★短編小説〈#_quickhalt_external:オッカムの剃刀ふたつ〉★
─2007年3月─
〈#_quickhalt_external:オッカムの剃刀ふたつ〉は、
郁雄/吉武が2006年9月に発表した長編SF小説〈クイックハルト〉の短編外伝です


※〈#_quickhalt_external:オッカムの剃刀ふたつ〉は、郁雄/吉武が2006年9月に発表した
 長編SF小説〈クイックハルト〉の短編外伝です。


※外伝は〈クイックハルト〉本編115ページから分岐し、クイックハルトの女闘士
 〈ストレイジーク〉こと堀越レイア側の視点で描かれています。

※外伝は、本編の重大なネタバレを含む点をご留意ください。





■本編〈クイックハルト〉の紹介ページ■

どんな話? / あらすじ / 登場人物 / 用語解説 / 資料集 / ★Astronaut Main

2007/02/28:2007/3/26更新:郁雄/吉武


●書名:クイックハルト

出版:文芸社 本書紹介
サイズ:B6判 / 325p
ISBN:4-286-01800-8
発行年月:2006.9

●著・装丁:郁雄/吉武 著者紹介
URL:http://www.astronaut.jp/

●イラスト:丸山トモヲ 本書紹介
URL:http://oxox.gozaru.jp/

●定価:1,500円(税別)

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■本編〈クイックハルト〉の詳しいあらすじ■

 
 はるかな未来。人類は生活の場をデータ上の世界、“ドライブスペース”に移していた。この世界では異世界間の戦争が禁止されており、かわりに不老不死不滅の属性を持つ者同士による、“クイックハルト”と呼ばれる決闘によって、紛争が解決されている。
 
 疾風[はやて]良一は、二十一世紀前半の日本をモデルとした世界〈平成日本〉で暮らす男子高校生。ある日彼は、〈平成日本〉と平行して存在する世界〈昭和日本〉から移住したばかりの、圧倒されるほど巨大な胸を持つ少女、彩雲[あやくも]千早と知り合う。その夜、良一はクイックハルトをテレビ観戦中に“ N:'-[ ”という件名がついたメールを受信したのちに不可思議な体験をし、その結果として、良一と千早の親兄姉が乗る旅客機が完全に消滅してしまう。同じ不幸を共有することで、急速に親密になる二人。そこへ、ドライブスペースの管理組織から派遣された女性、中島近恵[このえ]と、クイックハルトの女闘士、〈ストレイジーク〉こと堀越レイアがやってくる。近恵は千早と補償交渉を行い、レイアは良一をクイックハルトの闘士へと誘う。いつの間にか良一は、不老不死不滅の存在となっていたのだ。
 
 事件から半年後、二人は〈昭和日本〉で同棲している。良一はクイックハルトの闘士となるべくレイアの元で訓練を受け、千早はレストランで給仕の仕事をしていた。その日は千早の十七歳の誕生日。彼女の勤めるレストランにて、半年前に知り合った面々で誕生パーティーが開かれる。その夜、良一が自宅でネット巡回をしていると、またもや不可思議な体験をし、その直後に千早が消える。翌日、近恵の案内で千早と再会し、愛を確かめ合う二人。その後良一は、一連の事件の元凶である〈嘆きのエヌ〉と呼ばれる存在の手先と非公式なクイックハルトを行うことになる。その相手とは……。
■オッカムの剃刀[かみそり]ふたつ 1/4■

ミッチェル
 
 有神論者は言った。
 神なる存在を定義すれば、すべてをシンプルに説明できると。
 無神論者は言った。
 神なる存在を排除すれば、すべてをシンプルに説明できると。
 有神論者と無神論者、双方に愛された剃刀。
 彼女はその心を、ふたつの剃刀で削り落としている。
 
 ようやく見つけたホテルの公衆電話器に百円硬貨を投入した。
 彼は暗記している携帯電話の番号を順に押す。
 交換手を介することなく繋がった電話口から、ぶっきらぼうな女性の声。
『オレだ』
 不機嫌そうに聞こえるが、これがいつもの彼女。
「僕はミッチェルだが、レイア」
 気安くそう応えると、レイアと呼ばれた電話口の相手はいくぶん語調を緩める。
『なんだ、ミッチか。今どこにいる?』
「君がいるホテルのロビーだ。少々時間を取れないないかね?」
『そうか、近いな。わかった、今行く』
「ああ、談話室で待ってるよ」
 そう結んで、ミッチと呼ばれた男性は受話器を置く。
 見かけは四十代なかば、長身の白人男性。
 蜂蜜色の髪と口髭、手には独特な柄頭のステッキを持ち、仕立ての良いスーツを着込んでいる。
 本名はマーリン・ミッチェルと言ったが、一般的には別の名前で広く知られている。国家の命運を賭けて闘う不老不死不滅の戦士たる、クイックハルトプレイヤー。彼は、二十世紀前半の旧世界を再現したドライブスペース領域、宇内領域[ガイアドライブ]内の〈GDイギリス〉こと、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の国選クイックハルトプレイヤー、〈スピットワンダー〉と呼ばれている。
 ミッチェルは、平然と談話室を目指していたが、昨日の事件のせいで、いまだにマスコミ関係者らしい人々がホテル内を行き交っているのには、内心冷や汗をかいていた。
 時代設定の異なる未来の領域とはいえ、彼を知るものがいないとは限らない。
 カード式のルームキーを提示して、ホテルの客とその関係者のみ立ち入りが許された区域へと入る。
 人はまばらで、ここなら他人の目を気にする必要はなさそうだ。
 ミッチェルがゆったりとした足取りで談話室へ到着するのと、エレベーターホールから背の高い女性が早足でやってくるのが、ほぼ同時だった。
 長身に長い黒髪。体の線がはっきり見える、黒い全身服の上から白衣を着て、両手を白衣のポケットに突っ込むという、いつもの格好で、彼女、堀越レイアはやってくる。
 二十一世紀前半をモデルとしたドライブスペース領域火星領域[マーズドライブ]内の〈平成日本〉という、彼女の主たる活動領域内でありながら、いわゆる“外人”であるミッチェルよりも、目立つ格好をしている。
 彼女もつい数時間前まで、〈平成日本〉代表の有選クイックハルトプレイヤーだったが、昨日の平成日本航空機消滅事件の混乱の折、〈MDスウェーデン〉とのクイックハルトを放棄した責任を取って――ということにして――、その職を辞している。
 ミッチェルが個人的に得た情報はいささか異なっていたが、彼女が国家を代表する武力代理人ではなくなったという事実に変わりはない。
 彼としては、少なからず喜ばしいことだった。
「久しいな、ミッチ」
 彼女は挨拶のキスをするでもなく、握手をするでもなく簡潔に言う。
 ミッチェルも慣れたもので、気にせず応える。
「三ヶ月ぶりかな。急に呼び出して悪かった。……ところで、そちらの用事は良いのかね?」
 どちらともなく、談話室のソファーに腰をおろす。
 詳しい事情は知らないが、彼女が東京駅の近くにある有史世界領域連合の分室で、職員一名――かの有名な中島近恵女史らしい――を拾い、平成日本航空機消滅事件の保証交渉が行われる、このホテルに向かったと聞いて来たのだ。現在は、保証交渉の真っ最中のはずである。
 しかし、彼女は気にするふうもない。
「構わんさ。本題に入るにはしばらくかかりそうだったからな。奴に任せておけば問題あるまい」
 “奴”という人称代名詞が何者を指すのか、ミッチェルには思い浮かぶ相手がいなかった。
 そういえば、彼女が常に所持しているはずの黒いノートパソコンが見あたらなかったが、まさか物言わぬ機械を“奴”などと呼ぶとは思えない。
 少なくとも、三十年来の付き合いである彼女が持つ黒いノートパソコンが──彼女の言葉に反応することはあっても──自らの言葉で何かを主張する姿を見たことがなかった。
 ミッチェルが“奴”の考察によりわずかに会話を途切れさせたため、レイアが続ける。
「ミッチこそ、こちらに来ているとは聞いていなかったが」
「ん?……ああ、最近、妻の墓が月面領域[ルナドライブ]から火星領域[マーズドライブ]に移設されて来てね。墓参りに来たついで、というわけさ」
「それにしても、いつもは事前に一報があったと思うが」
「そうだね、悪かった。火星領域[マーズドライブ]の滞在は一週間の予定で、後半にこちらに来ようと思っていたのだがね……」
「事件を聞いて、予定を前倒ししたのか」
「そういうことだ。九時間の時差がある領域を一気に移動するのは、なかなかに堪えるよ。かくいう君も、随分と厄介な事件に巻き込まれているのではないかね?」
 彼女は自嘲的な笑みを浮かべながら応える。
「まったく腹立たしい限りだ」
 冗談めかしてはいるが、ミッチェルが知る限りレイアがこれほど露骨に怒りの感情をあらわにするのは、初めてのことだった。
 それほど、今回の“敵”は厄介な相手ということか。
「そのあたりの話を聞きたいな。君の用事がすんだら、食事でもどうかね?」
「ふむ、良かろう。終わったら連絡する」
「待ってるよ」
 ミッチェルが自分の部屋の番号を伝えると、彼女は足早に戻って行った。
 ふぅ、と溜息をつく。
 いつも通り、そっけなく約束を取りつけたが、肝心なのはこれからだ。
 彼は上着のポケットに入った小箱のふくらみを再度確認すると、杖に手をかけてゆっくりとソファーから立ち上がった。
 
 マーリン・ミッチェルは外見年齢四五歳、生存年齢は一〇四歳。宇西暦一九〇〇年初頭、〈GDイギリス〉のグラスゴーで、とある工場主の長男として生まれる。裕福な家庭で何不自由なく育ったが、やがて自身の生活が、多くの労働者の貧困によって支えられていることを知る。彼は家業を継ぐことを拒否し、勘当同然で家を出た。家業は、弟が継いでいる。その後、徴兵も良心的に拒否し、様々な職を転々としながら二八歳で結婚し、一児の男子を授かる。四〇歳の時に妻が病死し、以後は男手ひとつで息子を育てた。
 不老不死不滅のプレイヤ属性保持者となった四五歳の時、彼はエディンバラの活版印刷所で経理の仕事をしていた。アイルランドでは独立運動が盛んになり、ヨーロッパ全体が不穏な空気に染まりつつある世界。政治も景気も先行きが不透明だった。一人息子は数年後には家を出る予定であり、そろそろ宇内領域[ガイアドライブ]から月面領域[ルナドライブ]への移住を考え始めた矢先のことだった。
 ある日、職場の事務所に英国国防委員会を名乗る男が現れ、ミッチェルがプレイヤ属性保持者となったことを告げられる。クイックハルトという代理戦争の仕組みは知っていたが、まさか自分がその適合者になるとは思ってもみなかった。有形無形の紛争が多発する昨今、彼は欠員の出ていた英国の国選クイックハルトプレイヤーとして、なかば強制的に徴用されようとしていた。
 ミッチェルは生来の反骨精神でこれを拒絶し、息子を連れてGDアメリカに移住する。その亡命に近い逃避行の過程で、彼は自分が本当に不滅の存在となってしまったことを実体験する。彼は祖国の強引な徴用に対し、有連裁判所に提訴し、数年ののちに彼と彼の親族の自由と身の安全を保証する判決を取りつけてから帰国。その頃には、史実と似た形で第一次世界大戦が終結し、アイルランドも南部が独立している。
 息子がミッチェルの弟の養子となり、彼が捨てたはずの家業を継いだのは予想外だったが、ともかく親として最低限の責務は果たした。その後、ミッチェルは十数年をかけて宇内領域[ガイアドライブ]の各地を放浪している。彼はプレイヤ属性保持者となる前から、さまざまな言語を習得することを趣味としていた。学生時代にスコットランド・ゲール語を学んだのをきっかけに、米語を含む各地域の英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、オランダ語、イタリア語、ラテン語など、主要なヨーロッパの言語は、属性を発現する前から習得しており、プレイヤ属性発現後はさらに世界各地の数十ヶ国語をマスターしている。世界を放浪していた当時は、趣味で覚えた言語学を活かして、通訳や翻訳の仕事で路銀を稼いでいた。その頃から、アジア地域の言語の一つとして、日本語も日常生活に支障がないレベルで習熟はしていたが、現在の水準に達するのはクイックハルトプレイヤーとなり、堀越レイアと知り合った後のことである。
■オッカムの剃刀[かみそり]ふたつ 2/4■

 
「二名で予約した堀越だが」
 ミッチェルがそう告げると、若い給仕は一瞬だけ目を見開くが、すぐさま平然と言う。
「堀越様ですね。お待ち申し上げておりました。お連れ様が先にいらしております。どうぞ、こちらへ……」
 よく訓練されているな、とミッチェルは思った。
 いかにも白人らしい彼の容姿と、流暢すぎる日本語とのギャップに驚く者は多いが、それを表に出さずに済ませられる者は少ない。
 英語の訛りが一切ないというだけでなく、日本語として素人離れした"良く通る声"のため、『まるで洋画の吹き替えを生で見ているようですね』、ななどと言われたこともある。
 事実、彼は日本語の教材として、日本映画だけでなく、日本語にアテレコされた外国映画を大量に観て研究したので、自然とプロの発声技術を習得しているのかもしれない。
 ミッチェルは、給仕の案内に従って歩く。
 ここは、ホテル最上階にある展望レストラン。
 空港と空港に隣接する施設の夜景を楽しむことができた。
 安全宣言が出され、すでに航空機の離発着は再開している。
 ラストオーダーに近い時間だったが、保証交渉関係で夕食が遅れた者が多いせいか、思いのほか混み合っていた。
「なっ!……」
 予約した窓際のテーブルに近づいた時、ミッチェルは不覚にも目を見開き、立ち止まってしまう。
 他人の訓練度合いをとやかく言える態度ではなかったが、それに気づく余裕すらない。
 約束の時間より早く到着し、予約したテーブルについていた堀越レイアは、いつもの白衣と黒い全身服姿ではなく、目にも鮮やかな翡翠[ひすい]色のパーティードレスに身を包んでいた。
 長い黒髪もドレスに合わせてセットされ、薄く化粧をし、あまつさえアクセサリーまで身につけている。
 お決まりの、黒いノートパソコンすら見あたらない。
 モデルかタレントか、セレブの令嬢か。
 〈平成日本〉……いや、二十一世紀をモデルとした火星領域[マーズドライブ]内の洋式パーティーなら、どこへ行っても恥ずかしくないどころか、宴の注目を一身に集めそうな姿だった。
「どうした、何か変か?」
 口調だけ、いつも通りにレイアが言う。
「いや……変というなら、いつもの君よりは変じゃないね」
 我ながら最低限、そつのない返答だったと思う。
「そうか、ならいい」
 給仕が引いてくれた椅子に腰かけながら、ミッチェルは言う。
「どういう心境の変化かね? 僕の知る限り……といっても、たかだか三十年だが、君がいつもの全身服と白衣以外のものをを身につけているのは、初めて見るよ」
 テーブルを挟み、淡いキャンドルの光に照らされて座る彼女は、薄い笑みを浮かべながら答える。
「少し、やり方を変えようと思う。今までの手では、通用しない相手が現れたものでな」
「その件だが……」
 そう言いかけて、ミッチェルはテーブルの脇で待機する給仕に、辛口の白ワインを注文する。
 「かしこまりました」と、給仕が席を離れるのを見送ってから、ミッチェルは愛用の杖を握りしめて続ける。
「……ここで、そんな話をして大丈夫なのかね?」
 緊張を隠せないミッチェルに比べ、レイアは落ち着いたもの。
「聞かれてまずい話などないさ。が、念のため"対策"は講じてある」
 彼女――と、その相棒である黒いノートパソコン――の能力をもってすれば、容易にあらゆる種類の盗聴、盗撮行為を無効化できるだろうということには確信が持てた。
「君がそう言う以上、大丈夫なのだろうが……」
 だからといって、こう人目の多い場所で語るべき事柄でもないと思うのだが……。
 運ばれてきたワインをテイスティングし、ろくに味もたしかめずグラスに注がせる。
 そして乾杯。
 いささかぎこちなく、二人だけの会食が始まる。
 彼女の説明により、メインの皿が空になる頃には、ミッチェルもおおよその事情を把握できた。
 事前に情報を得ていたとはいえ、それはやはり驚くべき内容と言わざるを得ない。
 "嘆きのエヌ"と呼ばれる未知の存在により、〈平成日本〉の少年がプレイヤ属性を発現した時の認証過程に発生する未知の脆弱性が悪用された。ヴァリアブルス条約機構と同等の管理権限が不正に行使され、〈平成日本〉を中心とした複数の領域の消去が実行されようとする。その事態を察知した〈ストレイジーク〉こと堀越レイアは、参戦中だったクイックハルトを放棄し、独自に事態の収拾を図る。しかし、早々に管理権の再奪取は不可能と判断し、ヴァリアブルス条約機構が保護に失敗した〈平成日本〉の領域情報を複製し、消滅前に〈平成日本〉を脱出したというもの。複製した領域情報はすみやかにヴァリアブルス条約機構へ提供され、三十年前の状態に巻き戻るという最悪の事態を防ぐことに成功したが、複製漏れを起こした領域を飛行中だった旅客機が一機、完全に消滅してしまったというものだ。
「その"嘆きのエヌ"という名称は、自称かね?、他称かね?」
「仮称だな」
 彼女が言うには事件発生直前、プレイヤ属性を発現させる少年の元に送られたメールの件名が、"アルファベットのエヌと、泣いているかのような顔文字"で、それを元に"奴"がつけた仮称がそのまま上層部で使われるようになったという。
 ──また"奴"か──
 その件には触れず、ミッチェルは質問を続ける。
「属性を発現させた少年……名前は何といったかね?」
「良一だ」
「……僕が釈然としないのは、その"良一君"がプレイヤ属性保持者となった原因が、嘆きのエヌにより彼に電子メールを送りつけられたことが契機となっている点だ。しかし……」
「たしかに、プレイヤ属性の発現は、事前に察知することも、人工的に発現させることも不可能とされている」
「君でも無理かね?」
「無理だな」
「嘆きのエヌには、それが可能ということか」
「オレは、人工的に発現させたとは思っていないがな」
「だが、属性を発現させる直前に干渉して来ているのだろう?」
「そこがわからんのさ。今回突かれた脆弱性は、プレイヤ属性の発現を管理体が了承するプロセスの不備を突いたものだが、そのためには、あらかじめ属性が発現されるタイミングで待ち構えている必要がある」
「では、良一君が属性を発現した直後、限りなくゼロのタイミングで脆弱性を突いたと?」
「それで可能ならオレにも出来るし、そんな穴なら、とっくに管理体が塞いでいるさ」
 基本的に、ドライブスペースを統括して管理する"管理体"と呼ばれる存在は、システム全体を常に監視し、自己診断によって発見した脆弱性は自身で修正してしまう。また、第三者からの未知の攻撃に対しても、管理体は瞬時に解析して対応策を取るため、仮に今回の攻撃が再度行われたとしても、二度と通用しないはずだ。
 無窮の自己研鑽と防御経験によって構築された堅牢なシステムが、第三者にここまで良いように乗っ取られたという事実が、有史世界領域連合やヴァリアブルス条約機構のみならず、ドライブスペースの管理に携わるすべての者を震撼させているという。
「……ではなぜ、嘆きのエヌは属性が発現する前の良一君に干渉することが出来た……いや、干渉したのかね?」
「わからんよ。プレイヤ属性を意図的に発現させたと見せかけるためか、あるいは属性の発現するタイミングを予測できることをアピールするためか。どちらにせよ、あまり効率的なやり方とは思えないが」
「愉快犯的だと?」
「冗談にしては、相当にタチの悪いものだがな」
「どちらにせよ冗談であることは確定かね?」
「まあな。それでいて、現状ではオレよりも能力は上と来ている。ここまでオレが……お?」
 ふと、デザートを食べながら話していたレイアの手が止まる。
 ミッチェルが彼女の視線を追うと、新たな客が来店したのが見える。
 ぎりぎり、ラストオーダーの時間。
 視界の隅に映ったのは、学生服姿の少年と私服の少女。どちらも高校生ぐらいか。
 初々しいカップルといった印象の二人は、少し緊張気味に手をつなぎ、給仕に案内されてこちらに歩いてくる。
 多少、場違いな印象はあるが、おそらく補償交渉の関係者であろう。
 少年少女がミッチェルたちのテーブルの前を通過する時、少年が一瞬だけレイアを見たが、あわてたように視線を戻して通過して行った。
 二人は店のさらに奧の席に案内される。
 そこでミッチェルは気づく。
「もしかして、今のが?」
「そうだ」
 レイアは何事もなかったかのように、フルーツシャーベットを片付けていた。
「あれが噂の良一君か。今回の事件のキーパーソンにして、君の後継者でもあるわけだね。女の子の方は……」
「千早だ」
「……中島近恵女史の補償交渉相手か。フフッ、どうやら二人とも、君に気づかなかったみたいだね」
 食後の紅茶をすすりながら、ミッチェルが悪戯っぽく言う。
 実のところ彼も、何の説明もなければ、眼前の女性が堀越レイアであると、瞬時に識別できるか自信はなかったが、それをわざわざ教えてやることもない。
「中身を替えたつもりはないのだがな」
 翡翠色のドレスに身を包んだ彼女は、少し憮然としているようにも見える。
「二人に挨拶しなくて良いのかね?」
「これ以上、今話すことはないさ」
 そう言って、ナプキンで口元をぬぐう。
 ──ひょっとして、無視されて落ち込んでいるのだろうか?──
 確証はなかったが、可能性はゼロではない。
 最低でも千年は生きているはずの、不滅者たる彼女はしかし、二十年も生きれば身につくであろう感情の機微が欠落している所がある。
 そのアンバランスさが、彼女の魅力でもあるのだが。
「それよりもだな……」
「ん?」
 いつの間にか彼女が、視線をじっとこちらに向けている。
 レイアは静かに問う。
「部屋を取ってあるのだろう。これから一戦するという認識で良いか?」
 彼女の言わんとする事柄は、すぐに理解できた。
 まるでクイックハルトの野試合でも申し込むかのような言いぐさだが、無論そうではない。
 ミッチェルは、わずかに残った紅茶を飲み干し、ゆっくりとティーカップを受け皿に戻してから答える。
「……お手柔らかに願いたいね」
「考慮しよう」
「では参りましょうか、お嬢様」
 そう言いながら、ミッチェルは上品な所作で彼女の手を取り、席を立つ。
 レイアも流れるような動きで、彼の腕に自身の腕を絡めた。
 ──まるで、美女に誘惑されているようだな──
 彼の心象が、あながち間違ってはいないどころか、まったくもって正しいことに気づくのは、随分後になってからのことである。
 
 ミッチェルとレイアが、いわゆる"男女の仲"になったのは、二人がほぼ同時期にクイックハルトプレイヤーになったのがきっかけだった。
 反権力志向の強い彼が、祖国〈GDイギリス〉の国選クイックハルトプレイヤー、〈スピットワンダー〉となることを受諾したのは、四十五歳でプレイヤ属性を発現し、その後十年以上の放浪生活を送ったことで、世界に対する認識が変わったことが大きく影響している。歴史を学び、様々な国家体制を直に見て、彼は痛感した。どの時代、どの世界の国家にせよ、少なからず権力者は腐敗を友とするものなのだ。特に、超大国と呼ばれるものを善悪で二分すれば、おおむね悪に傾倒する。残念なことではあるが、それが世界標準なのだ。
 これに対してクイックハルトという代理戦争ルールは、少なくとも他国民を――結果的に死に追いやることはあるにしても――物理的に殺害せず、戦争と同等の結果を出すことができる。異なるドライブスペース間戦争が禁止だからと、わざわざ憎しみ合う領域同士を一つの世界に結合し、"内戦"扱いにしてまで直接的な戦争を行うことを考えれば、はるかに理性的だ。
 もう一点、彼がクイックハルトプレイヤーとなることに魅力を感じたのは、過去未来を問わず、異なる時代設定の領域へ移動できるということ。その頃、すでに彼は宇内領域[ガイアドライブ]内だけでは飽きたらず、過去や未来、あるいはそれ以外の設定で構築された領域の言語も学びたいと思うようになっていた。有史世界領域連合内において、後代領域はともかく、先代領域に移動することは原則として禁止されており、また有連以外の領域への移動は、有連内への帰還が困難になる場合が多い。プレイヤ属性保持者たる彼が、もっとも容易に領域間移動の権利を手にする方法として、クイックハルトプレイヤーとなるのが最適と思えるようになる。
 精神的なわだかまりが解決して〈GDイギリス〉の国選クイックハルトプレイヤーとなった後、〈ストレイジーク〉こと、堀越レイアと最初に出会ったのは、有連イスタンブールの訓練センターにおいてだった。
 黒い全身服の上に白衣を着て、携帯用の黒い"タイプライター"ならぬ"ノートパソコン"を常備する姿に違和感はあったが、日本語会話のトレーニングのつもりで軽く話しかけてみる。当時、クイックハルトプレイヤーとして新人だった彼女は、当然ながら不敗神話もなく、むしろドライブエンジニア──ちなみに、ミッチェルがいた領域の日本語では"空間技師"と呼ばれていた──として著名だったらしい。それすら知らないミッチェルは、彼女が自分よりひと月ほど早くクイックハルトプレイヤーとなっていたという理由だけで、戦闘技術の手ほどきを頼んでしまったのだ。技術の習得など二の次で、後代領域のネイティブな日本人と会話ができればそれで良かったのだが。
 一回目に、訓練施設で手合わせをしただけで、彼女がクイックハルトプレイヤーとしては新人でも、達人クラスの戦闘技術を持っていることを思い知らされる。女の細腕とはいえ、格闘も近接武器も飛び道具も、すべて回避するか受け流してしまうのだから関係がない。そして彼女の攻撃は当たり放題。動作が異常に速いというわけではなく、無駄がまったくないのだ。その頃、彼女から学んだ戦闘技術は、現在のミッチェルにとって大きな財産となっている。
 訓練後に詳しく聞いてみると、彼女もミッチェルが様々な言語の習得を趣味としているように、個人的な興味で様々な戦闘技術を研究、習得して来たという。クイックハルトプレイヤーには、本業の気分転換でなってみたのだそうだ。
 彼女もなぜかミッチェルが気に入ったようで、戦闘訓練以外でも時折、食事などを共にするようになる。その頃には彼も、レイアが本業のドライブエンジニアとしても卓絶した能力を持つ、その片鱗を感じ取っていた。本来、ドライブエンジニアとは、ヴァリアブルス条約機構から許可された範囲で、ある領域から別な領域へ土地や物を転移させるというのが主な仕事だ。今回の件でもそうだが、ヴァリアブルス条約機構ですら手に負えない破壊者に、勝てないまでも私的に複製情報を作成する、などという行為は、本来の職域を大幅に逸脱している。彼女は以前から、しばしば平然とその種の奇跡をやってのけるのだ。"唯一神"とは言わないまでも、ギリシャ神話に出てくるオリンポスの神々の一人、ぐらいは自称しても良さそうな能力を持っているように思えたが、自身は泰然自若としたもの。
彼女にとっては、誇る必要もない、至極当然の能力なのだ。
 ミッチェルは当初、自分がレイアを恋愛対象として意識して良いものか、自信が持てなかった。外見年齢的には、親と子供でも通じるほど歳が離れていたし、生存年齢的には逆の意味で、老人と幼児ほど──あるいはそれ以上に──歳が離れていた。そんな彼女が、自分をまともに相手などするはずがないのでは……そう疑問に思う前に、二人は親密な関係となっている。生存年齢が百歳を超えた現在のミッチェルには、少しわかるようになってきたことだが、プレイヤ属性保持者としてある程度長く生きてしまうと、大概の他人は自分より年下になってしまうため、年齢差にこだわる気持ちが失せてしまうのだ。外見も一般人は、十年もすれば"すぐに"変化してしまうし、見かけが同年代の不滅者と親密になる機会など滅多にない。内面的に気が合うなら、それ以外の多少のことは気にしない、ということのようだ。
 それから彼が、数多くの言語の中から、日本語能力を洗練させることに、もっとも力を入れたのは言うまでもない。
 以来、三十年。ミッチェルとレイアは、一ヶ月から半年に一度という頻度で逢瀬を重ねるようになっている。活動する領域が異なるため、クイックハルトプレイヤーとして直接闘うことはなかったが、彼女が闘えば必ず勝つという"不敗神話"を打ち立てたことに、さほど驚きはない。戦士としても、ドライブエンジニアとしても、蓄積したノウハウが違いすぎるのだ。多少、装備の性能でハンデをつけてたぐらいでは、カタログデータを対等にできたとしても、本当の意味で対等になどなりはしない。
 そんな彼女も、〈平成日本〉のクイックハルトプレイヤーを辞し、ふたたび一介のドライブエンジニアに戻っている。それが、今までの二人の関係を大きく進展させるチャンスであると確信したミッチェルだからこそ、クイックハルトプレイヤーの特権を最大限に行使し、有連イスタンブールを経由して、〈MDイギリス〉から、一気に〈平成日本〉へと駆けつけて来たのだ。この事件がなくとも、すでに亡き妻の墓に許しを請うた以上、彼の行動は一つに定められている。

■オッカムの剃刀[かみそり]ふたつ 3/4■

 
 ダブルベッドの中で一人、ミッチェルは目覚めた。
 今、何時であろうか?
 枕元の電気時計を見ればすぐにわかることだが、なぜかそうする気が起きなかった。
 ベッドの脇机の上に、見慣れた黒いノートパソコンが開かれ、液晶画面に羽の生えたトースターが無数に舞うアニメーションが映し出されている。
 考えてみれば今回、レイアと会ってからかなり時間が経過しているにもかかわらず、彼女の忠実な部下であるこの黒いノートパソコンを見るのは、これが最初だった。
 寝室の床には、脱ぎ捨てられたスーツだのドレスだの下着だのが、無造作に散乱している。昔、ハリウッド映画で、こんなシーンを観た気がしたが、タイトルは思い出せなかった。あるいは、男女の交わりを示すステロタイプな演出だったか。
 暗い寝室の先で明かりが漏れ、バスルームから水音がしている。
「君のご主人様は、シャワー中かね?」
 ミッチェルが半身を起こしながら、黒いノートパソコンにそうつぶやくと、液晶画面が舞飛ぶトースターから灰色の画面に切り替わった。
 自動的にメッセンジャーソフトが立ち上がり、スピーカーからレイアの声が告げる。
『……起きたのか。すまんが風呂を借りている』
 水音がするので、ノートパソコンを介してバスルームから話しているのだろう。
「好きに使ってくれたまえ」
『……借りておいてなんだが、底の浅い風呂は、どうにも落ち着かんな』
「洋式のバスより、和式の風呂の方が良いのかね」
『ああ、肩まで楽につかれる方が良いな』
「なるほど、覚えておくよ」
 ミッチェルは、ベッドの脇に散乱した着衣の中から、スーツの上着を引っ張り上げる。
 上着のポケットから、そっと小箱を取り出す。
 さて、彼女にどう切り出したものか……。
 蓋をあけて中で鈍く光るものを確認し、再び上着のポケットにしまった。
 ミッチェルはあらためて、レイアが所有するノートパソコン、パワーブックG3を見つめる。
 世の中には、喋る機械など無数にあることを現在のミッチェルは知っていたし、このノートパソコンも人語を解する以上、会話能力だってあるはずである。喋れないのではなく、喋らないのだ。もし、この機械と直接会話できたら面白いだろうな、と思う。寡黙な従者が、不滅の所有者を何と評するか、ぜひ聞いてみたいものだ。
「ところでレイア、食事の時は聞けなかったが、これからどうするつもりかね?」
 考えあぐねたすえ、ミッチェルは無難と思える話題を振ってみる。
 沈黙があった。
『……そのことだがな……ミッチ。オレたちの関係は、これっきりにしてくれないか』
 ミッチェルの心に雷鳴が轟く。
 それでも彼は、内面の混乱を制して平静に尋ねた。
「つまりそれは、別れ話の相談かね?」
『そう認識してもらって構わない』
「そうか……そうなのか。いや……いずれそんな日が来ると思ってはいたが、よりにもよって、今か」
『済まんな。弁解になるが、お前に愛想をつかせたわけではないし、他に男ができたわけでもない』
「ではなぜ……!!……嘆きのエヌとの戦いに集中したいから、か」
『そういうことだ』
 よりシンプルな状況を選択することで、より効率的な対処を行う。
 彼女らしい判断だ。
 ミッチェルは、自身が想像した以上に狼狽していることに、いまさら気づいた。
 仮に、こういう状況になったとしても、もっと冷静でいられると思っていたのだが。
 深く息を吸う。
 そして、可能な限り心を鎮め、質問する。
「どうして君は、そこまで嘆きのエヌにこだわるのかね? この世界の維持管理は、管理体直轄の、ヴァリアブルス条約機構に任せておけば良いではないか。それとも、僕よりも世界を守る大儀を優先したとでも言うのかね?」
 ノートパソコンのスピーカーから、レイアが小さく笑う声が聞こえて来た。
『オレに、そんな大それた意識があるわけなかろう。オレが守ってやらなければ維持できない世界なら、いっそ滅んだ方がいいぐらいさ』
「君がそういう考え方をするのは知っている。ならばなぜ、救世主じみた真似を……いや、文字通りの"救世主"を演じているのかね?」
『売られた喧嘩を買ったまでさ。やられっぱなしは、悔しいからな』
「別に、君個人を狙った攻撃ではあるまい。ドライブエンジニアとして数機構に協力するのはわかるが、君がそこまで傾注する理由がわからんよ。せめて、それだけでも教えてくれないか?」
『それは……話せない』
「?……さきほど、君自身から色々と事情を聞いたし、聞かれてまずい話などないと言っていたではないかね」
『あれから状況が変わったのさ』
「変わったとは何がっ!! ……いや、すまない。冷静にならなければ、会話にならないな。……状況が変化したという事情について、説明してくれないか?」
 そこで不意に、レイアの黒いノートパソコンのスピーカーから、聞き慣れぬ若い男の声がする。
『その件につきましては、私の方からご説明しましょう、ミッチ』
 思わずミッチェルはベッドから跳ね起き、愛用の杖を掴んで身構える。
 そして、声の主が何者であるか思い至り、問う。
「ひょっとして君が、レイアの言っていた"奴"かね」
『ご賢察の通りです、ミッチ。こうして会話をさせていただくのは初めてですね。はじめまして。私は、パワーブックG3の人格プログラムです。以後、ハンスとお呼び下さい』
「ハンス……ドイツ人か」
『トルコ系ドイツ人という設定です』
「……さしずめ、ハンス・G3[ゲードライ]といった所か」
『結構ですね。以後、フルネームとして名乗らせていただきましょう。……さて、ご質問の件について説明させて頂いてよろしいでしょうか?』
「あ、ああ……頼む」
『了解しました、ミッチ』
 間の取り方など、会話として芸が細かいなとミッチェルは感心しかけたが、三十年来のパートナーから絶縁されたことを思い出す。
 いっそ、自棄になって笑い出したい気分だった。
『さきほど、ヴァリアブルス条約機構から堀越レイアに対して、正式に通告が出ました。〈平成日本〉の有選クイックハルトプレイヤーを辞し、後任を疾風良一に委譲する件につき、付帯条件を設けるというものです』
「それは何かね?」
 ミッチェルの問いに応じて、ハンスこと黒いノートパソコンのディスプレイに、一枚の電子文書が表示される。
 それは、ヴァリアブルス条約機構の内容証明がついた、正式なものだった。
『後でヴァリアブルス条約機構に問い合わせていただいても結構です。ごらんの通り、今回の嘆きのエヌによって引き起こされた事件について一切、他者に口外しないこと。この守秘義務に違反した場合、後任を疾風良一とする件は白紙とする……という内容です。やりますね、エージェント近恵も』
「……近恵というと、中島近恵女史か。現地人と結婚して、財閥婦人になった模造人間という……彼女が、レイアに守秘義務を課したのかね」
『ここは"左様でございます"とお答えすべきでしょうか。昨日少々、レイアと近恵がやり合いましてね。レイアの発言を危険視したための措置でしょう。昨晩の段階では問題なかったのですが、今は守秘義務に抵触するため、話すことができないというわけです。ご了承下さい』
「それは……迂闊な発言はできんな」
 ヴァリアブルス条約機構が守秘義務を課すということは、血縁者や配偶者、恋人や友人、知人に対しても発言を禁じ、これを監視するということだ。
 もっとも、レイアの常軌を逸したドライブエンジニアとしての能力をもってすれば、守秘義務を回避することも不可能では……。
「……つまり、嘆きのエヌを万全の態勢で迎え撃つために、余計なリスクは負いたくないというわけか」
『ご理解が早くて助かりますよ、ミッチ』
 しばらく茫然自失していたミッチェルの口からふと、ラテン語の一文が漏れる。
「……Pluralitas non est ponenda sine neccesitate.」
『単純な理論で良しとするならば、複雑な理論を用いるべきではない。"オッカムの剃刀"と呼ばれる、二者択一の指針ですね』
「そうだ……指針であって、正解にいたる確実な方法論ではない」
『確かにその通りですが、よりシンプルに見える方法が正解である場合が多いと、一般的に思われていますね。シンプル・イズ・ベスト、などと言いますし』
「なぜ、そこまでこだわるんだ? 僕には理解できない……理解できないよ、レイア……」
 ミッチェルはそう言ったきり、黙り込んでしまう。
『……』
 しばし、何事か考え込んでいるふうだったハンスが言う。
『伺いますが、レイア。"あの件"について、ミッチに説明してよろしいですか?』
 ふたたび、スピーカーからレイアの声。
『構わんが、守秘義務は大丈夫だろうな』
『ええ、所詮は人工知能の"戯れ言"ですからね。都市伝説のようなものです』
『ならば好きにしろ』
「?……」
 ベッドの上で力なくうなだれるミッチェルに、ハンスが言う。
『まずは、この画面をご覧下さい』
 その言葉と同時に、モニター上でワープロソフトが起動する。
 自動的に文字が入力され、画面に大きく、
 
N:'-[
 
 という文字が表示された。
『これが事件の発端となった、メールの件名です。呼称については、私が字面から適当に名付けたのですが、どうもパブリックな名称になってしまったようですね』
 アルファベットのNと、人が泣いているような西洋式の顔文字。
「嘆きのエヌ……か」
『次に、こちらをご覧下さい』
 すると、嘆きのエヌの顔文字が改行されて下がり、かわりに、
 
Q33NY
 
 という文字が表示された。
「これは?」
『今回の事件が起こった日付……九月十一日で、世界的に有名な事件といえば何がありますか、ミッチ』
 彼は頭の中で、旧世界の歴史を検索した。
 言葉を学ぶということは、歴史や文化を学ぶことでもある。
「世界中で、誰もが知っている史実と言えばまず……旧西暦二〇〇一年九月十一日のアメリカ同時多発テロ事件か」
『その通り。この事件でもっとも有名なのは、ニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件──テロリストにハイジャックされた旅客機が、ビルに激突したというもの──ですが、この文字列はクィーンズ通り三十三番地……このビルの住所を表しています』
「これに、何かあるのかね」
『ええ。これをとある書体に変換すると……。フォントという概念は御存知ですか?』
「明朝体やゴシック体など、文字を同一の規格で管理する概念だろう。同じ規格のフォントならば、書体が違ってもコードを指定することで同じ形の文字が表示されるはずだ」
『基本的にはそうですが、例外もあります。絵や記号を表示する専用のフォントの場合、一般の文字列とはとは異なるものが表示されることがあります。ご覧下さい』
 ハンスの言葉に合わせて"Q33NY"の文字が反転し、異なるフォントが指定される。
 そこには、次のような絵記号が表示された。
 
Q33NY
 
「これは……」
『飛行機が双塔のビルに向かい、死を生み出す……というようにも読めますね』
「不吉な予言というわけか……」
 そこでふと、ハンスはシリアスな語調を緩める。
『もっともこれは、良くできた"デマ"なのですがね。実際のニューヨーク世界貿易センタービルの住所は"NY 10048"ですから、この文字列は、住所とは無関係です。ただ、今回の首謀者がこの故事に倣ったという可能性はあります』
「つまり、同じことを嘆きのエヌの文字列に適用すれば……」
『やってみましょう』
 ディスプレイ上で、"N:'-["の文字列が反転し、さきほどと同じ書体が適用される。
 そこには、次のような絵記号が表示された。
 
N:'-[
 
『郵便ポストに火がつき、コンピュータに死が訪れる……というようにも読めますね』
 ミッチェルは、変換された記号を見つめ、熟考する。
「ポストを電子メール、コンピュータをドライブスペースに読み替えれば……たしかに、今回の事件を予告しているようにも読み取れるな。だが、最後の太陰大極図(陰陽マーク)は何かね? それに、この絵記号の意味とレイアが事件にこだわる原因との因果関係も理解出来ないのだが」
『それについては、もうしばらくお待ち下さい。あと、そろそろレイアもバスルームから出てきますので、着替えられた方がよろしいかと』
「?……ああ……わかった」
 さっぱりわからなかったが、とりあえずハンスの忠告に従ってスーツを着込む。
 彼がネクタイを締め直す頃に、バスルームの方からゴソゴソと物音がして、黒い人影が出て来た。
 いつも通り、黒い全身服を身にまとい、ミッチェルの元パートナーが立っている。
 彼女は床に放り出された白衣をつまみ上げると、無造作に袖を通した。
 ミッチェルが言う。
「前から聞きたいと思っていたのだが」
「何だ? 守秘義務に……」
「いや、そのことではなくてだな……君のその全身服は、自動的に温度調節がされ、発汗も体臭も吸収されるはずだね」
「損傷の再生と、使用者が受けた傷の応急処置もな」
「そう聞いている。ではなぜ君は、白衣を着るのかね。全身服だけで、機能的に事足りるのではないか?」
 問われたレイアが、少し苦笑する。
「こいつには……手を入れる場所がないんでね」
 そう言って、白衣のポケットに両手を突っ込んで見せた。
 ミッチェルも苦笑する。
「君らしいよ……」
 彼女は一見、冷徹な合理主義者のように見えて、実はそうでもない。
 思考接続され、考えただけで指示ができるコンピュータがあるというのに、わざわざキーボードによるコマンド入力を併用しているぐらいだ。
 今度は、彼女自身にとっては無駄でしかない、ハンスという音声対話装置まで使うようになった。
 どれほどの力を持とうと、自分より優れた相手が出現すれば、それに応じて自らを変革して行く努力を惜しまない。
 以前の彼女を認め、愛していた者になど、構ってはいられないということだ。
 ──僕はもう、今日からの彼女には、不要な存在なのか──
 そう、ミッチェルが諦念しかけた時、レイアが白衣の大きなポケットから、何やら取り出しながら言う。
「ミッチ、こいつが何かわかるか?」
 それは、トンファーのような形状に刃のついた武器。
 刃の部分にはカバーが装着されている。
 どこかで見た覚えがあった。
「たしか昨日……いや、一昨日のクイックハルトで……」
「そう。オレの相手が使っていた、オプティマスダガーだ。こいつが最初の鍵となる……来るぞ、構えろ」
 レイアの言葉と同時に、周囲の空気が一変した。

■オッカムの剃刀[かみそり]ふたつ 4/4■

 
 世界が遷移する、独特の感覚。
 何も考えず、ミッチェルはベッドの脇に立てかけた愛用の杖を手に取る。
 二人の眼前に、何かが出現した。
 ミッチェルは、林檎の木で出来た柄頭を掴み、居合いの要領で一気に引き抜く。
 そして"それ"に向かい、杖から引き抜いたエネルギーの塊を叩きつける。
 〈GDイギリス〉のクイックハルトプレイヤー、〈スピットワンダー〉ことマーリン・ミッチェルが愛用する武器、アヴァロンの杖が一閃した。
 使用者の意思で形状を選択できるそれは、輝くエネルギーで形成された棘つきの鈍器、"明けの明星[モーニングスター]"の姿をしている。
 完璧なカウンターが決まったかに見えたが、出現した"それ"は、手に発生させたエネルギーの刃で容易にアヴァロンの杖の一撃を逸らせてしまう。
 同時にレイアも、手にエネルギーの刃を発生させ、打ち込んでいたが、こちらは左手に持った白い板状の物体に防がれる。
 その直後、ミッチェルはアヴァロンの杖の鞘を突き出し、レイアは体をひねって蹴りを入れた。
 五割以上の勝率を誇る、優秀なクイックハルトプレイヤーであるミッチェルには見えなかったが、二人の二撃目が到達する前に、"それ"は二人の間を駆け抜けている。
 そしてようやく、何かの圧力が二人を跳ね飛ばしていることに気づく。
 敵が何をしたのかは見えなかったが、敵が何者であるかははっきりと見えた。
 遷移した世界が元に戻り、"それ"が消える。
「やはり、二人がかりでも駄目か」
 レイアが部屋の隅で立ち上がりながら、いまいましそうに言った。
 圧力で部屋が派手に破壊されたはずだったが、元の状態に戻っている。
 ミッチェルは吹き飛ばされた先がベッドだったので、さほどダメージは受けていない。
 エネルギーの塊が消滅したアヴァロンの杖の柄頭を、鞘に嵌めなおしながら言う。
「今のは何だ……いや、今のが嘆きのエヌなのかね?」
「ノーコメントだ」
 守秘義務に抵触するから言えないのなら、正解だと言っているようなもの。
 ミッチェルもそれ以上、言及する気にはならなかった。
 かわりに気づいたことを指摘する。
「さっきの武器はどうしたのかね? 見あたらないようだが……」
 彼女はさらりと答える。
「奪い返されたようだ。まあ、オレが呼んだようなものだがな。最低限のデータは取れたから、良しとしよう」
「まさか、自分より優れた敵のデータを採取するために、事件の鍵を囮に使ったのかね?」
「ノーコメント……いや、その通りだな。敵の手先を引きずり出せただけでも、大きな収穫だ」
「だが、しかしあれは……あの姿はまるで……」
 ミッチェルは見ている。
 "それ"は、白い全身服に白いノートパソコンを持った、堀越レイアそっくりの人物であった。
 黒い全身服姿のレイアが、小さな声で言う。
「敵の攻撃手法が、オレのやり方と良く似ているんだ。しかも、オレより洗練された手法でな。だから、敵がオレと無関係とは最初から考えていなかった。まさか、あんな姿だとは思わなかったがな……」
 そこにすかさず、ハンスが割り込む。
『守秘義務違反ですよ、レイア。一応、誤魔化しておきますのでご心配なく。本件は、オフレコでお願いしますよ、ミッチ』
 ミッチェルは疲労を自覚しつつも言う。
「わかったよ……色々とね。白と黒の太陰大極図が何を示すのかも、レイア……君がなぜ、嘆きのエヌにこだわるのかも……それに、僕がどうこうできる相手じゃないことも、ね。もちろんこの事は、他言しないと約束する」
 レイアは、ミッチェルの言葉に頷いてから言う。
「正直、あいつが何者かは知らんし、興味もない。だが、クイックハルトなぞにかまけている場合ではなくなったということだ」
 ──だから、クイックハルト〈平成日本〉代表を良一君に譲るというわけか。今回の事件の鍵となった、もう一つの存在を監視する意味も含めて──
「勝算はあるのかね?」
「今は自分の身を守るので精一杯だ。できれば十年……いや、二十年以内に決着をつけたい所だな」
「それまでに相手の技術を学び、さらには凌駕してみせる、ということかね?」
「可能ならな。何とか敵の手段を限定し、こちらに有利な場所に引きずり出す。それで奴に追いつけなければ、オレにはお手上げだな」
「その時、管理体自身にこの世界を守るだけの力がなければ、この世界が滅んでも仕方ない、というわけか」
「最悪でも、管理体自身が力をつけるのまでの、時間稼ぎができれば良いと思っている」
「さっきから聞いていると、君にしては随分と悲観的だね」
「明らかに自分より優れた敵だからな。確率的に勝算が低い以上、悲観的にもなるさ」
「……」
「他にも、言いたいことでもありそうだな」
「ああ……その通りだ。僕は……僕には、君が悲観論を口にしながら、無力な自分に怒りを覚えながら、それでいて実に生き生きとしているように見える。ひょっとして君は、世界の……いや自分の存在意義を揺るがす危機的状況を楽しんでいないかね?」
 驚くレイア。
「そう見えるのか?……そうかもな。いや、そうだな。確かにオレは、自分を超えた存在に挑戦する行為を、楽しんでいるな」
 嘆息するミッチェル。
「気づいていなかったのかね……まったく、実に君らしいよ」
 
 レイアが去った部屋の中で一人、ミッチェルはうなだれてベッドに腰掛けていた。
 結局自分は、彼女にとって何だったのだろうか?
 上着のポケットから小箱を取り出し、振り上げた手で床に叩きつけようとして、止める。
 ──あんな敵さえ出現しなければ、僕は彼女に……──
 その時、部屋の内線電話が電子音を発する。
 ミッチェルは、小箱を持ったまま空いた手で受話器を取った。
「もしもし……」
 電話口から、明るい男の声が流れる。
『ハンスです、ミッチ。よろしいですか?』
「……なんだ、君か。まだ用があるのかね」
『ええ。失礼ながらお尋ねしますが……ひょっとして、あなたはレイアにプロポーズするつもりだったのではありませんか?』
 ミッチェルはため息混じりに苦笑する。
「すべてお見通しというわけか……彼女にも」
『いえいえいえ、私はそんな野暮じゃありませんよ。レイアには知らせていません。こうしてお電話させていただいているのも、彼女に知られないためです』
「もう終わったことだよ。わざわざ連絡してもらって悪いがね……」
『せっかくエンゲージリングまで用意されたのでしょう。言うだけ言ってみれば良いじゃないですか? 案外レイアも、"それも面白いな"とでも言って、受けてくれるかもしれませんよ。……無論、私の個人的な見解ですので、保証はいたしかねますが』
 ミッチェルは鈍った思考を総動員して、ハンスの提案を検討してみた。
 たしかにその可能性は、ある。
 彼に愛想をつかせたわけではないとも言っていた。
 彼女が変化を求めるならば、別離のかわりに結婚もありだと考えるかもしれない……が。
「……いや、駄目だな」
『そうですか。よろしければ、根拠をお聞かせ下さい』
「ハンス……君は、人間の感情の機微というものが理解しきれていないようだな。いいかね。仮に、レイアが僕のプロポーズを受けてくれたとしよう」
『ええ』
「それは、彼女にとってどの程度、意味のあることだと思うかね?」
『?……新たな状況の変化が発生するという意味があるかと』
「そう……だがそれは、僕と別離するのと同程度の変化でしかないのだよ」
『どちらにせよ、レイアにとってさほど重要な変化ではないし、自分にその程度の価値しか無いと思われることに耐えられない、と。なるほど、理解できました』
 ミッチェルは、君に理解されても嬉しくないのだがね……と言いたかったが、その言葉をぐっと飲み込み、かわりにこう言った。
「ハンス、レイアのこと、よろしく頼む」
『微力を尽くしますよ、ミッチ』
「随分とご大層な"微力"だな。たしかに、君という存在がレイアにとってプラスの変化をもたらすであろうことは、認めざるを得ないよ」
『"恐縮です"と、申し上げておきましょう』
 ミッチェルとハンスは同時に笑う。
 彼は、最後にハンスと話が出来て良かったと、心から思った。
 電話を切り、彼は再び一人になる。
 枕元の電気時計で時刻を確かめようとして、止めた。
 見て何になる?
 彼の時間は止まってしまったのだ。
 無造作に、エンゲージリングの入った小箱を放り上げる。
 再び、アヴァロンの杖を抜き放つ。
 今回は細長い"細剣[レイピア]"の姿をした輝きが、宙を舞う小箱を貫く。
 小箱が光に還元され、次いで細剣に貫かれたエンゲージリングも光の粉となって散った。
 ミッチェルは思う。
 堀越レイアは、無用な複雑さを避けているに過ぎない。
 彼女はその心を、ふたつの剃刀で削り落としている。
 第一の剃刀で、三十年来のパートナーを削り落とし、第二の剃刀で神々の戦いに臨む大義を削り落とした。
 個人の情愛もなく、救世主の気概もなく、ただ自尊心を満たすためだけに、嘆きのエヌをも凌駕する、新たな自己を再構築しようというのだ。
 神にも等しい存在に迫り、超越しようとする純粋な意思。
 それが何者であれ、全力で敵対者を排除する。
 本気になった彼女のそばに、自分の居場所などありはしなかった。
 今のレイアにとって、自分と結婚することは、別離と大差がない。
 それでは駄目だ。
 ――もし僕に、今の彼女と正面から向き合う方法があるとすれば――
 それがミッチェルの心に、[くら]い決意の宿るきっかけとなった。
 

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