短編小説『イモートちゃん』

 孝行論具

 昨日公開した短編小説『イモートちゃん』ですが、ちょっと後悔しています。

 いや、作品内容がイタいとかそういうコトではなくてですね、公開した先が有名なケータイ小説サイトなもので、大きなお友だちがアクセスするのは、精神的にもネットワーク的にもツライかな、と。どのあたりがツライかは、無言でお察しください。

 ということで、精神的にもネットワーク的にもやさしい、Blog版を作成。当然ながら、エントリーごとにコメントやトラックバックも可。便利な世の中になったものですね。僕はあいかわらず平打ちHTMLですよ。

Immort
郁雄/吉武

その子のなまえは伊本エイエル。だれともちがう髪の色と、だれともちがう瞳の色をしているけれど、だれでもうれしい顔になってしまう、そんなおんなの子。さいきんはみんなから、イモートちゃんとよばれています。

イモートちゃんは、伊本さんちのもらわれっ子。ほんとうにの子どもではありません。みんな、そのことを知っていますが、だれも気にする人はいません。みんなみんな、イモートちゃんが好きだからです。

イモートちゃんには、大好きなお兄ちゃんがいます。なまえはハヤムくん。ほんとうにのお兄ちゃんではありません。伊本さんちに、ほんとうにの子どもはひとりもいません。ハヤムくんのご両親は外国で仕事をしているので、知りあいの伊本さんちに住まわせてもらっているのです。

お友だちがたずねます。

「イモートちゃんは、お兄さんのどこが好きなの?」

イモートちゃんは、むねをはって答えます。

「あのね、ハヤムお兄ちゃんにあたまをさわさわしてもらうと、ももいろチューリップのにおいがするんです」

「ももいろチューリップのにおい?」

「ハイ、とってもすてきです」

ふしぎそうな顔をしているお友だちに、イモートちゃんはほほえみます。

イモートちゃんは、チューリップが好き。いつも、チューリップがらのものをみにつけています。髪どめも消しゴムもチューリップのかっこうをしているし、かばんにはチューリップのアップリケ、ハンカチやお洋服にも、さがせばどこかにチューリップが見つかります。

その日はイモートちゃんの誕生日。伊本さんちでパーティーです。ハヤムくんもイモートちゃんにプレゼントをおくります。

「あけても、いいですか?」

プレゼントの小さなつつみを手に、イモートちゃんはそっとハヤムくんをみあげます。

「あけてくれると、ぼくもうれしいな」

にっこり笑顔のイモートちゃんがつつみをあけると、なかにはチューリップのかたちをした小さなブローチが入っていました。ぴかぴかひかって、ちょっと大人っぽいデザインです。イモートちゃんは、さっそくむねにブローチをつけ、くるりと1回転。

「ほぅ、よかったじゃないか、エイエル」

「すてきなレディー、いっちょあがりね」

おとうさんとおかあさんも、にこにこしています。

イモートちゃんは、ハヤムくんにふかぶかとあたまを下げます。

「ハヤムお兄ちゃん、どうもありがとう。とってもうれしいです。だいじに、だいじにしますね」

「よろこんでくれてうれしいよ。エイエルは本当にチューリップが好きなんだね」

ハヤムくんはイモートちゃんのあたまをなでました。イモートちゃんはおおきな手でなでてもらいながら、なにか考えているようです。

その時、ハヤムくんはテーブルにならんだ食器がカチカチと音を立てていることに気づきました。かすかに地面がゆれています。どうやら小さな地震がおこったようです。

つぎの日のあさ。

ハヤムくんとおとうさんは、いっしょにでかけます。ハヤムくんは専門学校に登校、おとうさんは会社へ出勤です。

みおくりに玄関まできたイモートちゃんとおかあさんが、それぞれにつつみをわたします。どちらも手づくりのお弁当だそうです。

「これ、エイエルがつくったのかい?」

ハヤムくんがたずねると、イモートちゃんはえへへとわらいます。

「わたしの分もあるのかい?」

「早起きしてふたりでつくったのよ」

びっくりしているおとうさんに、おかあさんが答えます。

ハヤムくんとおとうさんは、お弁当をもってでかけました。ふたりは途中まで、いっしょの電車です。ゆれる車内のならんだ席で、おとうさんはぽつりとたずねます。

「そういえば、ハヤムくんがうちにきてどれくらいになるかな?」

「ちょうど1年ぐらいですかね」

「そんなになるか。エイエルがうちにきたのは2年まえだ。あの子もずいぶん変わったよ」

「どういう風にですか?」

「最初にあった時から礼儀ただしい子だったが、どこかわたしたちに遠慮しているかんじだった。さいきんは、本当に子どもらしい表情をするようになったよ。きみがきてくれたおかげだ……ありがとう」

「いや、ぼくはべつに、なにも……」

そこでハヤムくんは気づきました。となりに座る男性が、きびしい表情でこちらをみているのを。まるで別人のような、その男性はいいました。

「だからこそ、明瞭さが求められている。きみは、『タカ』かね、『ハト』かね?」

「!?」

ハヤムくんは、返事をすることができません。男性はつづけます。

「きみがあれになにを求めるにしろ、立場をはっきりすべきだろう。おぼえておきたまえ、わたしは『タカ』だ」

男性がそうつげるのと同時に、電車は駅にとまります。おとうさんが、いつもおりる駅です。男性は電車をおりていきました。

午前の授業がおわり、昼休みの食堂。ハヤムくんは、ガールフレンドのハサミちゃんといっしょにランチタイムです。ハサミちゃんとハヤムくんは幼なじみ。小学校のおわりごろにハサミちゃんは転校してしまい、専門学校で10年ぶりに再会しました。

ハサミちゃんは、購買で買ったサンドイッチをぱくつきながら、ハヤムくんのお弁当をのぞきこみます。

「ワオ! はげしくすてきなチューリップねっ!」

ハヤムくんのたべるお弁当のごはんの上には、桜でんぶでももいろチューリップがかかれています。

「じろじろみないでよ、ハサミちゃん。はずかしいんだからさ」

「またまた~。イモートちゃんの手づくり弁当を、そまつにするもんじゃないよっ」

「そりゃ、エイエルの気もちはうれしいけどさ……」

近くをとおりすぎる生徒たちはみな、ハヤムくんのチューリップ弁当に気づくと、おどろいたりわらったり、小声でひそひそ話したりしています。

ハサミちゃんは、意地悪そうなごきげんっぷりでたずねます。。

「ねぇ、ハヤムくん。チューリップの花ことばって、知ってる?」

「知らないけど、なに?」

コホンとせきばらいをひとつ、ハサミちゃん。

「チューリップの花ことばは、『愛』。そして、ももいろチューリップの花ことばは、『恋するお年ごろ』よ。こりゃぁ、あたしもうかうかしてらんないわっ」

ひとりでコブシをかためて気合いをいれる幼なじみに、ハヤムくんはいいます。

「え? えっと……ハサミちゃん? エイエルは妹みたいなもので、ぼくはべつに……」

「ハヤムくんっ!」

ババンとテーブルをたたき、ハサミちゃんはみをのりだします。

「近いうち、ハヤムくんちにおじゃまして、いいかな?」

「べつにいいけど……でも、家には伊本のおじさんやおばさんや、エイエルもいるし……その……」

まぢかで真剣な目でみつめられ、ハヤムくんはどぎまぎします。ふいに、にっこりわらうハサミちゃん。

「いやぁねぇ。うわさのイモートちゃんにあってみたいと思っただけよ。そんなに警戒しなくっても、べつになんにもしないからさっ!」

「ハサミちゃん、それ、男がいうセリフだよ……」

けっきょく、ハヤムくんはハサミちゃんを伊本家へまねくことになってしまいました。

週末、りちぎにハサミちゃんは伊本家へやってきました。ハサミちゃんとイモートちゃんは初対面でしたが、ふたりともなごやかなムードです。おかあさんがもってきてくれたおかしをたべながら、3人でゲームをしたり、アルバムをみたりしてたのしい時間をすごしました。

夕食は、おかあさんがごちそうを用意してくれました。おとうさんもいっしょです。おとうさんは、あれからな何事もなかったようにハヤムくんと接しています。

イモートちゃんが、ほうばったのりまきをのみこみながらハサミちゃんにたずねます。

「ハサミさん、小さなころのハヤムお兄ちゃんって、どんなかんじでしたか?」

「ん~、そうね~。ちょっと頼りないかんじもしたけど、自分の世界をもってる人だなって思ったわ」

イモートちゃんの表情が、ぱっと明るくなります。

「あ、それわかります、わかります。まわりからなんていわれても、変わらないじぶんがあるんですよね」

ハサミちゃんはおおきくうなずきながら、サワーの缶をあけてグラスに注ぎます。

「そうそう、さっすがイモートちゃん。お兄ちゃんのこと、よくわかってるじゃないっ」

イモートちゃんは、ジュースをいっきのみしてからいいます。

「ハヤムお兄ちゃんのことなら、だれにもまけませんよ!」

ハサミちゃんは、イモートちゃんを真剣な表情でみつめます。イモートちゃんも、まけじとハサミちゃんをみつめます。

「や~ん、もう。イモートちゃん、超かわいいっ!」

ふいに、ハサミちゃんはイモートちゃんをぎゅっと抱きしめます。イモートちゃんは、おどろいて手足をじたばたさせますが、やがておなじぐらい力づよくハサミちゃんを抱きしめました。なんだか、おんなの友情のようなものがめばえたようです。

当のハヤムくんはといえば、ハサミちゃんとイモートちゃんのやりとりが、さっぱりわかりません。おいてきぼりをくらったハヤムくんはふたりにたずねます。

「あのぅ、ふたりでもりあがってるところ悪いけど、ぼくが自分の世界をもってるって、どういうことなの? あいにく、ぼくには心あたりがないんだけど……」

ハサミちゃんは、イモートちゃんを解放してから、とろんとした目でハヤムくんをみつめます。サワーの入ったグラスをいっきのみし、カタンとテーブルにおきます。

「ハヤムくんも、ちょー超かわいいっ!」

こんどはハヤムくんを、ぎゅぎゅっとだきしめました。ハサミちゃんは、お酒をのむとだきつくクセがあるようです。

イモートちゃんが、おおきく目をみひらきます。

「ちょ、ちょっとハサミちゃん!」

ハヤムくんが目をしろくろさせていると、つきあがるような衝撃がおこります。

「なんだ地震か?」おとうさんがあたりを見まわします。

「テーブルの下にかくれて!」おかあさんがみんなにいいます。

「エイエル、ハサミちゃんも早くもぐって!」

ハヤムくんは、ふたりをテーブルの下に引っぱりこみました。ハサミちゃんもイモートちゃんも、ハヤムくんに必死でしがみついています。ゆれは数分間つづきました。家がこわれるほどではありあませんが、棚の食器がいくつか割れる音がします。

ゆれががおさまると、みんなテーブルの下からでてきます。おとうさんはテレビをつけて状況をかくにんします。

「どうやら、となりの県の火山が噴火したようだね」

テレビでは、数十年間ずっとおとなしかった火山が、きゅうに噴火したというニュースがながれています。ハヤムくんは、イモートちゃんの手がこまかくふるえているのに気がつきました。

ゆれははげしかったものの、被害はそれほどでもないようです。電車にいちぶ遅れがでていますが、動いているようなので、ハヤムくんはハサミちゃんを駅までおくることにしました。

ハサミちゃんは、ずっとだまったままでした。でも、駅についてハヤムくんと別れる時に、いつもの明るい調子でいいます。

「きょうは、招待してくれてありがとね。イモートちゃんともなかよくなれたし、とってもたのしかった。さいごはちょっと、びっくりだったけどさっ」

「エイエルも、ハサミちゃんが気にいったみたいだし、よかったらまたうちに……」

そこでハヤムくんは気づきました。目の前にいる女性が、きびしい表情でこちらをみているのを。まるで別人のような、その女性はいいました。

「それにしても、いまいちはっきりしないのよね。あなた、『タカ』なの、『ハト』なの?」

「!?」

ハヤムくんは、またもや返事をすることができません。女性はつづけます。

「あなたの何者のか、だれも把握できてないわ。あの人みたいに静観するつもりでもないようだし。まぁいいわ。これだけはおぼえておいて。あたしは『ハト』よ」

女性はそうつげると、改札口のおくへと消えていきました。

つぎの日、専門学校へ登校すると、ハサミちゃんは何事もなかったように、ハヤムくんにはなしかけてきます。おとうさんの時と、まったくおなじでした。ハヤムくんには、『タカ』や『ハト』がどういう意味なのか、まったくわかりません。でも、それがイモートちゃんと関係しているような気がしています。

それからしばらく、おだやかな毎日がつづきました。火山の噴火活動も、すぐにおさまっています。もしかすると、あの噴火は宇宙からふってきたいん石が衝突したせいかもしれないことがわかり、いろいろな国の調査団がやってきて、火山をしらべているそうです。

ハサミちゃんは、そのごも何度か伊本家へやってきましたが、とくにおおきな事件はおこりません。でも、ハヤムくんが注意ぶかくみていると、イモートちゃんがこころう動かされることがおこると同時に、小さな地震や事故、災害のニュースがながれているように思えます。たんなる偶然で、へんに気にしすぎているだけだと思いたいのですが、どうしても引っかかります。

伊本家でイモートちゃんたちといる間はなんとも思わないのですが、ひとりで夜空をみあげたり、電車のまどから遠くの山をながめたり、学校でパソコンの画面をみつめていると、ふと、こみあげてくる不安におしつぶされそうになります。。

そのたびにハヤムくんは、そんな不安は勘違いや思い過ごしにちがいないと思うようにしていました。

そんなある日の深夜、ハヤムくんが寝つけずに伊本家の台所へいくと、部屋にあかりがともっています。おかあさんが、ビールをのんでいたのです。

おかあさんはごきげんなようすで、こんな詩をくちずさみます。

酒をのめ、土の下には友もなく、またつれもない、

眠るばかりで、そこに1滴の酒もない。

気をつけて、気をつけて、この秘密 人にはいうな――

チューリップひとたび萎(しぼ)めば開かない。

詩がとぎれたところで、ハヤムくんはこえをかけます。

「おばさんも、寝つけないんですか?」

「ハヤムくんもなの? ふふふ、あなたも一杯どうかしら?」

「い、いただきます」

おかあさんは、いつもとすこし雰囲気がちがいます。ハヤムくんは、ビールの大人っぽい苦さが好きではありませんでしたが、おとなしくビールのつがれたコップをうけとります。ふたりは、とりとめのない話をはじめました。

ながいようで、みじかい時間がすぎました。ふと、おかあさんは黙りこんでしまいます。ハヤムくんは、ひょっとすると、おかあさんもおとうさんやハサミちゃんのように、意味のわからないことをいいだすのではないかと思いました。だから、こんどは先に質問してみます。

「おばさん……おばさんは、『タカ』ですか、『ハト』ですか?」

通じるか自信はありませんでした。でも、おかあさんはすぐに答えてくれます。

「わたし、どちらでもないのよ。そういうのは、もうやめることにしたから」

「そうなんですか? でも意味はわかるんですよね。『タカ』とか『ハト』って、いったいなんですか?」

おかあさんは、目をほそめてハヤムくんをよこめでみます。おこってはいないようですが、いつものおかあさんとは別人のようです。おかあさんは、半分ほどになったハヤムくんのコップにビールをつぎながらいいます。

「『タカ派』とか『ハト派』ってことばを知っているでしょう? ある物事にたいして、つよい態度でのぞむか、おだやかな態度でのぞむかってことね。あなたの知りたい『タカ』と『ハト』っていうのは、あの子にたいして、どういう態度でせっしているかって意味になるのよ」

「あの子って……ひょっとして、エイエルのことですか?」

ハヤムくんは、そうにちがいないと確信しながらも、おかあさんにたずねます。

「もちろんよ。あなたはあの子、何者だと思う? 考えたこともない?」

「それは……」

ハヤムくんは、ことばにつまります。なぜかいままで1度も、イモートちゃんが何者か考えたことがありませんでした。

「とうぜんだと思うわ。あれだけまぢかで、あの子の幸福照射に被ばくしていれば、そうなるでしょうね。むしろ、いまは寝ているとはいえ、あの子の近くでよく、それだけ自由にものが考えられるものだわ」

「?……意味がわからないんですが。まず、その、エイエルっていったい何者なんですか?」

「わからないわ……というのが結論なんだけど、いろいろな説があるわ。いちばん有力なのは、あの子は『世界の死神』じゃないかってやつね」

「!?」

おかあさんの話によると、イモートちゃんは自分のまわりにある悪意や不運といったことがらを吸収して、自分のなかにためることができるそうです。いつも悪意や不運を吸収しているので、イモートちゃんのまわりには善意や幸運といったことがらだけが満ちているのです。でも、イモートちゃんの感情がゆさぶられると、ためこんだ悪意や不運がふきだして、さまざまなかたちで不運なできごとをおこしてしまいます。

「それじゃ、まるでエイエルは神様だとでもいうんですか?」

「そういうものが実在するなら、まさしく神の力よね、あれは」

このことに気づいたいちぶのひとびとは、イモートちゃんを監視することにしました。イモートちゃん、はるかなむかしからその存在を知られています。さまざまな時代、さまざまなひとびとが、イモートちゃんの力を利用しようとしましたが、みなうまくいかなかったそうです。なぜなら、悪意をすいとられてよい人になってしまうからです。

「あるていど距離をおけばそうでもないんだけど、半径100メートル以内であの子の幸福照射に被ばくすると、もうだめね。根こそぎ悪意をすいとられて、善人にされちゃうのよ」

「では、おじさんや、ハサミちゃんは……」

「あの子の力を利用しようとする、どこかの組織の工作員でしょうね」

「それが『タカ』と『ハト』ですか」

「組織名じゃないんだけど、それで定着しちゃってるわね。あの子の力を一気に解放して、世界を破壊しようとしているのが『タカ』で、いまの世界を維持しようとしているのが『ハト』ね」

「おじさんが『タカ』で、ハサミちゃんが『ハト』?……でも、あの噴火がエイエルのせいだとすると、噴火をおこさせたのは『ハト』じゃないですか! なんで世界を維持しようという側が、天変地異をおこさせるんです?」

「あれはガスぬき、みたいなものでしょうね。『ハト』としてはあの子がためた力をすこしずつ解放させて、『タカ』がのぞむような大破壊をみぜんに防ごうとしているのよ。あの噴火だって、被害はたいしたことなかったでしょう?」

「それはそうかもしれませんが、じっさいに被害者だっているし、なによりエイエルの力を利用しようだなんて、ぼくにはゆるせません」

「でもね、あの人たちも結構苦労してるのよ。どんな下心があっても、あの子に近づけばみんな善意でうわがきされちゃうんだから。暗殺なんてぜったいむりね。せいぜい、あの子の大好きなお兄ちゃんにちょっかいを出して、やきもちをやかせるぐらいが精一杯なのよ」

「ハサミちゃんが、そんなつもりでぼくに近づいてたなんて……」

知らない間に、ハヤムくんのコップに注がれたビールが、生ぬるくなっていました。とても、お酒をのむ気分ではありません。ちょっとこまったところがあっても、みんなみんなよい人だと思っていたハヤムくんには、おおきなショックです。

おかあさんは、ためいきをひとつついてからいいます。

「でもね、これでも落ちついたほうなのよ。あの子はここしばらく、この国のいろいろな場所で、いろいろな家族とすごしていたのだけれど、前世紀のおわりなんか、例の終末予言のせいで、いろいろな組織の連中が、あの子のまわりでホームコメディを演じていたんだから。あわや最終戦争になりかねないところだったわ。わたしも、いろいろ苦労させられたものよ」

「おばさん……そうだ、おばさんこそ、いったい何者なんですか?」

おかあさんは、興味なさそうに答えます。

「もう、わすれたわ。でも、おぼえておいて。わたしはあの子になにもするつもりはないわ。いえ、母親として、あの子にたくさんの愛情をそそぐことはするけれど、あの子の力についてはなにも求めないし、なにも考えない。それが、この幸福でぬりかためられた場所で正気をたもつ、ゆいいつの方法なのよ」

ハヤムくんは考えます。この、とんでもない話は、はたして事実なのだろうかと。でも、これが事実だとしても、たしかめる方法はなさそうです。

ぬるくなったビールを、むりに流し込んでからから、ハヤムくんはおかあさんにいいます。

「ぼくも、エイエルにふしぎな力があるのは気づいてました。でも、おばさんの話が本当ににかどうか、判断がつきません。さっきの話がほんどうだっていう証拠はあるんですか?」

おかあさんは、ちょっぴり天井をみあげてから答えます。

「それでもこの世界がつづいていること……それが、証拠にならないかしら?」

「なりませんよ。エイエルには世界を滅ぼす力があるんでしょう?」

「でも、そうなったら、こうしてこんな話をすることはできないわよね」

「それは、そうですけど……」

「わたしはね、滅びっていうのは、一種の救いだと思うの。そりゃ、死んじゃうかもしれないけど、いやなこともみんな、消えてなくなってしまうわけでしょ。『タカ』の人たちはそれをのぞんでいるわけよ」

「『タカ』……おじさんの考え方ですね。一気にエイエルの力で滅びたい。だから、ハサミちゃんとちがって、なるべくエイエルを刺激しないようにしてたのか。力をためこませるために」

「そういうことね。じゃぁ逆に、これだけ問題が山積みの世界が、いまもつづいているってことは、なにを意味するのかしら? 人間のすばらしい英知のおかげかしら? それとも、なにかの呪いにでも、かかっているのかしら? わたしはね、こう考えてるの。おまえたちに滅びる資格などない。おめおめと、このまま生きつづけろってことなんじゃないかってね。あの子が、この世界を滅ぼさないのが、なによりの証拠よ」

「でもそれは、滅ぼせるという証拠には……」

ハヤムくんのことばをさえぎって、おかあさんはつづけます。

「たとえばね、アジアの東のはしに、小さな島国があったとするじゃない。その国は、かつてつよい軍隊をもっていて、おおきな国と戦争をしたわ。でも、さいごは降参した。それから、その国は変わったわ。軍事力じゃなくて経済力で力をつけた。軍隊をもたず、どの国にも戦争をしかけず、しかけられず……ま、ホンネとタテマエはいろいろあるけれど、そうやって平和に半世紀以上も、その小さな島国はおだやかな世界を維持してきた。でも、そんなこと、本当にできるのかしら?」

「え? 本当ににもなにも、それが事実じゃないですか」

「あの子の力はね、半径100メートルいないのひとびとの悪意と不運をけし、善意と幸運で満たすわ。その力は、距離とともに弱くはなるけど、なくなりはしないわ。だから、半径1000キロ以内のひとびとにも、わずかではあるけれど幸福で満たしてくれているの。そんな状態が、半世紀以上つづいているとしたら?」

「じゃぁ、この国がずっと平和なのは……」

ようやく、ハヤムくんはおかあさんのいいたいことがわかってきました。でも、それをみとめることはできません。イモートちゃんが『世界の死神』であるということを、みとめる以上に。

おかあさんは気楽に断言します。

「どうでもいいことじゃない、だれのおかげとか、なんのおかげで平和かなんて。わたしはこの、ぬるま湯みたいにおだやかで、平和で退屈な場所が好きよ。それがどれだけ恵まれていることか、わたしは知っているもの。不死の人、名声不朽の人、Immortal(イモータル)な『イモート』の『エイエル』とは、よくいったものね。わがいとしのイモートちゃんに、乾杯!」

おかあさんは気だるげに、残ったビールを飲みほしました。

10

あさになりました。

「おはよ~ございま~すっ」

ハサミちゃんが伊本家にやってきました。なんでも、近所に引っ越してきたのだとか。かなりの本気です。

「これから毎日、いっしょに学校へいきましょうねっ!」

イモートちゃんもまけてはいません。朝練があるからと、いつもより早く、ハヤムくんたちといっしょに学校へでかけます。

「エイエルも、途中までいっしょですよ!」

ハサミちゃんとイモートちゃんにはさまれて、ハヤムくんはきゅうくつそうにあるきます。すこしうしろで、おとうさんが苦笑します。

「やれやれ、じつに平和で結構なことだね」

「みんな、気をつけていってらっしゃ~い」

おかあさんは、てをふってみんなをみおくります。

右腕をイモートちゃんがつかみ、左腕をハサミちゃんがつかみ、うしろにおとうさんがあるいています。おかあさんの話が本当になら、世界の命運はハヤムくんがにぎっているのかもしれません。

──じゃぁ、ぼくはだれなんだろう?

ハヤムくんは思いました。ハサミちゃんが、おとうさんが、おかあさんがそうであるように、自分だけが、なにも知らないふつうの人、とはかぎりません。ハヤムくんは、むかしの自分をおぼえてます。じつは『タカ』や『ハト』だったということもないのですが、それはなんの保証にもならないでしょう。

──もしかすると、ぼくはエイエルにつくられたのかもしれない。

そんなことさえ、考えてしまいます。イモートちゃんの大好きなお兄ちゃんとして自分がうみだされたのだとしたら……それは、とても恐ろしいことのはずでした。でも、ふしぎとハヤムくんは、恐ろしいとはかんじません。

理由はかんたん。ハヤムくんにとって、ここがとても大切な世界だからです。ハヤムくんはイモートちゃんといっしょにいたいのです。イモートちゃんのそばにいるかぎり、ハサミちゃんも、おとうさんも、おかあさんも、よい人たちです。ハヤムくんは、そんなみんなが大好きです。

イモートちゃんが『世界の死神』だというのなら、世界をどうするか決めるのはイモートちゃん自身です。ほかのだれかが、勝手に決めてよいことではありません。

その日がくるまで、ハヤムくんはイモートちゃんが幸福で満たす小さな世界を、できるかぎり守っていきたいと願うのです。自分が、だれであろうとも、それが、まちがっていようとも、です。

T字路にさしかかりました。

「ハヤムお兄ちゃん、こっちからいきましょう」イモートちゃんが、右腕をひっぱります。

「ハヤムくん、そっちより、こっちのほうが近道よねっ」ハサミちゃんが、左腕をひっぱります。

「ちょ、ちょっとふたりとも、いたいって」ハヤムくんはおお弱りです。

「この大岡裁きはみものだね」おとうさんは、とてもたのしそうです。

ハヤムくんは、しみじみと思いました。

──平和にボケるのも、らくじゃないね。

おしまい

■引用文献

ウマル・ハイヤーム著、小川 亮作訳、『ルバイヤート』(青空文庫)

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