食べたい人は、街へどうぞ、ということらしい。
 食べるための道具は、箸とフォーク、あと手掴み用のフィンガーボウルが用意されていた。トレスはフォーク、ジャンヌは箸を使って食べている。
 宝蓮[フォリア]族自身がプレッシャーを受けている、という話につづけてジャンヌはいう。
「そんなもん、よ……所詮は山賊上がりの土蓮[ドバス]だからね……あっ土蓮[ドバス]ってのは、宝蓮[フォリア]族の卑称、つまり、馬鹿にする言葉ね……ま、宝蓮[フォリア]帯尊[タイソン]朝を八年で潰した土蓮[ドバス]ごときが、十倍の、八十年も政体を維持してるってだけで、大したものだと賞賛してやるべきなんでしょうけど……あの、みみっちい根性には、反吐が出るわっ」
 周囲が、ざわめく。
 だがやはり、ジャンヌは無関心。
「おい……そんなこと言って……」
 トレスがいさめる前に、一人の男子生徒がやってきた。
 褐色の肌。
 間違いなく宝蓮[フォリア]族だ。
 武器はなく、かわりに分厚い本をかかえている。
 体格はそこそこだが、暴力に訴える雰囲気ではなかった。
 すこし、様子をみてみるか。
 トレスは学生の挙動に全神経を集中させながら、冷えた豆腐にフォークを突き立てた。

「君……公共の場であることを弁えて、発言したらどうだ?」
 学生は、理性的な言葉で攻撃を始めた。
 きたきた。
 ジャンヌは気づかぬふうに、ぶっかけ飯を一気に流し込む。
「ぶはっ……やっぱり、冷えてない食事は美味ね……あら、当の土蓮[ドバス]が騒ぎにきたわ……まったく、優雅のかけらもありゃしない」
 そう言って、ちらりと学生に目をやってから、ぬか漬けを箸でつまむ。
 背後で、学生がわななく気配。
 それでも学生は、努めて理性的に言葉を返す。
「じ、自分の名は、解印[ゲイン]屋洲丸[ヤスマル]だ。自分は、君の西振[セイシン]族至上主義にもとづく宝蓮[フォリア]族に対する誹謗を中傷を不当なものと考え、発言の撤回と謝罪を要求するっ!」
 かなり、頭にきているようだ。
 必要以上に形式ばった喋りかたをするのが、なによりの証拠。
 まあ、名乗りを上げるだけ、まだまともだが。
 ジャンヌは食事をつづけながら、返事をする。
慈恵院[ジャンヌ]比繰酸[アブリル]、わたしの名よ……で、わたしの発言、どこが不当だというのかしら?」
「君の発言、全体だっ……宝蓮[フォリア]族に対し、土蓮[ドバス]などという汚い言葉を使うのは、失礼じゃないか。それに、過去がどうあれ、現王朝が安定した政体を維持しているのは、明白な事実だ。それを、不当におとしめる発言をするのは、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]朝のみならず、宝蓮[フォリア]族全体を誹謗することになるんだぞ……それに、議論をするときは、こっちを向いたらどうだっ……わかってるのか、君っ!」
 ジャンヌは、そこでようやく箸を置き、ゆらりとゲインのほう向く。
「こんな話、知ってる?今日の午後、街を歩いていた西振[セイシン]族の少女が、三人組の宝蓮[フォリア]族の学生に率いられた一団に襲われた……なんとか大學に逃げ込んで、自警団に助けられたけど……その少女は、宝蓮[フォリア]族に謝罪なんかされてないわ。
 あなたが、かわりに謝罪してくれるの?仮に謝罪したとして、それで何が解決するの?少女は今も、宝蓮[フォリア]族に狙われているのよ?」
 ゲインには、ジャンヌのいう少女が誰なのか、察しがついたようだ。
 急に、うろたえたような表情を見せる。
 馬鹿じゃないが、柔軟ではないな。
「い、いや、その話は聞いているが……おなじ宝蓮[フォリア]として、恥ずかしいことだ。だ、だが、だからといって、公共の場でそのような発言は控えたほうが……」
「控えてどうなるの?……おとなしく、土蓮[ドバス]共が大人しくなるのを待つわけ?……たしかに、わたしを襲った連中は、宝蓮[フォリア]族のごく一部だろうし、すべての宝蓮[フォリア]が悪じゃないのは、わかってるわ!でも、わたしを襲ったのは、間違いなく宝蓮[フォリア]族よ。そして、この大學内に、西振[セイシン]族に危害を加える宝蓮[フォリア]族がいるのは、厳然たる事実なのよ!」
「そうだっ!」
 二人の議論の外で、そんな声が上がる。
 見れば、西振[セイシン]族らしい男子学生が起立していた。
 左目にアザがあり、右腕に包帯を巻いている。
斜留[シャルル]粕葉[カスパー]だ。俺も昨日、宝蓮[フォリア]族に恐喝された。三人組の宝蓮[フォリア]族だから、多分おなじ連中だろう。
 ゲイン君、ジャンヌさんのいう通り、宝蓮[フォリア]族の中でも一部の暴挙なのだろうが、これは、われわれ西振[セイシン]族にとって、由々しき事態なんだ。この問題を放置しておけば、いずれ宝蓮[フォリア]族対西振[セイシン]族の民族紛争に発展しかねないぞ!……そんなことになったら、一番困るのは君達、宝蓮[フォリア]族ではないか?」
「そ、それは……」
 とまどう、ゲイン。
 それはそうだろう。
 公平に見て、不当な発言をしたのはジャンヌで、それを理性的にいさめようとしたのがゲイン、なのだから。
 ほくそ笑む、ジャンヌ。
「私も、その人達に嫌がらせを受けましたっ!」
 もう一人、西振[セイシン]族の女学生が起立すると、それに呼応して、何人かの西振[セイシン]族と、ゲインを擁護しようとする宝蓮[フォリア]族の学生が名乗りをあげる。
 やがて議論はゲインとシャルル、二人を中心としたものに移行していた。
 西振[セイシン]に蛮行をはたらくのは、一部の宝蓮[フォリア]だという、ゲイン。
 一部でも蛮行をする者を放置すれば、宝蓮[フォリア]全体が悪者にされるという、シャルル。
 取り巻き連も、それに応じた発言を交わしている。
 ジャンヌはじっと、その流れを見守っていたが、二つの意見が平行線をたどりはじめたとき、起立して、こう発言した。
「ちょっと待ってよ、みんなっ!……ここにいる人達は、宝蓮[フォリア]族と西振[セイシン]族が争うのを良しと思ってないはずよねっ!」
「無論だ」
「当然さ」
 うなずく、二人。
 他に異論があるとしても、この場で異論を唱える勇気のある者はいまい。
 ゲインもシャルルも、民族は違えど、この国を背負う知的階級予備軍なのだ。
 そう、無茶な独善を振りかざすわけもない。
 待ってましたとばかり、ジャンヌ。
「だったら、宝蓮[フォリア]西振[セイシン]だって騒ぐ前に、一部の蛮行を働く連中を、どうにかすることを考えたらどう?……一部の宝蓮[フォリア]族が、西振[セイシン]族に無差別な暴行を加えているのは事実だけど、宝蓮[フォリア]西振[セイシン]も、民族の名誉を守るために、共に立ち上がるべきじゃないかしらっ!」
 その言葉に、学食棟が一瞬、静まりかえる。
「そうだっ!」
 先に声を上げたのは、ゲインかシャルルか?
 やがてその声は、学食棟を満たし、学生たちは二人を中心として、悪質な宝蓮[フォリア]族への対抗策を検討しはじめる。
 それを確認してから、ジャンヌは横で小さくなっていたトレスに声をかけた。
「トレス……」
 びくっとこちらを見る、トレス。
 場の流れに、ついて行けないようだ。
 ジャンヌはにっこり微笑で、他人には聞こえないよう、ささやいく。
「さっ……夕飯もすんだし、お風呂入りにいこっ!」


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