小説『ナスレディン・ギア(3/3)「海峡大橋に決す」』

2010年は「トルコにおける日本年」でした。

長編小説『ナスレディン・ギア』ブログ配信3回目、最終回。手元に置きたい方は、ダウンロード版をどうぞ。昨年、2010年は「トルコにおける日本年」でした。親日国トルコで、日本に注目しましょうという年。そこらへんも意識して、トルコの歴史を絡めて書いてみたのだが、なんだかんだで機会を逸してしまいましたな。

海峡大橋(ボアズキヨプリユス)に決す

                                          01

無数の窓から差しこむ、光の束。
「──冗談にしては、本気すぎるよなあ」
仮設の足場に吊された人形闘機の頭上で、エルギンがぼやいた。
彼は作業用の人形機、マイムンを繰り、デュルトの組み立てを手伝っている。
自動機の自爆攻撃から二十時間が経過。
瓦礫の下敷きとなり中破したデュルトは、再建派の作業員たちによって、修理、改修作業が進められていた。
間近で自動機の自爆攻撃にさらされたデュルトは、またも生存性の高さを実証する。
耐爆処理を施された胸郭内にいたエルギンとコルンは、無傷で瓦礫の中から救助された。
操縦席にいたふたりは無事だが、間近で生身をさらしていたエーミアは瓦礫の下敷きとなり、現在は治療中。
それでも命があっただけ、まだましだ。
自動機の襲撃で、多くの再建派メンバーが命を落としている。
灰色の装甲を外されたデュルトは、仮組みされた足場に固定され、骨格となる構造を露出。
肋骨に相当する、球状の操縦区画の上部に載せられた、鎖骨と肩胛骨に相当する支柱が左右の腕を吊り下げている。
背骨に相当するS字の支柱は骨盤に結合され、両脚を繋ぐ。
手脚の骨格が部分的に折損しているが、胸郭は無傷だ。
そしていよいよ、いちばん肝心な部位が追加される。
「頼みましたぞ」
足もとに控えた、人形機を繰る白髭の老人、テケル親方が、人間なら一抱えはあろうかという球状の部品を持ち上げる。
慎重かつ無駄のない、堅実で気持ちのいい所作。
「はい。でははじめますよ」
頑丈な脚立の上で、エルギンは人形機、マイムンの操作桿を繰る。
不安定な自律制御を切った状態で、機械腕が球体を受け取った。
それは一見すると、頭頂に黒い鶏冠(とさか)がついた兜をかぶる、巨大な目玉のようにも見える。
灰色の人形機に追加される、人間で言えば、頭にあたる部位。
だが、実際に頭部に相当する機能を有するのは、鶏冠に集積された感知器(ドゥヤルガ)のみ。
デュルトは、機体各所に設置されたカメラで全方向の視界を確保し、胸部の操縦席内で操作を行うため、人間の頭蓋に相当する部位は、感知器以外必要なかった。
同心円状に染め分けられた、目玉模様の中心から少し上には、V字型に横線がデザインされ、遠目には切れ長の目にも見える。
この目玉顔こそが、人形闘機の能力を最大限に引きだすための装置、目玉守(ナザルルク)。
対戦機砲を無効化し、人形闘機が得意とする近接戦闘にみちびくための防御兵器。
原理の説明は聞いたし、効果も体験したが、いまだに実感が湧かない。
だが、彼がついに自動機を倒し得たのは、この装置のおかげだ。
気づけばここ数年来わだかまっていた心が、肉抜きされたように軽くなっていた。
エルギンは、操作桿をミリメトレ単位の精度で繰り、球状の装置を指定通り、一発で胸郭の上部に据える。
「おお……」
周囲で見守っていたものたちから、低い歓声が上がる。
すかさず、デュルトの両肩に乗っていた作業員の男女が、球体の固定をはじめた。
マイムンが乗る脚立の天板が下がり、エルギンは操作桿から地面に飛びおりる。
同じく人形機を降りたテケルが、彼をねぎらう。
「かたじけない。負担をかけてすまないが、ぬしがいると作業がはかどりますな」
もはや体力が持たないとは本人の弁だが、その冴えた人形繰りには、いささかの衰えも見られない。
「お気になさらないで下さい。作業完了までは、どくらいかかりそうですか?」
「そうさの。修理と言っても壊れた部位を予備と交換するだけゆえ、あと十六時間もあれば終わろう」
「設計や生産も、あの地下施設でやってたんですか?」
「設計に関してはトリアイナ各地で、再建派の技師たちが分散して行っておる。生産は、提供された情報をもとに地下施設で行っておったが、ご存じの通り自動機に潰されもうした」
いきなり自動機が自爆した時はあせったが、味方の助けで瓦礫の中から這いだし、ここまで歩かせることができた。
「……いっそ、製造もトリアイナでやればよかったのではないですか?」
「そうしたいところだが、生憎と極秘に試作を行える製造施設があそこにしかなくての。あるていど完成させた段階で、内海峡(ボアズィチ)から海路でトリアイナへ移送しようとしたのだが……」
胸郭に仮の手脚をつけた状態で、リバティノブル北西部地下を移動中、転倒。
「その時のトラブルで、ぼくが呼ばれたわけですね」
「そういうことですな。はじめからぬしの腕を知っておれば、完璧な状態で移送したところでしたが」
「あまり、当てにされても困りますけどね」
テケルの表情は「いやいや、大いに、当てにしておりますよ」と言いたげだったが、少年の表情を見て口をつぐむ。
そうしてくれると、ありがたい。
エルギンは、頭蓋状の部品がついた灰色の人形機を見上げる。
ギヨト再建委員会が極秘に開発しているとされた、〈ナスレディン・ギア〉なる秘密兵器。
都市伝説じみたその噂が、まさか実在するとは。
格闘戦に長けた人形闘機だけでは、火力、防御力、機動力に長けた自動機には対抗できない。
だが、機動力を増す走行形態と、対戦機砲を無効化する目玉守を併用することで自動機に肉薄し、人型形態で超硬エアロゲルという新素材の長剣(クルチユ)をふるい、断ち斬る。
〈ナスレディン・ギア〉とは、装置単体のことではなく、これらを組み合わせたパッケージの総称だったのだ。
この機体が完全な状態で量産されれば、SKMは戦兜(ヘルム)に対抗し得る兵器となるだろう。
自律制御系が不完全なため、現状ではエルギンの人形繰りやコルンの運転技術といった名人芸に頼らざるを得ないのが、懸案事項といったところか。
ヒズメトの母体となった、ギヨト直系の製造業者は伝統的に、制御系などのソフトウェア方面に弱く、協業した外国企業の技術に頼っていた。
連邦の勢力が衰え、支配地域が縮小すると、そういった外注の技術が使用できなくなり、品質の低下によりますます競争力が低下する。
それがさらなる、衰退を助長するという負の連鎖が続いていた。
デュルトの自律制御系が未搭載なのは、逆に言えば外注に頼らず、自力ですべてを完成させることを目指しているからこそ、なのかもしれない。
不意に、頭上から。
「エルギン、ご苦労様!」
涼やかな女性の声が降ってくる。
コルンだ。
エルギンは頭上を見上げ、声の主を探す。
音が反響するため、位置がわからない。
ここは、柱のない広大な建造物の内部。
はるか上方の円蓋が、頭上のすべてを覆いつくしている。
前後左右の壁面は、直線と曲線で構成され、柱や窓が複雑に配されていた。
周囲に配された四本の尖塔が天を衝く、赤煉瓦の巨大建築。
陽光が差しこむ静謐な空間は、一見すると寺院(ジヤーミ)のようにも見えるが、壁面のあちらこちらに、神や天使、聖者の姿が描かれている。
偶像崇拝を固く禁じたこの国の寺院に、神の姿が描かれることはない。
複数の宗教美術が混在する、摩訶不思議な建築物。
無宗教の施設として統連直轄の資源管理局が管理する伝統建築、アヤアクル博物館(ミユゼ)の中央部に、デュルトは匿われていた。
敷地の外で、特区軍に包囲されていたが、治外法権であるこの場所にいれば安全なのだと言う。
「コルンさんなら、あそこにいるよ」
人形闘機の肩に乗っていた、眼鏡の青年、ヤバンがしめした場所を見る。
エルギンの真後ろ直上の張りだしから、コルンが手を振っていた。
青年に礼を言いながら、彼女に手を振り返す。
テケルに断って壁際の螺旋階段を登り、中層の張りだしまでゆくと、アヤアルクの内外が一望できた。
千年以上の歴史を持つこの施設の中では、最新の人形闘機も、赤子(ベベキ)をあやす人形(ククラ)も同然だ。
米粒のようなテケルの指揮で、デュルトの改修作業が続けられている。
そして、上辺が曲線を描く窓の先には、蒼いタイルに覆われた建物が間近に見えた。
ヒズメト・ギヨト旧総帥府だ。
赤煉瓦のアヤアクルは、旧総帥府の真南に位置する施設。
いくら安全だからと言って、よりにもよって、対立組織の重要施設前で籠城しなくてもいいだろうに。
アヤアクルの敷地周辺は、特区軍の人形闘機と戦闘車両、憲兵隊(ジヤンダルマ)の装甲車で厳重に囲まれ、その後ろを見物人のリバティノブル市民が取り囲んでいる。
ここにいる限り、危険はないとのことだが、窓際に立つのは避けるべきだろう。
エルギンは張りだし沿いに、コルンのそばまで歩む。
彼女は赤いギヨト帽に詰め襟の制服という、ヒズメト陸軍士官の軍装に身を包み。
装飾が施された手摺りにもたれながら、やわらかい視線で直上に描かれた聖母を見上げていた。
慈愛に満ちた異教の女性は、たおやかな笑みでふたりを見下ろしている。
聖母と同質の笑みをたたえ、コルンは言う。
「ここは、歴史があふれていて好きな場所です。あの絵も、ここが寺院だったころは漆喰で塗りつぶされていたんですよ」
「そうなんだ。お詳しいようですが、歴史が好きなんですか?」
「はい、大学も、史学科だったんですよ」
「じゃあ、専門家だ」
「兄の影響もあって、色々調べるようになりました」
「お兄さんがいらっしゃるんですね。いま、どちらに?」
コルンは一瞬だけ、戸惑ったような表情を見せ。
それから告げる。
「……サロノシェヒルにいます」
サロノシェヒルは、首都リバティノブルの南東、三〇〇キロメトレ。
トリアイナ半島中央部に位置する都市。
彼女はおだやかに告げたが、そこはこのアヤアクル以上に、おだやかな場所ではない。
「そこって、いま、再建派が占領している場所ですよね」
そして、ヒズメト軍に包囲されている場所でもある。
「はい。兄はちょっと変わった人なんですが、再建派の一員としてサロノシェヒルでがんばっています」
「変わってるんだ……それでコルンも、再建派に参加してるんですね」
「ええ。きっかけは、たしかに兄の影響です。でも……」
「ほかに、なにかあるんですか?」
エルギンの問いに、コルンは聖母から視線を下ろし、黒髪の少年にむける。
その表情には、どこか恥入るような感情が垣間見えた。
「わたしは、サロノシェヒルで育ち、リバティノブルの大学に進学しました。ですから、エルギンみたいに難民として戦火で故郷を追われたこともないですし、戦争の悲惨さは資料を見たり、人づてに聞いただけです」
「はい」
「かわりに、わたしは歴史について学びました。時代の奔流の裡にあって、この国が興り、発展し、現在は衰退しつつあります」
「そうみたいですね」
他人事のように言う少年に、すかさず彼女は言う。
「──エルギンは、この国が滅んでも構わないと思っていますか?」
「!……」
平板な口調で発せられた問いに、エルギンは即答できなかった。
滅んでくれて、いっこうに構わない。
すでに故郷は占領され、グレシア領となっている。
ヒズメト連邦という国家が消滅しようと、自分ひとりが生きる能力に、不自由はしていない。
それが本心のはずだったが、いざ言葉にしようとすると、躊躇してしまう。
コルンが小さく、口もとをほころばせて言う。
「わたしも多分、エルギンと同じ気持ちです。歴史の中で、滅んでしまった国家はたくさんあります。時代の流れで滅亡してしまうなら、それは仕方ないことかもしれません。でも、それは結果として言えることです。この国は、多くのものを失いましたが、まだ滅んだわけではありません。結果がでる前に、軽々しく滅んでも構わない、なんて言えないでしょう?」
彼女の言葉は、彼の思いをうまく言語化してくれた。
「たしかに……そう、ですね。この国はまだ、滅んでいない」
「だからわたしは、再建派の活動に身を投じる決心をしたんです。結果がでるまでは、できることをやってみようと思うからです──」
そこまで言うと、コルンは手摺りを両手で握り、眼下に直立する灰色の人形機を見た。
かすかな憂いを秘めたまなざしで、彼女は続ける。
「──でもね、わたしはあなたに、わたしと同じ覚悟をして下さい、とは言えません。エーミアさんは、エルギンを再建派の一員にしたいみたいですけど、わたしは反対です」
エルギンは彼女の横顔を凝視する。
心のどこかで、疑っていた。
もしかしてコルンは、自分を再建派に引きこむための工作員なのではないかと。
好意のある素振りを見せて、再建派の思想に染め、同志に仕立て上げる。
もしそのつもりなら、彼女はきわめて優秀な工作員と言えた。
つい、先ほどまでは。
「それで、いいんですか?」
半信半疑ながらの問いに、コルンは手摺りを握ったまま、顔だけこちらにむける。
「もちろんです。エルギンの、思う通りにして下さい。そのかわり、わたしにデュルトの繰り方を教えて下さい。士官としてSKMを指揮する以上、ベベキだって扱えないといけませんから」
きっぱりと告げる栗色の瞳に、確信をこめた輝きがあった。
大人の色香をたたえた、それでいて、どこか子供っぽい理想をいだいた、年上の女性士官。
心臓が、どくり、どくりと耳障りに乱打する。
エルギンは、確たる想いを自覚せざるをえなかった。
「わかりました。できる限り……お教えします」
「お願いしますね」
気負いのない笑みが、凛々しい出で立ちと、起伏のある肢体を、ひときわ魅力的に磨き上げていた。
「っ……」
コルンが手摺りから両手を離し、わずかに身を固くする。
エルギンは、人形機を自在に繰る時の足捌きで、瞬時に彼女との距離を詰めていた。
「コルン、ぼくは……」
両肩を掴み、引きよせた。
赤いギヨト帽が、はらりと彼女の背を滑る。
不器用な強引さに、コルンは逆らわなかった。
かかとの高さを差し引くと、わずかにエルギンの方が低い。
彼女は陽光にさざめく瞳を閉じ、息を止め、ほんの少しあごを引く。
艶のある淡く朱い唇が、黒髪の少年を求めていた。
エルギンは唾を飲み、舌で薄く唇を濡し、そっと顔を寄せた……が。
想いをとげる直前、背後で燃え上がる殺気に、ようやく気づく。
「!……」
反射的にコルンをかばって背後をむく。
そこにいたのは、小柄な黒服の少女。
肩を怒らせ、頬を紅潮させ、エルギンを睨み上げている。
「ケディを無視する奴は、ロバに蹴られて、死ぬ」
まるで、天国へ召される魂を呪うかのような声音。
ケディは睨む視線はそのままに、右手を真横に差し上げ、手摺りの先を刺すようにしめす。
その先を視線で追うと、修理中のデュルトがある。
人形闘機に灰色の装甲を嵌めていたはずの作業員一同が皆、作業の手を止めてこちらを見上げていた。
困惑、不快、笑み、快哉。
感情はさまざま。
テケルは、孫夫婦を見守る老爺の目だ。
同じく状況を理解したらしいコルンが、あわてて身を離す。
そんなふたりに、ケディは憎しみを叩きつけるように言う。
「用意ができたそうだ。ふたりとも、さっさとこい!」
「あ、ああ……」
「わかりました。すぐにうかがいます」
しどろもどろなエルギンになりかわり、コルンがギヨト帽を拾いながら答える。
ケディはフンと鼻を鳴らし、黒いスカートを広げ、背をむけ。
背中ごしに、言い捨てる。
「愛でたバラだけが、バラではないぞ。覚えておくがいい!」
返事を待たず、少女は螺旋階段を降りていった。
あくまでも再建派への参加を固辞するエルギンは、これからギヨト再建委員会首班、エミール・ナスレディン・パシャとの会見に臨まねばならない。

                                          02

まるで、「人形機に背負わされている」ようだ。
熟達した人形機繰者であるはずの、ハリデ・スィヒル少佐は痛感していた。
ヒサール型の操作桿に磔られ、眼前に投影される情報帽(ハベルカスク)からの映像をもとに四肢で繰る。
場所は、彼女が敗れた円形広場。
眼前に迫る灰色のSKMは、あの時と同じ鋭利さで迫り、左廻し蹴りを放つ。
その軌跡を空かし、反撃へいたる一連の動作は、本能的に見えている。
だが、回避運動を実施する前に、情報帽に最適の回避方法が軌跡として表示される。
彼女はあえて、回避を放棄。
すると、機体が勝手に提示された回避運動を実施。
敵のかかとが、胸もとをかすめる。
その間、一時的に操作桿が入力を受けつけなくなっていた。
操作不能状態は、回避が完了した時点で回復。
操作桿が、機体の状態に追随する。
回避動作の間隙は、彼女が想定したものより狭く、より早いタイミングで前傾できた。
すかさず、眼前に敵の右軸脚を払う軌道が提示される。
操作を放棄すると、またもや機体が自動で足払いを放つ。
右脚を払われた敵は宙に浮き、腰から落下。
現実がこの通りになるとは限らないが、たしかに的確な攻撃だ。
左胸の短剣(ブチヤク)を引き抜く。
灰色のSKMは、胸を突きだして転倒している。
眼前に、敵の腹から胸を突き上げる攻撃が提示された。
操縦席を貫けば、勝負は決まる。
ふたたびスィヒルは操作を放棄した。
しかし、今度は機体が勝手に攻撃動作を行わず、かわりに背後へ飛び退く。
窮地を逃れた敵は、背中の動輪で機速をつけて後進し、ひねりを加えて立ちあがる。
そこで、敵の動きがぴたりと停止。
ネルギア人の軍事顧問、ウスル大佐の声が情報帽から流れる。
『そこだけは、少佐の仕事だ。自動機(オトマキネ)は、能動的に殺人行為を行えない』
「了解。確認しただけです。再開して下さい──」
答えると同時に、敵がふたたび動きだす。
スィヒルは前傾し、重力によって距離を詰める。
再度、右脚を払う攻撃が提示された。
先ほどの払いで、動きが鈍っている箇所だ。
狙いはわるくないが、あいつなら避けるか、あるいは誘いに使うだろう。
スィヒルは提示された動きを無視し、前転から左のかかとを落とす。
今度は、操作を奪われることはない。
灰色のSKMが右脚を引く。
最小限の動作で回避と反撃を意図していた。
だから彼女は、蹴りの軌道を縮め、続く右脚のかわりに右腕を振り上げた。
手にした短剣が、のけぞりつつあった敵の胸部装甲下部に、浅く突き立つ。
提示された攻撃は、スィヒルの意図したものと同じだった。
右脚を折り崩しながら後傾する敵を追随。
起立と同時に左脚を軸に廻し蹴り、右脚のかかとを腹に打ちこむ。
その打撃は、短剣の柄頭をとらえていた。
灰色のSKMは、繰者のいる位置を刃に貫かれ、機体をV字に折って地を転がる。
評価は、敵繰者死亡。
そこで視界が灰色に染まり、模擬戦闘は終了した。

操作桿の縛を外すと同時に、背後の扉が息を吐くような音とともに開く。
彼女は淡い照明の点る、薄暗い操縦席をでる。
情報帽を外すと、脱臭装置では吸収しきれない汗の匂いが、わずかに鼻孔を突く。
次いで、ひやりとした空気が顔を撫でる。
天井の高い室内に、人形闘機の胸部だけが、支柱に支えられて安置されていた。
ヒサール型操縦訓練機。
その根元に、太いケーブルが十数本接続され、二十メトレほど離れた位置に停められた、不整地移動用の八脚輸送車と繋がれている。
ここは、トリアイナ側のリバティノブル東部に位置する、ヒズメト陸軍ブルガズ射爆場。
軍備縮小のあおりを受けて、現在は閉鎖されている。
訓練棟に残されたヒサール型操縦訓練機を用いて、盗難機、KX41デュルトへの対抗策が練られていた。
「お見事です、少佐」
メルジェキ挺曹長から、乾いたタオルを受け取った。
情報帽を小脇に抱え、汗を拭く。
「ありがとう、挺曹長。使えそうですね」
年上の下士官は、ついぞ見かけない興奮に包まれている。
「いや、使えるなんてもんじゃないですよ、こいつは」
瞳を輝かせるメルジェキは、武勇伝にいきり立つ少年のようだ。
無理もない。
感極まっているのは、彼女が模擬戦闘でデュルトを倒したからではなかった。
それはメルジェキにとって、当然のこと。
彼もまた、先の模擬戦闘でデュルトを倒していたからだ。
実戦では、いいように屠られた彼が、善戦以上の結果をだせるなら、戦力の底上げが期待できるだろう。
スィヒルの認識はその程度だった。
だが、いざ自身がその性能を見せつけられると、その成果は彼女に違和感を覚えさせるほどのもの。
これまでの人形機は、繰者の意志が主で、自律制御はそれを補佐する従の関係だった。
平地を歩行したり、起立したりといった、平易な動作は自律制御に任せ、格闘戦などめまぐるしく状況の変化する場合は、手動に頼ることが多かった。
自律制御による戦闘が不可能というわけではない。
だが、スィヒル並の腕前になると、自律制御の動きは容易に予測できるため、砲撃戦はともかく格闘戦ではまったく戦力にならなかった。
ネルギア軍の技術顧問が用意した、最新型の自律制御装置は、その常識を打ち破るものだ。
操縦訓練機の脇に停められた八脚輸送車から、ウスル大佐がでてくる。
彼の背後には、膝丈ほどの小型自動機が五機、つき従っていた。
金髪の軍事顧問は、ざらつく金色の無精髭に下顎を染め、充血した目をぎらつかせながら言う。
「ふたりとも、大変結構だ。これで、本番機作成の目途が立った」
スィヒルはタオルをメルジェキに投げ渡す。
メルジェキは、ウスルを嫌っているという設定を守り、仏頂面で距離を置く。
脇をすり抜けて操縦訓練機に取りついた、銀色の自動機の群れに驚いてタオルを落としたのは、多分演技ではないだろう。
スィヒルが訊ねる。
「しかし、この動作を実機で実現できるのですか?」
「愚問だな。タイプVIIの頭脳体は従来型と違い、汎用性を持たせた新設計だ。戦兜(ヘルム)だけでなく、あらゆる戦闘車両──もちろん、理論上は人形闘機の制御も可能だ」
「理論上ということは、実機でためししたことは……」
「もちろん初の試みだ。すでに、ネルギア本国に設計を発注してある。実際に造ってみれば、おのずとわかるだろう。われわれは、何としてでも最強の人形闘機を造り上げねばならないのだからな」
「例の、防御兵器に対抗するためですね」
金髪の軍事顧問はうなずく。
昨晩、リバティノブルの地下で撃破された、巡航戦兜タイプVIIカムロスを回収してからの彼は、妄執に取り憑かれたかのように、不眠不休でスィヒルたちに協力している。
──タイプVIIが捨て駒だと? 上等だ、最強の捨て駒にしてやるさ!
無残な金属塊となったカムロスを前に、ウスルはそう宣言した。
ネルギアからの厳重な抗議にヒズメト軍上層部は震撼したが、スィヒルの時とは違い、指揮官であるカルドゥル大尉の行為が問題視されることはなかった。
一説には、カルドゥルがヒズメト総帥と太いパイプを有しているからだとも言われる。
ロメリア戦線で悪名を轟かせたというカルドゥルの情報は、意外なほど少ない。
母国の威光が通じないと見るや、ウスル大佐は自身の言葉を実現すべく、最大限の活動を開始する。
手はじめにウスル大佐が行ったのは、自説である巡航戦兜優位説の撤回だった。
その最大の要因となったのが、カムロスの対戦機砲を無効化した防御兵器、目玉守(ナザルルク)。
地下施設に残された資料の断片から、その効力が明らかになる。
「装置の解析と複製、さらには無効化する研究も行わせているが、まずはSKMの性能で相手を凌駕すべきだ」
ウスルの言葉に、スィヒルが問う。
「防御兵器の効果を打ち消すことは可能でしょうか」
「難しいな。硬土弾を無効化するアイデアそのものは、それほど独創的なものではない。が、あの防御兵器……目玉守が優れているところは、交戦協定に反しない技術水準で完結させるため、対戦機砲以上の硬土弾を無効化することに絞ったところだ」
ウスルは意図的に、防御兵器を反政府組織の呼称である目玉守と言い換えた。
彼なりに、この革新的な装置に対して敬意を払っているのかもしれない。
「拳銃や小銃弾は無効化できないのですか」
「そう、一定以上の質量が必要だ。つまり目玉守とは、対戦機砲を無効化するための、対・対戦機砲なのだ」
「目玉守が、対戦機砲の一種?」
「砲弾こそ発射しないが、硬土弾と同様、重藻土(ヴィアトミツト)を使用した一次電池をを使用し、砲弾の電磁硬化を無効化する、カービンソン効果の逆位相波を照射している」
そこでウスルは言葉を区切り、訓練棟の煤けた壁を見据える。
「あの壁が標的であるとすれば、目玉守の発する逆位相波は、壁の手前に厚い綿の防壁を造っているようなものだ。この防壁を通過すると、硬土弾はカービンソン効果による電磁硬化を維持することができず、跳弾や射程外、着弾後と同様に粉砕してしまう」
「その逆位相波は、常に照射されているのでしょうか」
「いや、発砲に応じて自動的に発生させている。電力消費が過大であるから、動作後の持続時間は、数秒間と言ったところだ」
「つまり、装置が作動しない瞬間なら、砲撃は有効なわけですね」
「間断なく撃ちこみ続ければ、無効化しきれないだろう。零距離砲撃も有効化もしれないが、それならSKMによる近接攻撃の方が合理的だ」
「それで、小官のSKMが必要になるのですね」
大破した彼女の人形闘機、K39テズヒサールはウスルに接収され、大改修を受けることとなっている。
軍事顧問の権限で、有無を言わさず取りあげられたが、いまの説明でようやく合点がいった。
ウスルがうなずく。
「その通りだ。KX41と善戦した、貴官のSKMに、タイプVIIの頭脳体を組みこむ。効果のほどは、先ほどの模擬戦闘で体感しただろう」
「はい、繰者が不要ではないかとすら思いました」
実際の印象は、かならずしも言葉通りではなかったが、スィヒルは心証を害さないことを優先した。
ウスルは、顔面にわずかな苦みをふくませて言う。
「そうありたいが、自動機は、合理的であるがゆえに不自由なものだ。対戦機砲が無効化されるとなれば、敵の操縦者を殺害せずに決定的な打撃をあたえるのは難しい」
「有人のSKMに自動機の頭脳体を載せ、敵を追い詰めたところで、繰者が止めを刺すという戦術ですね」
「そうだ。君たちには、命を手折(たお)るものになってもらう」
「命を、手折る……。大佐は、詩的な表現をなさるのですね」
率直なスィヒルの感想に、ウスルは見慣れぬ微笑を浮かべる。
「──私はね、少佐。祖国ネルギアの技術が最も優れていると、盲信しているわけではない。貴官も認めた通り、かつて巡航戦兜は人形闘機に勝る戦闘兵器だったのだ。しかし、いまは違う。われわれは、戦争のルールが変わる瞬間に立ち会っているのだ。その事実を認め、真摯に対処するべきだと認識している」
「──同感です、大佐」
彼女はわずかに、ネルギア人の軍事顧問に親しみを覚えた。
ウスルが指摘する通り、スィヒルも有効な戦術が変化したことを認識している。
対戦機砲を無効化する、対・対戦機砲。
ギヨト再建委員会は──いや、かつての上官、エミール・ナスレディン・パシャは、たしかに〈ナスレディン・ギア〉を用意していた。
闇雲に乱を起こしたわけではなく、明確な勝利への筋道を描いている。
ヒズメト軍上層部はまだ、この事態を正確に把握していない。
ウスルが述べた認識が浸透し、明確に戦術へ反映されるには時間がかかるだろう。
この戦術的優位を逃す、ナスレディンではない。
再建派は確実に、勝利を掴みかけている。
──だが、まだ足りぬ。
なぜなら彼女、ハリデ・スィヒルが、その脅威を認識しているからだ。
新戦術に即した、対抗手段を生みだそうとしているからだ。
K39テズヒサールを倒し、巡航戦兜タイプVIIカムロスをも倒した、KX41デュルト。
スィヒルの技術と、自動機の自律制御が融合した、新たなる人形闘機
目玉守により対戦機砲が無効化され、勝負が近接戦闘で決すると言うなら、より強力なSKMが勝つ。
最強の人形闘機を有することが、協総国陣営に対抗するための、最低条件だ。
ヒズメト・ギヨト経済圏連邦か、ギヨト再建委員会か。
真に祖国の未来を担うものが誰なのか、決着をつけようではないか。
スィヒル・ハリデ少佐は軍人としての信念に従い、必勝を誓う。
〈ヒズメトの月〉、起つ。

                                          03

アヤアクルに付随する管理事務所は、野戦病院の様相を呈していた。
石造りの床に、大小さまざま、色とりどりのマットが敷かれ、三十名ほどの傷病者たちが寝かされている。
自動機の襲撃で負傷したもの、負傷者を看護するもの。
部屋にいた一同は、エルギンとコルンのふたりの姿を見ると、一様に快哉を上げた。
多大な損害をだしながらも、精強な陸戦兵器を倒した勇士(アダム)に、惜しみない賞賛を贈る。
「いやまったく、あの時、あんたを撃たなくてよかったよ」
そう話しかけてきたのは、エルギンがデュルトと出会った洞窟で、最初に銃を突きつけてきた、デステキと名乗る中年男性。
「その節は、ご迷惑をおかけしました」
「きっとあんたのことだから、撃たれても避ける自信があったんだろ?」
「いや、そういうわけでは……」
エルギンは恐縮する。
どうせ撃たれはしないだろうし、二度と会うこともないと割り切っていただけなのだが。
重傷者ですら意識のあるものは、もげずに残った腕をわずかに挙げることで賛意をしめす。
恐縮しながら進むエルギンと、彼の腕にすがって歩くコルン。
部屋の奥に、質素な扉がふたつ。
右の扉は、怪我を負ったギヨト再建委員会顧問、ギュゼル・エーミアの病室。
左の扉は、リバティノブルの再建派本部と繋がった通信室。
ふたつの扉の間で、不機嫌そうにケディが待っていた。
エルギンの肩越しに、コルンが訊ねる。
「エーミアさん、大丈夫なのかしら?」
「心配ご無用だ。あんなに元気な怪我人を、ケディは見たことがない。後で見舞ってやってくれ。まずは用事を済ませろ」
そう言って左の扉を開くと、ふたりを中へ押しこむ。
薄暗い部屋の奥。
台座に据えられた画面(モニヨテル)に映しだされた男性には、口髭と精彩があった。
栗色の髪を、整髪料で後ろに固めている。
精悍な顔立ちだが、意外にも細身で小柄だというのが、エルギンの第一印象。
生活感のない、仕立てのいい灰色のスーツを着こなしている。
「おかけ下さい」
コルンに促され、用意された長椅子にならんで座る。
通信品質は高いらしく、質素な事務机に頬杖を突く男性の、かすかな息遣いまで伝わってくる。
リバティノブルからサロノシェヒルへ繋がれた秘匿回線により、エルギンに、ギヨト再建委員会首班、エミール・ナスレディン・パシャとの会見が開始された。
薄膜の先にいる革命家が、唐突に語りはじめる。
『──アルトゥン硬貨を九枚、もらったんだよ』
「なんの話です?」
おそらく、先方が望んでいるであろう問いを、エルギンはあえて発した。
『昨晩見た、夢の話だよ、エルギン君』
「自己紹介がまだでしたね、エルギン・トーゴです。大変失礼いたしました」
暗に、みずから名乗りを上げないナスレディンに対する嫌味をこめてみる。
生気にあふれた男性は、大げさに驚いて見せた。
『それは失礼した。リバティノブルの住人は、私の名など、聞き飽きたと思って遠慮したのだがね──エミール・ナスレディンだ』
エルギンは続けて、隣の女性士官を紹介する。
「こちらは立会人の、コルン・イマードさんです」
『承知している。略式で失礼するが、ヒズメト陸軍出身、コルン・イマード少尉心得(アステグメン)は、本日づけで正式にギヨト陸軍に編入され、少尉(テグメン)に昇進した。貴官の今後の活躍に期待する』
「はっ、謹んで拝命いたします!」
起立して敬礼するコルンに、ナスレディンは軽く答礼する。
さすがにふたりの所作は、さまになっていた。
コルンが着席するのを待って、ナスレディンはエルギンに告げる。
『でははじめようか。彼女のことは気にせず、思うところを述べてくれたまえ』
「わかりました……それで」
『なんだね?』
にこやかなナスレディンの態度に、かすかな苛立ちを覚える。
この茶番に、どこまでつき合うべきだろうか?
そう考えながら、エルギンは問う。
「──アルトゥン硬貨を九枚、もらったとか言う話は?」
『ああ、それか。……昨晩見た夢の中で、見知らぬ誰かに、九アルトゥンもらったんだよ。私は、九アルトゥンを突き返しながら言った。どうせくれるなら、せめて十アルトゥンぐらい寄越したらどうだね、と。そこで目覚めた。どうなったと思う?』
「どうにもならないでしょう」
『その通り。私の掌中には、当然ながら一アルトゥンも入っていなかったよ。こんなことなら、九アルトゥンだけでも、もらっておけばよかったと、大いに後悔したよ』
「……その逸話から、どんな教訓を学ばれたんですか?」
茶番につき合うのは、これで最後。
その意志は、確実に伝わったようだ。
『得られるものは手中に収めるべきということだよ。たとえ夢でも、小銭でも、だ。──エルギン君、私にとって君の存在は、夢の九アルトゥン以上に想定外だった。デュルトを自在に繰るものが、民間にいるとは思っていなかったのでね』
「ぼくも、人形闘機に関わるとは思ってませんでした」
『SKMの実用性に関しては、私も懐疑的だったよ。先々代のヒズメト総帥の肝煎りで開発されたが、あんな歩く標的を攻撃兵器として使用する感覚は理解しかねる。兵器として使えるようにするには、苦労したよ』
大戦中、リバティノブル防衛戦で、首都へ進軍する自動機部隊を、指揮下のSKM部隊で撃退した実績のある、元軍人は言った。
「それで〈ナスレディン・ギア〉、ですか」
黒髪の少年が発した名に、若き革命家は、嗤う。
『エーミア君が名付けたのだがね、鼻につく響きが気に入っているよ』
「噂話としては、あまり信じられていないようですよ」
『十分だ。エルギン君は、その威力を体感したのだろう?』
「かろうじて自動機と勝負になる、だけです。機能が不完全すぎます」
『君らの技術で、不備は補えるのではないかね?』
「ですが兵器として量産するには……」
『それはこちらが勘案することだ。君らの技量もふくめて、デュルトは一応の完成を見たと認識している。現在、傘下の工廠に量産化への準備を進めさせているところだ。正式名は、K41クルトとなるだろう』
「突出(デユルト)から狼(クルト)……ですか。それがまともに動く人形機なら、ぼくは必要なさそうですね」
『その道にいたるためには、君の力が必要なのだよ。生きた情報が欲しい、戦闘記録だけでは不十分だ』
「それでぼくに、再建派に加われという話になるわけですか」
ナスレディンは、無言でうなずく。
結局また、この話になるのか。
エルギンはため息をつく。
「ひとつ、お願いがあります」
『聞こう』
大きく息を吸い、吐く。
「──グレシア領となったガリトニア州を奪回して下さい。それが条件です」
少年の脇で、コルンが小さく、息を飲む。
ナスレディンは、にこやかに告げる。
『ガリトニア州のテドーニクが、君の故郷だったね。実は私も、あそこの生まれだよ』
「!?……あなたも、テドーニク出身だったんですか?」
『ああ。ついでに言えば失陥当時、再建派の本部も、あの街にあったのだよ。私にとっても、再建派にとっても、テドーニクは忘れられない街だ。可能であれば、ぜひとも奪回したいところだね』
「それは……その、奇遇ですね」
エルギンは、交渉相手との意外な接点と、意外な賛同に動揺し、的確に切り返せない。
『それだけかね? ヒズメトの最盛期を再現せよとか、汎ギヨト共栄圏を建設せよといった、希有壮大な野望はないのかね?』
「……ありません。それだけです」
ナスレディンは、しばらくエルギンを見つめ、おだやかに言う。
『残念だが、答えは否だ。現在の再建委員会が主張しているのは、ロメリア大戦終結時に、休戦協定によってさだめられた領土の不可分と、自主独立。大筋はそれだけだ。たったこれだけでも、困難な事業と言わざるを得ない現状で、領土の奪回など夢物語だよ──見たまえ』
そう言って、彼が右手を差し上げると、カメラが右に旋回し、窓外を映す。
足もとに線路。
その先に広がる街並みの先、木々の間に、歩兵と戦闘車両と人形闘機が展開している。
『ここは、臨時の本部として使用しているサロノシェヒル駅だ。ご覧の通り、新設されたばかりのギヨト軍は、ヒズメト陸軍第二軍、第二〇軍団の機甲部隊に包囲されている。いまの私は、自陣を堅持するだけで手一杯だよ』
ナスレディンの合図で、カメラが彼の正面に戻る。
「でしたら、ぼくは……」
エルギンの逃げ口上を、ナスレディンが差し止める。
『──私がこう答えれば、君は安心して申し出を断れるというわけだね。──夢想の酒を振り蒔くならば、せめておのれ自身を酔わせる味のものを用意したまえ』
「!……」
たしかに、ガリトニアの奪回など、本意ではなかった。
母親を喪った土地に、なんの未錬があるというのか。
的確すぎる指摘に、切り返す言葉がでない。
『それに、君は心得違いをしているようだ。もし君の主張するガリトニア奪回を実現したければ、それは私に請うことではなく、君自身が再建派の一員となって実現すべきものだよ。私を失脚させ、君が指導者となればいいだろう?』
「そんなこと、できっこないでしょう」
『自律制御系が不完全な人形闘機で、戦闘など行えるわけがないだろう。君がやらなければ、ね』
「ぼくが、やらなければ……?」
言葉が見つからず、エルギンは言われたままを繰り返す。
決して居丈高ではないナスレディンの言葉に、圧倒されていた。
『そうだ。人には得手不得手がある。私は人形繰りが不得手でね、ひどいものだよ。SKMの実運用に関しては、そう……君も戦ったことのある、スィヒル君の方が、はるかに巧者であると認識している』
〈ヒズメトの月〉、スィヒル・ハリデ少佐。
エルギンが知る中で唯一、彼自身に匹敵する人形繰り。
先日の対戦での勝利は、単に小手先の技がはまっただけだ。
十戦すれば、六対四か、七対三で、こちらが不利というのが彼の目算である。
「それなら……ぼくよりも、スィヒルさんを再建派に引きこんだ方が、合理的ではありませんか。たしか、あなたの元部下なんでしょう?」
ようやく見つけたかに見えた突破口だが、ナスレディンは動じない。
『スィヒル君の美点は、愚直なまでに軍人であろうとする姿勢だ。私とは違った意味での現実主義者だよ。勝てば官軍とはいえ、賊軍の域をでない現状では、軍人としての彼女を動かすことはできない──だから袂を分かった。再建派が、ふたたび権力を手中にすれば別だろうがね』
「ぼくの方が、まだ口説きやすいと?」
『現に君は、こうして私の与太話につき合ってくれているじゃないか。スィヒル君には、冗談が通じなくて難儀したものだよ、まったく』
心底、困ったように語るナスレディンに、エルギンは思わず笑ってしまう。
──そして恐怖した。
この状況下で、交渉相手を笑わせる話術の使い手。
エルギンが浮かべた笑みは、自身の絶対的な敗北をあざ笑っているかのようだ。
『さて──では、もう一度聞こう。塩と胡椒のごとく、君らの技術が必要だ。エルギン君、再建派の一員になってくれたまえ』
ナスレディンは睨まない。
ただ、やさしげな栗色(ケスターネ)の瞳で、彼を見据えるだけだ。
そこに宿る、指導者としての才幹は、疑うべくも覆うべくもない。
エルギンは折れそうだった。
もう、いいじゃないか。
協力ついでに仲間になっても。
そうすれば、コルンと一緒にいられる……。
「!……」
右手を、しなやかに包むものがあった。
かたわらに立つ女性が、少年の手を握る。
振りむかずとも、彼女の意志が伝わってくる。
誰も傷つけず、誰にも傷つけられたくない。
その想いを尊重してくれたからこそ、彼女に心を寄せたのではなかったのか?
革命家の口車に乗せられた程度で、それを反故にしてよいはずがない。
エルギンは再考した。
この国、ヒズメト・ギヨト経済圏連邦の、過去と未来を。
ロメリア大戦時、権力を手中にしていた再建派の重鎮、ケローラン・パシャが失脚し、かわりに指導者となった、ナスレディン・パシャ。
夢想家のケローランに比べれば、ナスレディンはきわめて現実的な人物のようだ。
それを踏まえて、本当に再建派の一員となる覚悟があるのか?
コルンの手を握り返す。
指と指が、ゆっくりと絡み合う。
ひとしきり、コルンの五指を味わってから。
強固な意志をもって、握った手を振りほどき
拳を握り、意志を固めた。
指間(たなまた)から、栄光がこぼれ落ちている。
ケローランがナスレディンにすげかわろうとも、それが現状。
だから少年は、画面ごしに、サロノシェヒルのナスレディン・パシャを見据えて言う。
「ヒズメト連邦には裏切られ、失望しました。ギヨト再建委員会には仕事をいただき、生かされてもいます。協力はしましょう。敵対行為もしません。でも──」
それがあまりにも明白であるがゆえに、少年は打算としての空白を、取る。
「──あなた方の革命や、理想のギヨトとやらには、興味もなければ、つき合う気もありません」
『つまるところ、再建派の活動に、賛同も参加もせず──そういうことだね』
「つまらない結論ですが、その通りです」
申し出を、否と切られた男性は、しかし。
さも珍奇な獣でも愛でるように、漆黒の髪と瞳を持つ少年を見つめていた。
不意に。
ナスレディンは視線を横滑りさせ、少年のかたわらで推移を見守る女性に据える。
起伏に富んだ大人の肢体に、幼い少女のような不安が漂っていた。
視線が戻る。
『ふむ……ところでエルギン君。君はコルンを嫁にもらうつもりはあるのかな?』
「なっ……えっ!?」
それまで、かろうじて理性を堅守していた少年が、そのひと言で容易に困惑の淵へと墜ちる。
かたわらのコルンが顔を紅潮させ、諸手を前に突きだして激しく首を左右に振る。
「そそっ、そんな、そんなこと、いま……ここで……あの……」
その脇で。
エルギンは、表情をこわばらせながらも、しぼり出すように口を開く。
「それが……ぼくになにか?」
冷たく響く、確固たる拒絶の意志。
ナスレディンは、柔和な笑みで告げる。
『私を拒絶するのは構わない。だが、彼女を悲しませるのは感心しないね』
エルギンが意味を理解して頭部を九〇度、旋回させるまでに、三秒。
そこに、最後の審判が最悪の結審を迎えたかのように目を見開き、凝固するコルンがいた。
涙がにじみ、反射光が揺らぐ。
「あっ……いや、コルン。その、ですね」
ことここにいたり、エルギンは冷徹の壁を融解せざるを得なかった。
「……いえ、わたしは大丈夫です、全然」
心とは裏腹な空文を、コルンの唇が朗読する。
瞳から、あふれる紅涙が垂れ落ちる寸前、十本の細指が顔面を覆い隠す。
「違うんです、コルン。聞いて下さい!」
エルギンが震える肩に触れようとする前に、彼女は半歩後ずさり、全身でイヤイヤをした。
彼女の絶望が、彼の困惑を加熱沸騰させ、生じた怒りのままにパシャを睨みつける。
「どういうつもりですか! なんの権利があって、結婚を持ち出したりするんですか!」
怒りの熱風にさらされたナスレディンは、涼風が草原を撫で揺らすように、告げる。
『コルン・イマードは私の妹だ。妹の将来を兄が心配するのは、当然のことだろう』
「……え? コルンが、あなたの……妹?」
呆けた表情でナスレディンとコルンを交互に見る。
「コルン……その、本当ですか?」
問われた彼女は、顔面を両手で覆ったまま、カクリと首肯した。
『戸籍上は他人だが、遺伝上は異母兄妹だよ。君がコルンと婚姻関係をむすんでくれれば、私としても好都合なのだがね』
見え透いた挑発の言葉。
創られた怒りであることを自覚しながら、少年は再沸する心をおさえられない。
「それじゃまるで、実の妹を政略結婚させるようなものじゃないですか!」
画面の先にいるナスレディンは、万事心得ている。
『政略絡みであることは認めよう。だが、古今に交わされた、数多の政略結婚の中に、互いが望んだ関係もあり得たと思うのだが。どうだい、コルン?』
問われると、コルンは大人びた肢体をビクリと弾けさせ、顔を覆った両指に隙間を作る。
指間から、好意がこぼれ落ちている。
涙液(るいえき)がきらめかせる、ふたつの熱い栗色の瞳が、期待していた。
不覚にも、自身へその情念がむけられていることに、怖気にも似た快感がほとばしる。
拒絶しているのか、怒っているのか、悦んでいるのか、わからない。
なぜ、こんなことになったのか?
毀(こわ)れた大樹と揶揄された、ヒズメト・ギヨト経済圏連邦の行く末について、論じていたはずではなかったのか?
ギヨト再建委員会の無謀な企みに、うまうまと絡め取られる窮地から、藻掻きだそうとしただけではなかったのか?
コルンの言うところの、「再建派の一員としてサロノシェヒルでがんばっている、ちょっと変わった兄」に、エルギンは追い詰められていた。
だが、エルギンにとって、最も想定外だったのは、エミール・ナスレディン・パシャの存在ではない。
「コルン……」
言葉にすることで、あらためて実感する。
彼女、コルン・イマードの存在こそが、彼の目論見を狂わせた最大の元凶だった。
「……はい」
コルンがうつむきながら、ゆっくりと両手を下ろす。
見つめ合った。
彼女さえいなければ。
──いや、彼女とさえ想いを交わさなければ。
ただ頑なに、再建派への参加を固辞すればよかったのだ。
それができれば、彼がここまで窮地に陥ることはなかっただろう。
ナスレディンが告げる。
『お取りこみ中のところ済まないが、そろそろ時間だ。私としては、エルギン君が身内になってくれるなら、再建派への賛同でも、妹の婿としてでも構わない。つぎにまみえる時までに、好ましい返事が聞けることを期待している。それまで妹のこと、よろしく頼むよ』
「わかりました……検討させていただきます」
ギヨト再建委員会首班の言葉に、エルギンは内心で安堵した。
いま、ここで結論をださずに済む。
ここで議論を先延ばしにすることが、結局は自身の首を締めあげるだけだとわかっていても、あえて開かれた退路に逃げこむしかなかった。
画面からナスレディンが消え、ふたりの男女が残される。
コルンが困惑の淵から、救いの手を求めていた。
きっと、自分も同じぐらい、困った顔をしているのだろう。
──覚悟を決める必要があるのかもしれない。

会見後、エルギンはひとり、今後の方針を検討する。
コルンには、後で話がある旨を伝え、通信室で別れていた。
アヤアクルの片隅に未使用の小部屋を見つけ、そこで沈思黙考を続ける。
熟慮を重ね、ケディが差し入れてくれた林檎紅茶を飲み、追加で持ってきてくれた無糖のヨーグルト飲料、アイランを飲み干すころには考えがまとまり、通信室の隣、右側の扉を叩く。
小ぶりな部屋の中央に、ベッドが据えられている。
ギュゼル・エーミアは、寝台の端から白い右生足を突きだし、半分腰掛けるような姿勢で、彼を迎えた。
白い寝間着に身を包み、黒縁眼鏡をかけて。
いまの彼女は、エルギンがはじめにデュルトの操縦席で会った時と同じ、粉砂糖をまぶしたように白く透けた肌と髪を持ち、紅玉色の瞳を閃かせている。
骨折した左足は硬化剤で固定され、頭と左腕には包帯が巻かれ、右腕に点滴の管が刺さっていた。
当の本人は、その傷すら意に介していないようだ。
周囲には書類がうずたかく積まれ、白髪の少女はそれら紙片に目を通し、必要に応じてサインを書き加えている。
再建派顧問として、リバティノブル市内の組織を統轄しているとなれば、書類仕事だけでも膨大な量になるのだろう。
仕事に区切りをつけたところで言う。
「……お待たせ。エルギン君、おつかれさま」
「お仕事、ご苦労様です。ギュゼル……いや、エーミアさんとお呼びすべきでしょうか?」
「いまは、エーミアで結構よ」
「わかりました、エーミアさん。お加減の方はよろしいんですか?」
「見ての通り、さんざんだわ。まさか、自動機を自爆させるなんて、交戦協定破りをかまされるとはね」
「自爆は違反なんですね」
「資源回収率が下がるし、民間人は傷つけないって原則が守れないでしょ。おかげでこっちも、気兼ねなく特権を使わせてもらってるけどね」
「特権、と言いますと、この施設に逃げこんだこととかですか?」
「そう。ここは資源管理局の管轄だから、特区軍もおいそれとは手がだせないはずよ。ずっとここにいるわけにもいかないけど、あと数日は大丈夫」
統連直轄地に、おいそれとは逃げこめないはずなのだが。
聞くだけ無駄だろうと思い、「そうですか」と応じるに留める。
「エルギン君、自動機を自爆させた、特区軍の指揮官って、誰だと思う?」
「誰って、スィヒル少佐ですか?」
「違います。でも、君も顔見知りのはずよ……カルドゥル・ハーフズ大尉。覚えてる?」
「カルドゥル……覚えてるもなにも、忘れようがない名前ですよ」
ロメリア大戦で、ガリトニアからの逃避中、彼の母親を自動機にさらし、肉叢(ベデン)の盾とした凶漢。
憤怒と悔恨の象徴とした日々もあるが、いまは単なる固有名詞にすぎない。
エーミアが続ける。
「そのカルドゥル大尉が、自動機を地下施設にけしかけて、自爆させた張本人よ」
「そうですか……やっぱりあの人は、軍関係者だったのか」
「どう、怒った? それとも闘志が湧いた? やっつけるチャンスよ!」
エーミアがなにを期待しているのかは予想がつくが、ご期待には添いかねる。
「虚勢を張るわけではありませんが、その方にはもう、恨みはありません。友人になりたいとは思いませんけどね」
直接、母親を撃った自動機の同類は、すでに倒してしまった。
人形闘機が自動機に対抗し得ると実証したことで、過去への拘泥は断ち切れている。
無限に恨みを晴らしていけば、それこそ人生が終わってしまうだろう。
しみじみと、エーミアが言う。
「怒りは一瞬、破滅は永遠、か。さすがは成熟者(エルギン)──名前通りね。でも敵に、手段を選ばない奴がいるってことだけは、覚えておいてね」
「わかりました」
白髪の少女は、書類の束を整え、ベッドの脇に置き、こちらへ身を乗りだして問う。
「……で、だ。ナスレディン・パシャと会見したご感想は?」
急に元気になりやがった──そう思いつつ、応じる。
「──さんざんな目に遭いましたよ。とても、ぼくの手に負える人物じゃありませんね」
「あら、頑固者(セルトキシ)なエルギン君にしては、ずいぶんと弱気じゃない」
「率直に言えば、大変困っています。でなければ、大変面白い方だと思いますよ」
白髪をゆらめかす少女は、紅玉色の瞳を細め、ふっくらと笑む。
「あたしも同感よ」
「冗談か本気かわからないところが、エーミアさんとよく似てますね。さんざん弄ばれたあげく、議論を先延ばしにしてもらうので、精一杯でした」
「君も粘るわね。さっさと楽になってしまえばいいのに」
「正直、楽になりたいですね。あの方の冗談につき合っていると、魂がいくつあっても足りない感じです」
「たしかにね。あたしも最初にあの人と会った時は、魂消(たまげ)たわ。冗談を言ってたと思ったら、いきなりこの国の未来について熱く語りだすんだもの。これはかなわないなって、思ったものよ……」
夢見るように、うっとりと目を細める。
「?……エーミアさん、ひょっとして、ナスレディンさんのこと、意識してます?」
ふと思いついた、なにげない、ひと言。
それが、発言者の意図を越えた効果を発揮した。
「……なに言ってるの? 彼とは十八も歳が離れているのよ。お世辞にも笑えない冗談ね」
エーミアは、平然と答えたかに見える。
だが、彼女は白く透けた肌を紅潮させ、エルギンと目を合わせようとしない。
それどころか、見る間に髪が根元から焦げ茶色に、肌が目元から小麦色に染まる。
両目もいつしか、髪と同じ焦げ茶色に変じていく。
ドラシュム親方の商館を訪れた時と、同じ色味だ。
「エーミアさん、その肌は……」
エルギンに指摘されて、彼女ははじめて気づいたようだ。
「えっ、えっ、ええっ! あ、ああ、これ……ね。きっ、気にしないでちょうだい」
「……はあ、わかりました」
どういう仕組みか知らないが、相当に動揺しているようだ。
ナスレディン・パシャが──なるほど、そういうことか。
彼女が何者であれ、職務にかたむける情熱が尋常ではないと思っていた。
その理由の一端が、垣間見えた気がする。
「あなたもあなたで、大変なご苦労をされてるんですね」
「なに、わかったような顔で、しみじみうなずいてるのよ? 別に、あの人のことなんか……い、いや、いまのはナシ。いまのはナシだからね!」
勝手に自爆するエーミアを、エルギンはやさしい気持ちで見つめる。
次いで、口を引きむすび、本題を切りだす。
「──エーミアさん。ぼくに再建派に加われとおっしゃる件で、ご相談にうかがいました」
その意味を理解すると、彼女の肌と目と髪の色が抜け、徐々に白を基調としたものに戻っていく。
エーミアは表情をあらためると、鼻先にかかった黒縁眼鏡を、左手中指でクッと正す。
「……うかがいましょう?」
紅玉色に変じたエーミアの瞳には、いつもの底知れぬ軽薄さだけがゆらめいていた。

                                          04

頭上から、滑舌のよい女性の声が降る。
『自分は、カムロヒサール少尉であります、少佐』
それが、ヒズメト特区軍大佐、ハリデ・スィヒルが、新たなる愛機と出会った直後の出来事だった。
彼女は、リバティノブルでヒズメト総帥府の会議に出席したのち、メルジェキ挺曹長とともにブルガズ射爆場へ移動。
ネルギア人の軍事顧問、ウスル大佐の協力があるとはいえ、軍令に則した活動ではないため、移動にはメルジェキが私有する乗用車を使う。
彼はスィヒル直属の部下ではなかったが、軍事顧問であるウスル大佐の口添えで、副官同然に行動をともにしている。
──まさかネルギアの片棒をかついで、再建派と喧嘩することになるとは、うかつに戦争を生き延びるものではありませんな。
メルジェキ挺曹長が、冗談半分、ぼやき半分で言った。
射爆場の西側、もとは訓練用のSKM格納庫であった区画に、改修された彼女のテズヒサールが待ち構えている。
ウスル大佐を補佐する小型自動機のほかに、テズヒサールを製造したマキネギヨト重工業からも、応援の技術者が多数、参画している。
貪欲な勝利への情念が、国益や組織の枠を超えた新型機を誕生させようとしていた。
外見上、いちばんの相違点は、頭部がついたこと。
目に相当する部分は、左右に分かれた風防眼鏡(ゲズリク)状のもので覆われ、瓜実顔の頭部から、後ろ斜め上方に紡錘形の張りだしがある。
全体の色味は紅褐色のまま。
四肢の造りもテズヒサールと同様だが、腕に機関砲が内蔵され、各所に巡航戦兜カムロスと同様の白く弾力性のある、中空カスタード装甲が追加された。
細身のテズヒサールよりも丸みを帯び、女性的なシルエットとなっている。
そして、ヒズメト軍人たちをいちばん驚かせたのは、「彼女」がギヨト語で名乗り、あまつさえ陸軍式に敬礼をして見せたことだ。
スィヒルとメルジェキは反射的に答礼し、それから相手が人形闘機であることを再認識する。
「大佐。これは、どういった趣向ですか」
スィヒルは表情を固くし、背後に控えるウスルに問う。
金髪の軍事顧問は、異国の軍人を諭すように語る。
「これは冗談でも、ましてや個人的な趣味趣向でもない。人と同等の感覚器官を有する機械に知性をあたえれば、おのずと受動意識を獲得する。それだけのことだ」
「戦兜(ヘルム)の意識が、小官の機体に宿り、人となったと?」
「人の定義は千差万別だ。貴官と宗教的な倫理観について議論するつもりはない。私は事実を伝えているだけだ」
口を半開きにして、新型機を見上げていたメルジェキが、立場を忘れて問う。
「こいつ、尉官を名乗ってますよ。階級なんぞ持ってるんですか?」
ウスルは眉をひそめる。
「口を慎みたまえ、メルジェキ挺曹長。タイプVIIの頭脳体は、協総国軍の階級符号でOFー一の軍権を有している。ヒズメト陸軍では少尉相当だ」
つまり、階級符号で言えばORー七相当の下士官である、メルジェキ挺曹長の上位者ということになる。
「おええっ? そ、それは大変失礼いたしました!」
惑乱気味に、新型機へむきなおる彼を見下ろし、カムロヒサール少尉は言う。
『お気になさらず、挺曹長。以後気をつけて下さい』
「はははっ」
挺曹長は体をくねらせながら、乱れた指先をこめかみに当てる。
その敬礼らしき動作は、もし新兵がやったなら、メルジェキ自身が横面を張り飛ばすであろう、無様なものだった。
スィヒルは、メルジェキほど動揺しなかったものの、釈然としないものを感じている。
民話にでてくる巨人、鬼の父(デヴ・ババ)……いや、鬼女(デヴアナス)か?
彼女は愛機を見上げて問いかける。
「貴官のことは、カムロヒサール少尉と呼べばいいのですか?」
『はい、少佐。以後、部下として扱っていただければ幸いです』
あくまでも尉官として接する新型機に、スィヒルは厳然と問いかける。
「少尉──貴官は軍人として、従うべき国家に忠誠を尽くす覚悟がありますか?」
人形闘機は気負わず、だが、軍人として気骨稜々たる声音で返す。
『はい。小官は、ヒズメト軍人として軍務に精励する所存であります』
新品の士官としては、上等の部類だ。
そう判じながら、スィヒルはふと、ある少女のことを思いだす。
もしあの少女が、ヒズメト軍を離脱し──おそらくは再建派に走らなければ、こうして部下となっていたかもしれない。
立場は違えても、サロノシェヒルの下宿で、彼女にリバティノブルの歴史談義を一晩中、語り聞かせた粘り強さを、軍務でも発揮してもらいたいものだ。
「少佐?」
横からメルジェキに声をかけられ、彼女は現実に引き戻される。
スィヒルは、表情をやわらげ、新型機に告げる。
「──了解した。以後、よろしく頼みます」
『はっ』
顔合わせは済んだと判断し、ウスルが言う。
「少佐、直近で私にできるのは、ここまでだ。本機は非公式ながら、K40カムロヒサールと命名した。技術者諸君の話だと、本物のK40開発計画は凍結されたそうだからな。これをどう使うかは、貴官の采配に委ねよう」
「ありがとうございます。最善を尽くします」
「──して、再建派からの申し出は、裁可されたのか?」
ウスル大佐が、赤く充血した目をぎらつかせながら問う。
いまの彼は、金髪の伊達男の面影もなく、その風貌と体臭は、貧民窟の難民の群にまぎれても、見分けがつかないほどだ。
戦場ではありふれた獣臭は気にせず、スィヒルは答える。
「午前中に上層部と協議し、裁可されました。最終的に、ヒズメト総帥(パーディシヤー)、アーレム・バシュカンの判断が決め手となりました」
年老いた国家の、年老いた最高権力者は、協議の最後にひと言、「君の、好きにするがいい」とだけ告げる。
それで、すべては決した。
「ほう。私の抗議をはねつけた埋め合わせというわけでもなかろうが、大変結構だ。では、指定の時間までに約束の場所──」
ウスルの言葉を引き継ぎ、スィヒルは告げる。
「──はい、海峡大橋(ボアズキヨプリユス)へ」
統暦五九九年七月二十八日。
再建派の残党がアヤアクル博物館を占拠して二日目。
統連直轄である、資源管理局の治外法権区域だからと、いまもこれ見よがしにアヤアクル内部でKX41デュルトの修理を行っている。
最新の報告では、頭部に目玉守を搭載し、完全な状態に仕上げられたと言う。
資源管理局は、この不法占拠を黙認している。
カルドゥル大尉が自動機を自爆させたことにより、態度を硬化させているようだ。
こちらから手はだせないが、周囲をSKM小隊に包囲され、リバティノブルの要所を封鎖されている以上、逃げ場はない。
KX41をサロノシェヒルへの援軍に送るなど、夢物語だ。
そんな中、再建派サロノシェヒル支部顧問、ギュゼル・エーミアを名乗る人物から今朝、スィヒルを名指しで、とある申し出がなされていた。
──素晴らしい。実に野蛮で、実に騎士道精神に満ちあふれた申し出だ。
詳細を聞いたウスルは、奇妙な賛辞とともに、再建派の申し出を受け入れた。
最高権力者の裁可が得られたことで、気炎の吐きだし口を塞がれた再建派と、砕かれた矜持の代償を求めるスィヒルたちの利害が、いびつに合致した。

                                          05

将校服姿のコルン・イマードは、寝袋の上で。
「ずるい……ずるい、ずるい、ずるい、ずるい……ずるい、よ」
茹だった肢体を重く横たえながら、甘く毒づいた。
最後に心の裡だけに響く声で、つぶやく。
──エルギンは、ずるい。
横たえた視界の上に右腕をかざすと、闇の中に残光がまたたく。
漆黒に染まった世界に、明滅する模様は、舞う蝶に似ていた。

彼女の異母兄妹である、ナスレディンとの会見が終わった後、通信室で。
コルンは、エルギンに謝罪した。
「ごめんなさい。エミール兄さんのこと、もっとちゃんと話しておくべきでした」
この件について、彼は冷静さを取り戻したようだ。
「気にしないで下さい。生まれは誇るものでも、隠すものでもないですけど、お兄さんが国家に反逆中じゃ、さすがにおいそれとは話せないでしょう」
「……はい」
それだけ言うと、彼は長椅子に座り、物思いに耽っていた。
手には彼女が贈った、蒼い硝子の目玉守。
邪魔をしてはわるいと、退出しようとする彼女の背に、エルギンは語りかける。
「コルン、大事な話があります。後で、お時間をいただけますか?」
落雷が脳天から足先まで、光速で駆け降るような衝撃。
「……いま、すぐにでは駄目ですか?」
「はい。ぼくには考える時間が必要です。後で、迎えにいきます」
「……わかりました。待ってます」
「お願いします」
その後、エルギンはエーミアと打合せをしていたようだ。
コルンにはなんの相談もなしに。
それが必要なことだろうと思ったが、彼女は焼けつくような苦渋を味わう。
わたしは、こんなにも身勝手な女だったのか。
自身の心が波立つたびに、彼女は自己嫌悪に苛まれる。
一目惚れ、なのだと思う。
制御不能に陥った人形機から救ってくれた、漆黒の髪と瞳を持つ、深い悲しみを秘めた少年。
気づいた時にはもう、彼のことで想いがいっぱいだった。
エーミアが語ったエルギンの過去が、その想いをあふれさせる。
心が、真っ黒に染まっていた。
彼の漆黒の髪に、瞳に、彼女の心は染めあげられていた。
それは、とても怖ろしいことのはずなのに。
それは、とても心地よい感覚をともなっていた。
エルギンが、敵ならよかった。
彼女を再建派から引きはがすために送りこまれた、ヒズメト政府の人間だったなら。
彼女の肉体をむさぼりたいだけの、軽薄な色事師だったなら。
この悦びも、痛みも、悲しみも、水っぽいアイランのようなものだったろう。
会見の後、ケディが用意した夕食をみんなで済ませてから。
気づいた時、かたわらにエルギンが立っていた。
「これから、よろしいですか?」
「……いいですよ」
エルギンは、彼女はアヤアクル博物館の南東の、小部屋へと誘った。
日は落ち、見るものすべての輪郭を、淡く曖昧なものにしている。
ふたりは、吸いつくように手を繋ぐ。
最低限の身支度は、済ませている。
服装は軍服のまま、帽子だけ置いてきた。
高鳴りすぎた心臓の音が、耳鳴りのように響いている。
頬も、耳も、体の部位すべてが、ただただ熱い。
ここが特区軍に包囲されていることも、兄と想い人との板挟みにあっていることも、すべて忘れてしまいたかった。
小部屋の扉が、ギリリと音をたてて閉じる。
取っ手を放したエルギンが足を返し、振りむく。
薄明かりの中で、黒い瞳が灯明のように輝いていた。
悲しそうに、微笑んでいる。
ぽつりと言った。
「ぼくは、とても緊張しています」
「えっ?……」
意外だった。
彼女には、エルギンが限りなく平静であるように見えたから。
「コルンは緊張してる?」
「はい。とても……とっても、緊張しています」
「じゃあ、ぼくと一緒だ」
「……そうですね」
それきり、エルギンはしばらく無言で、コルンを見つめていた。
沈黙に耐えきれず、彼女が口を開こうとする寸前。
「──なにから話したらいいか、悩んでいたのですが、やっぱりこれだな」
彼は、そう切りだした。
「……」
続けて彼の唇が動き、なにかを紡ぐ。
それは、彼女が予想しないもの──絶対に聞きたくない言葉。
だから最初、コルンはエルギンの言っている意味が理解できなかった。
気づいた彼は、彼女の両肩に手を置き、また宣告する。
「お別れを言いにきました、と言ったんですよ、コルン」
聞きたくなかったのに、聞こえてしまった。
反射的に、彼の腕を振りほどこうとしたが、力強く握られた両手が、それを許さない。
エルギンは、強く告げる。
「大事な話なんです。最後まで聞いて下さい!」
気がつくと、すぐ目の前に彼の瞳があった。
聞きたくない。
でも、聞かなければならない。
コルンは、涙目をうつむかせながら問う。
「なんで……お別れなんですか?」
「ぼくが、再建派に加わりたくない理由は知っていますね」
「はい」
「あなたのお兄さんは、ぼくとあなたを結婚させてまで、仲間にしようとしています」
「……はい」
「それでいいと思いますか? コルンはぼくの意志をねじ曲げてまで、仲間にしたいですか?」
「……いいえ……したく、ありません」
では、どうすればいい?
エルギンの気持ちはわかる。
エミール兄さんの気持ちもわかる。
でも、自分の気持ちがわからない。
一体わたしは、彼とどうなりたいのだろう?
「ぼくもこのまま、覚悟もないまま仲間にさせられたくはない。だから、ここを離れることにしました」
「なら、兄にそのことを伝えて……」
それでどうなる?
彼女のとぎれた言葉の先を、彼が紡ぐ。
「たとえ、あの人になにを言っても、軽くはじき返されるだけですよ。口論で負けたことはないのだけれど、今回は負けを認めざるを得ません」
いつもは愉快で頼もしい兄が、いまは彼を苦しめている。
彼は負けを認め、みじめに逃げだそうとしている。
嫌だ。
言いたいことは理解した。
でも、嫌だ。
逃げだしたければ、勝手に逃げればいい。
そんなのは、嫌だ、嫌だ!
わたしの前から、さっさと消えてしまいなさい。
絶対に、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
想いが弾けた時、コルンは我知らず両手でエルギンの腰を引きよせ、唇を重ねていた。
かさついた唇は、ほんのりと夕食のケバブ風味。
ふたりが、唇を離す。
コルンは右手を腰から離し、彼の右手の甲を握り、引き下ろす。
指が鎖骨の轍を超え、隆起した左乳房の頂を覆う。
彼女のこぼれる想いが、頬を流れる涙とともに、口唇を震わせる。
「愛して、います……いなくなっては、嫌です」
エルギンは、左手を滑らせ首の後ろから左肩を掴み、引きよせ、口づける。
先ほどよりも長く、先ほどよりも深く、先ほどよりも熱く。
左乳房に添えられた右手の下で、山塊が悦びに波打つ。
やがて離れた唇より、名残を惜しむかのように唾液(サルヤ)の糸が一本、ふたりの間を渡り、消える。
「ぼくもだよ、コルン。君が好きだ」
エルギンは、彼女が聞きたかった言葉を告げた。
とても嬉しい、言葉を告げた。
なのに悲しい。
愛する人が、愛してくれる人が、消えてしまうと言うのだから。
とても悲しい。
彼はコルンを抱きしめると、悲しむ想い人の耳に唇を寄せ、舐めるようにささやく。
「……ぼくと、一緒にいかないか?」

「!……」
彼の「ずるい」言葉が脳裏に響き、コルンは寝袋の上から跳ね起きる。
汗に蒸れた服が、体にまとわりつく。
隣で寝ていた、人形繰り仲間の女性が、気だるげに脇腹を掻いた。
ここは、アヤアクル博物館の管理棟。
地下施設から脱出した再建派の一同が、寝泊まりしている部屋だ。
まどろんでいるうちに、眠ってしまったらしい。
デュルトの操縦者である彼女とエルギンは、作業を免除され、臨戦状態での待機が命じられている。
籠城から二日目、統暦五九九年七月二十八日の夜。
アヤアクルを囲む特区軍に、目立った動きはない。
仲間が多忙を極めている中で、彼女は孤独の中でまどろみ、煩悶していた。
懐中時計を確認する。
長針が下をむき、短針が真上に近い、午後十一時半前。
エルギンが告げた時間まで、約三十分。
それまでに、あの場所までいかなければ、彼は彼女の前から永久に姿を消すだろう。
あれから彼は、彼女の熟れた深奥を求めることもなく、解放した。
指を口に当て、甘く唇ではさみ、舌の先で舐める。
彼の味が、口腔にわだかまっていた。
左胸に生じた鈍い疼きが、全身をゆっくりと這いずり廻っている。
コルンは気づいていた。
──これは、駆け落ちの誘いなんだ、と。
思いだすのは、彼女が初等学校を卒業する、歳のころ。
サロノシェヒルの自宅近くに住んでいた若い夫婦者が、ある日突然、姿を消す。
低い石垣で囲まれた、赤い屋根の家。
春は庭に、白、黄、紫に彩られた、チーデムの花があふれんばかりに咲く。
子供がいなかった若夫婦は、なにかとコルンを構ってくれた。
若夫婦に懐いていたというより、振る舞ってくれるお菓子が目当てだったのは、子供ながらに残酷だったと思う。
いつでもお菓子をくれた若夫婦が、なぜ消えたのかと母親に何度も訊ねる。
五回目にしてようやく、あのふたりは、親に連れ戻されたのだと、台所の隅でこっそりと教えてくれた。
──それが、駆け落ち。
許されざる大恋愛の末に、見知らぬ土地でふたりだけの生活を送る。
たとえ連れ戻されても、わずかながら、幸福な時間を過ごせたのだ。
それも幸せなのだろうと思った。
だが、数年して高等学校の同級生から聞いた話は、はるかに血生臭かった。
若夫婦を捕まえにきたのは、女方の親族。
連れ戻された女は、原形を留めぬほど顔を殴りつけられ、男は斧で頭をかち割られ、死体は近くの湖のほとり、チーデムの花畑にうめられた。
真偽のほどは、わからない。
だが、駆け落ちの末に果てた男女の話は、決して珍しいものではなかった。
そして自分がいま、その岐路に立たされている。
エルギンは手回しよく、エーミアの黙認を取りつけたと言っていた。
もしかすると、追っ手はかからないかもしれない。
いや、追われなければ理想を放りだしていいのか?
この国の未来のために、敬愛する兄のためにヒズメト軍を離脱し、再建派の活動に身を投じる覚悟をしたはずではないか。
エルギンを再建派に迎えず、あくまでも一協力者でいてもらう。
そうすればば、自身の尊厳を守り、彼の想いを尊重できる。
コルンが提示した妥協点を、彼は無残に踏みにじった。
──ぼくと、一緒にいかないか?
彼女にとって、とても嬉しい、とても残酷な手段で。
だから「ずるい」。
コルンは着崩れた軍服の裾と襟を正し、寝袋の脇に転がっていた、赤いギヨト帽を被った。
心が嵐に見舞われた船のように揺れ動き、収拾がつかないまま、管理棟をでて、アヤアクルの門扉をくぐる。
エルギンの言う通り、見張りはいない。
エーミアが黙認しているというのは、本当のようだ。
円蓋に覆われた中央。
夜光に照らされた灰色の人形機は兵装され、誇らしげに直立している。
きたるべき戦いに備え開発された、ギヨト軍の最新鋭人形闘機。
その試作機の操縦を任された彼女は、革命闘争を忌諱する卑小な男と、愚かにも逃避行に走ろうとしている。
他人の恋路は、愚かに見えるものだ。
たとえふたりで逃げたとしても、その想いが続くとは限らない。
追っ手の影に震えながら、風化した想いとともに暮らす男女。
ふたりを繋ぐのは、愛情ではなく、惰性と諦念(ていねん)。
そんな未来を幻視する。
怖気が、柔肌を撫でた。
彼女は両腕をかき抱き、モザイクタイルの床にへたりこむ。
目をきつく閉じるが、涙がにじむ気配もない。
わたしは一体、どうすればいいの?
無言の叫びに応えるように。
「深夜の芸術鑑賞とはまた、粋な趣味だな」
アヤアルクの入口にぽつりと、黒い人影がたたずんでいる。
再建派支部の生活全般を一手に担う少女、ケディ。
テケル親方が面倒を見ている、孤児だと言う。
幼いころは、神童と騒がれもしたそうだが、増長することもなく泰然自若としている。
歪んだ目で見つめるコルンに、ケディは歩みより、告げる。
「愛情は短く、友情は長いものと聞く。ケディは友の窮状に差しのべる手を惜しまないぞ」
言葉通りに差しだされた手を、握る。
はじめて、自身の手が震えていることに気づく。
ケディのつぶらな瞳が、木訥と彼女を見下ろしていた。
小さな手を握ったまま、コルンは訊ねる。
「ケディは、エルギンのこと、好き?」
その問いかけに、黒服の小柄な少女は即答する。
「ああ、好きだな。長く接したわけではないが、ケディを守ってくれると言った。将来的には、夫としても構わないと思っている。家は白壁の一軒家。庭にはゼイティンの樹を植える。子供は娘ひとり、息子ふたりが理想だな」
少女の意外な人生設計を聞かされ、驚き、はにかみ、そして笑う。
コルンは告げる。
「わたしもエルギンのこと、愛してるの」
「それは奇遇だな」
「……エルギンもね、わたしのことが……好きだって、言ってくれたの」
「それは……残念至極だな」
「……でもわたし、みんなを裏切ることはできない。エルギンの想いに応えることはできないの。なんでだろう? 大好きなのに。大好きな人の、はずなのにね……」
こんな言い方では、事情を知らない少女には、理解できないだろう。
にもかかわらず、ケディは決然と言う。
「ずぶ濡れになった者は、雨を恐れない。コルンは、ずぶ濡れてみたか? ケディには、お前が濡れるの恐れ、庇(ひさし)の下で震えているように見えるぞ」
「……ケディ?」
「濡れて凍え死ぬ奴もいる。濡れそぼつまま歩きだす奴もいる。コルンは歩け。それが、愛されたものの責務と知れ。これが友に贈る、ケディ・アーティケからの餞別だ」
なぜ知っている?
そんな疑念を抱くより早く、コルンはケディの手を借り、立ちあがる。
友情の真偽は、闇の中で明らかになるものだ。
赤いギヨト帽を両手で掴みあげ、差しだす。
少女は無言で、軍帽を受け取った。
コルンは踵(きびす)を返して歩きだす。
振りむかず、少女に告げる。
「ありがとうケディ、さようなら」
「達者でなコルン、また会おう」
時は十一時五十分。
説教壇(ミンベル)の裏手にまわり、教えられた床のタイルを剥がすと、そこに地下への縦穴が出現する。
迷わず飛びこむ。
坑の先、細く暗い通路を無我夢中で進むと、淡い光の下に、黒髪の少年が待っていた。
明けて、統暦五九九年七月二十九日、深夜零時。
コルンはエルギンの胸に、無言で顔を押しつけた。
少年は、彼女の栗色の髪を撫でながら、問いかける。
「一緒に、いってくれるんだね?」
コルンは、額をエルギンの胸に押しつけたまま、答える。
「はい──あなたと、ずっと一緒にいます。わたしは、あなたの望むままに生きることを、誓います」
彼女の頭上で、エルギンが小さく息を吐く。
コルンが顔を上げると、その唇が熱く塞がれた。
三度目は、林檎紅茶(エルマチヤイ)の味。
無限に続く、短い契りが終わり。
ふたりは手を固く握り合い、地下道を駆ける。
どこまでも、どこまでも一緒に。
道は複雑に入り組み、方向感覚を完全に喪失したころに、広間へでた。
頭上に円蓋が覆う、巨大な建築物。
その中央に、見覚えのある灰色の人形機が立っている。
胸部には、斜めに着弾の向こう傷が走る。
その背面には巨大な動輪が二基。
左脇に反りのある長剣、右脇に対戦機砲が据えられている。
頭部には、感知器と一体化した丸い目玉守。
完全武装のSKM、KX41デュルトが、ふたりを待ち構えていた。
「エルギン、ここは……」
訊ねるまでもなく、アヤアクル博物館の中央部。
ふたりはもとの場所へ戻っていた。
四囲から光輝が差す。
ドームの中央が、まぶしい光で照らされた。
「どちらへおでかけかしら、おふたりさん?」
声の主は白髪の少女、紅玉の瞳で睨む、エーミア。
ケディの押す車椅子に乗って、デュルトの影から滑りでる。
さらにアヤアクルの入口から、テケル親方や、中年男性デステキ、眼鏡の青年ヤバンといった、再建派の面々が現れた。
男たちの手には、小銃が握られている。
エルギンが道を間違えるはずはない──エーミアが騙したのだ。
──男は斧で頭をかち割られ、死体は近くの湖のほとり、チーデムの花畑にうめられた。
コルンは反射的に、エルギンの前へかばい立つ。
腰からヒズメト陸軍支給の硬土式自動拳銃、ウシュン一七を引き抜く。
右手で銃把を握り、左手を添え、安全装置を外し、半身でエーミアの胸を狙う。
発砲の瞬間まで、発砲釦(デユーメ)に指をかけてはならない。
「大丈夫だよ、コルン」
背後から、エルギンの声。
歩みでた彼は、動じた風もない。
コルンは銃を収め、その背にすがりつく。
「お手数を、おかけしました」
エーミアが、車椅子の上で白髪を掻き上げながら、呆れたように言う。
「いい按配にやらかしたようね──これであたしは用済みか。エルギン君もケディちゃんも、なかなかの役者よね」
「恐れ入ります」
「じゃ、明日……じゃなくて今日はよろしくね。こっちはこっちで、どうにかするからさ」
「わかりました。お任せ下さい」
そう言って、一礼。
先ほど今生の別れを告げたはずのケディが、コルンのギヨト帽を指先で旋回させながら告げる。
「この帽子は、預かっておくぞ。これをコルンに返す日は、ケディがエルギンのバラとなる日だからな」
コルンには理解できない。
「エルギン、これ……どういう、ことですか?」
わだかまり、立ちつくす彼女へ、少年は黒髪をひるがえしながら言う。
彼女が好きな、晴朗な空を思わせる笑顔で。
「知ってるかい? ぼくらはまだ、駆け落ちの真っ最中なんだよ」
「?……」
エルギンが、歩みよる。
「コルンはさっき、ぼくの望むままに生きるって誓ったよね」
「……はい」
彼女の両肩に手を置く。
「だから、ぼくは望むんだ。君に、この国の未来のために戦って欲しいと」
「!……」
彼女の両肩を掴み、引きよせる。
「だから、ぼくは決めたんだ。君を守るために、再建派の一員になるって、ね」
間近に迫った漆黒の瞳に、栗色の瞳が問う。
「……一緒に戦って、くれるのですか?」
「そうだよ。ぼくは君のために、誰かを傷つけ、誰かに傷つけられよう──」
黒髪の少年が、瞳に闇をまとい、嗤う。
「──でも忘れないで。君の心は、ぼくのものだ。ぼくが望むから、君は望むまま、生きられるということを」
あまりにも傲慢で、あまりにも征服欲に満ちあふれた言葉。
漆黒に染めあげられた彼女の心は、ほとばしる熱い声音を、蕩けるように染みわたらせる。
コルンは両肩を掴まれたまま、右手の指先をエルギンの胸に、左手を自身の胸に当てた。
告げる。
「はい……コルン・イマードは、あなたの心のままに生きる女です。ずっと、あなたと一緒です」
恋する女は、愛する男に心から屈服した。
命ある限り、愛の逃避行を続けることを誓った。
背後に控える一同が沸き立ち、歓声を上げる。
「勇気の前に、運命さえも頭を垂れる!」
「若き勇士(アダム)がわれらとともに!」
「称えよ、ギヨト再建委員会!」
盛大に熱狂する一同をよそに。
エルギンは彼女の手をそっと握り、苦笑しながら小声で言う。
「これは方便みたいなものです。あまり深刻に考えないで。ともかく、これからは仲間だ」
「はい、よろしくお願いします」
「それと、これからもうひとり」
「……もうひとり?」
エルギンは、彼女の手を握ったまま、デュルトを見据えて言う。
「その人はね、ナスレディン・パシャの冗談が通じないほどの堅物で、人形機をぼく以上に扱える繰者──」
続く名前を、ふたりの男女が一字一句違えずに告げる。
『──〈ヒズメトの月(アイ)〉、スィヒル・ハリデ』
少年が、大きくうなずいた。
「エルギン、本気ですか?」
「もちろん。これからあの人と、決着をつけにゆこう」
エルギンは快活に、愛しい人(セヴギリ)を死地へと誘った。

                                          06

事態が急変したのはその日、統暦五九九年七月二十九日の午後。
射爆場でカムロヒサールの慣熟訓練をこなし、マキネギヨト重工業の技術者と、ウスルが使役している自動機と協力し、移送の準備を済ませる。
完璧を求めるなら、こなすべき仕事は無数に残っていたが、最低限の備えは完了した。
八脚輸送車に後づけした荷台に、カムロヒサールは仰臥する。
その脇で珈琲を飲みながら、スィヒル、ウスル、メルジェキの三人で、今夕の打合せをしていた時。
「これはまた、ずいぶんとめかしこんだロバ野郎ですな!」
下卑た罵声と、張りつめた殺気が射爆場に満ちる。
気づいたメルジェキが、上官ふたりをかばうように立つ。
十数名の憲兵隊(ジヤンダルマ)が小銃を構え、荷台を背にした三人を取り囲む。
遠方に、狙撃兵もひそんでいるようだ。
完璧に退路が断たれていた。
兵が割れ、特区軍の軍装に身を包んだ将校と下士官が歩みでる。
メルジェキが表情を歪めて問う。
「貴様、どういうつもりだ!」
その憎しみは、将校にではなく、下士官にむけられている。
専伍長の階級章をつけた下士官は彼の部下、ダヴルだった。
暴行を受けたらしく、右足を引きずり、左目と口もとを紫色の痣で染めている。
上官に視線を合わせようとしない専伍長にかわり、将校が告げる。
「部下の忠誠心に咎はないぞ、メルジェキ挺曹長」
「うのぐあっ!」
乾いた音とうめきが重なり、メルジェキが両膝を突く。
将校の手には、プラズマ光を吐いたばかりの拳銃が握られている。
対人用の弱装弾は、飛翔体を電磁硬化させるかわりに、内包する電力で衝撃と激痛をあたえる。
将校はさらに、背後に控えるダヴルにも銃をむける。
「上官がこのざまだから、こんな無能が軍人面してやがるんだ」
「ひ、ひひぃ……どおうぐっ!」
背をむけて逃げようとするダヴルも、容赦なく昏倒させる。
可愛そうだが、叫ぶ余裕があるなら命に別状はないだろう。
大尉の階級章をつけた将校は拳銃を腰に収め、スィヒルにむきなおる。
ギヨト帽の縁をつまみ、ずるりと一回転させて言う。
「愛しのナスレディン・パシャに、いい手土産ができた──というわけですな、スィヒル少佐。あんたが賊軍の首魁と、よろしくやってたって噂は、酔いつぶれた新兵ですら口走ってましたぜ」
「貴官が、カルドゥル大尉……か?」
誰何するスィヒルに、将校は芝居がかった所作で敬礼する。
「お初にお目にかかります、少佐。そこのロバ野郎のもと上官、カルドゥル・ハーフズ大尉であります」
その言葉に、ウスル大佐が激昂する。
「貴様か! タイプVIIを単機で突入させたあげく、自爆させた指揮官……ングハッ!」
皆まで言わせず、カルドゥルの膝が、ウスルの鳩尾を強打する。
上官に対する暴行に、悪びれもしない。
「あんたが、ロバ野郎の親玉か。戦時中は、あんたらネル公の自動機に、ずいぶんと煮え湯を飲まされたからな。使い捨ててやっただけ、ありがたく思って下さいよ。さてさて……」
カルドゥルは、懐からしわくちゃの紙片を取りだし、スィヒルに突きつけながら告げる。
「スィヒル少佐、メルジェキ挺曹長。あんたらには、軍施設の無断使用、人形闘機の横領、反政府組織との内通、各種詰め合わせの国家反逆罪容疑で、逮捕状がでてる。そこで転がってるウスル大佐には、重要参考人としてご同行ねがいますよ」
逮捕状には、ヒズメト総帥、アーレム・バシュカンの署名と花押が押されている。
スィヒルはカルドゥルに視線を据えたまま、背後で仰臥する部下に問う。
「カムロヒサール少尉、事実ですか?」
人形闘機の女声が、即答。
『はい。三分前に、総帥府から逮捕状が発効されています』
こちらに気取られないよう、あらかじめ書類を用意し、逮捕直前まで発効を差し止めていたわけか。
「そうか、ありがとう」
礼を述べながら、彼女は素早く考える。
カルドゥルの告げたことは、事実を悪意で煮染めていたが、いくばくかの事実もふくまれる。
ロメリア大戦時代、たしかにスィヒル・ハリデはエミール・ナスレディンと、公私ともに親密なパートナーだった。
ナスレディン准将がヒズメト軍を離脱した後も、彼女が軍に留まったことの方が、意外であると思われたほどだ。
つまり彼女は英雄と称揚されながら、いつ反逆者に仕立て上げられてもおかしくない立場にあった。
だがなぜ、いまなのか?
カルドゥルが、アーレム総帥とどのような繋がりがあるにせよ、ヒズメト連邦に忠誠を尽くしているとは思えない。
現在のヒズメト政府内で趨勢となっている、ネルギア総国へ阿諛追従(あゆついしよう)する輩なら、ネルギア製の自動機を自爆させたり、ネルギア人に暴行を働くはずはなかった。
ネルギアを憎み、ナスレディンを憎むもの。
スィヒルの脳裏に差した光明が、ひとつの確信を照らしだす。
凶漢が、優位に裏打ちされた薄笑いから、拘束の命を発する寸前。
彼女は、その下卑た言葉を発した。
「──ナスレディンの雌犬から、ケローランの狂犬が餌を巻き上げよう、というわけだな」
さながら、灼熱の溶岩に氷塊を投じたようなもの。
カルドゥルの顔面が凝固し、紅潮。
過大な温度差が、激甚な水蒸気爆発を生じさせる。
「けけっ、ケローラン・パシャを、侮辱!」
激昂と同時に、銃を抜くことすら忘れたカルドゥルの鉄拳が、彼女の顔面に放たれた。
重く鈍いその一撃が、スィヒルの頬をかすめて抜ける。
彼女は鉄拳を刹那で回避しながら拳銃を抜き、凶漢の喉に突きつけた。
安全装置をカキリと外す。
「大尉!」
取り囲む憲兵たちが、色めき立つ。
「ヌグゥ、きっ、貴様……」
カルドゥルが屈辱に歯ぎしりし、隙間から白く泡を吹いた。
スィヒルが、不敵にささやく。
「貴官からは、ケローランの腐臭が漂っている。逃げだした主人に忠義面をしても、撫でてはもらえませんよ」
ロメリア大戦当時、汎ギヨト共栄圏を標榜する、再建派幹部として権力を握った、カラル・ケローラン・パシャ。
失脚し、国外逃亡を図った後もなお、亡命先で捲土重来を図っていると聞く。
ヒズメト内部にも、そしておそらくは再建派内部にも、ケローランの復権を願う勢力が、隠然と存在していた。
彼らにしてみれば、ヒズメト連邦の親ネルギア政策も、再建派のサロノシェヒル占領も、ケローランが復帰するまでの時間稼ぎにすぎない。
すべてのギヨトを、ケローランの名のもとに。
ギヨト再建委員会にすら見捨てられた、汎ギヨト主義の亡霊に、カルドゥルは取り憑かれているのだ。
凶漢を黙らせたところで、背後に転がるふたりに声をかけようとして。
「メルジェキ、目を覚ませ! ウスル大佐も起きて……ヌグウッ!」
スィヒルの手にした拳銃が跳ね飛び、背中に鋭い痛みが根深く突き刺さった。
激痛に息を詰まらせ、片膝をつく。
そこへ迫るカルドゥルの軍靴が、彼女の顔面を蹴り上げる。
「雌犬がっ、雌犬がっ! よくも閣下(パシヤ)を、よくも俺を!」
執拗に蹴り転がされる彼女の頭上から、狙っているものは。
「カムロ……ヒサール、少尉」
人形闘機の尉官、K40カムロヒサール少尉が荷台に仰臥したまま腕を上げ、内蔵された機関砲で拳銃と彼女を撃ったのだ。
上位者を、反逆者から救う。
人形闘機は、軍人として当然の行動を取ったにすぎない。
痛みすら薄れ、混濁する意識の中でなお、スィヒルは「彼女」を賞賛した。
──「彼女」となら、きっと、うまくやって行けただろうに。

                                          07

傾いだ朱い陽光が、ロメリアの大地に墜ちようとしている。
エルギンは、リバティノブル市街を疾駆するKX41デュルトの後部操縦席で、前席にいるコルンがくれた目玉守(ナザルルク)を手に、瞑目している。
人形繰り用の操作桿も、現在は接続が切られ、椅子の形に変形している。
デュルトは夕刻、アヤアクル博物館の正面玄関から、威風堂々と出陣した。
建物を包囲していた特区軍や憲兵たちが、憎しみをこめて道を開ける。
「〈ナスレディン・ギア〉だ!」
その背後で見守る一般市民は快哉を叫び、一般車両は率先して道を開けてくれた。
流れ去る沿道の人々は皆、歓声を上げている。
〈ヒズメトの月〉対〈ナスレディン・ギア〉。
守旧派と革新派の戦いという政治的な意味の埒外で、この一大イベントに熱狂しているように見える。
アヤアクル博物館から、ヒズメト旧総帥府を背に幹線道路へでて、剣削湾(ケスコイ)にかかるザフェル橋を渡り、リバティノブル海峡を右手に見ながら北上を続けていた。
海峡大橋までの移動は、前席にいるコルンの仕事だ。
それまで、決戦に備えて精神統一を図る。
自身という体とは別に、人形機というもうひとつの躯に神経を通わせねばならない。
人形機を、彼が獲得したもうひとつの躯とするなら、別な意味でも、もうひとつ。
乾坤一擲の想いで、エルギン・トーゴはコルン・イマードを手に入れた。
もし、彼女が誘いに応じなければ、かわりにギュゼル・エーミアが前席に着く手はずとなっていた。
スィヒルを倒し、仲間に引きいれることができれば、最低限の義理は果たせる。
コルンが手に入らなければ、そこで再建派と縁を切るつもりだった。
なにかの間違いで、コルンが彼のもとへ走るようなことがあれば、彼女のために再建派に加わり、ともに戦う。
──その、なにかの間違いが、彼の眼前でデュルトを走らせている。
まさか、本当にすべてを投げだしてくるとは。
革命闘士の恋人という、とてつもなく厄介なものを、背負いこんでしまった。
いや、いまでは自分も革命闘士なのか。
なんだか実感が湧かないが。
死闘を前にした緊張すら忘れ、彼は周囲の景色に目をむける。
右手の先に見える海峡大橋が、徐々に存在感を増していく。
ヒズメト・ギヨト新総帥府の脇を抜けるころ、太陽は大地に肉薄しつつあった。
毀れた大樹と揶揄されながらも、威容を誇るヒズメト連邦の中枢部。
戦闘車両や人形闘機、そしてごく少数ながら自動機によって厳重な警備がなされている。
ナスレディン・パシャが喧嘩を売った、ヒズメト連邦総帥、アーレム・バシュカン=アズィズが、ここにいるはずだ。
もしかしたら、これからの戦いをあそこで見守っているのかもしれない。
ほどなくして。
海峡大橋へ入るため、いったん内陸側へ切り込むルートへ移る。
沿道の人々が増えるにつれて、両脇を固める特区軍も数を増していく。
ゆるい右の曲線道路を、デュルトは尾部を流しながら曲がる。
上下六車線の広い直線道路に入ると、片側三車線は灰色の人形機のみとなった。
対向車線に特区軍が展開している。
おそらく、対岸のトリアイナ側も同様であろう。
スィヒルとの勝負に勝てば、アヤアクルに籠城する再建派全員がリバティノブル市街へ脱出することを黙認し、負ければ全員投降するという約定を交わしている。
勝てたからと言って、そう都合よく逃がしてくれるとも思えないが、こちらは最善を尽くして、後のことはエーミアに任せるしかない。
エルギンは、全財産が縫いつけられた上着のポケットに目玉守を入れる。
靴を脱ぎ、上半身をはだけさせ、上着でまとめて操作桿に縛りつけた。
高速巡航で疾駆すると、不意に左右を流れる陸地がとぎれ、海峡大橋へ突入する。
橋の下、左右に広がるロメリア側の岸辺に、大勢のリバティノブル市民が詰めかけているのが、一瞬だけ見える。
対岸のトリアイナ側も、同様の見物人でうめつくされているようだ。
これはまた、ご大層な人形闘技(ククラギユレシユ)会場に招かれたものだな。
大戦中、〈仮面のスィヤフ〉と呼ばれたころも、ここまで観客を集めたことはない。
リバティノブル海峡大橋は、全長一一四〇メトレ、幅四〇メトレ、高さ七〇メトレ。
間に橋脚や吊り橋構造を持たない、世界最長の桁橋。
発生する振動やたわみは、免震装置によって常時、吸収されている。
夕陽を染みこませるように、鎌槍を持つ紅褐色の人形闘機が一機、半身で佇立している。
以前に倒したテズヒサールの改良型で、名はカムロヒサール。
デュルトと同様に、頭部が追加されていた。
機速のついたデュルトは、見る間に敵との距離を縮める。
こちらは都合よく、夕陽を背にしていた。
エルギンが指示をだす。
「そのまま突入して。直前で発砲後に起立するよ」
「了解!」
打てば響く、コルンの返事。
指揮権は彼女にあるが、格闘戦の組み立てについてはエルギンの判断が優先。
彼我の距離が一〇〇メトレを切ったところで、上半身の制御をもらい、対戦機砲用の銃把を握る。
左肩口を狙って発砲釦(デユーメ)を押すと、砲口からプラズマ光が吐きだされた。
カムロヒサールは当然のように、発砲直前に回避運動をはじめている。
予想通り、むかって左側に回避。
射程距離を最低に設定しているため、砲弾は対岸に着弾する前に飛散している。
敵が構える鎌槍(トゥラパン)の覆いが外れ、白い穂先と鎌が出現。
エルギンは五〇メトレ手前で全身の制御をもらい、対戦機砲を手放す。
火花を散らして、盾つきの巨砲が後方に流れ去る。
両脚の先と両肘を地に突いて強制的に起立。
地面を滑走しながら腰に佩く長剣の柄を握る。
柄が白煙を吐き、内部に瞬硬エアロゲルの刃が形成された瞬間。
デュルトは長剣を引き抜きながら、右脚を軸に右旋回。
鎌槍を構えるカムロヒサールに、右後ろ回し蹴り。
敵は柄で蹴りを受け、後退。
続いて長剣の横薙ぎ。
鎌槍の白い穂先が白い刃と交わり、蛇のように刃にからみつく。
すかさず、デュルトは長剣を手放し、懐へ飛びこむ。
白刃が宙を舞い、海峡の闇に飲まれる。
灰色の人形機が低い姿勢から、腿を掴もうと腕をのばす。
褐色の人形機は、鎌槍の柄頭で、その腕を払う。
デュルトは地面すれすれの体勢から右脚を直上へ突きだし。
カムロヒサール頭部への、蹴り。
敵がのけぞって回避したところで鎌槍の柄を両手で握り、左脚も浮かせて腹を蹴る。
カムロヒサールは鎌槍を手放すが、軸をずらしながら手放すタイミングを遅らせ。
デュルトを六車線道路の縁へ放逐。
海峡へ落ちれば、もちろん負けだ。
カムロヒサールが前傾。
デュルトが鎌槍を構え、迎え撃とうとする。
「鹵獲したエアロゲルの武器は、使用不可です!」
コルンの警告。
「えっ!……」
その言葉通り、せっかく奪った武器の白刃が消滅してしまう。
所有者以外の使用を許可しないのか。
認識へいたる刹那の間が、致命的な隙を生む。
カムロヒサールの前転からの二段蹴りは、エルギンの予想を上まわる速度。
右の一撃目を回避したが、左のトリアイナ側ではなく、右の海峡側へ追いこまれた。
左の一撃を脳天に喰らうか、後退して海峡の藻屑と消えるか。
仕方ない。
彼は刃の消滅した鎌槍を海峡に投げ捨て、デュルトを前傾させる。
直撃を受けても、敵の左脚を取り、海峡へ投擲するつもりだった。
だが、敵の速度は予想をさらに上まわる。
半端な前傾が、蹴りの効果を倍加させただけだ。
認識はしても、人形繰りが追いつかない。
エルギンが恐れたのは、自身の死ではなく、コルンが傷つくこと。
──ごめん。
声にもだせず謝罪した直後、必殺の左脚が、頭上で歪む。
「!?……」
攻撃目標が、頭頂から右肩へ変更される。
デュルトは右腕を失いながら、左のトリアイナ側へ身をよじり、両脚を突っ張って臀着。
「後退します!」
コルンは接地する寸前に動輪を逆回転させ、急加速でテズヒサールとの距離を取る。
──やっぱり手強い……が。
エルギンが息をつきかけた時、デュルトが車線を左へ移す。
右後方から火線が走り、右前方に爆発。
衝撃に、橋梁が上下に波打つ。
背後のトリアイナ側からの砲撃。
さらにもう一発がデュルトの背に着弾するが、寸前で目玉守が低く唸り、砲弾を無害化している。
「停止して、コルン。あと、うかつに砲撃を回避しないで」
「は、はい!」
橋梁中央とトリアイナ岸との中間地点で停止したデュルトへ、さらに続けて二発、対戦機砲が撃ちこまれた。
その都度、頭上の目玉守が砲弾を防いでくれる。
粉砕された硬土弾の塵が、赤黒く血煙のように広がった。
目玉守は機能を有効にしている限り自動的に作動し、一回の発動で二秒間効果を発揮。
発動回数は三〇回。
まだ余裕はあるが、無限に守ってくれるわけではない。
コルンの報告。
「砲撃は、トリアイナ側に展開している、特区軍のガザール戦車からです」
「こっちが、砲撃を無効化できるのをわかっていて、やってるみたいだ」
「いけますか?」
「厳しいな。相手は、手加減する余裕もあるみたいだし」
思ったままの印象を伝えたつもりだ。
だが、コルンが意外なほど強い語調で反論する。
「スィヒルさんは、絶対に手加減なんかしません。だからこそ英雄と呼ばれるようになった人です」
「……そうですか」
納得はできないが、いま上位者に反論すべき事柄ではない。
「前進します」
コルンは、再度の突進を開始する。

なんと無様な。
スィヒルは情報帽へ投影される戦場に、ほぞを噛む。
どれほど勝機を逃せば済むと言うのか?
眼前に提示される情報は、カムロヒサール自身の判断で二回、スィヒルの判断で一回の計三回も、決定的な機会に繋がる好機を逃している。
デュルトが、ふたたび迫る。
カムロヒサールが前傾し、左脚を軸に右脚払い。
「上だ!」
叫ぶと、全身に激痛が走った。
直後に、デュルトは予想通り、起立しながら跳躍し、頭上を越える。
着地の衝撃に、橋梁が大きく上下動。
その程度で転倒こそしないが、追撃は不可。
着地後、ふたたび走行形態に移行したデュルトが、いちどは捨てた対戦機砲を拾う。
左右どちらの手でも持てるよう、銃把は設計されている。
固有情報が登録されているため、こちらが鹵獲しても使用はできない。
カムロヒサールが低い姿勢で突進。
デュルトは走行形態のまま対戦機砲を構え、後退しながらこちらを狙う。
自動機の頭脳体が制御しているとはいえ、人形闘機であるカムロヒサールに、巡航戦兜ほどの機動性はない。
こちらには、動輪も目玉守もないのだ。
敵が砲口を構え、撃つかに見えた。
カムロヒサールが回避。
それに合わせて砲口が動き、今度こそ発砲。
左腕被弾。
左腕投棄。
敵の対戦機砲が、砲身を反動で大きく跳ね上げていた。
片手撃ちで、よく当てるものだ。
カムロヒサールも腕の機関砲で応射しているが、その程度では牽制にもならない。
デュルトは距離を取りながら、プラズマ光を吐き続ける。
的確な戦術、的確な砲撃だ。
それで済めば、なにも人型兵器が格闘戦をおこなう必要はなかった。
カムロヒサールは砲撃のタイミングの読み合いに応じ、巧みに致命打を避けるものの、肉薄はできない。
敵が橋梁への命中を避けているため、回避は可能だが限界はある。
そこに通信。
『苦戦してるじゃねえか、ロバ野郎……と、おまけの英雄殿』
もはや不快感すら纏う、カルドゥル大尉の濁声。
こみ上げる怒りと苦痛をおさえ、スィヒルが問う。
「貴官は、わたくしを処刑するつもりか?」
凶漢が、からからと嗤う。
『いんや。処刑ごときじゃ、俺の腹は満たされねえ。血だ、穢れた血が足りねえんだよ……俺は、したたる血って奴が大好物なのさ。生焼けたステーキ、わめき散らす処女、蹂躙と虐殺まみれの戦争。……もひとつ追加で、英雄(カフラマン)を騙る雌犬のご開帳だ!』
憎しみが充満したカルドゥルの悪罵が、操縦席に風を呼びこむ。
情報帽の留め具がはじけ、あらわになった頭部から、灰金髪が竜巻のように吹き上がる。

「イィヤァッ!」
前席から響く、限りなく悲鳴に近い、コルンの叫び。
眼前で、縦横無尽の回避を続けるカムロヒサールの胸部装甲が、剥落。
緊急脱出装置に作動により、操縦席があらわになる。
そこにはたしかに〈ヒズメトの月〉、スィヒル・ハリデがいた。
彼女は軍服の胸もとを斬り裂かれ、両の乳房から下腹を露出させ、手脚を拘束具で操作桿に括りつけられている。
顔や肌の各所に赤黒く、無数の痣や血が染みつけられていた。
エルギンの眼前に、そんな磔られた妙齢の美女が大写しされている。
「コルン、そ、そんなに拡大しなくていいから!」
「で、でも、あのスィヒルさんが……」
「敵がくるよ、早く、早く!」
「はわっは、はひっ!」
若いふたりが混乱した隙に、カムロヒサールが前傾から距離を詰める。
コルンがデュルトを後退させようとすると、ロメリア側からも特区軍が砲撃。
目玉守が守ってくれるが、下手をすれば曝露したスィヒルに被害がおよぶ。
やむなく前進。
かつて自身が味わった肉叢(ベデン)の盾が、こちらにむけられている。
指揮官があの男なら、納得の蛮行だ。
よく見ると、スィヒルが拘束された操作桿が動いていない。
あの機体は、自律制御のみで動いているのか?
自動機は殺人が禁止されている……だから、手加減していたわけか。
だが、どうする?
目算がつかぬまま、眼前にカムロヒサール。

戦いは、ふたたび近接戦闘に移った。
スィヒルの眼前で、デュルトが対戦機砲を手放し、廻し蹴りを放つ。
こちらも強化されているが、相手も挙措に鋭さを増している。
スィヒルとウスル大佐の執念が結実した、K40カムロヒサール。
反政府組織の盗難機……いや、ギヨト再建委員会が完成させたKX41デュルト。
両者の長所を合一すれば、現行の交戦協定下で最強の陸戦兵器となり得るだろう。
彼女は恥じる。
なぜこの場にいながら、手脚の一本も動かせないのか。
無様な姿をさらすことよりも、無様な戦いを繰り広げることの方が、はるかに屈辱だ。
「カムロヒサール少尉、操作権を渡せ!」
何度もそう、声にだしていた。
だが、カムロヒサールの答えは決まっている。
『少佐には国家反逆罪の容疑がかけられています。容疑が晴れない限り、命令には従えません』
正論だ──真逆の立場なら、スィヒルも同じことを言うだろう。
だがそこで、カムロヒサールが、いままでとは異なることを問う。
『──少佐、そこから脱出できますか?』
「彼女」の語調には、わずかにスィヒルの身を案じる気配がある。
「?……いや、単独で縛を解くのは不可能です」
脱出を試みてはいるのだが、痛めた体に拘束具から抜けだす余力はない。
カムロヒサールが告げる。
『本機の頭部には、爆破装置が仕掛けられている可能性があります』
「なっ!?……いや、奴ならあり得るか。解除できますか?」
『自分の権限では不可能です。少佐を見殺しにはできません。拘束は自分が解除しますから、脱出を!』
そう告げながら、カムロヒサールは残った右腕を操縦席に潜りこませた。
巨大な右指先の突端で、腕の縛を外そうとする。
デュルトの猛攻を凌ぎながら、だ。
たとえ反逆者でも、人命を尊重する。
その愚直さは評価したいところだが、「彼女」の無様な戦いには我慢がならない。
「まずは敵を倒せ。それが、貴官の仕事です」
海峡に蹴り落とそうとするKX41に、K40はやむを得ず右腕を抜き、捌く。
『自分の権限だけでは困難です。小官に、盗難機を無力化できるほどの優位性はありません』
「だが、デュルトを倒す優位性はあるはずだ。わたくしに操作権を渡しなさい!」
『……できません。自爆するのは構いません、ですが少佐が……』
スィヒルはカムロヒサールの言葉を圧し、声を荒げる。
「部下を無駄死にさせるわけにはいかない!」
──たとえ死ぬとわかっていても、だ。
時として、士官は部下に死ねと言わねばならない時がある。
人も機械も、戦争で使い捨てられることに変わりはない。
士官は、部下の死に涙してはならず、部下の命を無駄に散らしてはならない。
果たしてこの自動機は、有益に使い捨てられようとしているのか?
答えは、否。
だから命じる。
「わたくしを生かし、勝機を掴みたいなら、操作権を渡しなさい、カムロヒサール少尉!」
逡巡の後、カムロヒサールは告げる。
『了解……ご武運を』
操作桿がゆるみ、四肢が機体と同調した。
それと同時に、肉薄するデュルトの左手刀がのび、頭部を薙ぐ。
自律制御を止めれば、勝てると踏んだのだろう。
彼女は構わず、デュルトに首を刎ねさせた。
天高く、首級が舞い上がる。
自律制御による動作補正が切断するが、彼女には不要。
すかさず右脚を払う。
カムロヒサールの尖った脛が、デュルトの右足首にめりこむ。
空宙で、頭部が爆発。
巻きこむものがなければ、さして恐れることはない。
情報帽がなくとも、彼我の動きは手に取るようにわかる。
前方視界は格別だ。
敵が後退。
不用意だ──しかも、あの模擬戦と同じ。
傷の痛みなど、知ったことか。
スィヒルは海峡と、上空から叩きつける爆風を背に、左胸の短剣を引き抜きながら前転し、左のかかとを落とす。
灰色のSKMが右脚を引く。
最小限の動作で回避と反撃を意図していた。
だから彼女は、蹴りの軌道を縮め、続く右脚のかわりに右腕を振り上げた。
手にした短剣が、のけぞりつつあった敵の胸部装甲下部に、浅く突き立つ。

ギィンッと、弾けるような衝撃。
それはエルギンの眼前、円球状の画面中央下部から少し左寄りに映しだされた。
カムロヒサールが打ちこんだ短剣の切っ先が、繰者である彼をめがけ、刃を水平にして突き立っている。
そして、映像ではない本物の切っ先が、前席のコルンの前に突きでているのが見えた。
前席正面の画面が断ち割れ、火花と黒煙と、虹色の光輝を放つ。
コルンは悲鳴ひとつ上げなかった。
──いや、上げられない?
最悪の嘔吐感を無視して、エルギンが叫ぶ。
「コルン、そこから離れて!」

切っ先の位置はコルンの眼前、一〇センチメトレ。
エルギンの声に、彼女は心の縛を解く。
「──はいっ!」
返事とともにハーネスの座金を外し、転げるように、デュルトの前席から飛びだす。
叫んだ彼自身も、操作桿の縛を解いている。
後方へ回避中のため、体が前方へ引っぱられた。
なにかの警告音。
振りむくと、カムロヒサールの脚が迫っていた。

スィヒルは右脚を折り崩しながら後傾する敵を追随する。
起立と同時に左脚を軸に廻し蹴り、右脚のかかとを腹に打ちこむ。
吠える。
「断(ケス)!」
その打撃は、あやまたず短剣の柄頭をとらえていた。
灰色のSKMは、繰者のいる位置を刃に貫かれる。

操作桿を離れたエルギンは腰を落とし、右脚部の操作桿を両腕で掴み、蹴りの衝撃に備えた。
背中にコルンがすがりつく。
天が墜ち、地が揚げ合わさるほどの衝撃とともに、直上を太く厚い金属の板が通過する。
回路が焼け落ちる、火花と煙と金属臭。
操作桿上部が断絶し、金属板の上で跳ねる。
四囲を丸く囲む銀幕(エクラン)に、あり得ない図と画像と文字と記号が狂騒した。
それでもエルギンは、認識している。
蹴り飛ばされるデュルトと、必殺の蹴りに姿勢を崩す、カムロヒサールの姿を。
どう操作桿を動かせばいいかは、体が理解している。
短剣が貫いたのは、操作桿の上半身だけだ。
まだ張力は残っている。
かつて、ベベキとなったコルンの人形機を救ったように。
エルギンは、灰色の人形機の脚部操作桿を両腕で鷲づかみ、心の裡にある人形繰りを、物理的に再現する。
コルンが背後から彼の腰を抱きかかえ、下肢を固定した。

胸に短剣の柄を生やしながらも、デュルトは止まらない。
廻し蹴りの後、旋回を続けるカムロヒサールの裡。
スィヒルは、曝露する前方視界の片隅に見る。
敵が蹴りの衝撃を踏みとどまり、前傾。
左脚を軸に旋回し、右廻し蹴りを放つ。
それは、奇妙なぎこちなさと、最小限の軌跡を描きながら。
見事なまでにカムロヒサールの下肢を払う。
彼女の目に、落陽に染まる空が、深い血の池のように広がる。
刹那の浮遊感の後、彼女の機体は背面から橋梁に叩きつけられた。
操作桿の基部が、ごきりと音を立て、四肢の張力が断たれる。
操縦席の形が、いびつに歪む。
落下の衝撃で、背にした橋梁が大波を打つ。
風音が擦過した。
──直後。
仰臥したスィヒルの頭上で、リバティノブル市全体が、震える。
両岸で見守る人々の歓呼と快哉の大音声が、彼女にも届いた。
自律制御を失い、操作を断たれた以上、カムロヒサールは指一本動かすことはできない。
『停戦せよ……以後、すべての戦闘行為を禁じる……これはヒズメト・ギヨト経済圏連邦総帥、アーレム・バシュカン=アズィズの勅令である……停戦せよ……』
そんな声音が、ロメリアとトリアイナの両岸から流れてきた。
抗弁の余地はない。
勝負は決したのだ。
──カムロヒサール少尉、貴官の奮闘は記憶に留めます。
スィヒルは、彼女を生かすために大破した部下を、無言でねぎらった。
足もとの情報帽から、かすかにカルドゥルの悪罵が流れる。
『ケッ、英雄様も、所詮はその程度か。使う価値も、殺す価値もねえゴミクズ女だな。……勝手に野垂れ死ね』
ほnaざいてろ、ロバ野郎。
返す価値のない悪態を、スィヒルは虚空に散らした。
揺れが収まったころ、彼女の足もとにデュルトが歩みよる。
やはり、歩行はぎこちなく、残った左腕はだらりと垂れ下げられていた。
非常脱出装置が作動し、短剣の突き立つ胸部装甲が剥落。
「スィヒルさん!」
聞き覚えのある少女の声が、解放された操縦席から吹きだす。
サロノシェヒルに赴任した時、ナスレディンとともに世話になった下宿屋の娘、コルン・イマード。
再建派に転向したと聞いていたが、デュルトの繰者だったのか?
──そうではない。
彼女の背後、短剣に上肢を断たれた操作桿の下で、半裸で黒髪の少女……いや、少年が屈みこんでいる。
その両手は、操作桿の下肢を掴み……。
──まさか、そんな!
スィヒルの直感を裏付けるように、黒髪の少年が操作桿を両手で動かすと、デュルトが片膝を突く。
ぎこちないが、たしかな動き。
彼は、四肢を固定することなく、外部から操作桿を操作していたのだ。
操作桿が完全に破壊されなかったとはいえ、短剣が突き立つ寸前に四肢を解放し、外部からの操作で廻し蹴りを放ち、スィヒルを殺さずに倒す。
それだけのことを、あの状況で瞬時にやってのけたのだ。
なんという、卓抜した人形繰りか。
ふたりが、脚を伝って降りてくる。
若い男女は、スィヒルに負けず劣らずに汚れ、傷だらけになっていた。
陸軍士官の軍服を着た少女、コルンが、仰臥するカムロヒサールの胸部に駆け上がり、はだけたスィヒルの胸に、上着をかけてくれる。
「ありがとう」
「ごぶさたしてます、スィヒルさん」
「コルンちゃんも、立派になりましたね」
少女の背中ごしに、黒髪の少年が名乗る。
「はじめまして。ギヨト再建委員会のSKM繰者、エルギン・トーゴです」
「スィヒル・ハリデです。見事でした」
「ありがとうございます。格闘技術であなたに勝てる自信は、いまだにないのですが」
「いいえ。勝負は、技量ではなく結果です」
愚直な武人の言葉に、エルギンは不本意そうな笑みを浮かべる。
「……本当に、ナスレディンさんが言っていた通りの方ですね」
耳慣れた名前に、スィヒルは思わず問う。
「彼をご存じなのね。エミールは……ナスレディン・パシャは、お元気ですか?」
彼女の言葉に、ふたりは顔を見合わせる。
「はい、エミール兄さんは、とても元気にがんばってます!」
コルンは笑顔でそう答え、エルギンは困ったように頭を掻く。
──やはり、あの人の妹だったのか。
あえて訊ねはしなかったが、この少女がナスレディンと血縁関係にあることは、薄々気づいていた。
反乱を起こしながら、実の妹をヒズメト軍に残すあたり、いかにもあの人らしい。
もっともそれは、彼女自身にも当てはまることではあるが。
かつて、ナスレディンは、スィヒルをこう評した。
──君の美点は、愚直なまでに軍人であろうとする姿勢だ。君がその美点に忠実であるかぎり、祖国の未来は安泰だよ。
だから彼女は、愛しい人(セヴギリ)が反逆した後も、二心なく軍人としての本分を貫いてきたのだ。
初々しいふたりが、スィヒルを拘束から解き放つ。
両腕が解放されたところで半身を起こし、自身も下肢の縛を解く。
四肢の自由を取り戻したところで。
コルンが右腕を、エルギンが左腕を差しだす。
スィヒルは、両腕を差し上げる
ふたりの手を借り、歪んだ胸郭から抜けだす。
橋梁に立ち、少女が士官の顔で問う。
「スィヒル少佐、これからどうされますか?」
両脇から支え上げられた彼女は、ふたりを交互に見て、答える。
「……まだわからない。ですがわたくしは、たとえ砲煙弾雨に散ろうとも、従うべき国家が敗北に散ることを望みません。これまでも、これからもです──」
スィヒルは、ふたりの支えを辞し、みずからの足だけで橋梁に立つ。
海峡大橋(ボアズキヨプリユス)の両端、海峡をはさんで沸き立つ群衆に視線を送り。
首級を喪った愛機を見、目玉守を戴く敵機を見上げる。
「──そして、いまも言えることがあります──」
スィヒル・ハリデ少佐は、斜陽に染まる胸もとを、羽織ったコルンの上着で隠し。
灰銀髪を海峡の風にたなびかせながら、静かに宣言する。
「──この勝負、〈ヒズメトの月(アイ)〉の完敗だ。あなたたちこそが、祖国の未来を担うべき勇士(アダム)です」

統暦五九九年七月二九日夕刻、〈ナスレディン・ギア〉KX41デュルトと〈ヒズメトの月〉K40カムロヒサールの決闘を、多くの市民が目撃した。
〈ナスレディン・ギア〉の勝利は、人々を熱狂とともに再建派へむかわせる契機となる。
ヒズメト政府は約定を守り、再建派がリバティノブル市内をでるまでは手をださず、市境を超えた後に、逮捕命令を発する。
国家反逆罪に問われたスィヒルは、捕虜として再建派とともにリバティノブルを脱し、ナスレディン・パシャとの再会を果たす。
再三の交戦協定違反により、統連から告発を受けたカルドゥル・ハーフズ大尉は、逮捕後に自殺したとも、逮捕前に逃亡したとも伝えられ、情報は錯綜している。
この決闘に再建派が勝利したことを受けて。
サロノシェヒルを包囲しながら静観を続けていた、ヒズメト陸軍第二軍、トリアイナ東部方面軍指令、ハルレト・アーギャーフは、声明を発する。
いわく、エミール・ナスレディンは、祖国と国民の利益を第一に考え、行動する愛国者であり、その志が実現可能なものであると、認めざるを得ない。
統暦五九九年七月三〇日、この声明ののち、ハルレトはヒズメト政府から受けたナスレディン討伐命令を正式に拒絶し、サロノシェヒルの包囲を解いた。

それは、のちの新式(イェニ)ギヨト総和国初代大統領、エミール・ナスレディン=アタギヨトが、ギヨト解放戦争における、最初の危機を乗り切った瞬間だった。


 

  参考文献

護 雅夫『ナスレッディン・ホジャ物語―トルコの知恵ばなし』 (東洋文庫 三八)平凡社 一九六五年
竹内 和夫 勝田 茂『トルコ民話選』大学書林 一九九七年
竹内 和夫『トルコ語辞典 ポケット版』大学書林 一九八九年
大島 直政『遊牧民族の知恵―トルコの諺』(講談社現代新書)講談社 一九七九年
              福盛 貴弘『日本語‐トルコ語、トルコ語‐日本語単語集』(世界を旅する単語集シリーズ)国際語学社 二〇〇七年
小島 剛一『トルコのもう一つの顔』(中公新書)中央公論社 一九九一年
小松 香織『オスマン帝国の近代と海軍』(世界史リブレット)山川出版社 二〇〇四年
新井 政美『トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ』みすず書房 二〇〇一年
新井 政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社 二〇〇九年
トゥルグット・オザクマン(鈴木麻矢訳)(新井政美監修)『トルコ狂乱 オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争』三一書房 二〇〇八年
銀城 康子 (高松 良己挿絵)『トルコのごはん』(絵本 世界の食事)農山漁村文化協会 二〇〇八年
松谷 浩尚『イスタンブールを愛した人々―エピソードで綴る激動のトルコ』中公新書 一九九八年
宮崎 正勝『早わかり中東&イスラーム世界史』日本実業出版社 二〇〇六年
大波 篤司『図解 ヘビーアームズ』(F-Files No.017)新紀元社 二〇〇八年
クリス・マクナブ マーティン J.ドハティ (角 敦子訳)『最新コンバット・バイブル―現代戦闘技術のすべて』原書房 二〇〇八年
堀田 純司『人とロボットの秘密』講談社 二〇〇八年
この作品はフィクションです。
実在の人物、団体とは一切関係ありません。

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