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S.S.Princess
── その二、まひるが人類の敵になった日 ──
★ Illustration Top:02 ★



 それは、王鳥[おうとり]すわんがオレンジ色の橋の上から身を投げる二ヶ月前。
 春、新学期のごたごたも、いくらか落ちつきを見せはじめた五月のある日。
 ここ、横浜市立烏鷺帆[うろほ]中学の体育館では、演劇部により、秋の公演を目指して『超級剣姫[ちょうきゅうけんき]』の舞台稽古が行われていた。

 超級幻我をふりかざし、すわん演じる超級剣姫は舞台の上で、大立ち回りをくりひろげている。
 対する敵は、背に百八本の真空管を生やした蜥蜴[トカゲ]弩霊土竜[ドレッドノート]。身の[たけ]五メートルの巨獣である。
 素子と基盤に埋めつくされた荒野に一人、[つち][かね]との相剋[そうこく]をもつ、狂える威容の精霊に、立ちむかうのは超級剣姫。
 この対決シーンが、劇のクライマックスとなる予定だった。

 千春御[ちはるお]ミキは、舞台の上でのすわんの立ち回りと、竜の体内にいる、演劇部員計八名による操演を、ちょっと圧倒され気味に眺めていた。

 公演まで間があることもあり、すわんは舞台衣装ではなく体操着で、竜の背中は百八の穴が開いているだけ。
 舞台には背景や効果音、その他一切の効果もない。
 聞こえる音は、舞台の外から鋭く飛ぶさまざまな指示や、ときおり発せられるすわんのかけ声、そしてすわんと竜が床をドタドタドターっと踏みならす音のみである。

 これだけ未完な舞台にもかかわらず、ミキの目にはその演技が間抜けに映ることはなかった。
 その理由が、すわんとすわん持つ剣が、えらくサマになっていることにあるのは明白だった。
 すわんが見映えのする少女であるのは当然だが、あの剣も異常によくできている。
 ミキがはじめて剣をもつすわんを見たときは、巨大なゴツい剣と、華奢[きゃしゃ]で優雅なすわんの姿が、やたらとちぐはぐに思えたものだ。
 しかし、いざ彼女が剣を手に、軽快な立ち回りを繰り広げるさまを見慣れていまうと、そのミスマッチが逆に、爽快に思えるようになっていた。

「ねえ君、時々見学してるよね」
 パイプ椅子にすわって舞台を眺めていたミキが、声のする方を見上げると、演劇部のスタッフの男子が立っている。
 この前から、ミキに視線を送っていたのは気づいていたが、ようやく声をかける決心がついたらしい。
「……二年の千春御です」
 おざなり気味に返事をする。
 三年生らしいその男子は、自己紹介を早々に切り上げて、ミキにあれこれ話しかけてくる。






「いやあ、君が王鳥君の友人だったとはね……水泳部での活躍は聞いているよ。いや、まったくたいしたものだ……しかも、王鳥君に負けない美人ときてる……今日は部活は休みかい?それで王鳥君の稽古を見学に来たんだね」
 ミキが何かいう前に、答えるべき言葉を全部いわれてしまったので、「そうです」とだけ答えて視線を再び舞台に戻す。

 ミキは男子を容姿で判断しようとは思わなかったので、ルックスにとやかくいうつもりはなかったが、こちらのことも考えずにズケズケ話しかけてくる人間に愛想よくするつもりもなかった。

 舞台では、いつのまにか超級剣姫と対峙している弩霊土竜[ドレッドノート]の首が落ちている。
「ああ、竜の首が落ちているのはね、別にミスってるわけじゃなくて、あーゆー演出なんだよ。本番では第二の首が生えてくる予定だけど、今の所あのまま、ってわけさ」
 その男子は聞いてもいないことをベラベラしゃべりたててくる。
「そもそも超級剣姫ってのはね、ウチの演劇部が二十年以上も上演を計画していた劇でね、いや僕の代で[]れるなんてラッキーだったよ」
「!……そんなに前から準備してたんですか?」
 それは初耳だったので、思わずミキは男子を見上げなおす。ミキの表情を見て、したり顔の男子。
「ああ、そうだよ。もともとは戦前に創られた劇の台本だったらしいけどね、戦災に遭って原稿は散逸[バラバラ]、それをある先輩が二十年前復元してね、それから歴代演劇部の先輩達が、コツコツと現代風に脚色して今日に至るってわけさ。ただね、復元したのはいいんだけど、仕掛けが大掛かりなものが必要でね、学生演劇には正直いって荷がおもかったんだよ。以前にも何度か上演する計画もあったし、実際上演もされているんだけどね、いっつも部分上演のみで我慢してたからね……ウチの部では、この劇の完全版を今世紀中に演るってのが、至上命題だったんだ」
「どーりで中学生の劇にしては、凝ってるなと思いました」
これは本音。
「よかったら、後でもっと詳しい話をしてあげようか?」
 そぉーら、来たきたと思いつつ、ミキはしばらく考えてから返事をした。
「あの、とっても興味あるんですけど、王鳥さんと一緒にかえる約束してるんで、彼女と一緒ならいーですよ」
 その言葉に、部員は見るからに狼狽する。
「あ……い、いや、そういうことなら、また次の機会にしよう……」
 舞台ではちょうど、弩霊土竜[ドレッドノート]が断末魔の咆哮を上げているような[ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ]動きを見せて、崩れ落ちる所だった。



 稽古を終えて、先輩から簡単なアドバイスを受けてから、すわんはミキの隣の席にもどって来た。
「すわ、お疲れー!」
ミキはすわんにスポーツタオルを渡す。
「さんきゅー、おミキ」
タオルで汗をぬぐいながら、すわんはミキに微笑む。
 それから、続けて渡されたスポーツドリンクを数口、流し込んだ。

 体操着姿の少女と、学生服姿の少女が、ならんで座り、会話を交わす。

「いやーまだ初めて一月だってのに、すわってばずいぶんサマになってるじゃないのっ」
「アリガト……でもこのていどじゃ、まだまだですって。もっと発汗をおさえないと、本番で化粧が溶けだして、オバケになるって」
 その言葉に、ミキは怪訝な顔をする。
「だってすわ、化粧なんかしないじゃない。ノーメイクでも、じゅーぶんイケてるわよ」
 そういいながら、ミキは隣に座る、すわんの腕とか腿とか頬、とにかく素肌をさらしている部分をぺちぺちさわってみる。
 いつもながら、すっぴんとは思えないほどきめ細やかでシミ一つない肌。唇のほんのりした色合いといい、色白の肌に透ける[あか]みのさした頬といい、ご丁寧にアイシャドウまで入った[まぶた]といい、これでパックもしたことないというのだから嫌になる。

「舞台で映えるには、普段はすっぴんで大丈夫でも、舞台用のメイクが必要なんですって……って、やりましたわねえー!」
 すわんも負けじとミキをさわり返す。
 すわんがミキにさわるのは、二の腕、おなか、背中と筋肉が発達している場所。
 水泳選手のホープとして期待を集めているミキは、日々過酷なトレーニングをこなしているだけあって、無駄な脂肪も筋肉もない。ただ水泳に必要な筋肉のみ発達している。
 特に背中の筋肉の盛り上がり方は顕著で、すわんはミキの背筋が、日々たくましくなるのを確認するのが習慣になっている。
 すわんから見ても、ミキの容姿が秀でているのはよくわかる。水泳選手特有の引き締まった逆三角形の体に小麦色の肌。黒さが目立つ大きな瞳に、意志の強さをしめす引き結ばれた唇と、笑うと見える純白の歯。ショートボブの茶色がかった髪に、はつらつとした表情。

 客観的に見て、すわんの外見的な美点の根本が、深窓の令嬢然とした近よりがたさなのに対し、ミキのそれは、若さあふれる健康的な親近感にあった。
 万事冷静かつ優雅に対処するすわんと、何でもあけっぴろげに軽くこなすミキ。ともに優れた容姿をもちながら、その性質は正反対。

 だが、内心の面白[オモロ]い思考で転げまわるすわんと、年齢以上に成熟した思考をするミキは、互いがどれほど違う生き物であるかということを思い知らされるのは、ずっと先の話である。



 舞台の周辺では後片づけが始まっており、裏方の演劇部員十数名がせわしなく動いている。
 部員に余裕があり、完全分業制の烏鷺[うろ]中演劇部では、役者であるすわんは後片づけを手伝う必要はない。むしろ、役者として演技に集中すべき人間が、演技以外のことに関わるのは禁止されている。
 それがここの方針なのだ、という話をミキがすわんから聞いていると、ちょっと間のびした声がした。
「王鳥、ちょっといいか?」
 すわんの剣を持ってやって来た長身の少年は、制服のYシャツの上に派手な刺繍のある麻のスモッグを羽織っている。
「なにかしら、谷々[たにや]君」
 そう答えるすわんのそばで、ミキは谷々という名字に、かすかに怪訝な顔をする。
「剣のメーターがグラグラしてるってとこ、直したから、ちょっと見てくれ」
 わかりましたわ、といったすわんは剣を受け取り、軽く振ってみる。
「よろしいんじゃないかしら」
 すわんは、にじみ出る優雅さで剣を返す。
「また具合の悪いことがあったら、いってくれ」
 それだけいって、立ち去ろうとする男子を、ミキが引きとめる。
「ねえ、すわ、そちらって……」
「谷々先輩の弟さんで、谷々鯖斗[たにやさばと]君。演劇部の小道具係をしてて、超級幻我[ちょうきゅうげんが]……この剣のことだけど、これを造った人よ」
 続けてすわんは鯖斗にむきなおり、ミキを紹介した。
 鯖斗はミキに軽い会釈をし、ミキもそれに倣う。
「あの、その剣、ちょっと見せてもらえません?壊したりしませんから……」
 そういわれた鯖斗は、だまってミキに剣を渡す。
「わ、軽いよコレ」
 恐るおそる剣を受け取ったミキは、それが予想以上に軽いのにびっくりした。
「でしょう?しかも軽い上に、丈夫にできてますのよ」
 なぜか得意げに説明するすわん。
 ためしにミキが軽く振ってみると、すっと振り下ろされた切っ先まで、すこしもがたつく所がない。
 遠目には、まるで本物の金属の剣のように見えたが、間近に見ても、やっぱり本物のように見える。手に取ってみて、はじめてそれが造り物とわかる、という出来だった。
「どうだ?」
鯖斗がミキに聞く。
 剣の造りをしげしげと眺めていたミキが顔を上げると、まっすぐな眼がミキを見据える。
「う、うん、すごいね」
 ミキは自分がちょっとドキドキしているのを感じた。
「……そう」
 精一杯ほめたつもりだが、なぜか鯖斗はムスッとしている。
 ミキはそれ以上、なにもいえなかった。

 再び剣を受け取った鯖斗は、少し離れた場所の小道具が並んだ一角にもどっていった。
 さっきミキに話しかけて来た三年の男子が、鯖斗に近づいて、なにやら難癖[なんくせ]をつけている。
 ミキはちょっと悪いことしたかな?と思ったが、鯖斗はあまり気にしている様子はない。

「あの変態美形の弟には見えないわね」
 ミキは小声で、すわんにささやいた。
「ちょっと変わってるけど、けっこう親切よ。先輩方も谷々君を認めてるから、小道具類は全部まかされてるの」
「でしょうねぇ……」。

 なぜ、今まで上演できなかた超級剣姫を、完全な形で上演しようということになったのか?超級剣姫のいわれを聞いていたミキには、それが引っかかっていた。
 たしかに、あれだけ動きの派手な劇を公演しようとすれば、相当、手間も費用もかかるだろう。そして、それが学生演劇のワクを越えてしまうという話も当然だと思う。

 []りたいけれど[]れない。

 烏鷺[うろ]中演劇部は、近隣でもレベルが高いことで知られている。ミキが去年の文化祭で観た『美女と野獣』も、アニメと同じくらい、よくできていた。
 ラストでヒロインの愛を勝ち取ったものの、期限切れで結局元の姿に戻れなかった野獣は、自分を野獣に変えた魔法使いに、真実の愛に目覚めたことで野獣だけ元の姿に戻してやるといわれる。
 だが元領主である野獣は、同じく姿を変えられていた使用人達を、自分のかわりに元に戻してもらうように願い出る。
 自分にはヒロインの愛だけで十分だと。その言葉を聞いたヒロインは、ますます野獣を愛するようになる。
 願いは聞きとどけられた。
 城のバルコニーでよりそうヒロインと野獣。
 それを温かく見守る使用人達。
 二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
 全体的には地味な劇だったが、ミキはこのラストをアニメより気に入っている。
 一緒に見たすわん──彼女が演劇部に入部したのは、二年になった今年の春から──が、かすかに眼をうるませていたのが印象的だった。

 レベルが高いからこそ、超級剣姫を上演することに思い入れが強いからこそ、下手なものは創りたくない。だから、今まで完全上演しなかったのではないだろうか?
 だが、すわんと鯖斗の才能と実力を目の当りにして、多少の無理をしてでも上演しようという気になったのではないか?
 はたで見ている彼女にも、演劇部全体にヤル気が満ちているのがわかる。その理由ががなんとなく実感できる気がした。
 これだけの劇を実現するには、すわんの演技だけでも、鯖斗の小道具だけでもだめだ。
 出来そこないの剣をすわんが持ってもさまにならないし、まるで本物のような剣を半端な役者が持っても、やはりさまにはならない。すわんの剣姫に鯖斗の剣。超級の才能が二つ合わさってこそ、超級剣姫に要求されるクオリティーが満たされるのではないか?

 そしてミキは知っている。本気でヤル気の人間に、本気のヤル気で応えようとするのがすわんの性分であることを。そのすわんが賞賛するからには、きっと、鯖斗もそうなのだろう。
 ミキはちょっと、うれしくなった。



「だーれーだっ?」
 すわんとミキが帰り支度をしていると、一人の少女がすわんの背後に近づいて、目隠しをした。
 横にいたミキが声を上げようとすると、少女は目隠しした手はそのままに、口だけすぼめてシーッとやった。
「誰もなにも……まひるでしょ」
 すわんは苦笑しながらも、そっと目隠しの手をどけて、うしろをむく。
 いるべき人間がいたことを確認して、それですまそうとしたすわんは、すこしだけ眉を動かす。
 まひると呼ばれた少女の頭部には、人間の耳とは別に、獣の耳──おそらくは猫の耳──が一対、生えていた。

「てへへへ。可愛い[かーいー]でしょ」
 王鳥すわんの妹である王鳥まひる一年が、後ろ手を組み、切れ長吊り目を細めてニカリと笑っている。ショートカットの髪の間から、ちょこんと猫耳が生えていた。
「まひるちゃん、その猫耳どうしたの?」
 虚をつかれて一瞬、言い淀んだすわんのかわりにミキが聞いた。
 まひるは、ミキにむきなおる。
「あっ、ちはるお姉ちゃん、こんにちわっ。えと、コレね、そこに置いてあったから、借りちゃったんだよ」
 そういって、カチューシャ状の猫耳をすぽっと外す。
「もう、まひるは子供なんだから……ちゃんともとの場所に戻しておきなさいよっ」
 お姉さんらしく、すわんはやんわりと注意した。
「はーい。わっかりましたっ」
まひるも、素直な返事を返す。
 それからトコトコと、体育館の隅まで走って行き、そこに放ってあった段ボール箱に猫耳を投げ入れる。
 それから、くるりとこちらをむく。
 髪を掻き上げて、乱れた髪を直してから、手でメガホンを作って叫ぶ。
「もーいーよーっ!」

「おっす!」

 直後、すわんの耳元で元気な少年の声がした。
 急に背後から声をかけられたすわんは、思わずびくっと体をふるわせてから、前方ダッシュをかけて、あやうく転びそうになる。
 転倒をさけ、なんとかしゃがみ込むだけでこらえたすわんは、おそるおそる背後の人物を見た。
 声をかけた方の少年は、[くせ]っ毛でスポーツ刈りの頭をぽりぽり掻きながら、あきれ気味にすわんを見ている。
「すわんさぁ……なーにもそこまでビビるこたぁ、ねーじゃんよ」
その言葉に、すわんはかすれた声で、
「からす……」と応えた。
 ミキも知っているその少年は、名を山際[やまぎわ]からすという。すわんとまひるの幼なじみで、ミキ達と同じ二年生である。
 サッカー部に在籍しており、すわんの話によると、小学校時代はガキ大将のような立場にあったらしい。
 見るからにガサツで気が強そうなタイプで、正直いってミキの好みではなかったが、人間的にはいい奴だと思う。
 まひるが烏鷺中に入学してからは、いつも一緒にいるので、二人はデキているともっぱらの噂だった。
 もっともミキからすれば、どちらかというと兄妹のように見えたが……

「ね、うまくいったでしょ、からすお兄ちゃん!」
 まひるは、してやったりという表情で戻ってくる。
「すわん、[ワリ]ィ……大丈夫か?」
からすはすわんに歩み寄り、手を差し出す。
 すわんは一瞬、その手を取ろうとするが、まひるの方をチラッと見て、あわてて手を引っ込めると、自分で立ち上がった。
「ええ……ちょっと、ビックリしちゃって」
 一見平静を取り戻したようだったが、ミキから見れば、すわんの動揺が尋常ではないのがわかる。
「ゴメンね、おねえちゃん。そんなにビックリすると思わなかったの」
まひるも事態が深刻であるのを感じとっているようだ。
「いいえ……まひるはちっとも、悪くないわ」

 その後、すわんはやさしい姉の表情にもどってまひると接し、からすと談笑していたが、ミキは彼女の顔から血の気が引いているのを見逃さなかった。



「ね、まひるちゃん。本当[ホンットー]に行くつもりなの?」
 まひるの答えが変わりそうもないと思いつつも、ミキは聞き返さずにはにられなかった。

 四人でしばし雑談をしてから、まひるは本題を切り出した。今夜、まひるが所属しているペットクラブで、猫の集会を観察する夜会が開かれるので、それに参加するというのだった。
 まひるは今日までそのことを忘れていたので、すわんから親に伝えてもらうために、ここへ来たというのだった。

「うん、行くつもりだけど……いっちゃダメ?」
 ミキの問いに、まひるは小首をかしげる。
「うーん、ダメとはいわないけど、やめたほーがいいんじゃないかなぁ?」
「なんで?まひるはいい子にしてるよ」
「うん、まひるちゃんはいい子よ。だけど……ううん、わかった。でも、気をつけてね。」
「はいっ、じゅーぶん、気をつけるね!」
 そういって、まひるが屈託なく微笑むのを見て、ミキは本当にいい子だなと思う。

 ミキはべつに、顧問の教師がついているとはいえ、若い女の子が夜中出歩くなんてケシカラン!……といいたいわけではない。
 彼女が気にしているのは、そんなことではなかった。

「んじゃ、お姉ちゃん。そーゆーことで遅くなるから、パパとママに心配しないでってゆっといてね!からすお兄ちゃんも、ちはるお姉ちゃんも、バイバイね」
 こうなっては、ミキも黙って見送るしかない。

 この春、市立鷺山[さぎやま]小学校を卒業し、市立烏鷺帆[うろほ]中学校に進学した王鳥まひるは、数あるクラブの中からペットクラブを選んだ。
 動物と接し、理解することで、より豊かな人間性を獲得しようという趣旨のこのクラブは、動物知識を深めるための勉強会を開いたり、時間のない近隣住民のペットを散歩させてやったり、獣医の仕事を見学したり、動物園の一日飼育係をやったりと、とにかく動物と接する活動を行っている。

 たしかにまひるは動物好きで、動物にも好かれるタチである。すわんとまひるが二人いると、動物は必ずまひるにすりよってくる。まひるがこの部を選ぶのは、もっともだと思う。

 だが、問題はペットクラブ自体ではない。ペットクラブを率いる、部長の谷々樺良が大いに問題なのだ。
 生徒総会で、誰かに虐待されたペットクラブのウサギのことを議題にするのはいいとしても、犯人を見つけ出してウサギと同じ目──耳をちょん切る──にあわせろと、いってみたり(あの目は絶対本気だ)、ことあるごとに、自分がいかに動物達を愛しているか、人間がいかに動物を虐げて文明を築いているかをビラでまいたり、校内放送でがなりたてたりしている。
 樺良様ラブラブの女生徒がいっていた「樺良先輩は、純粋なのよ」という言葉が、ミキは大嫌いだった。
 純粋ならば、人類をおざなりにしても、動物を大切にする人間がいいのか?自分たちの存在を、鼻紙のように握りつぶそうとする人間を崇拝できるのか?冗談じゃないっ。
 ミキには単に、危険思想者がたまたま美形だったから、それを都合よく解釈しているようにしか思えない。

 彼女をふくめ、樺良を疎ましく思っている生徒は多かったが、少数の樺良を支持する人間のパワーは熱狂的だった。
 反樺良的な発言をしただけで、リンチにあったという生徒のウワサは、つねづね学校中に流布している。
 ただし、樺良自身は批判的な人間を吊るし上げるようなマネはしない。
 人間など、はなから動物への愛を邪魔する目障りな石コロぐらいにしか思っていないのだから、いつか全人類を排除してやろうとは思っている──というか、日頃から公言している──だろうが、特定の個人に憎悪を燃やすことはない。

 ミキには、なんであんな奴が、デカい[ツラ]してのさばってられるのかが、疑問である。
 学校上層部にコネでもあるのか?直接、他人に危害を加えていないからなのか?……ともかく、学校側は関わりあいにならないことで、樺良を容認しているようだった。
 さすがに樺良が黒魔術に傾倒して、夜なよな黒ミサを開いているという噂は眉唾[マユツバ]だと思っていたが、人前では話せないようなヤバいことをやっているのは間違いないと思っている。

「千春御、オマエ心配しすぎじゃねえのか?」
 いつまでもまひるを心配しているミキに、からすがいった。
「そうですわ。まひるは動物が好きでペットクラブに入ったのだし、谷々先輩がどうであれ、先輩にまいってるわけではないようですし、それに……」
 すわんは途中までまひるを擁護する発言を続けていたが、最後の言葉をいう途中、からすをチラッと見て、そのまま黙り込んでしまった。

 まひるのことも心配だったが、ミキは最近のすわんの態度も気になっていた。
 その理由[わけ]を察することができないミキではないが、当のすわんがそのことを話そうとしないのでは、ミキにはどうしようもない。

 そもそも、一年生の時から超級剣姫役としてスカウトされていながら、興味がないと断っていたすわんが、からすの一言で、急にヤル気になったとき、ミキはその場にいたのだから……
『そんなにしつこく誘われてンなら、ちょっとやってみたらどうだ?』
 その、たった一言がすわんを動かしたのを見て、事情を把握できない人間──たとえば山際からす本人──が、どうかしてるのだ。

 ミキは、すわんが外見ほど成熟した精神の持ち主ではないことに気づいている。気づいているが、だからといって彼女を軽蔑しようとは思わない。
 ただ、彼女がこと恋愛に関することには壁を作りたがる態度に関しては、彼女の気持ちを理解しながらも、同時にチョット寂しいなと思っていた。

 ミキがそんなことを考えているそばで、結局まひるにおいてきぼりを食らった、からすがいう。
「すわんさあ、まひるも行っちまったことだし、タマには一緒に帰ろうぜ。最近、まひるがべったりしてたから、おまえと話してないしなぁ」
 いわれたすわんは瞬間的に頬を染めたものの、すぐに沈んだ表情になって、
「せ、せっかく誘ってくれて悪いのだけど、これからおミキと行かなければならない所がありますの。ね、そうよねおミキ……」
 急に話を振られたミキは、逆にすわんよりもあせってしまった。
「え?……えーと、その、別に急ぎの用事じゃないから、あっと、あたしは別に、どーでもいいよ」
「だ、そうよ。[わたくし]、約束は先にしたほうを守ることにしてますの。ですからまた、次の機会にということにしない?」
「そっか……ま、いいけどよ。じゃ、オレもう帰るわ」

 そういって、からすは帰って行った。
 前にもこういうことがあったので、ミキもすわんにとやかくいわなかった。

 からすが見えなくなったのと同時に、ミキは軽くため息をつく。
 それからふと、こちらにむけられた視線に気づいた。
 ミキが気づいた視線の主は、谷々鯖斗のものだった。
 一瞬それが、自分にむけられたものではないかと思い、ミキはドキッとしたが、よくよく見ると、どうも違うようだ。兄をあれほど嫌悪しているにもかかわらず、弟には好感をもっているのは、自分でも変だなと思ったが、とりあえず気になるのは視線の先の人物。
 日頃から、その種の視線にさらされることが多いミキは、それが意味するところを敏感に察知した。
「はは〜ん」
ミキは意識的につぶやく。
「おミキ、どうかしましたの?」
 すわんはこの種のことには、まったく気が回らない。
 ミキの妙な反応を、怪訝そうに見ている。

 あの無神経さで、何人の男子が歯がゆい思いをしていることか。
 しかし、なにやらすわんも複雑な人間関係の渦中にあるようだった。ミキは、自分もその中に参戦すべきか、それとも単なる傍観者に撤するか、いささか決めかねて、もう一度深いため息をついた。



 猫の集会の観察は、校舎の裏庭で行われた。
 壊れた椅子や机、教材などの廃材の山があり、そこを近所の猫達が集会場として使っているのだ。
 この集会は比較的早い時間に行われるため、さほど遅くまでかからず、観察会は午前零時前に終了した、その帰りぎわ。

 昼間とはまた違った猫達の生態を観察できて、王鳥まひるは大満足だった。
「家猫ちゃんも、こーゆー場所では野良猫ちゃんといっしょになって遊んだり、喧嘩[ケンカ]したりするんだぁ」
 人間に飼い慣らされているとはいっても、動物であることに変わりはない。野性をむき出しにする首輪をした猫達の活発な動きを見ると、まひるはあらためてそれを実感する。
「欲望に忠実なのは、なにも人間の専門じゃないからな」
 観察用の機材を片付けながら、まひるの感想にそう答えたのは、ペットクラブ部長の谷々樺良三年である。
「樺良部長……それって、どゆことですかぁ?」
 片付けを手伝いながら、無邪気にそう問うまひるに、端正な顔立ちの少年は話を続ける。
「もともと動物というのは、自分の都合で勝手に生きている。その勝手がほかの動物とうまく折り合いがつく関係になっているから、生態系のバランスが取れている」
「他の生き物のことは考えてないんですかぁ?」
「まあ、そうだな。基本的に、生物は自分の種族、自分の家族、ひいては自分自身の利益のためのみに生命活動を行っている。もちろん、あまり一つの種族が無茶なことをすれば、自然淘汰によって個体数が調整されるがね」
「でも、自分の体を子供に食べさせちゃうクモの話を聞いたことがあるけどな」
「よく、勉強してるね……これは、解釈の問題かもしれんが、自分の体を食べさせて、子孫を残すことが食べられる親グモ自身の利益になる、ということではないかな?種族の繁栄、自分の子孫の繁栄のために自己を犠牲にすることは、利己的な……自分のための行動といえるのではないかな?」
「ふーん。まひるは、自分が自然の一部だってことを忘れて、好き勝手に生きているのは人間だけだって思ってたけどな……」
「そして、その一方で人間共は、動物を野蛮な存在と考え、自分とは異なる存在だと思い込もうとしている」
「あっ、そーゆートコロもあるね」
「結局の所、動物が純粋で誠実な存在と考えるのも、動物を野蛮な存在と考えるのも、人間共が動物を自分達と違う存在だと思い込んでるからなのさ。仲間同士で殺し合ったり、メスを横からかっさらうのは、なにも人間だけじゃない。自分がかわいいのは、みんなおなじなのにな」

 まひるは色々と、谷々樺良の考えを聞いていた。それはべつの人間が聞けば、眉をひをめる内容だったかもしれないが、まひるにはよく理解できなかったので、あまり気にしたことはない。
 だが、今日の話はまひるにも理解できたので、それゆえに新たな疑問も生じていた。
「そっか……人間が特別って考えるのがおかしいんだ……でも……」
 そう言葉をきってから、なにやら考え込む、まひる。
「なんだい?」
 不思議そうに、樺良は聞く。

「自然のなかで無茶する生き物は、自然トータされるんでしょ。だったらなんで、人間はこんなに地球をめちゃめちゃにしてるのに、数がどんどん増えてるの?」

 まひるの言葉を聞いて、樺良は彼女をまじまじと見つめた。
「な、なんですかぁ?」
 ウワサはどうあれ、谷々樺良の顔立は、年頃の少女にかなりの破壊力をもっている。
 ミキの、十分気をつけなさいという言葉が思い出される。

 樺良はすこし緊張気味のまひるを見つめながら、なにをするわけでなく、こう言い残してから、まとめた機材をもって部室のほうへ歩いて行った。

「王鳥君、君には期待しているよ……」と。



 それからなにがどうなったのか、まひるは覚えていない。
 ただ、はっきりしていることは、まひるはあれからまっすぐ家には帰らず、まだペットクラブの部員といっしょにいるということである。

 気がついたとき、まひるは自分が立たされているのだということを、ぼんやりと知覚した。
 横を見ると、おなじ一年生部員である時央[]紀之[のりゆき]が立っている。
 まひるとおなじぐらいの背丈の少年は、緊張した面持ちで正面を見ていた。そういえば、ずいぶんと几帳面な性格の子だったなと思う。
 それからまひるが正面に視線を戻すと、そこに変な服というか、布をかぶった谷々[たにや]樺良[かばら]がいるのが見えた。

「よく来たな、二人とも」おごそかに、樺良は告げた。
 事態の把握できないまひるは、ただ聞いているしかない。
「この、春のよき日に新たな同志を二人も加えることができるのは、喜ばしいかぎりだ」
 さきほどまでの、部活の先輩の口調ではない。不思議と反論を許さない雰囲気がある。
 よく見ると、うしろにペットクラブの先輩たちが、おなじく変な布をかぶって片膝をついていた。

 しばらくして、樺良はまひるには理解できない内容の演説をはじめる。
 樺良はたまに、こういう妙な話をするので、そういうときは、聞いているふりだけをすることにしていた。
 だが、演説がおわるころには、すっかり眠くなってしまっている。
 なんとか目は開けていたが、いったいナニが起こっているのかは、まったくもって理解できない。

「ではさっそく、儀式を始める……」
「は、はじめるって……」
 突然の展開に、まひるは思わず声を上げる。
「なにか疑問があるのかね?猫君主M[キティロードエム]よ」
「きてぃろおど……ってまひるのこと?」
 さっきから、キティロードエムだのなんだのいっていたのは聞こえていたが、それがまひる自身のことだったのにやっと気づいた。
 そうすると、トインビーとかよばれていたのは、となりの時央のコトか……
「半憑依させる動物の存在体[イグジスト]に、なにか希望でもあるのかね?」
 樺良はまひるがなにか、べつのことを気にしていると思っているようだった。
「いえ、その、まひるはランジェロに会いたいなって、思ったんです」
 とっさに、口からでまかせをいう。






 ランジェロとは、まひるが小学生のときに飼っていた三毛猫である。王鳥家の飼猫だったが、実際に世話をしていたのはまひる一人だったので、まひるによくなついていた。
 だがそのランジェロも、まひるが四年生のときに、車にはねられて死んでしまう。
 そのときの心の傷は、今でもまひるにランジェロの夢をみせる。
 その瞬間をみたわけでもないのに、まひるはランジェロが車にはね飛ばされる悪夢に何度もうなされていた。
 だから、元飼猫の名前を出したのは口からでまかせだったが、ランジェロに会いたいというのはホントである。

 以前まひるからランジェロの話を聞いていた樺良は、その言葉で納得した様子で、「わかった、考慮しよう」とだけいった。



 儀式の準備は滞りなく進行している。

 谷々樺良[たにやかばら]は、その進行状況を肩肘をつきながら、満足げに眺めていた。
 急造とはいえ、体育館の地下倉庫に完成しつつある祭壇は、満足の行くできばえである。
 そして、今回の儀式に参加する二人は、まだ一年生だが、樺良の真摯な説得によって、喜んで[ヽ ヽ ヽ]その身を提供することを承諾してくれたようだ。
 なかでも王鳥まひるは樺良の理想に共鳴し、よき理解者となったので、とくに猫君主[キティロード]狩人名[ハンターコール]を授けた。ゆくゆくは、樺良の片腕として、理想世界の実現に貢献してくれるだろう。

 樺良はもう一度、まひるを見た。
 儀式の準備をみているまひるのうしろ姿に、樺良はゴクリと唾を飲み込んだ。
 あの忌まわしい人間の姿に、愛らしい猫耳が生えたら、なんとすばらしいことだろう。
 チキューケナシザルのメスなど、触れるのもおぞましかったが、地球上で樺良の理想を理解できる可能性のある高等生物は、人間しかいない。
 人外[ジンガイ]しか愛情の対象にはならない樺良は、これまでマンガやアニメといったフィクションに登場する、猫耳[ねこみみ]兎耳[うさみみ]美少女にしか興味をもつことができなかった。
 虚構のキャラクターではあるが、彼女たちはまさしく、樺良の理想の女性達なのだ。
 それが今日、現実に出現する。
 樺良が愛せる存在が、誕生するのだ。

 それから樺良は、まひるの希望である、三毛猫のランジェロを半憑依させる方法を検討した。
 単に猫の存在体[イグジスト]を半憑依させる予定だったが、三毛猫の個体を選択して半憑依させるのは、現在の樺良の技術では困難である。
 まあ、三毛猫の存在体[イグジスト]を選択することはできるだろうから、三毛猫ならランジェロでなくてもいいだろうと、樺良は勝手に納得して、この問題についてはこれ以上考えないようにした。そんな些細なことで、儀式を先に伸ばすわけにはいかない。

 樺良はまひるに話したように、生き物として、自分の欲望に忠実だった。



 そして、儀式の準備が整った。
 ペットクラブの面々が円状に取り囲む中、まひると時央は部屋の中央にしつらえられた祭壇の上に正座させられている。
「ねえ、時央君、怖くない?」
 まひるはとなりの少年にささやいた。
「なんで?王鳥さん、僕らは谷々部長の理想世界の実現のための尖兵となるんだよ。なにを恐れることがある?」
 時央はまっすぐな目で、まひるにそう語った。

 それはさまざまな時代にいた、人間を破滅と栄光に導く、理想に魅入られた者の目だったが、まひるは『ふーんそうなの』ぐらいにしか思わなかった。

 たしかにまひるも、この儀式を怖いとは思わない。
 どうやらこれが、ウワサの黒魔術の儀式であるとは思ったが、それほどオドロオドロしい感じがしなかった。イケニエのニワトリとか、あやしげな魔方陣とか、そういった類も[たぐい]見当たらない。
 べつに死ぬワケでもないので、逃げたりさわいだりする必要はなさそうだった。
 まひるはそう思っていたが、樺良がそう確約したわけではない。

 それでも事態を深刻に考えていなかったことが、まひるの意識を平静に保っていたのも事実である。
 十分気をつければ、ちはるお姉ちゃんも叱ったりしないよね……ということまで考える余裕があった。

「ほらっ、儀式がはじまるよ!」
 キョロキョロしているまひるを、となりの時央が注意する。まひるがあわてて正座をしなおし、背筋をのばしたと同時に、樺良が二人の前に立った。

「ではこれより、谷々家に伝わる秘術、『半存在体[ハーフイグジスト]召喚[コール]』を実行する」樺良はおごそかに宣言した。


Rigftyue[リッフュー] ratfiof[ラッフィオ] ratfi[ラッフィ] ratfi[ラッフィ] ratfiof[ラッフィオ]



 まひるたちのうしろの部員の一人がそう、ささやいた。


Rigftyue[リッフュー] ratfiof[ラッフィオ] ratfi[ラッフィ] ratfi[ラッフィ] ratfiof[ラッフィオ]



 今度はその部員ととなりの部員がそう、ささやく。


Rigftyue[リッフュー] ratfiof[ラッフィオ] ratfi[ラッフィ] ratfi[ラッフィ] ratfiof[ラッフィオ]



 それから次々と、おなじ文句を唱和する声がふえて行き、やがて樺良をのぞく全員がこの文句を唱えていた。


Rigftyue[リッフュー] ratfiof[ラッフィオ] ratfi[ラッフィ] ratfi[ラッフィ] ratfiof[ラッフィオ]



 となりの時央も唱和に参加した。
 時央は自分が唱えてから、まひるをつついて、同じことをするようにうながす。

「りっふゆぅー、らふいーお、らふいー、らふいー、らふいーお」

 まひるもなんとかおなじように唱えたつもりだが、集団のなかでまひるの声は、思いっきり浮いていた。


Rigftyue[リッフュー] ratfiof[ラッフィオ] ratfi[ラッフィ] ratfi[ラッフィ] ratfiof[ラッフィオ]



 最後に樺良がそれに参加して、全員がおなじ文句を唱えると、唱和はピタリとやんだ。まひるもうまく唱えるのをやめることができたので、ほっとする。

 それから樺良は、聞き取ることも困難な外国の言葉で、なにやら唱えた。

 樺良が詠唱をやめると同時に、まひるは急に寒気がした。

 具合が悪くなったのかとも思ったが、吐く息が白いので、本当に気温が下がっているようだった。

『ンニャーゴォォォォォォォォ、クシュッ!』
 まひるの脳裏に、猫の声が響く。
「うわぁー、本当[ホント]にランジェロだぁ」
 まひるは顔をほころばせて小さく叫ぶ。
 大きな声で鳴くとクシャミをするのは、間違いなくまひるの三毛猫、ランジェロのくせだった。
 頭上にランジェロの気配を感じたまひるは、瞬間的に上を見るが、そこにはコンクリートの天井と白熱灯が見えるばかり。それでも気配はゆっくりと、まひるに近づいて来る。
「早くおいで。まひるとまた、遊ぼーよ!」
 まひるは必死でランジェロの気配を呼び込もうとした。
 気配はまひるのすぐ上で、どうしたものかと考えているようすでウロウロしている。

 しばらく迷ったのち、気配がフッと弱くなった。
 気配の一部がどこかへ消えてしまったように、まひるには感じられた。
「ランジェロ……」
 まひるが悲嘆にくれかけたとき、残りの気配がまひるのなかに、ストンと落ち込んだ。




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