彩河原家が、中島家との結びつきを深めようとした政略。それは、世界一周の途にあったドイツの飛行船、グラーフ・ツェッペリン号が霞ヶ浦を訪れた折に決行された。社用と称して近恵を台湾に呼び寄せ、その間、飛行船見物にかこつけて知上と菊華を共に彩河原家の別邸で過ごさせたのだ。事実、ツェッペリン泊號来日の際は、周辺の宿泊施設はどこも満杯で、別邸は飛行船見物にはうってつけの立地であった。知上にとっては、歳の離れた従妹と、しばし職務を忘れて飛行船見物に興じるていどの気持ちであったが、菊華にとっては清水の舞台から飛び降りるつもりで知上に迫った。その想いが遂げられることは、ついになかったが。近恵が戻った時、知上はいつも通りであったし、菊華も変わらず中島家に遊びに来ていた。知上からおおよその事情は聞いていたが、近恵は知上が没し、菊華から絶縁されるまで知らぬ振りを通した。
「キッカさん……もし、よろしければ……あの船に乗ってみませんか?」
そう、近恵が言ったのは、ロサンゼルス号が太平洋上に出て、かなり小さく見えるようになってからだった。
菊華は涙を袖でぬぐい、背後で自分を支える近恵を見る。
「乗れるの……ですか?」
「左様でございます。主人から、キッカさんが今度はツェッペリン伯號に乗ってみたいとおっしゃっていたと聞いております。ロサンゼルス号はこれより補給を受けた後、〈昭和日本〉から有連君府(有連イスタンブール)を経由して後代領域へ遷移いたします。乗船の手配は済んでおりますが、お乗りになりますか?」
近恵の申し出に、菊華は少女のように瞳を輝かせる。
「乗りたい……乗ってみたいです、コノさん」
「承知いたしま……」
「ちょ、ちょっとお待ちになってくださいっ!」
そこでたまらず、美鶴が叫ぶ。
「近恵さま……断りもなく、何を勝手に決めているんですか? おばあさまの面倒は、私に任されておりますわ。菊華さまも、もっと冷静に考えてからお決め下さいっ!」
美鶴の剣幕に気圧され、おびえた菊華が近恵にすがりつく。
その態度が、さらに美鶴を苛つかせた。
「だいたい、あの船に乗るって、どうやって? 今の日本に大型の硬式飛行船を係留する施設なんてございませんわ。霞ヶ浦の自衛隊基地にだって、記念碑以外、何もありませんもの。地上の支援要員もなしに、一体どうするおつもりかしら?」
近恵は菊華をかばうようにして一歩前に出ると、静かに言う。
「美鶴さんは、“怪物”の正体をご存じなかった割に、ずいぶんと飛行船の事情にお詳しいようでございますね」
「そんなことは関係ございませんわ。おばあさまを、あんな水素の塊に乗せるなんて危険なことは……」
「アメリカ海軍が保有する飛行船はすべて、ヘリウム式でございます。引火する危険はございません。また、飛行船の爆発事故に関しましては、水素を使用することよりも外皮に問題があるというのが通説でございます。その対策は、すでになされております。係留と補給、乗船に関しましては……ご覧下さい」
美鶴が近恵の示す方を見ると、ロサンゼルス号が洋上に停泊した船と繋がる瞬間だった。
それは、今朝の散歩で見かけた見慣れぬ形の船。
ロサンゼルス号の半分にも満たない洋上の船が、空中の船をつなぎ止めている。
船尾の塔は、飛行船の係留マストだったのだ。
「アメリカ海軍は、独逸より学んだ飛行船技術を独自に発展させ、洋上での補給を可能にする飛行船母艦、パトカ号を建造いたしました。それを後代領域にて運用できるよう、改修したものにございます。迎えの舟艇がこちらに向かっているはずでございます。キッカさん、身の回りのものだけで結構ですから、お支度をなさってください」
「はい、コノさんのおっしゃる通りに」
「ですから……勝手なことは……なさらないで、下さいと……」
そう反論する美鶴だが、その声は弱々しいものになっている。
屋敷に戻っていく菊華を見送ってから、近恵は美鶴を見据え、静かに言う。
「本件につきましては、彩河原衆帥さんおよび彩河原家の親族会議にて了承を得ております。わたくしは本日、衆帥さんの依頼で参りました」
「そん……な、私だって衆帥さまの指示で……」
「菊華さんがおっしゃる“怪物”を、こうして実際にお見せすることは、たしかに一般の方には困難でございましょう。ですが、“怪物”が何であるかがわからない、ということはないかと存じます。菊華さんの言動と経歴、そしてここ、霞ヶ浦の歴史を調べれば、“怪物”の正体が、戦前に飛来したツェ伯號と呼ばれた大型硬式飛行船であることは明白でございます。その“怪物”を、美鶴さんは“見せようがない”ではなく、“正体がわからない”と言い続けたことを、衆帥さんは訝しんでおられました」
「!?……衆帥……さまが……」
「それと、昨晩行われた彩河原家の親族会議にて、華隆さんの遺言──つまり、“怪物”を菊華さんに見せなければ、一族全体の後代領域への移住を認めないというものですが──これを達成困難につき無効とする、と決まっております」
「!……」
「今後は、個々人の判断で、移住を決めて良いという方針に転換されました」
「では、遺言そのものが……」
「達成の是非にかかわらず、無効となっております」
「……私……なに、やってたのかしら。そんなことも知らずに……知らされずに……」
美鶴の不審な行動は衆帥の知ることとなり、親族会議にも呼ばれず、一族でもない近恵によって暴かれたということか。
まるで、タネを見透かされた手品を必死でやり続けていたようなものだ。
さぞや滑稽に見えたことだろう。
近恵は続ける。
「華隆さんの遺言には、“怪物”の正体について気づいても他言してはならないという条項もあったようでございますが、彩河原家の多くの方々は御存知のようですよ。大半の方は、“わかっている”から断念されているのに、美鶴さんだけは、“わかっていない”ふりをして、菊華さんから離れようとしなかった……よろしければ、その理由をお教えいただきたいのですが」
それを知るためだけに、自分は泳がされていたというのか。
「ひっ……うっ……」
美鶴はいつの間にか、自分がひどく追いつめられていることに気づいた。
近恵は、すべてを計算づくでこの館にやって来たのだ。
絶縁したはずの菊華と関係を修復し、あるはずのない“怪物”まで呼び寄せて。
何も恥じることなく、堂々と。
対して自分はどうだ。
自分は、“怪物”の正体もわからぬ無能を演じ続けならが、もしも他人が遺言を履行しようとしたら妨害する。
なんと浅ましく、ちっぽけで、愚かな行為だろう……。
いまさらながら美鶴は、自分が惨めになった。
うずくまり、膝を抱える。
──この女さえ来なければ……私は、私の望むままに生きられたというのに……コイツさえいなければ……この、出来損ないの──
美鶴の心に、澱んだ感情が吹き出しはじめた時、ふと誰かの手が、彼女の頭の上に置かれた。
「うん、うん、わかります……わかりますよ、ミツルさんの気持ち……」
見上げるとそこに、優しい眼差しを向ける菊華がいた。
「おばあさま……」
菊華はおだやか調子で、おだやかではない言葉を吐く。
「あたしにも経験がありますよ。老いることも知らぬ、出来損ないの“生き人形”の分際で、わかったふりした作り笑顔で、あたしの大切なものを根こそぎ奪い取って、一体何様のつもりなの? 人でもないくせに……ってね。でもそれは、コノさんのせいではないし、コノさんを恨むことでもない……それは、ミツルさんにもわかるわよね」
「はい……はい、とてもよく、わかりますわ……」
美鶴はしわがれた手にすがりつき、声を出して泣く。
菊華は美鶴が泣きやむまで、ずっと彼女の頭をなでてくれた。
なぜ“怪物”の正体について“知らないふり”をしていのか、美鶴は近恵に正直に話した。彼女が経営するアンティークショップは現在のところ経営はきわめて順調である。しかし、一族の都合に合わせて後代領域に移住しても、その先で事業が上手く行く保証はない。また、彩河原の名を捨てて無理に〈昭和日本〉へ居残ることも可能だが、有力な出資者の一人が、美鶴が彩河原の人間でなくなれば援助を打ち切ると通告してきた。一族の力に頼ったつもりはなかったが、それでも自分の事業の成功が彩河原というブランドで補強されたものに過ぎないことを思い知らされる。美鶴はアンティークショップを経営するかたわら、月に数度、菊華を見舞うと称して、万が一にも“怪物”が菊華の前に現れないよう監視して来たのだ。その万が一の事態が、ついに起こってしまったわけだが。
この行為自体は、なんら問題ないと近恵は言う。ただ、美鶴に彩河原家の移住を阻止するよう示唆した出資者について訊ねられたので、知る限りのことを答えておいた。一族がそれぞれの都合で移住と定住を選択すれば、資産は二つの領域に分散し、一族全体の力は弱まることになるだろう。だがそれでも、美鶴は彩河原の人間として〈昭和日本〉に残ることができる。その結果だけで十分だった。
その日の夕刻。
飛行船母艦、パトカ号の係留マストを離れたロサンゼルス号は菊華を乗せ、ゆっくりと動き出す。
夕日に朱く染まったロサンゼルスの怪物は、霞ヶ浦を横切り、東京湾を抜けて西へ向かうそうだ。
美鶴は近恵の車に同乗して菊華を船着き場まで見送り、そこで別れを済ませている。
別れ際、近恵と菊華は二人で何か話をしていた。
「……フガクさんは、あれからすぐに彩河原の家を……」
そんな菊華の言葉が漏れ聞こえたが、詳しい事情は知るよしもない。
自分のささやかな陰謀とは比べものにならない想いの積み重ねが、あの二人にはあるのだろう。
今、美鶴と近恵は並んで鹿島灘から霞ヶ浦に向かうロサンゼルス号を眺めている。
菊華が窓から手を振っているようにも見えたので、美鶴は飛行船に向かって手を振った。
気のせいかもしれないが、今は無性に菊華との別れが名残惜しい。
史実では旧昭和四年八月に飛来したグラーフ・ツェッペリン号に続く、史実には存在しないロサンゼルス号の来訪は、関係機関には通達されているものの、マスコミでは一切、報道されていないそうだ。
それでも、霞ヶ浦上空に現れた第二のツェッペリン飛行船を一目見ようと、かなりの数の人々が近隣から集まっている。
これから東京湾を横断するとなれば、さらに多くの人々が“怪物”を一目見ようと、空を見上げることになるだろう。
ロサンゼルス号の船影が銀色の輝点となった頃、近恵がぽつりと言った。
「あの飛行船や母艦の乗組員はみな、わたくしと同じ模造人間なのだそうです」
「……」
「ロサンゼルス号にしろパトカ号にしろ、史実では先代領域にて処分にされるところを、有史世界領域連合が買い上げ、模造人間を乗組員として教育し、操船させているそうです。後代領域へ移送する際、訓練をかねて各地を飛行させているのでございます。……若干、わたくしの都合で飛行経路を変更していただきましたが」
「そうでしたの。菊華さまのためだけに、船を呼んだわけではなかったのですね……でもなぜ、そのような手間をかけるのですか? より進歩した世界なら、旧式の飛行船など不要ではありませんか……あるいは、もっと優れたものを新造することも可能でしょうに」
美鶴の問いに、近恵は再び空を見上げて言う。
「いいえ……古いものを古い技術で造り、運用することには、後代の新しい技術で再現することでは得られない価値がございます」
「!……つまり、アンティークとしての価値、なのですね」
「左様でございますね」
それは美鶴にとって、意外な発見だった。
自分が仕事で扱っている古物と、あのロサンゼルス号は、等しく古き良きものとしての価値がある。
新しければ良いわけでもなく、古いから価値があるわけでもない。
良いものだから、古くても良いのだ。
有史世界領域連合という世界そのものが、そういった古き良きものに対する需要を満たすために存在するのかもしれない。はるかな未来の世界から見た、アンティークの宝庫として。
あのロサンゼルス号も、美鶴がヨーロッパへ古物を仕入れに行くのと同じように、オークションで落札するのと同じように、誰かが誰かのために購入したのかもしれない。それは、彼女には縁のない世界の話かもしれないが、その世界でも同じくアンティークに価値が見いだされているはずだ。
その視点に気づいただけでも、今回の件は貴重な経験だったと納得すべきなのだろう。
納得と言えば……。
「……そうですわ、近恵さま……もうひとつ、うかがいたいことがあるのですが」
「何でございましょう?」
「近恵さまかがいらしてから菊華さま、ずいぶんと昔のことを思い出されていたいように見えましたが……実際はどのていど、過去が蘇っていたのでしょうか? さきほどの近恵さまのお話しから察するに、菊華さまが完全に昔のことを思い出されていたら、とても近恵さまと親しくできるとは思えませんが……でも、昔のことがわからなければ、私にあのようなお言葉をかけて下さるはずも……」
近恵は少し、寂しそうに微笑んでから答える。
「わたくしに、複雑な人の心理はわかりかねます。電気的に人の心を測定する技術もございますが、公務で使用するものですし、あえて私的に用いようとは思いません。菊華さんと、こうしてふたたびお話しできたことだけで……わたくしには、十分でございます」
菊華と近恵……二人はどれほど仲違いをしようとも、見かけの年齢が大きく異なろうとも、心の深い部分で強く結びついているのだ。そう確信した美鶴は、さきほど菊華にしたのと同じ質問をする。
「近恵さま……近恵さまは、亡くなったご主人と同じように、菊華さまのことを大切に思ってらっしゃるのですわね」
その言葉に近恵は顔をほころばせ、力強くうなずいて言う。
「左様でございます!」、と。
了