★短編小説〈#_quickhalt_external:ロサンゼルスの怪物ふわり〉★
─2007年5月─
〈#_quickhalt_external:ロサンゼルスの怪物ふわり〉は、
郁雄/吉武が2006年9月に発表した長編SF小説〈クイックハルト〉の短編外伝です


※〈#_quickhalt_external:ロサンゼルスの怪物ふわり〉は、郁雄/吉武が2006年9月に
 発表した長編SF小説〈クイックハルト〉の短編外伝です。


※外伝は〈クイックハルト〉本編終了から5ヶ月後、ヴァリアブルス条約機構の
 外交員、中島近恵側の視点で描かれています。

※外伝は、本編の重大なネタバレを含む点をご留意ください。



■本編〈クイックハルト〉の紹介ページ■

どんな話? / あらすじ / 登場人物 / 用語解説 / 資料集 / ★Astronaut Main

2007/05/26:郁雄/吉武


●書名:クイックハルト

出版:文芸社 本書紹介
サイズ:B6判 / 325p
ISBN:4-286-01800-8
発行年月:2006.9

●著・装丁:郁雄/吉武 著者紹介
URL:http://www.astronaut.jp/

●イラスト:丸山トモヲ 本書紹介
URL:http://oxox.gozaru.jp/

●定価:1,500円(税別)

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■本編〈クイックハルト〉の詳しいあらすじ■

 
 はるかな未来。人類は生活の場をデータ上の世界、“ドライブスペース”に移していた。この世界では異世界間の戦争が禁止されており、かわりに不老不死不滅の属性を持つ者同士による、“クイックハルト”と呼ばれる決闘によって、紛争が解決されている。
 
 疾風[はやて]良一は、二十一世紀前半の日本をモデルとした世界〈平成日本〉で暮らす男子高校生。ある日彼は、〈平成日本〉と平行して存在する世界〈昭和日本〉から移住したばかりの、圧倒されるほど巨大な胸を持つ少女、彩雲[あやくも]千早と知り合う。その夜、良一はクイックハルトをテレビ観戦中に“ N:'-[ ”という件名がついたメールを受信したのちに不可思議な体験をし、その結果として、良一と千早の親兄姉が乗る旅客機が完全に消滅してしまう。同じ不幸を共有することで、急速に親密になる二人。そこへ、ドライブスペースの管理組織から派遣された女性、中島近恵[このえ]と、クイックハルトの女闘士、〈ストレイジーク〉こと堀越レイアがやってくる。近恵は千早と補償交渉を行い、レイアは良一をクイックハルトの闘士へと誘う。いつの間にか良一は、不老不死不滅の存在となっていたのだ。
 
 事件から半年後、二人は〈昭和日本〉で同棲している。良一はクイックハルトの闘士となるべくレイアの元で訓練を受け、千早はレストランで給仕の仕事をしていた。その日は千早の十七歳の誕生日。彼女の勤めるレストランにて、半年前に知り合った面々で誕生パーティーが開かれる。その夜、良一が自宅でネット巡回をしていると、またもや不可思議な体験をし、その直後に千早が消える。翌日、近恵の案内で千早と再会し、愛を確かめ合う二人。その後良一は、一連の事件の元凶である〈嘆きのエヌ〉と呼ばれる存在の手先と非公式なクイックハルトを行うことになる。その相手とは……。
■ロサンゼルスの怪物ふわり 1/4■

 
“彩河原美鶴”
 
 陽光を反射して鈍く輝く銀色の“怪物”が、悠然と視界にのしかかってくる。
 彼女は背筋に恐怖を感じながらも、それとは別の理由で傍らの男性の腕にしがみついた。
 怖れることはない、と男性は優しく彼女に告げてから、再び“怪物”に視線を戻す。
 その眼差しが、彼女に向けられることはついになかった。
 かつて“世界の三大怪物”の一つと称されたこともある“それ”を見たことが、その後の彼女の人生を強烈に支配することとなる。
 
「ほら、おばあさま……ご覧になって」
 ロングヘアーの若い女性が、傍らの老婆にそう告げた。
 老婆は足を止めると、ゆっくりとした動きで首を動かし、海を見る。
 その視線の先に、少々見慣れぬ形の船が停泊していた。
「あれが、おばあさまのおっしゃる“怪物”かしら?」
 昨日は見かけなかったとはいえ、言った当人ですら、正解する自信のない答え。
 ただ、船尾に高い塔が設置されているのが珍しいというだけの船……おそらくは貨物船か何かだろう。
 案の定、老婆はわずかに首をゆすりながら言う。
「いいえぇ……あたしが見た“怪物”は、もっともっと、ず〜っと大きかったですよ」
「そう、ですか……」
 太平洋に浮かぶ、ちっぽけな“怪物”候補を見限り、若い女性はため息をつく。
 月面領域[ルナドライブ]内、〈昭和日本〉。
 月西暦一九〇七年、昭和八十一年八月の早朝、茨城県東部。
 霞ヶ浦の北浦と鹿島灘に挟まれた南北に細長い地域。
 夏の盛りとはいえ早朝は涼しく、私有地の砂浜に他の人影はない。
 老婆は存外にしっかりとした足取りで、ふたたび海岸を歩き出す。
 しかし、すぐに立ち止まると、若い女性に向かって訊ねた。
「ところで、あなた……どなたかしら? あたしにずいぶん良くしてく下さるのに、名前も知らないなんて失礼だわ。よろしかった教えて頂戴」
 決して失礼な物言いではなかった。
 しかし若い女性は、一瞬だけ眉をしかめ、握った拳に力を込めるが、すぐに息を吐いて強引に優しい表情を形作る。
「……私はおばあさまの孫で、彩河原美鶴[さいわらみつる]ですわ」
 老婆は美鶴の言葉にしばらく目を丸くして沈黙するが、やがておだやかな表情で言う。
「ミツルさん……ね。覚えておきましょう。あたしは彩河原菊華[きくか]と言うのだけれど……ごめんなさいね、あたしには孫はおろか子供もいないのよ」
「ですが……」
 そう言いかけて、美鶴は後悔する。
 次に菊華が言うことはいつも決まっているのだ。
「そうそう……そういえば、華隆[かりゅう]兄様の奥様がミツルさんという名前だった気がするわ。華隆兄さま、ずいぶんお会いしてないけどお元気かしら?」
「え、ええ……お元気ですわ」
 美鶴はそこで、まともに菊華の相手をするのを打ち切った。
 彩河原家の前当主、彩河原華隆はすでに亡く、現在は息子の衆帥[しゅうすい]が現当主を務めており、美鶴は衆帥の指示によって月に何度か菊華の様子を見に来ている……などということは、説明するだけ無駄なことだ。
 なにしろ美鶴は、菊華に会いに来るたびに自己紹介をさせられ、孫だと名乗るたび勝手に彩河原華隆の妻に──字面は違うが、たしかに美鶴と同じ名前だったらしい──にさせられている。
 菊華はそれから、美鶴には理解できない昔語りを延々と続けていたが、曖昧に返事をするばかりでまったく聞いていなかった。
 他の親戚は見放しても、美鶴だけは諦めていない……というスタンスを維持することが大切だ。
 先代当主である華隆の遺言により、彩河原一族が〈昭和日本〉から後代領域へ移住するための条件……それこそが、菊華の言う“怪物”をふたたび彼女に見せることだった。
「……そうしたらコノさんが、ではわたくしがやりますとおっしゃってね……」
「おばあさま……いえ、菊華さま。立ち話もなんですから、お屋敷に戻りましょう。本日は菊華さまの古いお知り合いの方が見えられるそうですわ」
 そう言って昔語りを強引に打ち切ると、美鶴は菊華の手を取り、有無を言わせず歩き出す。
 つないだ手から、菊華が落胆している気配を感じたがこれ以上、変わり映えのしない話に付き合う気はない。
 来訪者があることは昨晩、急に本家から伝えられたばかりなので詳しいことは何も聞いていないが、菊華の知人ということはかなり高齢な人物のはずだ。
 菊華一人を相手にするのも面倒なのに、さらに複数の老人を相手にしなければならないのは気が重かった。
 
 美鶴と菊華がいつもの散歩コースをいつもよりも早足で歩き、彩河原家の別邸へ戻る道を歩いていると、林を切り開いて造られた国道五一号に繋がる私道から、一台の車が走ってくる。
 空色に染められた、〈昭和日本〉でも少し古いタイプの小柄な乗用車。
 車は二人よりもわずかに早く洋館の玄関前に停車すると、運転席から車と同じく小柄な女性が一人、降り立った。
 その女性は、先月で二十四歳を迎えた美鶴と同年代ぐらいに見える。
 眼鏡をかけ、どこか昭和モダンな雰囲気の漂う衣装に身を包んでいた。
 自然かつ優雅な所作で、小柄な女性は二人に深々とお辞儀をする。
「コノさん……」
 菊華はそうつぶやくと同時に、美鶴に握られた手を引き抜き、小走りに駆け出す。
「おばあさま、危ない!」
 あわてて後を追う、美鶴。
 年齢を感じさせない軽やかな動きで小柄な女性の前に立った菊華は、彼女の両手を握りしめた。
「キッカさん、おはようございます」
 彼女は微笑みながら、菊華に挨拶をする。
 追いついた美鶴が横からのぞき込むと、菊華は目に涙を溜め、感激に打ち震えていた。
「こ……コノエさん、よね? 間違いないわよね?」
「左様でございます、キッカさん」
 コノエと呼ばれた小柄な女性は、菊華にうなずいて見せてから、美鶴に対しても改めて礼をする。
「おはようございます。本日、お招きにあずかりました、中島近恵[このえ]と申します」
 そう挨拶された美鶴だが、自分が漠然と予想していた年配の来訪者像とあまりにも姿形が違うため、適切な応対をするのにしばしの間を要した。
「……よ、ようこそいらっしゃいました。私は彩河原菊華の孫で美鶴と……っ!」
 そう、自己紹介しかけてから、一瞬遅れで彼女が何者であるか思いいたる。
 〈大正昭和日本〉にて、彩河原家と縁戚関係にあった中島家の出世頭、中島知上[ちかみ]の未亡人にして、集積情報で構築された人類世界たるドライブスペースを維持管理する組織の職員だという……。
「もしかして、中島の……お、大奥さまっ」
 美鶴の言葉に、近恵は小さな動作で肯定してから言う。
「いまだ中島姓を名乗らせていただいておりますが、今は昔のことにございます」
「そんな、とんでもない……」
 中島近恵を名乗るこの女性が本物ならば、彼女の実年齢は菊華とほぼ同じ、八十歳を超えているはずだ。
 航空産業により、一代でひとかどの財を成した中島知上。その妻である近恵は人ならざる人、模造人間であり、不老不死の存在だという。
 このような大物が来訪するという情報が、なぜ美鶴の耳に今のいままで入らなかったのだろう。
「ホラホラ、ミツルさん。お客様を立たせたままでどうするんですか? 早くお出迎えの準備をして頂戴」
 呆然としている美鶴をよそに、菊華が言う。
「は、はい、準備は家政婦たちがやっているはずですわ……」
「そう? なら早く上がっていただいて。あたしは着替えて来ますから、コノさんを応接間にご案内しておいて下さいね」
「はい、わかりました」
 達者な足取りで屋敷の玄関に向かう菊華。
 心なしか、背筋が伸びているようにも見える。
「菊華さん、お元気そうで何よりです」
 菊華の後ろ姿を見ながら、近恵がしみじみと言う。
「おばあさまも、大奥さまにお会いできて、よほど嬉しかったのでしょう」
「……」
 美鶴は無難な応対をしたつもりだったが、近恵はわずかに表情を曇らせ、目を伏せる。
「あの、なにか失礼なことでも?」
「いえ、そうではございません。……ただ、菊華さんが老碌[ろうろく]されたとうかがっておりましたもので」
「ロウロク?……え、ええ。お年のせいか記憶が曖昧になられたようで、最近は私のこともわからず、お会いするたびに自己紹介しておりますわ。大奥さまのことは覚えてらっしゃるようですが」
「美鶴さん。差し支えなければ、わたくしのことは近恵とお呼び下さい」
「っ!……わかりました、近恵……さま」
 おそるおそる、言われた通りに名前で呼び──だが、それでも“さま”をつけずにはいられない美鶴を見て、近恵はわずかな困惑と共に小さく頷く。
「ありがとうございます。どうか、お楽になさってください」
「は、はい……恐縮です」
「話を戻させていただきますが……菊華さんが最近の事柄を覚えてらっしゃらないのは事実のようでございますね」
「……?」
「さもなければ、菊華さんがわたくしに目通りされることもなかったでしょう」
「それは、どういった……」
 近恵は声を低くして、かろうじて聞き取れる声で続ける。
「美鶴さんにはお知らせしておいた方がよろしいかと存じますが……わたくし、二十年ほど前に菊華さんから絶縁されておりますもので。生前にお目にかかることは、二度とないものと心得ておりました……」
■ロサンゼルスの怪物ふわり 2/4■

 
 彩河原家は江戸より続く旧家で、〈明治日本〉でも大地主として知られていた。対する中島家は、彩河原家の土地で働く小作人──つまりは、労使関係にあった。近恵の夫である中島知上の母は、彩河原家の末娘であり、大恋愛の末に中島家に嫁いだという。当時、彩河原家と中島家は断絶に近い状態であったが、菊華の両親だけは中島家と親交があった。菊華は知上の従妹に当たる。
 両家が〈大正昭和日本〉へ移住し、中島家が知上の代になった頃も、彩河原家は大地主であり、中島家は──彩河原家の小作人から脱却したとはいえ──名もない農家に過ぎなかった。それが一変したのは、知上が航空機産業に手を染めてから。有力な後ろ盾もないまま、彼は航空機械技術の基礎研究からはじめ、自身の会社を日本有数の軍用航空機メーカーにまで育て上げた。初期の頃は彩河原家に援助を求めたこともあったようだが、すげなく断られている。このことが後々、両家に禍根を残すこととなった。
 いつしか、中島家と彩河原家の力関係は完全に逆転していた。地主とはいえ、所詮は地方の名士にすぎない彩河原家と、いまや知らぬ者なき大財閥である中島家。知上が起業した当初、テスト用の機体製作もままならない頃に、何ら援助をしなかった彩河原家が、中島家から──いまさらのように──利権を獲得するために目をつけたのが、“子供の産めない”正妻である近恵であり、その政略に利用されたのが菊華だった。
 
「私のこと、御存知なのですか?」
 美鶴は驚きの声を上げた。
「ええ、美鶴さんとは二十年ほど前に〈大正昭和日本〉でお会いしております」
 なめらかな所作で緑茶を口に運びながら、近恵はそう告げる。
 彩河原家別邸の居間。
 アール・ヌーヴォー様式で統一された洋館と内部の調度類は、専門知識のある美鶴の目から見ても“ハズレ”は少ない。
 テーブルにはお茶と軽食が用意されている。
 プラハ駅をスケールダウンしたような、高い丸天井が印象的な薄暗い洋間で、美鶴と近恵は菊華が身支度を済ませるのを待っていた。
 美鶴が近恵に言う。
「……二十年ほど前というと、私が四歳の頃ですわ」
「左様でございます。主人の葬儀にご参列下さいました」
「たぶん両親に連れられてのことと思いますが、記憶にございませんわ。申し訳ございません」
「お気になさらずに。美鶴さんは、テディ・ベアのぬいぐるみにご執心だったと記憶しております」
「ええ……はい、祖父からいただきました。子供の頃から古物が好きだったもので、今は原宿でアンティークショップを経営しておりますわ」
「歩行者天国で有名な、東京の原宿でございますか?」
「はい、竹下通りに小さな店を構えております」
「アンチークと申しますと、古民具のようなものを扱っておられるのですね」
「えぇと、はい……いわゆる洋風の“古道具屋”、ですわ」
「左様でございますか」
「近恵さまは今、何をなさっておいいでですの?」
「わたくしは、二十年ほど前に主人と死別したのち、変数条約機構(ヴァリアブルス条約機構)からの出向という形で有史世界領域連合の職員として、〈大正昭和日本〉にて外交員を務めておりましたが、昨年四月より〈昭和日本〉に異動となりました。昨年度は一年間、研修をいたしておりましたが、今年度より正式に職員として勤務いたしております」
「それから再婚……といいますか、別な方とおつき合いされたことは?」
「ございません。わたくしは、主人一筋でございますから」
「それはそれは、ごちそうさまですわ」
 わずかな時間であったが、それでも美鶴は噂に違わぬ近恵の人柄の良さに感心する。
 中島近恵は、彩河原家にとって目障りな存在であったはずだが、にもかかわらず彼女個人の人柄を悪く言う者を、美鶴はついぞ知らなかった。
 ただ一人をのぞいて。
 それから、しばしの談笑ののち、美鶴は近恵に懸案を切り出す。
「近恵さま……それで、さきほどお伺いした件ですが」
「……はい」
 近恵はわずかに表情を引き締めたものの、平然と美鶴に応対する。
 微妙な話題だったが、美鶴としては初めて聞く内容だったので、どうしても確認しておく必要があった。
「菊華さま……おばあさまは通例ですと、入浴と朝食を済ませるはずですので、もうしばらくお待ちいただくかと思います」
「結構でございます。突然来訪いたしましたのは、わたくしの方でございますから」
「ありがとうございます。でしたら不躾ではございますが、よろしければ……いえ、差し支えなければ、近恵さまと菊華さまの間に何があったのか、お教えいただけませんでしょうか? 詮索するつもりはありませんが、私も今はおばあさまの面倒を見る立場にありますので、知っておくべきではないかと愚考する次第ですわ」
「……」
 近恵はしばらく思案顔で丸天井を見上げる。
 ひょっとして、気を悪くしたのではと美鶴は心配したが、そうではなかった。
「美鶴さんは、わたくしと菊華さん、それに、わたくしの亡き主人との関係を御存知ですか?」
「いえ、詳しいことは何もうかがっておりません」
「左様でございますか。では、その辺りからご説明させていただきます」
 そうして近恵は、中島家と彩河原家、近恵と菊華、そして近恵の亡き夫である中島知上について語りはじめた。
 
 〈大正昭和日本〉にて、彩河原菊華は、幼い頃から頻繁に中島家に出入りしている。結婚したばかりの中島夫妻は、彼女を我が子のように可愛がり、幼い菊華も良くなついていた。菊華と中島夫妻との関係が変化したのは、菊華が二十歳を過ぎた頃。その頃すでに、彩河原家と中島家の力関係は逆転しており、未来の大財閥を援助し損なったという彩河原家の“失策”が明らかになりつつあった。
 当時すでに、中島夫妻は数人の養子を迎えていたが、知上の実子は内縁も含めて存在しない。模造人間である近恵には生殖能力がなく、知上には自身の子を設ける意思がないようだった。当時の彩河原家当主である彩河原華隆は、中島家にふたたび彩河原の“血”を送り込むことを画策する。その矢面に立たされたのが、菊華であった。
 知上と菊華は従兄妹同士とはいえ、年の差は三十歳以上。政略的な婚姻関係の強要だったが、少々事情が異なるのは、彩河原家の思惑と菊華個人の意志が合致していたこと。兄のように慕っているうち、いつしか菊華は知上を異性として愛するようになっていたのだ。その頃、菊華はすでに知上と近恵のなれそめを聞いていたし、近恵が自分と年齢的には大差がないことも知っていた。模造人間である近恵は、生まれた瞬間から老いることなき大人の姿で、言葉を話すこともできたし一般的な社会常識も身につけている。だから、知上と知り合い、結ばれることができたのだ。それが可能であるならば、多少歳が離れていようと、同じ人間同士で結ばれるのが自然である。周囲からの入れ知恵もあり、菊華はそう確信するようになっていた。
 当初、彩河原家側は近恵を中島家から放逐し、菊華を正妻に据えようと画策したが、知上は頑としてその思惑に乗らなかった。業を煮やした彩河原家側は方針を転換し、正妻でなくとも知上に菊華の子を設けさせようとする。近恵を一時的に中島家から遠ざけたのち、知上と菊華を二人きりにさせ、既成事実を作らせようというのだ。
 しかし、知上はそれすらも拒絶する。菊華はついに、知上から“女”として見られることはなかった。その後、菊華は彩河原家と取引きのあった地元企業の男性を婿養子として迎え、数人の子を設ける。結局、彩河原家が中島家との関係を強めることができたのは後年、菊華の末子である歩学[ふがく]を中島家の養子としたことのみに留まる。だが、その頃には知上の築き上げた企業は史実と異なる経緯で解体され、直後に知上自身も没し、近恵も中島家を離れた。中島家から権益を得ることを断念した彩河原家は、養子に出した歩学を呼び戻し、一族で後代領域である〈昭和日本〉に移住することとなった。
 彩河原家が〈大正昭和日本〉を離れる直前、近恵が菊華に別れの挨拶をしに来た時、その決定的な断絶は訪れた。それまで、表面的には中島夫妻、特に近恵と良好な関係を保っていた菊華が、思いの丈をぶちまけたのだ。なぜ、年齢的には同じはずの近恵が年長者として振るまい、知上と幸福な家庭を築くのか? 人にあらざる近恵が知上に受け入れられ、同じ人間であるはずの菊華がなぜ、拒絶されなければいけないのか、と。差別的な言葉をまじえた恨みの言葉を残し、近恵と絶縁した菊華は〈大正昭和日本〉を去った。以来、二十年。〈昭和日本〉が勤務地となった今も、近恵は菊華と会うべきではないと考えていた……つい、最近までは。
■ロサンゼルスの怪物ふわり 3/4■

 
「そんなことが、おばあさまに……」
「わたくしは天地神明にかけて、主人との関係になんら恥じる所はございません。人間と模造人間との婚姻も、制度として認められた行為でございます。ですがそれでも、菊華さんにとってわたくしは許し難い存在だったのでございましょう」
 そういえば確かに、美鶴が菊華から“コノさん”なる人物の昔語りを聞くようになったのは、記憶や言動が不確かになるここ数年のことだった。
 それまで菊華にとって、近恵は触れたくない過去の傷、だったのだろう。
「近恵さま……ではなぜ、今になって絶縁された菊華さまとお会いになるのですか。私から言うのも憚られますが……まるっきり、おばあさまの……」
 逆恨みではないですか──そう言おうとした直前、天井から光が漏れてきた。
 二人が見上げると、低い擦過音とともに居間の高い丸天井が二つに割れ、隙間から白い光が漏れ、青空と夏の雲があらわになって行く。
「コノさん、お待たせしてごめんなさい」
 そう言って、奧の扉から室内着に着替えた菊華が出てきた。
「菊華さま、あの天井の仕掛けは、一体……?」
「もちろん、お兄様があたしのために造ってくだっさった天窓ですわ」
 菊華の言葉通り、割れた天井の下にはガラスがはめ込まれた円蓋があり、天窓としての機能を取り戻している。
 ガラス面は多少汚れているものの、先ほどまで薄暗かった洋間に、明るい光が差し込んでいた。
「見事な仕掛けでございますね」
「私も、はじめて知りましたわ……凄い」
「暗いままでは気分が滅入ってしまいますもの。さぁさ、二人とも。楽しい時間のはじまりですよ」
 一気に明るくなった居間で、三人は雑談をはじめる。
 主に、菊華が話し、近恵と美鶴が聞き役に回った。
 内容は、とりとめのない昔話で、近恵がしたような重い話題は一切ない。
 時折、美鶴には理解できない話題が出た時は、すかさず近恵が捕捉してくれた。
 話題の大半は、中島夫妻と菊華が良好な関係を保っていた頃のこと。
 中島知上が仕事で不在の時は、近恵が菊華の相手をしてくれたとか、夫妻に連れられて複葉機のテスト飛行を見学したとか、近恵は車の運転も上手いが、飛行機の操縦もできるとか。
 話題は多岐にわたったが、いつもの錯綜した独り言ではなく、論旨もはっきりとしている。
 これほど楽しそうな菊華を、美鶴は今まで見たことがない。
 美鶴が子供の頃、記憶がはっきりしていた時の菊華は、気むずかしく近寄りがたい人物であったし、近頃は意思の疎通が困難で、会話をするのが苦痛でしかなかった。
 だが今は、童女のように嬉しそうに昔語りをする菊華を見ているだけで、美鶴も楽しい気分になってくる。
 あるいはこれも、中島近恵の人柄によるものなのだろうか。
 幸福な時間の後に訪れた、屈辱的な破局と絶縁。
 年を経て人生の晩節を迎え、記憶が曖昧になった菊華は、楽しい記憶だけを思い出して生きて行くことができる。
 もしかするとそれこそが、もっとも幸福な時間と呼べるのかもしれない。
「お手数ではございますが、お電話を拝借したいのですが……」
 話題が一巡したところで、近恵がそう申し出た。
 家政婦に案内され、近恵が中座する。
 久々に沈黙が訪れた居間で、菊華がにこにこしながらお茶請けのモナカを口に運んでいた。
 美鶴はしみじみと言う。
「菊華さまは、本当に知上さまと近恵さまのことを、大切に思ってらっしゃるのですわね」
「ええ、ええ、もちろんですとも。ふた親はあまり構ってくださらなかったから、かわりに随分とお二人に甘えたものですよ」
「親代わり、といった所ですか」
「……親であり、兄姉であり、友人であり……それに……」
 愛すべき人であり、憎むべき人、とでも言いたいのだろうか。
 今の菊華が、近恵をどう捉えているのか、美鶴には計りかねている。
 ずいぶんと意識がはっきりしているように見えるが……。
「お待たせいたしました」
 そう言いながら、近恵が戻ってきた。
 席に戻る前に彼女は懐中時計を取り出して時刻を確認する。
「コノさん、別なお約束でもあるのかしら? でしたら、あまりお引き留めしても悪いわね……」
「いえ、そうではございません。キッカさんは最近、“怪物”が見たいとおっしゃっているそうでございますね」
 ハッと息を呑む美鶴。
 菊華はにこにこした表情のまま答える。
「ええ、そうなんですよ。若い頃に一度だけ見たのですけど、ぜひもう一度見てみたいものです」
「その“怪物”は、どなたとご覧になったのですか?」
 近恵の問いに、菊華は不思議そうに言う。
「あら……“怪物”とは何かではなく、誰と見たかを知りたいの?」
「左様でございます。ご教示くださいますでしょうか」
 菊華は笑顔のままだったが、その笑顔が一瞬だけ凍りついたように見えたのは、美鶴の気のせいだろうか。
「ええ……構いませんよ。たしか、知上さんがこの屋敷に来て、あたしを連れて“怪物”を見物しに連れて行ってくださったのですわ」
「左様で……ございますか」
 それから菊華が続けた言葉は、美鶴にとって予想外のものだった。
「コノさんなら、あたしの言う“怪物”とは何か、心当たりがおありじゃないかしら?」
「はい……たしかに心当たりがございます」
「近恵さま、おわかりですの?」
 そう驚く美鶴の目を、近恵はちらりと見た。
 責めるような視線ではなかったが、何か言いたげではある。
 美鶴は一泊だけ鼓動が高まるのを感じたが、素知らぬ振りをした。
「わたくしが分かりかねるのは、菊華さんがどのような意図で“怪物”をご覧になりたいととおっしゃっているかでございます。本当に、“怪物”をご覧になりたいのか、ご覧になれないことを前提に、無理難題をおっしゃっているのか、わかりかねております」
 菊華はいたずらっぽく笑う。
「……どちらでもよろしくてよ。華隆兄さまの遺言は、わたくしが存命中のみ有効ですもの。お兄様も、あたしへの罪滅ぼしのつもりか知りませんが、他の方々のご迷惑も考えて欲しいものです。そもそも、本気で彩河原が後代日本への移住を望むなら、あたしに“怪物”を見せるより、もっと簡単な方法がありますものね」
 そう言いながら、今度は菊華が美鶴の目をちらりと見る。
 やはり、何か言いたげであった。
 言いしれぬ恐怖が、美鶴の背筋を這い上がる。
 菊華はひょっとすると“正気”なのではないか……そう考えてから、ならば彼女が近恵を親しい人物として迎え入れるはずはないことを思い出す。
 そう、何も怖れる必要はない。
 近恵がふたたび、懐中時計を取り出して時刻を確認した。
 どこかで、低く唸るような音が聞こえる。
 大型の空調機か冷蔵庫が発するような音だ。
 ずいぶん前から聞こえていた気もするが、いつの間にかその音が、かなり大きなものになっている。
「まさか……」
 そうつぶやいた美鶴の声は、爆音にかき消される。
 声を張り上げ、近恵が告げた。
「キッカさんのおっしゃる“怪物”を招致いたしました……ご覧下さい。」
 彼女の言葉と同時に、陽光を反射して鈍く輝く銀色の“怪物”が、悠然と視界にのしかかってくる。
 天窓越しに見えるそれは、巨大な飛行船だった。
「グラーフ・ツェッペリン……そんなこと、ありえないっ!」
 美鶴は叫んで庭に飛び出す。
 二〇〇メートルを超える巨大な船体と、下部に取り付けられたゴンドラ、十字の尾翼。
 煙を曳きながら爆音を上げるエンジン。
 映像でもなく、模型でもなく、本物の大型硬式飛行船が鹿島灘の海岸線沿いに悠然と飛行していた。
「ツェッペリンの怪物……また見られるなんて……」
 美鶴の後から庭に出た菊華が感嘆の声を上げる。
 しかし、同じく庭に出て空を見上げる近恵は言った。
「いいえ。あれはキッカさんが〈大正昭和日本〉でご覧になった純硬式の航空船、ツェッペリン伯號ではございません」
「コノさん……違う、船なのですか?」
「船体に星のマークがあるかと存じます。独逸[ドイツ]のLZ一二七、グラーフ・ツェッペリン号ではなく、おなじく独逸でLZ一二六として建造されたのち米国に委譲され、ZR−3となったアメリカ海軍所属、USS・ロサンゼルス号にございます。諸元は若干異なりますが、ツェッペリン泊號の姉妹船に当たります」
 菊華はまぶしそうに銀色の巨船を見上げながら、ゆっくりと首を振る。
「いいえ……どちらでも構いません。知上さんとあたしだけの“怪物”を、もう一度見られたのですもの……もう、思い残すことはありません……ありがとう。本当にありがとう、近恵さん……」
 視界を涙で歪めながら、菊華は声を上げずに泣いた。
 近恵は彼女の両肩を抱いて支え、二人は空を見上げていた……おそらくは、一人の男性を想いながら。

■ロサンゼルスの怪物ふわり 4/4■

 
 彩河原家が、中島家との結びつきを深めようとした政略。それは、世界一周の途にあったドイツの飛行船、グラーフ・ツェッペリン号が霞ヶ浦を訪れた折に決行された。社用と称して近恵を台湾に呼び寄せ、その間、飛行船見物にかこつけて知上と菊華を共に彩河原家の別邸で過ごさせたのだ。事実、ツェッペリン泊號来日の際は、周辺の宿泊施設はどこも満杯で、別邸は飛行船見物にはうってつけの立地であった。知上にとっては、歳の離れた従妹と、しばし職務を忘れて飛行船見物に興じるていどの気持ちであったが、菊華にとっては清水の舞台から飛び降りるつもりで知上に迫った。その想いが遂げられることは、ついになかったが。近恵が戻った時、知上はいつも通りであったし、菊華も変わらず中島家に遊びに来ていた。知上からおおよその事情は聞いていたが、近恵は知上が没し、菊華から絶縁されるまで知らぬ振りを通した。
 
「キッカさん……もし、よろしければ……あの船に乗ってみませんか?」
 そう、近恵が言ったのは、ロサンゼルス号が太平洋上に出て、かなり小さく見えるようになってからだった。
 菊華は涙を袖でぬぐい、背後で自分を支える近恵を見る。
「乗れるの……ですか?」
「左様でございます。主人から、キッカさんが今度はツェッペリン伯號に乗ってみたいとおっしゃっていたと聞いております。ロサンゼルス号はこれより補給を受けた後、〈昭和日本〉から有連君府(有連イスタンブール)を経由して後代領域へ遷移いたします。乗船の手配は済んでおりますが、お乗りになりますか?」
 近恵の申し出に、菊華は少女のように瞳を輝かせる。
「乗りたい……乗ってみたいです、コノさん」
「承知いたしま……」
「ちょ、ちょっとお待ちになってくださいっ!」
 そこでたまらず、美鶴が叫ぶ。
「近恵さま……断りもなく、何を勝手に決めているんですか? おばあさまの面倒は、私に任されておりますわ。菊華さまも、もっと冷静に考えてからお決め下さいっ!」
 美鶴の剣幕に気圧され、おびえた菊華が近恵にすがりつく。
 その態度が、さらに美鶴を苛つかせた。
「だいたい、あの船に乗るって、どうやって? 今の日本に大型の硬式飛行船を係留する施設なんてございませんわ。霞ヶ浦の自衛隊基地にだって、記念碑以外、何もありませんもの。地上の支援要員もなしに、一体どうするおつもりかしら?」
 近恵は菊華をかばうようにして一歩前に出ると、静かに言う。
「美鶴さんは、“怪物”の正体をご存じなかった割に、ずいぶんと飛行船の事情にお詳しいようでございますね」
「そんなことは関係ございませんわ。おばあさまを、あんな水素の塊に乗せるなんて危険なことは……」
「アメリカ海軍が保有する飛行船はすべて、ヘリウム式でございます。引火する危険はございません。また、飛行船の爆発事故に関しましては、水素を使用することよりも外皮に問題があるというのが通説でございます。その対策は、すでになされております。係留と補給、乗船に関しましては……ご覧下さい」
 美鶴が近恵の示す方を見ると、ロサンゼルス号が洋上に停泊した船と繋がる瞬間だった。
 それは、今朝の散歩で見かけた見慣れぬ形の船。
 ロサンゼルス号の半分にも満たない洋上の船が、空中の船をつなぎ止めている。
 船尾の塔は、飛行船の係留マストだったのだ。
「アメリカ海軍は、独逸より学んだ飛行船技術を独自に発展させ、洋上での補給を可能にする飛行船母艦、パトカ号を建造いたしました。それを後代領域にて運用できるよう、改修したものにございます。迎えの舟艇がこちらに向かっているはずでございます。キッカさん、身の回りのものだけで結構ですから、お支度をなさってください」
「はい、コノさんのおっしゃる通りに」
「ですから……勝手なことは……なさらないで、下さいと……」
 そう反論する美鶴だが、その声は弱々しいものになっている。
 屋敷に戻っていく菊華を見送ってから、近恵は美鶴を見据え、静かに言う。
「本件につきましては、彩河原衆帥さんおよび彩河原家の親族会議にて了承を得ております。わたくしは本日、衆帥さんの依頼で参りました」
「そん……な、私だって衆帥さまの指示で……」
「菊華さんがおっしゃる“怪物”を、こうして実際にお見せすることは、たしかに一般の方には困難でございましょう。ですが、“怪物”が何であるかがわからない、ということはないかと存じます。菊華さんの言動と経歴、そしてここ、霞ヶ浦の歴史を調べれば、“怪物”の正体が、戦前に飛来したツェ伯號と呼ばれた大型硬式飛行船であることは明白でございます。その“怪物”を、美鶴さんは“見せようがない”ではなく、“正体がわからない”と言い続けたことを、衆帥さんは訝しんでおられました」
「!?……衆帥……さまが……」
「それと、昨晩行われた彩河原家の親族会議にて、華隆さんの遺言──つまり、“怪物”を菊華さんに見せなければ、一族全体の後代領域への移住を認めないというものですが──これを達成困難につき無効とする、と決まっております」
「!……」
「今後は、個々人の判断で、移住を決めて良いという方針に転換されました」
「では、遺言そのものが……」
「達成の是非にかかわらず、無効となっております」
「……私……なに、やってたのかしら。そんなことも知らずに……知らされずに……」
 美鶴の不審な行動は衆帥の知ることとなり、親族会議にも呼ばれず、一族でもない近恵によって暴かれたということか。
 まるで、タネを見透かされた手品を必死でやり続けていたようなものだ。
 さぞや滑稽に見えたことだろう。
 近恵は続ける。
「華隆さんの遺言には、“怪物”の正体について気づいても他言してはならないという条項もあったようでございますが、彩河原家の多くの方々は御存知のようですよ。大半の方は、“わかっている”から断念されているのに、美鶴さんだけは、“わかっていない”ふりをして、菊華さんから離れようとしなかった……よろしければ、その理由をお教えいただきたいのですが」
 それを知るためだけに、自分は泳がされていたというのか。
「ひっ……うっ……」
 美鶴はいつの間にか、自分がひどく追いつめられていることに気づいた。
 近恵は、すべてを計算づくでこの館にやって来たのだ。
 絶縁したはずの菊華と関係を修復し、あるはずのない“怪物”まで呼び寄せて。
 何も恥じることなく、堂々と。
 対して自分はどうだ。
 自分は、“怪物”の正体もわからぬ無能を演じ続けならが、もしも他人が遺言を履行しようとしたら妨害する。
 なんと浅ましく、ちっぽけで、愚かな行為だろう……。
 いまさらながら美鶴は、自分が惨めになった。
 うずくまり、膝を抱える。
 ──この女さえ来なければ……私は、私の望むままに生きられたというのに……コイツさえいなければ……この、出来損ないの──
 美鶴の心に、澱んだ感情が吹き出しはじめた時、ふと誰かの手が、彼女の頭の上に置かれた。
「うん、うん、わかります……わかりますよ、ミツルさんの気持ち……」
 見上げるとそこに、優しい眼差しを向ける菊華がいた。
「おばあさま……」
 菊華はおだやか調子で、おだやかではない言葉を吐く。
「あたしにも経験がありますよ。老いることも知らぬ、出来損ないの“生き人形”の分際で、わかったふりした作り笑顔で、あたしの大切なものを根こそぎ奪い取って、一体何様のつもりなの? 人でもないくせに……ってね。でもそれは、コノさんのせいではないし、コノさんを恨むことでもない……それは、ミツルさんにもわかるわよね」
「はい……はい、とてもよく、わかりますわ……」
 美鶴はしわがれた手にすがりつき、声を出して泣く。
 菊華は美鶴が泣きやむまで、ずっと彼女の頭をなでてくれた。
 
 なぜ“怪物”の正体について“知らないふり”をしていのか、美鶴は近恵に正直に話した。彼女が経営するアンティークショップは現在のところ経営はきわめて順調である。しかし、一族の都合に合わせて後代領域に移住しても、その先で事業が上手く行く保証はない。また、彩河原の名を捨てて無理に〈昭和日本〉へ居残ることも可能だが、有力な出資者の一人が、美鶴が彩河原の人間でなくなれば援助を打ち切ると通告してきた。一族の力に頼ったつもりはなかったが、それでも自分の事業の成功が彩河原というブランドで補強されたものに過ぎないことを思い知らされる。美鶴はアンティークショップを経営するかたわら、月に数度、菊華を見舞うと称して、万が一にも“怪物”が菊華の前に現れないよう監視して来たのだ。その万が一の事態が、ついに起こってしまったわけだが。
 この行為自体は、なんら問題ないと近恵は言う。ただ、美鶴に彩河原家の移住を阻止するよう示唆した出資者について訊ねられたので、知る限りのことを答えておいた。一族がそれぞれの都合で移住と定住を選択すれば、資産は二つの領域に分散し、一族全体の力は弱まることになるだろう。だがそれでも、美鶴は彩河原の人間として〈昭和日本〉に残ることができる。その結果だけで十分だった。
 
 その日の夕刻。
 飛行船母艦、パトカ号の係留マストを離れたロサンゼルス号は菊華を乗せ、ゆっくりと動き出す。
 夕日に朱く染まったロサンゼルスの怪物は、霞ヶ浦を横切り、東京湾を抜けて西へ向かうそうだ。
 美鶴は近恵の車に同乗して菊華を船着き場まで見送り、そこで別れを済ませている。
 別れ際、近恵と菊華は二人で何か話をしていた。
「……フガクさんは、あれからすぐに彩河原の家を……」
 そんな菊華の言葉が漏れ聞こえたが、詳しい事情は知るよしもない。
 自分のささやかな陰謀とは比べものにならない想いの積み重ねが、あの二人にはあるのだろう。
 今、美鶴と近恵は並んで鹿島灘から霞ヶ浦に向かうロサンゼルス号を眺めている。
 菊華が窓から手を振っているようにも見えたので、美鶴は飛行船に向かって手を振った。
 気のせいかもしれないが、今は無性に菊華との別れが名残惜しい。
 史実では旧昭和四年八月に飛来したグラーフ・ツェッペリン号に続く、史実には存在しないロサンゼルス号の来訪は、関係機関には通達されているものの、マスコミでは一切、報道されていないそうだ。
 それでも、霞ヶ浦上空に現れた第二のツェッペリン飛行船を一目見ようと、かなりの数の人々が近隣から集まっている。
 これから東京湾を横断するとなれば、さらに多くの人々が“怪物”を一目見ようと、空を見上げることになるだろう。
 ロサンゼルス号の船影が銀色の輝点となった頃、近恵がぽつりと言った。
「あの飛行船や母艦の乗組員はみな、わたくしと同じ模造人間なのだそうです」
「……」
「ロサンゼルス号にしろパトカ号にしろ、史実では先代領域にて処分にされるところを、有史世界領域連合が買い上げ、模造人間を乗組員として教育し、操船させているそうです。後代領域へ移送する際、訓練をかねて各地を飛行させているのでございます。……若干、わたくしの都合で飛行経路を変更していただきましたが」
「そうでしたの。菊華さまのためだけに、船を呼んだわけではなかったのですね……でもなぜ、そのような手間をかけるのですか? より進歩した世界なら、旧式の飛行船など不要ではありませんか……あるいは、もっと優れたものを新造することも可能でしょうに」
 美鶴の問いに、近恵は再び空を見上げて言う。
「いいえ……古いものを古い技術で造り、運用することには、後代の新しい技術で再現することでは得られない価値がございます」
「!……つまり、アンティークとしての価値、なのですね」
「左様でございますね」
 それは美鶴にとって、意外な発見だった。
 自分が仕事で扱っている古物と、あのロサンゼルス号は、等しく古き良きものとしての価値がある。
 新しければ良いわけでもなく、古いから価値があるわけでもない。
 良いものだから、古くても良いのだ。
 有史世界領域連合という世界そのものが、そういった古き良きものに対する需要を満たすために存在するのかもしれない。はるかな未来の世界から見た、アンティークの宝庫として。
 あのロサンゼルス号も、美鶴がヨーロッパへ古物を仕入れに行くのと同じように、オークションで落札するのと同じように、誰かが誰かのために購入したのかもしれない。それは、彼女には縁のない世界の話かもしれないが、その世界でも同じくアンティークに価値が見いだされているはずだ。
 その視点に気づいただけでも、今回の件は貴重な経験だったと納得すべきなのだろう。
 納得と言えば……。
「……そうですわ、近恵さま……もうひとつ、うかがいたいことがあるのですが」
「何でございましょう?」
「近恵さまかがいらしてから菊華さま、ずいぶんと昔のことを思い出されていたいように見えましたが……実際はどのていど、過去が蘇っていたのでしょうか? さきほどの近恵さまのお話しから察するに、菊華さまが完全に昔のことを思い出されていたら、とても近恵さまと親しくできるとは思えませんが……でも、昔のことがわからなければ、私にあのようなお言葉をかけて下さるはずも……」
 近恵は少し、寂しそうに微笑んでから答える。
「わたくしに、複雑な人の心理はわかりかねます。電気的に人の心を測定する技術もございますが、公務で使用するものですし、あえて私的に用いようとは思いません。菊華さんと、こうしてふたたびお話しできたことだけで……わたくしには、十分でございます」
 菊華と近恵……二人はどれほど仲違いをしようとも、見かけの年齢が大きく異なろうとも、心の深い部分で強く結びついているのだ。そう確信した美鶴は、さきほど菊華にしたのと同じ質問をする。
「近恵さま……近恵さまは、亡くなったご主人と同じように、菊華さまのことを大切に思ってらっしゃるのですわね」
 その言葉に近恵は顔をほころばせ、力強くうなずいて言う。
「左様でございます!」、と。

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