何でまた、トルコへ向かおうと思ったのか?
そもそもの発端は学生時代、テレビの歴史クイズ番組で、1453年にオスマン・トルコ帝国がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を攻略した時のエピソードを見たから。
特に興味を惹いたのは、コンスタンティノープル攻略のためにオスマン帝国のスルタン、
征服者メフメト2世が、自国の艦隊を山越えさせたという話。
コンスタンティノープルは、黒海と地中海を結ぶ海峡にある、ヨーロッパ側の半島に築かれた城塞都市。
北、東、南を海に囲まれ、唯一地続きの西側は特に堅固な城壁で固められていた。
正攻法で攻略するのは極めて困難といえる。
とはいえ、コンスタンティノープルを所有するビザンツ帝国も、国家としては風前の
灯火[。
そもそも首都を敵軍に包囲されちゃう段階で、
戦略的に絶体絶命なワケです。
迫り来るトルコ軍に対し、ビザンツ帝国側は防衛力の不足を補うため、コンスタンティノープル北側の金角湾という入り江の入口に鉄の鎖を渡し、敵船の侵入を阻むことにした。北側だけでも敵船の侵入を防げれば、海側については東と南だけ注意すればイイわけです。
メフメト2世は、この鉄鎖を無力化するため、ある奇策に出る……そう、
艦隊を山越えさせて、鉄鎖の内側に送り込んだワケ。
有名なエピソードらしいけど、コレがすごく面白くて、コンスタンティノープルに興味を持つきっかけとなったのであります。
んで、しばらくして塩野七生さんの歴史小説、その名も
『コンスタンティノープルの陥落』という作品を読みました。
小説だけに、必ずしも史実通りではないかもしれないけど、記録に残ってることについては正確に書いていると思われます。例の山越えのエピソードも詳しく描写されてる。
ただ、どうもコンスタンティノープルが陥落した一番の原因は、トルコ側がハンガリー人……つまりは
ヨーロッパ人のウルバンという人が造った巨大な大砲を投入し、西側の城壁に突破口を開いたコトにあるようです。
なぜヨーロッパ人の技術者がトルコに荷担したかといえば、はじめビザンツ側に売り込んで
断られたから。まぁ、自業自得と言えなくもない。
以後、コンスタンティノープルはイスタンブールと名を変え、オスマン・トルコ帝国の首都となり、現在もトルコ共和国最大の都市として(首都はアンカラ)栄えているのです。
……という感じで、かつてはローマの都市でありながら、イスラム国家の首都となったイスタンブールという都市に前々から憧れを感じてました。てゆーか、ラヴ。
異なる文化に上書きされた都市って、なかなか想像がつきませんが、日本で例えるなら、蒙古(モンゴル)軍が日本を占領して京都を首都にしちゃったようなモノか?
わし母に、次の海外旅行はどこへ行くかと尋ねられた時、イスタンブールと即答したのは言うまでもありません。そんな感じで、
13日間のトルコ旅行が決まったワケです。
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でもって旅行が決まってからここ最近、あらためてトルコ関係の本を読み漁ってましたよ。
実を言えば、多少の知識があったのはコンスタンティノープル攻略時のエピソードのみ。
オスマン・トルコ帝国の歴史はおろか、近代トルコ史なぞ、まったく知らぬ。
本屋で、適当にそれっぽい本をゲットしてきました。
まず最初に読んだのは、
『オスマン帝国 イスラム世界の柔らかい専制 』という本。
13世紀にオスマン帝国が興り、コンスタンティノープル攻略を経て、16世紀のスレイマン大帝の時代に版図が最大になる。
その中にはイスラム教の聖地メッカも含まれ、イスラム世界の盟主としての地位も確立。
拡大に継ぐ拡大。全盛期の勢いには、すさまじいモノがあります。
多民族国家だけに、自分と異なる神を信じる者に対する寛容さがあり、西洋世界で迫害されていた人々までが、オスマン帝国領内に移り住んでいる。
また、有能な人間ならば身分が低かろうと異教徒出身だろうと、高い地位に就ける可能性があった。まぁ、イスラムに改宗する必要はありましたが。
最盛期のオスマン帝国は明らかに、当時の西洋社会よりも
進歩的な国家だったようです。
◆
その次に読んだ本が、
『イスタンブールを愛した人々 エピソードで綴る激動のトルコ』。
内容的には、ちょうど前に読んだ本の続きにあたり、オスマン帝国末期からトルコ共和国初期の人物史を通して、近代トルコを描く。
西洋世界を震撼させたオスマン帝国も、1571年レパントの海戦の敗北、1683年第二次ウィーン包囲の失敗など、次第に勢いを失う。
軍事力でも西欧列強に劣るようになり、領土は縮小しはじめる。
国家としての老年期を迎え、組織として硬直化と腐敗が進行。
生者必滅の原則から言えば、かつてのビザンツ帝国と同様、地上から領土が消滅してしまう可能性もあった。
そこでトルコを救い、専制国家から近代民主国家として脱皮させたのが「
父なるトルコ人[」と号されるトルコ共和国初代大統領、ムスタファ=ケマル=アタテュルク。
この方、軟弱なオスマン帝国にかわりアンカラに新政府を樹立。外国勢力を実力行使で駆逐して、
1922年、ローザンヌ和平会議で国際的に承認される。
政治改革を断行し、スルタン・カリフ制度を廃止して政教分離を徹底。
イスラム教徒が大半を占める国家でありながら、イスラム法に縛られない
近代的な立憲国家に変貌させたのです。
トルコでは
神のように尊敬されてるそうだけど、経歴を見るとそれも当然と思えてくる。
何が凄いって、強権をもってオスマン帝国をトルコ共和国として再生させるという、多分に独裁者的な性格を持ちながら、あくまでも
民主国家の長として振る舞い、最後まで失敗しなかったコト。
歴史上の英雄が、おおむね悲劇的な結末を迎えているのに比べ、何という偉業……てゆーか、普通は恐怖政治の一つも始めかねないだろうと思うのだが、
そうはならない。
こんな為政者も
実在するのだなぁと感心いたしましたよ。
首都アンカラにある、アタテュルク廟へ行くのが楽しみです。
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現代トルコの生活を知るには、
『トルコのものさし 日本のものさし』という本。
火傷しそうに熱い親切心や、自動車免許取得のアバウトさ、出稼ぎの苦労、子供好き、家族愛……などなど、素顔のトルコ人が見えてくる。
様々な本に書かれていますが、トルコは
大変な親日国らしい。
理由として古くは、明治新政府を樹立したことや、日露戦争でロシアを破ったこと、最近では優秀な製品輸出国であること、勤勉で豊かな国のイメージがあること。
まぁ、アジアの両端にあって交流が少ない分、悪い所が見えないだけかもしれませんが、ともかく同じ
アジアの近代国家として親近感を持たれているのは事実のようです。
対する日本人のトルコ観と言えば、中東にあるイスラム国家の一つという程度でしょう。
イスラムというだけで
狂信的な原理主義者を思い浮かべる方もいるかもしれません。
しかし、トルコにおけるイスラムの影響は、アタテュルクの改革もあって、日本における仏教のそれと大差ないようです。
公的な場所では洋装が基本、女性は素顔を晒して屋外を歩き、男は酒を飲む。
文字はアラビア文字ではなく、ローマ字。全国民が名字を持つ。
イスラム教徒として正しいのかどうか知りませんけど、僕個人の感覚では、
共感し得る社会のように思えます。
貧富の差や慢性的なインフレ、民族問題など、
解決すべき課題は多くあるようですが、右肩上がりに成長発展を続けている。
日本人同様、トルコの人達も頑張っているのです。
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とまぁ、小難しい問題をヌキにしても、アジアとヨーロッパにまたがり、様々な人種と文化と宗教が混在する歴史の古い土地へ出かけるのは楽しいコトです。
ファンタジーっぽい奇観もたくさみ見られそうだし。
歴史の授業でしか習わなかった世界を、肌で感じて来たいと思う。
そんな感じで、これから出かけて来ます。