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──第一話──
「剣士と王族の少女たち」

[しょ]

「……そうなんだ……わかった、もういい……」
 終始、事務的な応対をしていた学生課の職員である老婦人は、すでに次の生徒の対応をはじめている。
 彼女の口振りからすると、入学式も済んだ今頃になって、住む場所を探しているほうが、どうかしているようだ。
 学生寮が満員なのは仕方ないとしても、学内の簡易宿泊所までも満杯とは、予想外の事態である。いくらなんでも、楽観しすぎだった。
 成果のないまま、学生課の窓口を離れた少女、トレスはあてもなく歩きはじめる。夏の陽射しもいくらか落ち着いた、華九月の午後。
 周囲の人々の顔はみな、明日からの大學生活を思い、輝いている……ように見える。
 正直いえば、トレスにとって、この紫陽花[オルテンシア]大學[だいがく]への入学は、何の意味もない。いや、彼女のこれからの人生の自由を獲得するという意味では、重大なのだが……。
 だが、やっぱりトレスには、これからしばらく、ここで生活しなければならないという境遇が、我慢できそうもなかった。
 難しく考えても仕方ない。
 そう割り切れるだけの純朴さを、彼女は持っている。
 トレスは気持ちを切りかえて、上を見た。
 青葉の並木道の上から、陽射しが、木漏れ日となって差し込んでいる。
 少し乱れていた紫銀[しぎん]の髪を、手櫛で整えた。いつもは馬尾結[ポニーテール]の髪を、いまは解いているので、頬のあたりが少し邪魔だ。
 また思考が沈みそうになるのを、トレスは無理に引き上げる。
「う〜ん……」
 大きく伸びをして、両腕を伸ばす。
 こきり、と関節が鳴る。
 やっぱり、体がなまっている。
 ここのところ、慣れない勉強をしているせいだ。
 大學を卒業したはいいが、木剣も握れなくなりました、では親の思うツボではないか。
 ……などと考えているうちに、トレスは随分と人気のない場所にやってきてしまった。
 いつしか並木道もおわり、入学式直後の喧噪も、かすかに後ろのほうから流れてくるのみ。

「痛ァっ!……コ、コイツ噛むぅ〜」
 その間延びした声は、トレスの前方にある、古びた校舎の奥から聞こえてきた。
 何だろう?そう思う前に体が動く。
 やっぱり、小難しいことに頭を使うのは、性に合わない。
「馬鹿!しっかり押さえてろいっ……ナイフが刺さるだろがっ」
 今度はべつの、神経質そうな声。
「いや、刺しても構わんぞ……どうせ、そのために押さえつけてるのだからな」
 また新たな声。
 ちょっと気が抜けたような調子だ。
「……そ、そうですよね、先輩……」
 二番目の声が、先輩とよばれた三番目の声に追従する。
 なんだ、そりゃ。
 なるべく足音を立てないように建物を回り込むと、そこは木々に囲まれた小さな広場になっている。
 声の主たちに見つからないよう、這って進む。
「おめ、頭ワルいぞっ」
 ここぞとばかり、一番目が二番目を馬鹿にする。
 下生えの茂みから様子をうかがうと、一人の少女が、三人の男子生徒に囲まれているのが見える。
 一番目の声の主らしい太った男が、黒髪の少女を羽交締めにし、右手で口をふさいで声が出ないようにしていた。
「テメェは、だーってろっ!……それに、俺は先輩だっ」
 その横に、二番目の声の主である、背の低い男がナイフを振り回して叫んでいる。
 刃物を持たせちゃ、まずいタイプだ。
 背の低い男のとなりに、ひょろ長い男。
 こいつが多分、三番目の男、先輩だ。
 会話はなにやら、一番目と二番目の不毛な議論になりつつある。
「歳は、オイラのが上だっ」
「そんなもん、関係あるかっ」
 一番目の、太った男の右手から血が滴っている。
 どうやらさっきの声は、少女が一番めの指にかじりついたためのようだ……やるやる。
 それだけでも、助ける価値アリってものだ。
 着衣の乱れからすると、かなり抵抗したようではあるが、いまはぐったりとして動かない。
 急がなければ。
「センパイ、コウハイだって、関係ね〜だよっ」
「なにおうっ、先輩に口ごたえしようってぇのかっ!」
 トレスは素早く周囲を見回す。
 やがて、手ごろな長さの枝を一本、発見。
 議論が膠着状態になったところを見計らって、先輩が一喝する。
「二人とも、静かにせんかっ!人に見つかったらどうするっ!!」

「あんたの声が、一番でかいよっ!」

 トレスはそう叫ぶなり、ずかずかと茂みから出た。
 びくり、と振り返る三人。
 やっぱり、周囲に気を配るのを忘れていたようだ。
 なんだかなぁ……
「んだぁ、お前……?」
「オ、オイラたちの話を、じゃ、邪ぁ〜魔するんでねっ!」
 チビとデブが、口をひらく。
「何か用かね……我々は、いそがしいのだが」
 ノッポの先輩も、それに同調する。
 突如、声をかけられておどろいたものの、茂みの中から姿を見せたのが、たったの一人……しかも少女であることに、三人組は拍子抜けしている様子だ。
 そんな平凡な反応には構わず、トレスはぐったりとしている少女を観察する。
 胸が上下しているので、生きてはいるようだ。
「そいつを離せってんだよ、ゲスがっ!……ってのが用だけど、でもま、あんた達みたいなのがいて、ちょっと安心したな」
 トレスは周囲を観察することをおこたらず、軽口をたたく。
 相手は三人。
 体格は違うが、みな一様に、褐色の肌をしている。
 白い肌のトレスとも、黄色がかった肌の黒髪の少女とも、異なる特徴をもった人間だ。
 少女を羽交締めにしてるのは、デブ。力はあっても、ノロマそう。
 コイツは戦力外だ。
「……何が安心、なのかね」
 ノッポの先輩が代表で喋る。
 突然の乱入者にも、冷静に対処できるようだ。
 こいつが、頭目か?武器はもってないようだが……
 チビは、手にもつ短剣を構えながら、じっとこちらをうかがっている。
 とりあえず、一番の脅威はこいつの短剣だな。
 そう思いつつ、トレスはいう。
「なにしろ、天下のオルテンシアだ。ガリ勉ばっかで退屈すんじゃないかと思ってたけど……」
 いいながら、手に持つ木の枝を中段に構えた。
「……退屈するヒマ、なさそうだねっ!」
 そう叫びおわる前に、突進する。
 咄嗟に対応できない、三人。
 楽勝。
 まず、チビの前に出たトレスは間髪いれず、脳天に木の枝を打ち込む。
 ばしりといい音を立てて、一撃が決まる。
 チビはナイフを放して、真後ろに転倒した。
 地面は土だから、死にはしない。
 そのまま、枝を真横にびしりと突きだして、ノッポの顔面で止める。
「そいつを放せと、いったろう?……先輩」
 トレスの声に怒気はなかったが、その実力がノッポを凍りつかせた。
 ノッポの全身から、冷や汗が流れる。
 たかが、木の枝を向けられたぐらいで動けないとは、とんだ臆病者だ。
 トレスはその顔を睨みつけながら、足もとに転がった短剣を蹴り飛ばす。
 短剣は、茂みの向こうに飛んで消える。
「こちらに、にも、ひ、人……」
 かろうじて、反論を試みたようとしたノッポだが、トレスは皆までいわせない。
「まだ、そいつを人質にしようってんなら、あんたもそこのチビみたいに地べたに転がることになるよっ!」
 それから、ちらりとデブを見る。
「そこの、あんたもだ。変な気を起こすようなら、容赦しない。ま、それでもよければ、相手するけど……やるかい?」
「オイラ、オ、オイラ……」
 デブは、どうしたらいいものか、判断ができないらしく、オロオロしながらノッポの表情をうかがう。
 ノッポは仕方ない、という表情であごをしゃくる。
 デブは少女を解放し、トレスのほうに突き飛ばす。
 トレスは左腕で少女を受け止める。
 無論、警戒はゆるめない。
 黒髪の少女はトレスよりも背丈が一回り小さく、華奢で軽かった。
「!……」
 そこでトレスは急に、振り返る。
 背後に、圧迫感を感じたような気がしたのだ。
 だが、誰もいない。
 最初に倒したチビに、視線をむける。

 チビは、最初の場所を動かず、ぐったりとしていた。

 二人に気を取られ、しばらく、このチビのことを忘れていた。もし、チビが意識を失わず、トレスの背後に回っていたら……
 伏兵どころか、いまこの場にいる敵も把握できないようでは、まだまだだな。
 トレスはそう、自省した。
「あー、アンタ達にはもう、用はないから……ほらっ、さっさと失せな!」
 なるべく、その動揺を悟られないようにしながら、トレスは叫んだ。
 その声に弾かれたように、ノッポとデブはチビを引きずってその場を離れる。
 捨て台詞を残していく余裕も、ないようだ。
「ぐげほ、げほっ」
 少女がむせたような、咳をする。
 どうやら、意識を取り戻したようだ。
「大丈夫かい?……しゃきっとしなよ」
 そういいながら、背中を叩いてやる。なんとか、一人で立てるようだ。
 少女は見事な黒髪を結い上げ、かんざしを刺している。髪は、頭部で複雑に結っているため、頭の体積が異様に大きい。構造はよくわからないが、この国ではよく目にする髪型だ。
 瞳は紫、黄色い肌。白雲の刺繍が入った青い着物に、紺色の帯を締め、草履をはいている。いかにも良家の令嬢、といった感じ。
 対するトレスは、背中まである紫銀[しぎん]の髪、緑の瞳に白い肌。金糸の刺繍の入った真紅の着物と、茶色の短袴に革靴をはいている。
 服装自体はそれほど奇異ではないが、少女にしてはがっしりした体格が、彼女を凡百な女学生とは異なる印象を与えている。
「あな、あなたが助けてくださったの?」
 黒髪の少女が声をだす。
 もっとか弱い声かと思ったが、案外しっかりしている。
「そうだけど……」
 何か、違和感を感じながらもトレスはうなずく。
「そう、それはどうも、ありがとう。感謝するわ……」
 まだなにか言いたそうだったので、トレスは少女の言葉を待った。
 その妙に落ち着いた態度に、少女は眉をわずかにつり上げる。
「……でも、なんで助けを呼ばなかったの?あなた一人で手に負える相手とは限らないでしょう!男三人を退けるのは、たいした手腕だけど、蛮勇を誇るような真似は感心できないわね。そんな無茶してると、いつか命をおとすわよっ!」
 言うだけいうと、少女はトレスの手を突き放し、一人で立った。
 トレスは呆気にとられる。
 少女の言葉に反感をもつよりもむしろ、清楚な容姿の少女の口から、こんな激しい言葉が放たれたことに、面食らった。
「そいつは、悪かったね。あたしって、あんまり後先考えないで動いちまうからさ、そーゆー計算って、得意じゃないんだ。あんたが襲われてるのに気づいて、ともかく、助けようと思ってさ……」
「なんで、あなたが謝るの?」
 ふいに、こんどは少女が面食らった顔でたずねた。
「なんでって……?」
 そういわれても、トレスには返す言葉がない。
「だってあなたは、わたしを助けてくれたんでしょ。蛮勇でもなんでも、結果的にわたしの安全を確保してくれたんだから、その点を主張して、わたしの無礼な態度を非難してもいいはずよ。なのに、なんであなたが謝罪するわけ?」
 言ってることは、いちいちもっともな気もするが、正直、トレスにはそこまで頭が回らない。
「いや……その……」
「髪の色からすると、あなた伝紗[ディンシャ]族でしょ……水叢の人じゃないの?」
 水叢というのは、この国の名前、水叢[ミナムラ]国の人間か?という意味だろう……それは違う。伝紗[ディンシャ]族というのは確か……何だったか、聞いたことがあるが思い出せない。
「ま、何ていうか……」
「じゃ、わたしが西振[セイシン]族だから、宝蓮[フォリア]族の連中に私刑[リンチ]されかかったっていう、経緯はわかる?」
 いうだけいうと、少女は黙ってしまった。
 今度は、トレスが答える番、というわけか。
 トレスはゆっくりと、考えをまとめながら話しはじめた。
「……そういう細かい事情は、わからない。あたし、この国の人間じゃないから……お袋が水叢人だから、この国の人と見た目が似てるかもしれないけど……三日前に船で那水に来たばっかだし、この国のことはよく知らない。大學ってところに入ったのはいいけど、これからどうしたらいいかいいかも、よくわからないんだ。セイシンだの、フォリアだのっても、聞いた気はするけど、わからない……明日から住む場所も決まってないから、さっきまで、途方に暮れてたんだ。知り合いもいないし、どうしようかと思ってたら、あんたが襲われてて、細かいこと考えてるより、体を動かす方が得意だから……つい、後先考えずに飛び出しちゃって……軽率だっていわれれば、その通りだと思うから、謝ったわけで……その……」
「もういいわ……」
 少女は、トレスの言葉を遮って言う。
「どうやら、議論するだけ無駄みたいね……あなた、善人みたいだし」
「いや……」
 トレスには、どう返答したらいいかわからない。
 だが、人を善人というわりに、少女の言葉はどこか馬鹿にするような響きがある。
 善人で悪いか?
 そんなトレスの思いをよそに、少女は言葉をつづける。
「それはいいとして……自己紹介がまだだったわね。わたしはの名は、ジャンヌ……」
 そう言いかけて、黒髪の少女はだまりこんでしまう。
 うつむいて、なにやら考え込んでいる様子。
 どうした?
 そう声をかけるのも、何やらはばかられたので、黙って待つ。
 それにしても、ジャンヌですかい……
 トレスは、彼女がジャンヌと名乗っただけでも、少し驚いている。
 いや別に、名前自体が特に変わっているわけではない。
 むしろ、トレスがいた国では、よくある名前だ。
 ただ、彼女の感覚からいえば、ジャンヌという名前から想像する容姿は、金髪に青い目、白い肌の女、といったところ。
 だが目の前の少女のは、黒髪を結い、頭にかんざしを刺し、青い着物を着て、紫の目に黄色い肌をしている。
 まあ、この国ではそういうものなのかもしれないが、ちょっと変な感じだな。
 などと、考えているうちに、ジャンヌと名乗った少女は、視線を上げる。
 どこか緊張した、表情。
 ジャンヌはいう。
「ごめんなさい、もう一度いうわ……わたしの名は、慈恵院[ジャンヌ]西振[セイシン]宝蓮水叢[フォリアミナムラ]。この水叢[ミナムラ]国の、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]朝第四王女よ」
 しばしの静寂のあと、トレスは言葉を返した。
「……あたしは、トレス。トレスティ=アフタヌーン。トレスって呼んで」
 黒髪のジャンヌは、またもや怪訝な表情をしている。
「……それはいいけど、トレス……わたしの言ったこと、理解してるのかしら?」
 その言葉にトレスはきょとん、とした。
水叢[ミナムラ]国の第四王女だってんでしょ……それって、すごいの?」
 ジャンヌは、額に手を当てて考え込んでしまう。
「いえ……たしかに王位継承権はなきにひとしいし、見た目が西振[セイシン]族だし、王宮では厄介者だったし……微妙なところね」
「よくわからないけど、はじめて会った人にいきなり、わたしは王族だって言うのは、どうなんだろ?あんたも、ちょっと軽率じゃないか?」
 ここぞとばかり、ツッコむトレス。
 ジャンヌは一瞬、顔を赤くしたものの、すぐさまトレスをキッと睨む。
「ちょっと、トレス!わたしだって、それぐらい考えてるし、ジャンヌ=アブリルって偽名も考えてあったけど、あなたが馬鹿正直な田舎娘に見えたから、正直に本名を教えたってのに、その言いぐさは何よ!失敬じゃないっ!」
「……いや、ゴメ……じゃなくてジャンヌ、あんたこそ、人が黙って聞いてりゃ好き放題言ってくれちゃって、王女がなんだってのさっ!学校でそんな肩書きに、何の意味があるっての?」
「意味なんて、あるわけないじゃない!わたしが誰から生まれようと、私はわたし。他の誰でもないわ!でも、周りの連中は、そうは見てくれないし、それが嫌だからここへ来たのよ!なんか、文句ある!?」
「ないわよ!それで、いいじゃない!」
「ああそう、そりゃどーもっ!」
 ぜーはーぜーはー。
 息を荒げる二人。

「ン、ホンッ……君たち、何をしとるんだね?」

 そこへ、騒ぎを聞きつけてやってきた、大學関係者らしい老人が顔をだす。
『何でもありませんっ!』
 老人を睨みながらの二人の叫びが、見事にハモる。
 呆気にとられる、老人。
 それが、トレスとジャンヌ、二人の少女の出会いだった。 

二景

 学校関係者らしい老人を適当にあしらい、二人は紫陽花[オルテンシア]大學内にある茶店「式部[しきぶ]」にいる。
 空席が目立つ店の、奥まった場所に陣取った二人は、黒ずんだ机を挟んで座っていた。
 店のすぐ脇から小川のせせらぎが聞こえ、かつ他の席と離れたこの場所は、密談をするのにうってつけである。
 昼食をとったばかりの二人は、おやつには少し早いが、お茶と茶菓子を注文していた。
 黒髪を結い、かんざしを刺した、青い着物のジャンヌは問う。
「それで……トレス、あなたさっき、明日から住む場所が決まってないって言ってたけど?」
 緑茶をすすりながら、赤い着物に紫銀[しぎん]の髪のトレスが返答した。
「ずずず……うん、あたし、ここへは一人でここに来てるから、住む場所をさがさないといけないんだけどさ……ここの港へ来たのが三日前で、その日は入国手続きやら、荷物の受け取りとかでつぶれてさ、次の日はこの大學へ来て入学手続きでしょ……締め切りすぎてたけど、紹介状があったから、なんとかなったんだ」
「それで?……ずずっ」
「ずずずず……んで、入学はなんとか認めてもらったけどさ、普通なら入れる学生寮が満杯で……ま、ギリギリ入学を認めてもらったから、強くは言えないんだけど、それで、昨日は街に出て、どっか住まわせてくれる場所を探したんだ……」
「ま、無理でしょうね……ずずず」
 即答する、ジャンヌ。
 トレスは、少しムッとしながらも言葉を続ける。
「そうだよ……入学時期は、どこも満員で今さら部屋を貸してくれるような所はないっていうんだ。さっき、入学式が終わったあとも、学生課に掛け合ったんだけど、ダメで……どうしようかと思ってたら、ジャンヌが襲われててさ……」
 ジャンヌはお茶をずずずと飲み干して、湯飲みをとんと机に置いてから、言う。
「わたしとしては、そのお陰で命拾いしたわけで、その点は感謝してる。そのことは理解してほしいんだけど……でもトレス、それじゃ住む所が見つからなくて、当然よ」
 ジャンヌが一呼吸入れた間合いを計ったように、茶店のオババが二人の注文した茶菓子をもってくる。
 トレスは、紅白のくし団子が四本、ジャンヌは黒蜜のたっぷりかかった葛切り。
 この国、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]国の第四王女と名乗るジャンヌは、王女の割には慣れた手つきで、葛切りをつるりと食べながら、言葉を継ぐ。
「ん……おいしい。で……なんだったかしら?」
「住む場所が、見つからないって話……」
 不機嫌そうに、団子をほおばるトレス。
「……そうそう。この時期ってのは、猫も杓子も学校に入る時期でさ、学校も試験とかせずに、どんどん入学させるものだから、一時的に満杯状態になってしまうのよ。一月か、二月すれば、かなり空きが出るでしょうから、それまで待ってれば……ううん、先に目星をつけといて、空き待ちしてれば、すぐに部屋は見つかると思うわ」
「そんなもん、かな?」
 いまいち、得心がいかない様子のトレス。
「焦らず気長に待ってれば、どうにかなるわよ……その程度のことならね……」
 なにやら、含みのある言い方をする、ジャンヌ。
 それに気づいたトレスは、素直に聞いてみる。
「どういうこと?」
「……それはともかくさ、トレス」
 ジャンヌは少し身を乗り出して、トレスの目を正面から見る。
「な、なに?」
「あなた、わたしに雇われる気ない?」
 その言葉の意味が、トレスに理解できるまで、ジャンヌは辛抱強く待っていた。
「……え、えっ?どゆこと?」
 それでもトレスには、ジャンヌの意図が理解できない。
「……だからっ、あなた、わたしの、護衛役になってくれないか?って、提案してるの……どう?……受ける?受けない?」
「どう?って……なんでそんなこと……!……まさか、また、さっきみたいに狙われるかもしれないから?」
 当然、といいたげに頷くジャンヌ。
「そうよっ……ここに来て狙われたのは、あれが初めてだけど、今後も同じことが起こらない、なんて楽観的に考えるほうが、どうかしてるわ……むしろ、また同じことが起こる可能性のほうが高い、と見るべきでしょうね……あ、お茶のお代わりもらえる?」
 ジャンヌの言葉に、茶店のオババが、大きな土瓶をもってあらわれ、手際よく空になった湯飲みにお茶を注ぐ。
 あわててトレスも湯飲みを空けると、オババに注いでもらった。
 オババが去るのを、しばし待つ。
「ずずずっあちっ……じゃなに?あたしを用心棒に雇おうっていうの?……なんでさ?……この国のお姫様なら、そんな連中をどうこうするなんて、簡単じゃないのか?」
 トレスは熱い緑茶で、ひりひりする舌を気にしながら、反論する。
 対するジャンヌは、慣れた手つきで熱くなった湯飲みを指先で支え、少しずつすすった。
「ふぅ〜……ずっずっずっ……そりゃ、それくらい出来るだろうけど……そういうのは、趣味じゃない……わたしは、自分が努力して手に入れたわけでもない権威や権力を振りかざすのはイヤだし……それでわたしは、この大學に来たんだもの……だから、この大學で知り合ったあなたを、警護役として雇いたいのっ」
 ジャンヌの言葉は素っ気なかったが、トレスには彼女が軽い気持ちで言っているのではないと感じられた。だから聞いてみる。
「ずっずっずずず……わかった……で、報酬はなに?」
「ずずっ……お金払うってのが筋だろうけど……それじゃ、わたし自身のモノじゃないしね……何が欲しい?」
「何って……そりゃ……いや、それよりジャンヌ、そんな大役、本当にあたしでいいの?……それにあたし、まだ人を斬ったこと、ないんだけど?」
 その言葉に、無表情にお茶をすする、ジャンヌ。
「さぁ……わたし、意識が朦朧としてたから、あなたが戦ってるところもよく見てないし、正直あなたがどの程度、強いのかもわからないわ」
「だったら……」
「でも……強くなりたいんでしょ?」
「えっ……?」
 いきなり確信をつかれて、トレスは狼狽する。
「どうなの?」
「ま、まあね……」
「たとえ今はたいしたことなくても、これから頂点、目指そうって腹なんでしょ?」
「そうだけど……なんで、わかるの?」
 ジャンヌは口元をほころばせて、いう。
「わたしも同じだから……剣の道じゃなくて、政治的な面で、だけどね……お仕着せの王女じゃなくて、本当に自分の力で国を動かせる人間になるのが、わたしの目標なの。トレスは多分、剣の道でそれを極めたいんだろうから、わたしとは利害がぶつかることはないと思うの……だから、手を組めないかなって、思ったのよ」
 トレスはジャンヌの言葉を、なかば呆然としながら聞いた。
 わずかな時間で彼女は、トレスの意図するところを、正確に推論しているようだ。
 政治的にどうのという話も、まんざらハッタリではない気がする。
 だから、トレスは真面目に答えた。
「あたし……今まで剣の道を極めたいってことを、本気で理解してくれた人なんていなかった。みんなに、そこらの三文武勇伝にかぶれただけだろって言われてて、それが悔しかった。だから、ジャンヌがそう言ってくれて、とても嬉しい」
 心なしか、ジャンヌの頬が赤くなった気がした。
 だが、彼女の口から出た言葉は、どこか冷めている。
「そう……わたしも嬉しいわ。じゃ、契約の方向でいいわね……で、報酬のことなんだけどさ、トレス。あなた、部屋がなくて困ってたのよね……だったら、どうかしら?……わたしの部屋に、一緒に住まない?わたしの部屋って、無駄に広いからさ、もう一人ぐらい住む余裕、あるんだけどな?」
 ジャンヌの提案に、トレスは身をのりだす。
「本当?……ほんとに、住まわせてくれるの?」
「もちろんっ……家賃は報酬として、わたしが負担するわ」
「……うーん?」
「なにか不満でも?」
「いや……不満、てゆうか……さっきの話だと、しばらく待てば、住む場所はみつかるわけでしょ?……だったら、部屋代だけで、あんたの護衛をするってのは……ちょっと、対等じゃない気がしたから……」
 トレスの言葉に、ほほうという表情のジャンヌ。
「ふっふっふ……このわたしに交渉を挑んでくるとは、いい度胸ね……いいわ、応じてあげる……じゃあトレス、ちょっと考えてみて……なんで今、那水の街の宿泊施設が満杯で、しばらくすると空きができるか、わかる?」
「……わからない、なんで?」
「この国の大學って所は、所定の金額を納めれば、誰でも入れるの……それも、格安でね……でも、入れたからといって、卒業できるとは限らない……」
「……」
「……なぜかといえば、大學で、一定の成績を上げられない生徒は、成績不良で退学させられてしまうの……わかる?……今は入学したての人が多いから、街は満杯だけど、やがて、勉強に追いつけない生徒がやめてしまうから、空きが出るのよ」
「だから……?」
「……わからないの?わたしたちが入学した、紫陽花[オルテンシア]大學は、水叢王国一の文化都市として名高いこの那水の地でも、最難関といわれる大學なのよ。統計的にいえば、入学した生徒のうち、卒業できるのは二割ぐらいなのよ……あなた、この国のこともよく知らないみたいだけど、それで卒業できるつもりなの?」
 トレスには、ようやくジャンヌの言わんとすることが、理解できてきた。
 つまり問題なのは、住む場所ではなく、大學の勉強に追いつけるのか?と言いたいのである。
「そりゃ、やってみなくちゃわからないだろ?」
「でもあなたは本当は、剣客として一流になりたいんでしょ?……けど、大學も卒業しなくちゃいけない……ちがう?」
「……ああ、そうだよ」
 トレスはだんだん、ジャンヌに心を見透かされるのに慣れてきた。
 それくらい、彼女にとっては造作もないのだろう。
「いくら、この大學を卒業できても、剣客として大成できなければ意味がない。ってことは、剣と勉強を両立させなくちゃいけない……普通ならこれは、はっきりいって無謀ね。トレスが百年に一人の才媛ならいざしらず、無知な田舎娘の分際で、そんなこと出来るわけがない……一月もしないうちに、退学させられるのがオチね」
 ぶしつけなジャンヌの言いぐさに、カチンときたトレスだったが、ちょっと考えて心をしずめる。そして聞いた。
「で?……その、田舎娘が大學を卒業するには、どうすればいいわけ?」
 ジャンヌは感心したように、いう。
「あら、わたしの皮肉に腹を立てないなんて、大したものだわ……王宮の無能連中に、あなたの爪の垢でも、下賜すべきかしらねぇ……」
「……いや……あんたの悪口に対抗しようがないから、気にしないようにしただけだよ」
「ふっ……田舎娘でもできる割り切りが出来ない連中って……ほんと、救いようがないわ……あっゴメンなさい……話をもどすけど……」
 そういいながら、冷えかかった緑茶を飲む。
「……んっ、ぷはっ。でさ、忌憚ない条件を提示させてもらえば、トレスはわたしを、剣の力で守る……で、わたしはトレスに部屋を提供する……さらに……」
「さらに?」
「……さらに、あなたの勉強を見てあげる。それで、何としてもこの大學を卒業させてあげるわ……もちろん、あなたに勉強する意欲があれば、の話だけどね。不正な手段で卒業させる、なんてことはしないから、そういことは期待しないでよ」
 トレスは意表をつかれた。一国の王女が、こともあろうに田舎娘と馬鹿にする少女の、勉強を見てやろうと提案しているのである。トレスの常識から考えても、王族がそんなことをするのは非常識に思えた。
「でも、それは……」
 とまどうトレスを不満げに見やる、ジャンヌ。
「あら、なに?わたしの学力を信用してないの?これでも、勉強には自信があるのよ……田舎娘の一人や二人、卒業させるなんて、どーってことないわっ」
「いや、そうじゃなくてさ、ジャンヌ……その、気するだろうからハッキリいうけど……ふつう、王族はそういうことって、しないと思ってさ……なんか、変じゃない?」
 トレスの率直な感想にも、ジャンヌは動じない。
「でしょうね……確かに、どこの世界の常識から考えても変な提案かもしれないけれど、このわたしがそうしたい思うことを、したいと思う通りに提案したまでよ……わたし自身の力で、あなたの能力に見合う条件を提示したつもりだけど、どうかしら?」
 トレスはしばらく考えたが、拒否する理由がなかったので、うなずく。
「わかった……その条件で、ジャンヌの護衛を引き受けるよ」
 快諾の言葉に、ジャンヌはにっこりと笑う。
 小ぶりな瓜実顔[うりざねがお]の少女が見せる、たおやかな笑顔は、たしかに王族の気品を感じさせた。
「ありがとう……本当はわたし、王宮では変人扱いされてたの……王族にあるまじき、下品な物言いをするってね……周囲の人間は、面と向かっては、王女に対する礼節は守ってたけど、裏じゃかなり言われてたみたい……
 わたしに、面とむかって悪口を言うのは構わない……でも、影でこそこそ言われるのは大っ嫌いなの。だからトレス……今後も思ったことは、ハッキリ言ってちょうだい。
 わたしが間違ってると思ったら反省するし、あなたが勘違いしてると思ったら訂正するから……変に特別扱いするのだけは、やめてね」
「そんなつもりは毛頭ない……安心しな」
 当然といいたげに、トレスは即答する。
「結構っ!……そうこなくっちゃ面白くないわ……じゃ、契約成立ということで、これからよろしくねっ」
 ジャンヌはたおやかな笑みを消し、全身に自信をみなぎらせ、不敵に笑う。
 そのほうが、彼女らしいと思えた。
「こちらこそっ」
 トレスも同じく、不敵に笑い返す。
 軽い握手とともに、契約は成立した。
 ジャンヌが言葉を続ける。
「じゃ、そういうことでいいわね……とりあえず、手続きがあるから今すぐってわけにはいかないと思うけど、トレス……いまはどこで寝泊まりしてるの?」
「港の倉庫。そこにあたしの荷物を預けてあるから、そこに泊めてもらってる」
「けっこう遠いわね……そこからだと、半刻(一時間)はかかるか。もし今夜、なにかあったら困るから……そうね……じゃあ夕方、学生課へ行ってジャンヌ=アブリルの紹介だと言って、簡易宿泊所に泊めて欲しいって言ってみてくれる?話を通しておくから……」
「わかった……夕方だね」
「じゃ、わたし、手続きしとくから、とりあえず別れましょう」
「いいけど、ジャンヌ……そしたら、あんたが無防備にならないか?」
 その言葉に、ジャンヌは皮肉な表情を見せる。
「もし本気でわたしを殺したかったら、このお茶に毒でも入れるでしょ……たとえ、あなたが最強だとしても、わたし個人を害する手段はいくらでもあるわ……そんなの気にしてたら、殺される前に精神的に参ってしまう……
 まあ、あの連中は、わたしの正体なんか気づいてないみたいだから、とりあえず今日は安心とみていいと思うの……それに、この程度でどうにかなるようなら、所詮わたしもその程度の器だってことよ」
 そういって、わずかに湯飲みに残っていたお茶を飲み干した。
 トレスもあわてて、残ったお茶と団子を片づける。
「……ウチの茶に、毒なんぞ入ってないよ」
 ふいの声は、店の奥から。
 茶店のオババが、ジャンヌの言葉を聞きとがめたのだ。
 密談を聞かれたはずのジャンヌだが、とくに動揺したふうもない。
 それで問題があるなら、その時はその時、ということか?
「あら……例え話よ、お気にさわったのなら、謝るわ……それで、おばあさん。お勘定、お願いできるかしら?」
 作りものっぽい笑顔で、ジャンヌはオババを見た。
「……二人で、五百[セン]じゃ」
 ぶすっとした表情のままの、オババ。
 ジャンヌは財布をまさぐろうとするトレスを制し、ここは自分が払うという。
「はいっ、これでいいわね」
 ジャンヌは所定の金額を渡すと、じっとオババを見ていた。
「なんじゃ……いくら見ても負けんぞ」
「そう……じゃ、行っても……いいのね」
「用が済んだら、さっさと[]ね」
「はいはい、ごちそうさま。また来るわね」
「ごちそうさんっ」
「あいよ……また、ご贔屓に」
 やる気なさげな、オババの声を聞き流しながら、二人は茶店「式部[しきぶ]」を出た。

「……あれで、よかったのかしら?」
 しばらく歩いてから、ふいにジャンヌは聞いた。
「なにが?」
「何って……お勘定の仕方よ」
 トレスは眉をひそめる。
「んー、あんなもんじゃないの?この国の作法は知らないけどね」
「そう……なら、いいわ……」
 しばらく安堵の表情を見せてから、ジャンヌは言葉を続ける。
「……いえ、わたしね……お金を払って食事をしたの、これが初めてなの。学食は学費から天引きだからさ、今日までお金を使ったことがなかったのよ」
「そうなのか?」
 意外な告白。
 結構、慣れてるように見えたのだが。
「ええ……買い物もしたことないの。王宮を離れて一人で生活するのも、初めてだし……ちょっと、不安だった」
「まあ、お姫様なら、そんなもかもね……」
 のんびりと感想を述べるトレスに対し、ジャンヌがふいに慌てたように見えた。
「……じゃっ、トレス……そういうことでわたしは手続きしてくるから、あなたは夕方に……」
「わかってる。恩に着るよ、ジャンヌ」
「多分、明日は共通課の講義で一緒になるはずだから、その時に、ね」
「ああ、また明日」
 手早く挨拶をすませると、青い着物の少女は、校舎ほうへ早足で去っていった。

 その背中を見つめながら、トレスは思う。
 ジャンヌはジャンヌで、これからの生活に不安があったのか。
 トレスはなんとなく、彼女に親近感が沸いてくるのを感じていた。
 ただの、気の強いお姫様じゃない……ってわけか。
 それにしても……いくら、腹をくくっているとはいえ、いきなり一人で去っていくとは……
 よっぽどジャンヌについて行こうかとも思ってたのだが、提案するヒマがなかったし、そもそも必要がないといわれているので、どうしようもなかった。
 それに、なんで急に別れたのか……もうすこし、ゆっくり話しをしてもよかったんじゃ……
「ん?……あれ?……」
 トレスは、ふいにつぶやき……そして思う。
 ……まさかジャンヌの奴、うっかりあたしに弱味を見せたもんで、照れてるとか……
「いや……そんなわけ、ないよ……ねぇ」
 小走りに去ってゆくジャンヌの後ろ姿はもう、豆粒のように小さかった。

三景

 昨日、トレスとジャンヌの口論の場に、ひょっこり様子を見に現れた紫大総合課教授、ピエール=ジャスラックが、いまは階段式教室の底、教壇の上で、板書をまじえながら、弱々しげな声を上げている。
「ン、ホンッ……ということで、本校の講義はすべて、水叢[ミナムラ]国公用語である西濱語[セイハマご]を使用します。文字は西弐頭[サイニス]文字[もじ]という表意文字(作中では漢字と平仮名表記)……一般的に、本字[ホンジ]と呼称しますが……それと、渓声良[ケセラ]文字[もじ]という表音文字(作中では片仮名と英字表記)を併用します。
 ご自分の郷里の言葉をもっている生徒のかたも、講義の間は、なるべくこの言語を使うようにしてください。
 エー、一言、お断りしておきますが……水叢出身の方ならご存知のように、現在、宝蓮水叢[フォリアミナムラ][ちょう]の公文書は、すべて渓声良[ケセラ]文字で統一されております。
 ですが当、紫陽花[オルテンシア]大學をふくめ、水叢[ミナムラ]国の主要大學では、この表記法の改定を支持しておりません。
 真那砂[マナサ]半島では、古来より西濱[セイハマ]語の表記には、西弐頭[サイニス]文字を使用しており、また実際、本校も含め水叢[ミナムラ]国全土の文化施設が保有する書物の八割は、本字によって表記されています。
 公式の使用が禁止された本字ですが、この大學で学ぶ上では、本字の知識は必要不可欠であります。したがって、本校の講義では、本字表記を主体としつつ、渓声良[ケセラ]文字も補助的に使用しています。
 二種類の文字を併用するのは、留学生のかたには不便かもしれませんが、基本的に渓声良[ケセラ]文字は、本字を簡略化した表記ですので、本字をきちんと理解していればおのずと理解できると思います。基本は、あくまでも本字であることを、覚えておいてください。
 ン、ホンッ……それでは、本日の講義を始めたいと思います……今日はまず最初に、この水叢[ミナムラ]国のある、真那砂[マナサ]半島の概略を説明します」
 その発言に、それまでおとなしく聞いていた生徒たちから、困惑のどよめきがおこる。
 ピエール老教授は、生徒たちの反応に、もっともだといいたげにうなずく。
「……そうですね。ここにいる、多くの皆さんにとっては、その程度のことは、小學[しょうがく]向学舎[こうがくしゃ]で学んでいることだとおもいます……
 ですが、この中には、異国からの留学生のかたもいらっしゃいます。学力はあっても、水叢[ミナムラ]国に明るくないかたもいることでしょう。
 わたしは、そういった人たちにも、できるだけ多くの、学ぶ機会を与えたいとおもっております。初歩的なことでつまづくのは、不幸なことではありませんか?」
 老教授は、そこでいったん言葉を区切り、生徒達を見渡す。
「ですが、多くのみなさんにとっては退屈な授業になることもまた、事実……ですので、今日の授業は聞きたい人だけが残って下さい。
 あとの方は、教室を出てくださって結構です。出席を取った方は、みな受講あつかいにしますので……」

 老教授の意図が理解できると、多くの生徒達がぞろぞろと、教室を出始めた。
 席の中段のあたりにいたジャンヌは、左隣に座るトレスを見る。
 トレスの着衣は、赤い着物に茶色い短袴と、昨日とおなじ配色だったが、赤い生地がくすんでおり、金糸の刺繍が、黄色い糸で代用されるなど、ずっと簡素な造りのものになっていた。
 なんでも、昨日の着物は母親に譲ってもらった礼服で、普段はそれに似せたものを着ているのだとか。
 そういえば、背中に家紋のようなものがあった気がするが、いま着ている着物には見あたらなかった。
 どんな意匠の家紋だったか……よく覚えていない。
 長い紫銀[しぎん]の髪は、昨日とおなじく、無造作に下ろしている。
 やっぱり、髪は結わない方が楽だろうか?
 教室を見渡しても、女生徒の中で髪を結っているのは数人だけ。
 青い着物に黒髪を結ったジャンヌの姿は、目立つことはないにしろ、ちょっと上品すぎ。
 などと考えているうちに、満員だったはずの教室は閑散としはじめている。
 無論、トレスが席を立つわけはない。
 この大學で、彼女の学力に合わせてくれる講義は、これくらいのものだ。
 いま着席しているのは、本気で聞くつもりの生徒か、ほかの場所に移動するのがめんどくさい生徒だけになっている。
 前者がトレスで、後者がジャンヌ。
 教室内に静寂がもどると、ピエール教授は、背後の黒板に竿をつかって、掛軸状の地図を掛けた。
 地図は、人間の体でいうと、足の膝から先のような形をした半島と、北の大陸のごく一部を描いてある。

「ン、ホンッ……では、この地図に注目してください」
 ピエール老教授は、地図を掛けた竿をつかって、図の中央を指し示す。
「エー、わたしたちが現在いる場所は、ここ。真那砂[マナサ]半島中央部、首都、真那砂水叢[マナサミナムラ]のある、真那島[マナとう]をぐるりと囲む、真那湾の南部、能幕県[ノウマクけん]にある、三方を山で囲まれた自治都市、那水[ナスイ]であります」
 そういいながら、老講師は地図のかかっている黒板に、白墨で今いった単語を本字で書いていく。
 うーむ、基本だ。基本すぎて、ジャンヌには欠伸が出そう。
 隣のトレスは、自分が理解できる内容のためか、瞳を輝かせて板書を写している。
 使っているのは、自前で紙束を綴じたノートと鉛筆、あと字消し用のパンの欠片。これはさっき、ジャンヌがあげたものだ。あわや、トレスの胃袋に消える所だったが、無事、役目を果たしているようである。
 よしよし。
「そして現在、この真那砂[マナサ]半島全体を統治している国家が、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]王国[おうこく]であります」
「ン、ホンッ……現在は朝紀[ちょうき]八十年、通砂[つうさ]一五七六年、華九月[はなくがつ]始旬[しじゅん]央五日[なかいつか]。エー、時間は天六刻[てんろっこく](午前十時)すぎ、という所でしょうか?……聞きなれない方には、呪文のように聞こえるかもしれませんが、暦法もふくめ、順を追って説明します」

 そこで、老講師は一呼吸おく。
 しばし生徒たちを見回してから、講義を再開

 ピエール老教授の話は、それから固有王朝歴である朝紀と、統一王朝歴である通砂歴の関係からはじまり、一年が三百六十五日であることや、一年が一月三十日固定で十二ヶ月あることと、各月の名称。
 それと、端数の五日ぶんが愁節という年末連休になること。
 一月が三十日で、十日ごとに三旬にわかれていること。一旬十日の各旬日[じゅんじつ]の名称。
 そして時間。一日は十二に分けられており、その区切りを[こく]と呼ぶこと。
 長さ、面積、体積、重さの単位。
 金銭の単位や、簡単な物価の目安。
 老教授おすすめの、おいしい店。
 などなど、この国の知識階級にとっては当然すぎるが、異邦人にとっては目新しい知識を、かけ足ながら丁寧に教えていく。

 ジャンヌもその講義を、何とはなしに聞いていた。基本的な内容だが、さりげなく教授自身の主観的な見解が混ざっているあたり、さすがは言論の自由が保障された大學、といったところか。もっとも、その個人的な見解に、ジャンヌは必ずしも同意するわけではないが……
 しかし、超初心者向けの講義とはいえ、あなどれない……そう思ってから気づいたのだが、この講義、一見簡単そうな内容でありながら、よくよく聞いていると、国語力、計算力といった基本的な理解力を要求する内容だった。
 たしかに、この程度の常識も知らずに、天下の紫陽花[オルテンシア]大學に入ろう、などとというのは無謀かもしれないが、逆にこの講義の内容が理解できるだけの基礎学力があれば、ギリギリなんとかやって行ける……そう言いたいのかもしれない。
 いや、さらに深読みすれば、この必要以上に親切な講義は、留学生などが自分の学力のなさを「文化の違い」のせいにさせないための予防措置、とも思える。
 いまさらこの講義を受けておきながら、自己の学力の低さを「自分は水叢の人間ではないから」とは言い逃れできまい。そして、この講義を理解できなかったというのであれば、紫大に在学する資格なしと断言できるのではないか?
 少なくとも、ジャンヌが大學側の人間なら、成績不良の留学生を退学させるときに、この講義を受講したことを大義名分にできるだろう。
 もちろんジャンヌは、実際にこの講義の意図がなんであるかは知らない。
 彼女の推論通り、留学生への牽制なのか?そしてこれが、仮に留学生への牽制だとして、それは大學全体の意志なのか、あの老教授の独断なのか……ジャンヌには判断することはできない。

 こつ、こつ。 

 ジャンヌは肘のあたりを、なにかが突つくのを感じた。
 横を見ると、鉛筆を握ったトレスが、不思議そうな顔で見ている。
「……何、考えてんのさ?」
 なるべく小声になるよう、顔をよせて尋ねた。
「なんでいまさら、こんな基本的な講義をするのか考えてたのよ」
 おなじく、顔をよせて応じる、ジャンヌ。 
「なんでって……あたしみたいな田舎娘のためでしょ?」
「根に持ってたのね……いや、だからっ……なんで今更、あなたみたいな田舎娘に配慮する必要があるかってことを、考えてたのっ」
「あたしには、すっごく、助かるんですけど……」
「普通、大學ってのは、小學とか向学舎……幼年学校と、個人経営の塾のことだけど……を卒業した人間を対象にしてるから、この授業みたいな内容は、知ってて当然なの……たとえそれが留学生でも、本来なら知らないとマズいのよ。
 大學は、入学するのは簡単だけど、小學や向学舎みたいに、生徒の学力は考慮しないから、講義について行くだけで大変なはずなんだけど……それが、なんでまた、こんなお子様水準の講義をするのか、その意図を推論してたのよ」
「お子様で、わるかったねっ」
「なによっ、人が親切に説明してあげてるのにっ!」
「なにさっ!」

 ばし、ばし。
 竿が、黒板を叩く音。
「ン、ホンッ……」
 その独特の咳払いに、二人は同時に前を見る。
 静かな老教授の視線が、二人を見据えていた。
「そこの二人……私的な会話は、講義時間外にやりたまえ。自由な思想、言論は、大學の學是だからね……だが、いま講義中だ。これ以上、私語を続けるのであれば、退出を命令することになるが……かまわないかね?」
 ピエール教授の言葉は、あくまでも冷静であり、論理的だった。
 だが、その言葉に込められた教育者としての誇りは、二人の少女を精神的に威圧するに足るものだった。
 ジャンヌが起立する。
「……申し訳ありません、ピエール教授。以後、静粛に受講いたしますゆえ、どうか講義をお続け下さい……講義を妨害した件、大変、失礼いたしましたっ」
 そういって、深々と頭を下げる。
「すいませんっ……」
 トレスもあわてて、それに倣う。
 老教授はしばらく二人を見てから、言う。
「そうですか……ですが、本当に迷惑するのは私ではなく、他の生徒の方たちであることも、理解してください……諸君の、以後の協力に、期待しますよ」
 そういって、授業を再開する。

 ひーっ、危うし、あやうしっ。トレスは冷や汗をかきながら、着席した。
 先に着席したジャンヌは、引き締まった表情で老教授の講義に耳を傾けている……ように見えたのだが、おもむろに自分の紙に何かを書きつけると、視線を合わさず、トレスにわたす。
 そこには、見事な筆致の本字で、『以後、論争は筆談にて行う』と、書かれている。
 トレスはその紙に、本字まじりの下手くそな渓声良[ケセラ]文字で、『マダ 本字は ヨク ワカラナイ ノデ、ケセラ文字に シロ』と書く。
 ジャンヌの返事は、流麗な綴りの渓声良[ケセラ]文字で『バカヤロウ』だった。
 お姫様どころか、うら若き女性が使うとは思えない言葉づかいに絶句する、トレス。
 だいたい、そんな下品な言葉、どこで覚えたんだ?
 その前にあたし、ヤロウじゃないんですけどっ。
 言いたいことは色々あったが、また不毛な議論になりそうなので、とりあえず老教授の講義に集中する。
 ジャンヌもそれ以上、筆談を要求することはなかった。

「ン、ホンッ……では次に、真那砂[マナサ]半島の民族構成の話をします。エー……」

 老講師によれば、真那砂[マナサ]半島の主な民族は、三つ。人口の多い順に、西振[セイシン]族、伝紗[ディンシャ]族、宝蓮[フォリア]族の三つである。各民族の構成比は、六対二対一で、残りの一はその他の少数民族。
 真那砂[マナサ]半島の歴史は、この三つの民族の覇権争いであるともいえる。ちなみに現在の王朝、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]朝はその名の通り、宝蓮[フォリア]族によって建国された国家である。
 各民族には、それぞれ文化的な特徴がある。

 西振[セイシン]族はもっとも人口が多く、興した統一王朝の数も一番多い。文化、芸術面に優れ、多くの才能を輩出している。一般的に、真那砂[マナサ]半島人といえば、西振[セイシン]族のことを指す。
 矮躯、黄色の肌に、橙色の瞳、濃紺の直毛が、一般的な身体的特徴。

 伝紗[ディンシャ]族は、人口は西振[セイシン]族の三分の一ながら、西振[セイシン]族に次ぐ数の統一王朝を興しており、そのうちの一つは、半島史上、最長の統治期間を誇る。計算高く、商才に長け、真那砂[マナサ]半島の経済面を一手に担う。政治、経済の分野において、優れた人材を排出している。
 中背、白色の肌に、紫銀[しぎん]の髪、赤い瞳が、一般的な身体的特徴。

 宝蓮[フォリア]族は三大民族中、もっとも人口が少ないながら、八十年前に現、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]を興している。過去に宝蓮[フォリア]族が統一王朝を興したのは一度だけであり、しかもその統治年数は八年と、最短である。宝蓮[フォリア]族にとって、現王朝を長期間、存続させることは、民族的な至上命題なのである。全般的に体格がよく、真那砂[マナサ]半島の民族としては珍しく、戦士として優れる。武人、剣客として名のある者には、宝蓮[フォリア]族出身が多い。
 長身、褐色の肌に、蒼い瞳、ウェーブのかかった赤灰色の髪が、一般的な身体的特徴。

「ン、ホンッ……ここで重要なのは、通砂歴を通して、真那砂[マナサ]半島の文化を担うのは、常に西振[セイシン]族である、ということです。西振[セイシン]族の文化は、文学、芸術、芸能を問わず、他の民族にも多大な影響を与えております。
 真那砂[マナサ]半島を統治するということは、西振[セイシン]族の文化圏を政治的に支配しているだけにすぎません。半島内の民族にしろ、大陸からの外来民族にしろ、この定石を外した統治を行った国家……つまり、西振[セイシン]族の文化を否定し、独自の文化を強制しようとした王朝は、民衆からの支持を失い、滅亡しています。
 逆にいえば、西振[セイシン]族の文化を肯定し、保護するならば、半島を統治する者が誰であってもかまわない、ともいえます。
 現に真那砂[マナサ]半島は、何度も大陸国家の版図に組み込まれておりますが、西振[セイシン]族の文化的な自立を認めた王朝は、民衆に支持され、長期間の統治を実現しています」

 トレスは昨日、ジャンヌにあれこれいわれたことの意味が、すこしだけ理解できた気がする。
 宝蓮[フォリア]族の王宮で生まれたのだから、当然、ジャンヌは宝蓮[フォリア]族なのだろうが、外見的には、どう見ても西振[セイシン]族である。
 ジャンヌのような容姿の女性を、那水の街でも學内でも、たくさん見た。
 西振[セイシン]族の姿をした宝蓮[フォリア]族の王族が、王宮であまり歓迎されなかったであろうことは、トレスでも容易に想像できる。
 そして、正体をかくして大學に入っても、宝蓮[フォリア]族の連中──あの三人組の外見は、たしかに宝蓮[フォリア]族の特徴をもっていた──に西振[セイシン]族ふうである、という理由だけで私刑[リンチ]されかかる。
 トレスは思う。宝蓮[フォリア]族は、せっかく権力を握ったというのに、どうして西振[セイシン]族をいじめるのだろうか?
 せっかく、一番偉い立場に立ったのなら、もうすこし寛大な気持ちで統治すべきじゃないのか……などと、ガラにもないことを考えてしまう。
 いや、でも……ピエール教授の話では、西振[セイシン]族の文化を否定しては、真那砂[マナサ]半島を統治することはできないわけで、ということは、西振[セイシン]族そのものを排除することはできないわけで……あれ……じゃ、なんで宝蓮[フォリア]族は西振[セイシン]族をいじめるんだ?いくら嫌いでも、否定はできないハズなのに……
 なにやらトレスは、頭がこんがらがってきた。
 まあ、わからない問題はとりあえず保留して、授業に集中するか……
 トレスは横に座る、青い着物の少女をチラリと見てから、思考を切り替える。
 あとでゆっくり、ジャンヌに聞いてみよう。
 なにしろ今日から、宝蓮水叢[フォリアミナムラ]朝第四王女と同じ部屋になる……はずだから。

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