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計画停電ダブルパンチ

さすがに2回はキツイ。

計画停電第1グループに在籍中。本日は昼と夕方と2回の停電が発生。最初のころは、おっかなびっくり実施したりしなかったりでしたが、もう、なりふり構ってられないのか問答無用で実施。予定された開始時刻より20分ほど遅れる感じで、電源ダウン。文明の綻びから噴き出た闇は、我が家にもやってきた模様。ロウソクに照らされながら夕食というのも、アウトドアじみた趣があって楽しいですが、今後も続くとなると勘弁ですな。

物流の関係で、サンデーとマガジンとチャンピオンが木曜日にまとめて売っていたのは壮観でした。

計画停電と隣町買い出し紀行

あるところには、あるものです。

自宅待機中。当方、計画停電第1グループですが、いよいよ停電が実施される。モバイルルーターとiPadでradicoを聞き、情報源を確保。最近は、NHKラジオもストリーミング放送をやっているのですな。調べてみたら、隣町は停電グループが異なるので、店はやっているっぽい。自家用車で隣町のスーパーまで行ってみる。大行列を覚悟していたけど、すんなり入場できた。電池や大豆製品など、特定の商品は品切れでしたし、牛乳や肉なども1家族1品のみと制限はかかってましたが、それでもモノはある。買いだめにならないよう、必要最低限のものを購入しました。

出社はしてみたけれど、電池もラジオもない

電池不足は深刻です。

JRが動いたので、出社。電車は激混みでしたが、座れたのでまだマシ。昼すぎまで仕事したところで、午後には帰宅命令が出た。原発がどうなるかもわからないので、仕事どころではないか。仕事帰りに、ヨドバシカメラへ寄る。入口に、単1、単2、単3電池、防災ラジオは売り切れましたとの張り紙が。単4電池だけが大量に売っていた。乾電池はもはや貴重品。いちおうラジオ売り場に行ってみたところ、ラジオを受信できる機器は売っているけど、小型のものは絶無。どうしても欲しいなら、ラジオ受信機能つきの携帯音楽プレイヤーを買うのが良いでしょう。ゲーム売り場にも行ってみた。当然ながら、エネループなど充電池は売り切れ。PSPの予備バッテリーとか、Wiiリモコン用の無接点バッテリーパックは在庫あり。電源には違いないのだから、こういうのを利用して明かりをつけたり、ラジオをならしたりできないものかと思った。商機はどこにでも転がっている。

乾電池とガソリンとラジオを求めて彷徨う

やるやる詐欺に節電効果?

計画停電の影響で、首都圏近郊のJRはのきなみ運休。職場へ行くのは困難なので、自宅待機となった。朝から輪番停電が実施されるとアナウンスされていたので、身構えていたのだが、結局夕方まで実施されず。停電しますとアナウンスするのは、節電効果が高いのか? 時間があったので、電池やラジオを買いに車でホームセンターまで行った。しかし、入口のはるか手前から長蛇の列になっていたので、断念。車のガソリンも心もとなかったので、スタンドへ行ったらこちらも長蛇の列で、断念。

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結局、歩いて地元を廻ることに。電池は、コンビニが全滅で、ようやく見つけたのは地元のおもちゃ屋さん。あるところには、あるものです。臨時休業している店も、電池の在庫があるならそれだけでも売ればいいのに。食料品店は、入場制限が敷かれており、入るだけでも大変そう。親と相談して豆腐ハンバーグを購入。

残るはガソリン補給。新しいラジオは手に入らなかったけど、車が動けば冷暖房完備、ラジオつきの移動個室となるのです。夜になってから、あちこち巡ってみたけど、ほとんどの店がガス欠で閉店中。いつもは明るいスタンドが暗く伏している。文明の綻びから噴き出た闇に、染め上げられたかのよう。唯一、海沿いのスタンドが空いていたので、30分ほどならんで補給。値段は高く、10リッター弱しか補給できなかったけど、それでもしばらくは大丈夫そう。明日はどうなる?

ある帰宅難民の帰宅

東北地方太平洋沖地震』の翌朝、襟首の深い痛みで目覚めた。

首が廻らず、寝返りが打てない。昨夕は長時間、肩かけカバンを下げたまま歩いたからだろうか。東京から歩いて、川崎の親戚の家に転がり込めたのは僥倖だった。すでに実家とも連絡がつき、たがいの無事は確認されている。昼すぎには川崎を出て、JRで鎌倉へ向かう。横須賀線は大船-逗子間しか動いておらず、東海道線で大船まで。車内はまばらに立ち乗りの客がいる程度。動いたり止まったりという、間欠的なペースで南下する。ようやくたどりついた鎌倉は、週末にもかかわらず閑散としている。このご時世、この交通状況で観光に来る物好きは、さすがに少ないらしい。

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おだやかな土曜日。帰りがけの道すがら、行きにはなかった、早咲きの桜を観る。それでも春は近い。

■付記

震災当日の、地震発生から川崎までの『歩いてわかる生活リズムDS』による歩行記録。

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ある帰宅難民の顛末

それは、会議中のことだった。

品川シーサイドのオフィスビル。中層階がぐらりと揺すられる。数日前の昼にあった地震と同じぐらいか……そう思う間もなく、揺れは長く、激しく、輪を描くように続く。しまいには、立っているのも困難なほど揺れ踊る。窓外のビルが、目に見える動きで左右に振れている。柔構造の構築物だけに、折れはしないが荒波にもまれた船内にいるようだ。ピシリと壁に、真一文字の亀裂が走る。そろそろ終わるだろう、という安易な予測をはるかに上回る激震が終わった時には、もはや会議どころではなく、仕事どころでもなかった。

それが、宮城県沖を震源とする『東北地方太平洋沖地震』の私的体験だった。

定時近く。頻発する余震でビルは揺れ続けていた。軽く気分が悪い。電車は私鉄もJRも止まっているという。鎌倉の自宅までは約40キロ。歩けば8時間以上かかる距離だ。歩けないことはないが、電車が復旧することを期待して、私鉄ぞいに歩くことにした。経験上、JRより私鉄の方が復旧基準が緩かったからだ。京急の駅まで行くと、入口が封鎖され、復旧のめどは立っていないと告げている。想定内だ。横浜、川崎方面をめざして線路に併走する道を歩く。

自宅に電話をかけるが、繋がらない。地震直後は繋がったので、両親の無事は確認していたが、以降の消息がわからないのは不安だ。道路は車が数珠繋ぎになっている。こういう時は、歩いたほうが早い。最速なのは、自転車やバイクだろう。どこかで安い自転車を買おうかとも思ったが、思いとどまる。かわりに、牛丼屋で腹ごしらえをする。こういう時は、ダイエットよりも栄養補給が優先だ。

ビルの谷間に見え隠れする高架線路の上に、京急の電車が横たわっていた。紅白の車両は電力を絶たれ、暗く沈んで見える。いずれは復旧するにしても、ここ数時間では無理に思えた。はじめは歩いてでも鎌倉に帰るつもりだったが、考えをあらため、川崎の親戚の家に厄介になることにする。品川から川崎までなら、歩くのも無理ではない。人波に揉まれながら、多摩川を越え、東京都から神奈川県へと渡る。鉄橋の上にも、動きを止めた京急の車両が、漆黒の中に伏していた。会社を出てから2時間半で、川崎に到着。親戚の家で暖を取り、パソコンを借り、こうして顛末を記している。午後8時すぎ、ようやく自宅から電話があり、たがいの無事を確認し、電車が動くのを待っている。

不安や不便はあっても、この国の人間は秩序を守る。きっと、世界が終わるその瞬間に至っても、理路整然と滅びを迎えるに違いない。

■付記

震災当日の、地震発生から川崎までの『歩いてわかる生活リズムDS』による歩行記録。

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