小説『ナスレディン・ギア(2/3)「攻防の目玉守」』

まさかロボット戦記物を書くとは思いませんでした。

長編小説『ナスレディン・ギア』ブログ配信2回目。そそくさと読みたい方は、ダウンロード版をどうぞ。本作は史実のトルコ革命を下敷きにしているので、関連書籍を読み漁りましたが、本当に熱い時代です。ピンチの状況が実に少年漫画的。実際の所、綺麗事ではすまない面も多々あったのでしょうけれど、それでも窮地からの逆転劇は燃えるモノがありますよ。

        攻防の目玉守(ナザルルク)

                                              01

    三十年前、ギヨト再建委員会が発足した当時、ヒズメト連邦内では、ヒズメト・ギヨトの復興を標榜する復権派が主流であり、ギヨトの再興を標榜する再建派は傍流とされた。
    すがるべき栄光は、より大きな輝きが望ましい。
    トリアイナ半島周辺を経済的に支配したギヨトよりも、三つの大陸にまたがる広大な地域を政治的に支配したヒズメト・ギヨトに、より多くの人々が幻想を抱いていたのだ。
    復権派の主導により、ヒズメト内部でさまざまな改革が試みられたが、硬直化した組織内を活性化させるにはいたらない。
    疲弊した経済圏連邦は、もはや復権どころか現状維持すら困難な状況となりつつあった。
    毀(こわ)れた大樹。
    ロメリア大陸の人々は、かつて恐怖したヒズメト連邦をそう呼び、蔑んだ。
    十年前、カラル・ケローランをはじめとする再建派の青年将校たちが、ロメリア領各地で武装蜂起し、ヒズメト連邦中枢の支配に成功。
    停滞していた改革の流れが、復活の兆しを見せる。
    指導的立場を得た、ケローラン・パシャは、世界各地に残るギヨトの傍系組織を糾合し、巨大な汎ギヨト経済圏の成立を目論んだ。
    ヒズメト以上の巨大な経済圏を現出させるという彼の夢想に、多くの若者たちが命を賭したが、ロメリア大戦の敗北によって失脚。
    ヒズメト政府は親ネルギア派、親協総国派が主導権を握り、ギヨト再建委員会の中枢はトリアイナ半島へと逃れた。

    西岸を深くえぐる剣削湾(ケスコイ)ごしに、寺院(ジヤーミ)の尖塔が突きだし、ヒズメト・ギヨト旧総帥府の蒼い威容が浮かぶ。
    統暦五九九年七月二十六日。
    黒髪の少年、エルギンは、リバティノブルのロメリア側西岸、海峡をのぞ望む岸辺を歩いている。
    ロメリア大陸東端とトリアイナ半島西部にまたがる都市、リバティノブル。
    都市を縦貫する内海峡(ボアズィチ)、リバティノブル海峡は、北の内海、紫海(モルデニズ)と、南の内海、光輝海(パルラデニズ)を結節する。
    東西の陸路と南北の海路をおさえる要衝にして、ヒズメト・ギヨト経済圏連邦の首都。
    直接の戦火にさらされずとも、敗戦が首都の空気を重く湿らせていた。
    彼が住む北部のガレベ地区にも、大戦終結後に流入した難民があふれている。
    職と食を求めた無益な小競り合いは、刃傷沙汰を頻発させた。
    鬱憤を爆発させる気力のない者は、路傍で栄養価だけが取り得の配給食をかじっている。
    食べる気力さえあれば飢え死にしないだけ、世界は進歩しているのだそうだ。
    彼が歩む港湾施設内では、係留された貨物船から物資を搬入、搬出するために、多くの人と重機と人形機(ククラマキネ)が、積まれた物資にむらがっていた。
    ここはまだ、仕事がある。
    高度な人形機の操縦技術を持つエルギンは、若いながらも重宝されていた。
    時には先日のように、報酬の桁が違う、非合法な仕事が舞いこむこともある。
    エルギンは、港湾労働者相手のパン売りの少年から、円環状のパン、スミットを買う。
    まぶした胡麻が、パンの香ばしさをさらに引き立てている。
    サマンという名の少年は、人なつっこい笑顔で、ヒズメト総帥(パーディシヤー)の顔が印刷された小額紙幣を受け取る。
    「兄ちゃん、いつもありがとよ」
    スミット一個の値段は五十万アルトゥン。
    二週間前は十万アルトゥンだったので、五倍に値上がりしたことになる。
    「また高くなったんだね」
    エルギンが苦笑しながら言うと、サマン少年は神妙な顔で言う。
    「コクモツソーバがアゲドマラないから、仕方ねーよ」
    「それは、ご苦労なことだね」
    どこまで意味を理解しているのかあやしいが、事実には違いない。
    ここ最近、数千万、数億アルトゥンという、額面だけは威勢のいい金を手にすることが多くなった。
    何度か通貨の切り上げが行われていたが、インフレーションの進行が早いため、しばらく放置すれば価値は半減どころか十分の一以下になってしまう。
    先日、灰色の人形機を動かしたことで得た報酬は、当時のレートで五百億アルトゥン。
    現金ではすぐに目減りするので、同額分の希少金属を受け取っている。
    「それより兄ちゃんよ」
    パン売りの少年が声をひそめ、日焼けた顔を近づけてくる。
    彼も黒髪だったが、縮れてくすんだ黒であり、エルギンの直毛で艶のある漆黒の髪とは似て非なるものだ。
    「なんだい?」
    エルギンも顔を寄せると、年少者らしい率直な質問が飛んでくる。
    「──ぶっちゃけ、〈ギア〉ってどうなのよ?」
    「そう言われても、ぼくにはなんのことやら」
    エルギンはとぼけて見せる。
    「隠すなよ。みんな噂してるぜ。〈ヒズメトの月(アイ)〉が〈ギア〉にブッ倒されたって」
    「そんな噂は、当てにしない方がいよ」
    「旦那に聞いてこいって言われてんだよ、なんか教えろよ」
    「まあ、ぼちぼちやってるって、伝えといて」
    「そうか……まっ、これからも期待してるぜ!」
    「はあ、どうも」
    スミット売りの少年が言う〈ギア〉とは、〈ナスレディン・ギア〉の略。
    ひょっとすると、あの灰色の人形機のことを言いたいのかもしれないが、まともな自律歩行すらできないベベキに、なにができる。
    たかが、ヒズメトの英雄(カフラマン)を倒せる程度。
    相変わらず、自動機(オトマキネ)には手も足もでなかったではないか。
    どこでなにを聞いたか知らないが、はてしなく迷惑千万な噂だった。
    ここも、もう長くはいられないかもな。
    再建派の運動が成功しようと、〈ナスレディン・ギア〉が実在しようと、この国の屋台骨が揺らぎ、明日にも朽ち倒れそうな事実が、覆るとは思えなかった。
    エルギンはスミットを口にくわえたまま、青い上着の脇腹を触る。
    裏地に縫いつけられた、硬い板の感触をたしかめた。
    これまでの仕事で貯めた、全部で五枚の、希少金属板。
    それが、彼の全財産だった。
    いま、この身ひとつでリバティノブルから逃亡しても、当分は食うに困らない金額に相当する。

    スミットの、最後のひとかけらを食べ終えたころ。
    左手に、古びた曳船が、かたむいたまま陸揚げされているのが見えた。
    資源管理局に接収されるのは時間の問題だろう。
    その脇にある、三階建ての商館の扉を叩く。
    彼をで迎えたのは、意外な少女。
    「よくきたな。歓迎するぞ、エルギン」
    「ケディ。どうしてここに?」
    「所用でな。いま、子供たちの相手をしているところだ」
    小柄な少女、ケディは、黒いスカートをふわさとひるがえし、彼を奥へと案内する。
    通された部屋は、さながら小さな戦場のようだった。
    八人の幼い子供たちが、勝手気ままに声をはりあげ、駆けずりまわっている。
    皆、港湾施設で働く大人たちの子供だ。
    場所が確保できない時は、ここが託児所がわりになることもある。
    「姉ちゃん、積み木であそうぼうぜっ」
    「ダメよ、ケディちゃんは、あたしとおままごとするんだから!」
    「ケディちゃんは、エルギンのお嫁さんだ~!」
    「パズル、パズル、パズルぅ」
    足もとにむらがる子供たちに困惑しつつ、エルギンが問う。
    「どういうことなの?」
    子供たちを手際よくあしらいながら、ケディが答える。
    「会合の間、面倒を頼まれた」
    「頼まれたって、ドラシュム親方に?」
    「そうだ。エルギンがきたら、二階へ通すように言われている」
    「客になにやらせてんだ、あの人も……子守の手配ぐらいできるだろうに」
    「子細ない。このケディ・アーティケが、万障繰り合わせよう!」
    そう言って胸を張る、少女。
    ちなみに胸は、限りなく薄い。
    一方のエルギンは、彼女の言葉遣いについていけなくなっている。
    「?……シサイ? バ、バンショウ?」
    ひと通り文字の読み書きはできるが、義務教育の初等科を履修したのみ。
    読書の習慣もない彼には、難解すぎる表現だった。
    それに気づいた少女が、年上の少年に言う。
    「つまりは、ケディにお任せということだ」
    「そ、そうかい。ケディは難しい言葉をたくさん知ってるんだね」
    「なに、知識はあっても経験がともなわぬ。さして誇るべきものでもない」
    「……でもさ、そんな話し方してると、同年代の子にいじめられたりしない?」
    エルギン自身、漆黒の髪に女顔という特異な容姿が原因で、トラブルに巻きこまれた経験が幾度もある。
    問われたケディは、ゆるりと目を細めて言う。
    「──ケディをいじめる奴は、月のうちに、死ぬ」
    まるで、地獄の底から漏れ聞こえるような声音。
    エルギンの心配は、あながち的外れではなかったようだ。
    「それはまた……物騒だね。ちなみに誰が、ケディをいじめる奴に手を下すんだい?」
    冗談まじりに聞いたのだが、ケディは真顔で答える。
    「──おおむね、エルギンの仕事だ」
    「ぼくがやるの?」
    「そうだ、大いに期待している」
    大真面目なケディ。
    それがおかしくて、エルギンはからかってみたくなる。
    「それは、それは……。じゃあ、手を汚さないためにも、ぼくがケディを守ってあげないと、ね」
    団子髪を撫で、笑顔とともにそう言うと、ケディは目をしばたき、くるんと旋回。
    やれやれ、どうにか一矢報いたかな?
    「じゃ、いってくるよ」
    「……あ、ああ、ここは任せろ」
    「ケディちゃん、お顔が真っ赤~」
    「ほんとだ、カッケェ!」
    子供たちに囃されながら、頑としてこちらへ顔をむけようとしないケディを残して、エルギンはひとりで奥の階段へむかう。
    彼はむらがる子供たちを、造作もなく回避していく。
    勝手知ったる商館の二階。
    ドラシュム親方が常駐する部屋の扉。
    普段なら、遠慮会釈もなく入るところだが、いまは来客中のはず。
    ケディがいるとなると、灰色の人形機の件だろう。
    おそらくは、テケル親方だろう。
    合理的に判断してからふと、優美な肢体を持つ、女性の笑顔がよぎる。
    扉をノックしようとした手が、直前に止まった。
    まさか、そんなわけもない。
    理性的な考えとは別に、なにか熱いものが腹の底から沸きあがってくる。
    いや、いようがいまいが関係ないだろう。
    エルギンがノック寸前の姿で凝固していると、むかう扉がわずかに開く。
    「なにしてんの? さっさと入りなさいよ」
    開けたドアからそう告げたのは、黒縁眼鏡をかけた、小麦色の肌をした少女。
    焦げ茶色の髪を無造作に編んで、両脇から垂らしていた。
    襟元に刺繍の入った白いワンピースを着て、腰に両手を当て、こちらを見ている。
    黒縁の眼鏡ごしにのぞく黒い瞳が、まっすぐにエルギンを貫く。
    双眸が横に流れ、部屋の奥をしめす。
    「……はい、お邪魔します」
    通された部屋は、主の趣味を忠実に反映し、棚には各種の酒瓶がならんでいる。
    酒瓶回廊の先にあるのは、古びた重厚な机。
    腹のふくれた中年男性が、机に両脚を載せ、椅子に深く腰掛けて少年を見上げる。
    「よう、エルギン。待ってたぜ。いま、この姉ちゃんと話してたんだがよ……」
    愛想笑いを無視して、エルギンは間髪を入れずに問う。
    「ご用件は……察しがつくので、先に答えていいですか?」
    ドラシュムは、瞬時に笑みを解く。
    目を伏せ、赤く染まった鼻の下、申しわけ程度に生えた縮れ髭を揉む。
    「……言ってみな」
    「お断りします!」
    「……だろうなあ」
    納得顔のドラシュムに、かたわらに立つ眼鏡少女が異を唱える。
    「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。それで話、終わりなの?」
    「だから、さっき言ったでしょう。こいつは腕は立つが、筋金入りの頑固者(セルトキシ)だってよ」
    すでに諦めムードのドラシュムに業を煮やし、少女はエルギンに詰め寄る。
    「あれだけの人形繰りをするくせに、なんで話も聞かずに断るわけ?」
    にじり寄る、少女の瞳。
    その険悪な瞳には、見覚えがあった。
    「君、ひょっとして……」
    そう問うと、少女は眼鏡をずり下げて、彼を睨みつける。
    「あたしだ、あたし!」
    言われてみればなるほど。
    あの時は、白髪に紅玉色の瞳。
    髪も瞳も色違いだが、灰色の人形機の裡にいた、鬼の父(デヴ・ババ)の娘。
    名前は、たしか……。
    エーミアという名を告げる前に、少女はエルギンの口に細い人差し指を当てる。
    「ギュゼルよ。ここでは、そう呼んでちょうだい」
    依頼主の要望には、可能な限り応えねばならない。
    エルギンがうなずくと、ギュゼルは言う。
    「あの時は、お礼も言えなかったけど、エルギン君のおかげで助かったわ。ありがとう」
    屈託のない笑みとともに、右手を差しだす
    純朴な装束ながらも、美人(ギユゼル)の名に負けぬ容姿を備えている。
    わずかに気後れしつつ、差しだされた手を握り返す。
    さらりとした、熱い手だ。
    「恐縮です。こちらこそ依頼を完遂できず、申し訳なく存じます」
    「あなたへの依頼は、人形機を起こして歩かせることだけよ。好意でしてくれたことに、文句をつけるつもりはないわ。ぶっちゃけ、胸部の操縦区画が無事なら、手脚はどうとでもなるしね」
    心証はわるくないようなので、当然の疑念を口にしてみる。
    「そうですか。つかぬことをうかがいますが、先日お会いした時と、容姿が異なるようですが?」
    その問いに、ギュゼルは自身の胸もとに手を置いて言う。
    「あ、これね。まあ、あたしって、天から舞い降りた天使(メレク)、みたいなものだからさ」
    「天使……ですか。なるほど」
    冗談めかしてはいるが、灰色の人形機の操縦席で見せた姿は、まさしくそんな印象を受けた。
    「あたしの本名は、エーミア=クラバート。こちら風に言うと、ギュゼル・エーミア=クラバートかな? ギヨト再建委員会、リバティノブル支部の顧問。エルギン君もご存じの、テケル親方やドラシュム親方が統べる人形機組合だけじゃなく、各種組合(センディカ)の取りまとめ役もやってるわ。実質的には、リバティノブルにおける再建派の指導者かもね」
    クラバートなる姓を名乗るあたり、彼女がこの国の人間でないのは明白だ。
    この国で姓を持ち、公的に使用しているのは、ヒズメトの総帥(パーディシヤー)一族ぐらいのもの。
    異国の年若い少女が、地下組織の指導者をしている、というだけでも十分に意外ではあるが、それだけでは説明のつかないことが多すぎる。
    納得しきれない表情のエルギンに、ドラシュムが補足する。
    「その姉ちゃんは、再建派の本部から派遣された人間でな。俺やリバティノブルのお偉いさん方も、いまの説明以上のことは知らねえんだよ」
    ここから先は、おいそれとは知ることができない領域というわけか。
    「わかりました。ご説明、ありがとうございます」
    「いいかしら? さてと、あたしのことは置いといて、だ。ここは、盗聴の心配はないそうだから、率直に言うわ。エルギン君、あなたにギヨト再建委員会への参加をお願いしたいの」
    「ですから、それは……」
    「最後までお聞きなさい、エルギン・トーゴ君」
    ギュゼルは声を荒げこそしなかったが、冷めた口調に有無を言わせぬ気迫がこもっている。
    ドラシュムが、ぽつりと言う。
    「おふたりさんよ。とりあえず、座って話しましょうや」
    言われてみれば、ふたりとも突っ立ったままだった。
    どちらからともなく、応接用の長椅子にむかい合って、座る。
    ドラシュムが立ち、部屋の扉を開けて、叫ぶ。
    「うぉい、嬢ちゃん。紅茶(チヤイ)を三つ、頼むわ!」
    階下から「了解した」というケディの声。
    親方は長期戦の準備を済ませると、また奥の椅子にだらしなく腰掛けた。
    このままでは解放してもらえそうにない。
    「……わかりました、うかがいましょう」
    「ありがとう。では……君も知っての通り、この国、ヒズメト・ギヨト経済圏連邦は解体の危機にあるわ。昨年十一月の、ロンボス休戦協定受諾で、ロメリア大戦の敗北が確定してから、その勢いは加速してる。ヒズメト政府は協総国側との戦後処理に入っているけど、ひどいものよ。ロメリア側の大半を失っただけじゃなく、トリアイナ半島側も、現在占領されている東西の三分の一は、そのまま協総国側に割譲されるわ。その上、リバティノブル海峡の通行権や連邦の財政管理権も、協総国側へ委譲されるそうよ。ヒズメト政府の連中は、ネルギアにおもねれば、国体を維持できると思いこんでるようだけど、残った領土を取りあげられるのも、時間の問題でしょうね」
    エルギンは冷たく言い放つ。
    「そうですか。それがぼくに、なにか?」
    戦後処理の話ははじめて聞く。
    だが、過酷ではあるが、意外というほどではない。
    「まるっきり、他人事って感じね」
    「故郷を失っても生きられるってことを、戦時中に学びましたから」
    「君の経歴については、調査済みよ。あなた、戦災孤児だそうね。その後、民間人としてロメリア戦線の後方支援活動に従事。人形機の操縦は、そこで覚えたのね」
    「母を戦争で亡くしまして、収入を得るために覚えました」
    「そうらしいわね。お悔やみ申し上げるわ。エルギン君の表の仕事は、兵站部で物資の積み卸し……ということになってるけど、裏では色々やってたみたいね」
    「ほんの、小遣い稼ぎです」
    「その、裏の仕事の中で、人形機による賭け試合、人形闘技(ククラギユレシユ)の繰者もやってたそうね。作業用とは言え、有人の人形機同士が殴る、蹴るの暴行……面白そうだけど、これは命がけの仕事よね」
    エルギンは表情こそ変えなかったが、驚いていた。
    ドラシュムにも話していない過去を、どこで調べたのだろうか。
    「その話は、どちらで……」
    「おう、それなら俺から姉ちゃんに話したぜ。まずかったか?」
    机に両足を投げだしたドラシュムが、軽い調子で答えた。
    「……ご存じだったんですか?」
    「まあ、な。お前さんの腕なら、やっててもおかしくないと思って、調べさせたのさ」
    相変わらず、この人は油断がならない。
    親方の弁を、ギュゼルが引き継ぐ。
    「戦時中、黒い仮面を被った、経歴不明の人形繰り、スィヤフってのが、人形闘技で、圧倒的な勝率を誇っていたそうね。記録を見せてもらったけど、戦い方がエルギン君とそっくりなのよね。あたしも、あなたがスィヤフ君だと思う」
    少女の言葉が、少年の脳裏に、黒い仮面の下で見た、熱い情景を呼び覚ます。
    それは、天井に輝く一閃の光芒。
    戦場の鬱憤が熱狂に転化した観衆の叫喚。
    肉薄する、対戦繰者の悪相、悪罵。
    軋み、潰れ、破断させるためだけの人形機。
    闘争に満ちあふれた日々が、血は血で洗い落とせないことを教えてくれた。
    そこまで調べられたとなると、無理に隠す必要もない。
    「仕事のひとつとして請け負っただけです。ギュゼルさんこそ、人形繰りはどこで覚えたんですか? あのベベキを歩かせることができるだけでも、素人じゃないでしょう?」
    問われたギュゼルは、ふふんと鼻で笑って答えた。
    「あたしはゲームで覚えたの。ゲーム感覚だと、つい無茶振りしちゃうのが難点ね」
    「ゲーム……ですか。操縦訓練機みたいなものですか?」
    「いいえ、ちょいと違うわ。そういうのがある場所で育ったのよ。話を戻すけど、新型機とあなたの技術が合わされば、正規軍にも通じることは、このあいだの件で証明されたわ。ギヨト再建委員会は、トリアイナ半島でヒズメト連邦にかわる新政府の樹立を目標としています。あなたの力が、新政府樹立のためには必要なの。協力してくれないかしら?」
    ギュゼルは、快活な笑みとともに問いかけた。
    エルギンは、冷徹な沈黙とともに答える。
    「お断りします」
    「──再建派の同志になる気はない、と?」
    「なる気はまったく、ありません。だいたい、あなた方は……いや、もう結構です。それだけでしたら、ぼくはこれで……」
    ──新政府樹立なんて威勢のいいことを言っても、現実にはトリアイナで孤立しているじゃないですか。
    後半を省略して立ち去ろうとする少年を、少女が引きとめる。
    「お待ちなさい。なら、仕事を依頼させて。それならいいでしょ?」
    「仕事? また、あのベベキを繰れと?」
    「そうしてもらいたいところだけど、部外者にあの機体は任せられないわ。そのかわり……」
    ギュゼルは言葉を継ぐ前に一呼吸し、ドラシュムを見る。
    親方は両手を頭の後ろに組んで、窓外の海峡を渡る船をながめていたが、彼女の視線を受けて。
    「明日の心配は、明日すりゃいいさ。言うだけ言ってみたらどうです?」
    ドラシュムの言葉を受けて、ギュゼルが切りだす。
    「そうね。じゃ、あらためて言うわ。エルギン君、これからある人物に会って、新型機について……そう、あなたの言うベベキについて説明して欲しいのよ」
    「ある人物と言うと?」
    「……それを言うには、依頼を受けてもらわないと」
    「親方の了承があるなら、お受けしますよ」
    「俺は止めろたあ、言わねえぜ」
    親方は、海峡をながめたまま言い捨てる。
    これでも昔は、名うての人形繰りだったと言う。
    いまは人形機組合の元締めとして、辣腕をふるっている。
    不真面目な酒気帯び人間に見えても、決して愚物ではない。
    酒は嫌いだが、ドラシュムにはリバティノブルへきてから世話になっているし、手腕も人間性も評価している。
    「わかりました。では、お受けします」
    「よろしい。じゃ、ここから先は正式な依頼よ──」
    ギュゼルは声をひそめ、顔を近づける。
    秀麗な顔立ちが、眼前に迫った。
    薄紅色の唇が、ささやく。
    「──エルギン君に接触してもらいたいのはね、ヒズメト陸軍の士官候補生なの」
    「?……士官と言うと、軍を指揮する人ですか?」
    「そう。兵を指揮する上級軍人が士官、ね。その人は本日、士官養成課程を修了するのだけれど、再建派へ転向してくれることになっててね。人形闘機(サヴァシユ・ククラマキネ)、SKMの運用を任せたいわけ」
    「その方に、あのベベキの運用法を説明すればいいんですね」
    「そういうこと。士官候補生と合流したら、一緒にベベキのある場所へ来て」
    「修理したんですか?」
    「あの時は不完全な状態だったけど、改修はもうすぐ終わるわ。エルギン君の実戦経験を、士官に引き継いでもらうと考えて」
    「引き継ぎを済ませればいいんですね」
    「そう。後は、ご自由にどうぞ」
    依頼として、筋は通っている。
    エルギンの希望も最低限、守られている。
    そう判断し、条件つきで依頼を受諾。
    ケディの持ってきてくれた紅茶──エルギンの分は、ちゃんと林檎紅茶(エルマチヤイ)だった──を飲みながら、ふたりは詳細な打合せをはじめる。
    ドラシュム親方が特大の欠伸をして、悲しみとは無縁の涙をにじませた。

    一時間後、エルギン、ギュゼル、ドラシュムの三人は、商館の一階へ降りてくる。
    相変わらず、一階は子供たちの喧噪に満ちていた。
    焼きたてのバクラヴァ菓子が、甘く香ばしい匂いを振りまいている。
    数人の子供たちがむらがるテーブルの前で、ケディが立ちあがった。
    「エルギン、訊ねたい」
    「なんだい、ケディ」
    エルギンが問うと、ケディはテーブルの上をしめす。
    それは知育用の玩具。
    切り分けられた、極彩色の欠片を組み合わせるパズルだった。
    「ここに足りない欠片がある。知らないか?」
    「これは……」
    絶句するエルギン。
    それはあまりにも、残酷な玩具。
    ギュゼルも、沈痛な表情でパズルを見つめる。
    ケディは意味がわからないらしく、ぽかんとしている。
    背後でドラシュム親方が戸棚をあさり、取りだした袋をエルギンに放った。
    「んなモン、どっから引っぱりだしてきたんだ? ほらよ、残りモンだ」
    ぱしゃり。
    虚ろな表情で、黒髪の少年が受け取る。
    「おっしゃ、いただき!」
    「あー、ずるーい!」
    子供たちがエルギンの手から、欠片の入った袋を強引に奪う。
    ワイワイ騒ぎながら、袋の中身を足して、欠片を嵌めこんでいく。
    立ちつくしていたエルギンが不意に、散らばった朱い欠片をひとつ、取りあげる。
    あまりにも、鋭利な手腕。
    子供たちは、頭上から欠片を奪われたことに、気づかない。
    やがて、一片を除いてパズルは完成する。
    「あれ? 足りねーじゃん」
    「いっこ、いっこ、ないよー」
    最後の欠片が見つからず、子供たちがウロチョロと探し廻る中。
    エルギンは、パズルを睥睨する。
    それはこの国、ヒズメト・ギヨト経済圏連邦の領土を、州ごとに分解したものだった。
    十年ほど昔のものだろうか?
    首都リバティノブルをはさむ、西のロメリア大陸と、東のトリアイナ半島。
    この頃はまだ、版図を縮小しつつも、ロメリア側にも広大な領土を有していた。
    ロメリア大戦の敗北により、現在はここ、リバティノブル州をのぞく、ロメリア大陸側の領土すべてを失っている。
    「エルギン、ケディはなにか粗相をしたか?」
    そう問う黒服の少女へ、エルギンは寂しそうに微笑み。
    最後の朱い欠片を、パズルに嵌めた。
    それは、首都リバティノブルの西、四〇〇キロメトレ。
    南を光輝海に面したロメリア東部の一角。
    峻烈なる輝きに照らされた、ガリトニア州。
    記された州都の名は、テドーニク。
    現在は隣国グレシア総国に占領され、カテドニカと名を変えたその都市こそが、エルギンが母親とともに喪失した故郷。
    少年の、心の欠片だった。

                                              02

    乾いた陽光が、幼いエルギンの黒髪を、容赦なく刺し続ける。
    握りしめた母の手は冷たく、細すぎた。
    右手に広がる光輝海(パルラデニズ)は、深く、蒼く、静かに波を寄せては返す。
    左手の斜面にならんでいた白壁の家はとぎれ、まばらな緑の起伏のみが続く。
    時おり、家の影から垣間見えた、グレシア系住民の憎しみに満ちた視線も、ここにはもう届かない。
    そんな気安さが、大蛇のように連なる難民たちの足を、わずかに軽くしていた。
    統暦五九二年八月十一日。
    ガリトニア州の州都、テドーニクが陥落して三日。
    エルギンと彼の母ユゼレは、わずかな手荷物のみで、ガリトニア州から隣接するメロキア州を目指す、難民の列に加わっている。
    ユゼレは、テドーニク海岸沿いにあるヒズメト陸軍基地の兵士を目当てにした小さな酒場を営み、女手ひとつでエルギンを育てていた。
    父親が誰かは知らない。
    旭陽(キヨルンヤ)という、東の小国の人間であるという噂を、人づて聞いたのみ。
    女性的な容姿はともかく、光沢のある癖のない黒髪が、金髪碧眼の母から受け継いだものでないことは明白だった。
    引かれていたはずの母の手を、いつしかエルギンが引くようになっている。
    その手が力を失った時、彼は素早く母を抱きとめる。
    「お母さん……」
    もう何度目か、わからない。
    頽(くずお)れかけた母を、エルギンは支えた。
    体が弱い母にとって、この脱出行は過酷すぎる。
    「足は痛くないかい、トーゴ」
    それでも彼女は、母親として息子の身を案じる。
    「ぼくは平気。お母さんこそ、がんばって」
    「ああ、そうだね。トーゴは強い子だよ」
    よろめきながらもユゼレはふたたび歩みだす。
    意外にも、その足どりは力強い。
    「平気かね、君たち」
    斜め前方をゆく運搬車の持ち主が、声をかけてくる。
    昨晩、難民の列に合流した、テドーニクで商店を経営していたという、カルドゥルと名乗る商店主。
    円筒形で紫色のギヨト帽を被り、左右に張りだした口髭を持つ、愛想のいい中年男性だ。
    エルギンが答える前に、母親が言う。
    「ええ、お気になさらず」
    カルドゥルは、ギヨト帽の縁をつまみ、ずるりと一回転させて言う。
    「さっきも言ったが、なんなら荷台で休んだらどうです?」
    「ありがとうございます。でも、お気遣いなく」
    「そうですか。辛いようなら、いつでも言って下さい」
    ユゼレはそれで、商店主との会話を打ち切った。
    エルギンは、いっそ乗せてもらえばいいのにと思ったが、母親は頑なに申し出を受けようとしない。
    細長い荷台には物資が満載され、電動機が悲鳴によく似た唸りを上げている。
    商店の品物を、積めるだけ積んだそうだ。
    運転席にも物資が詰め込まれているため、運転手以外の乗客はいない。
    商店主をはじめてとする店員数人が、運搬車の脇を、これまた重そうな背嚢を背負って歩いている。
    ガリトニア州と隣接する、東のメロキア州の境までは後半日。
    メロキア州はまだ、ヒズメトの勢力圏。
    追撃するグレシア軍よりも早く、そこまで到達しなければならない。
    かつてはヒズメト連邦に所属していたグレシアも、いまはグレシア総国としてネルギアを盟主とする協総国陣営に加わっていた。
    グレシアは海運に長けており、この国を失ったことは、すなわちヒズメトの海事全般が壊滅的な打撃を受けたことを意味している。
    旧宗主国からの独立を果たしたグレシアは、ロメリア大戦によって、ガリトニア州をはじめとするロメリア東部のヒズメト領へ、次々と侵攻していた。
    彼らの目標はリバティノブルを占領すること。
    かつて自分たちが建設した都市を、わが手に取り戻そうと躍起になっている。
    そうなれば、トリアイナ側へ逃げなければならない。
    さらにトリアイナも占領されたら、一体どこへ逃げればいいのだろうか?
    テドーニクに住んでいたころは、グレシア人の子供たちとも遊んでいた。
    彼らも大人になれば、自分たちを追い出そうと攻めてくるのだろうか?
    あるいは自分が銃を取り、彼らを追い出そうと攻めるのだろうか?
    どちらも嫌だ。
    殺したくも、殺されたくもない。
    エルギンのささやかな、だが戦場では千金に値する願いへ、直後に鉄槌がくだる。
    前方の難民の列がざわついたかと思うと。
    その一部が、海にむかって跳ね飛ぶ。
    冗談のように人々が宙を舞う。
    爆発はなかった。
    三両の戦闘車両が、真横から難民の列に突っこんだのだ。
    敵対する、グレシア軍のものなら、まだ諦めもつく。
    だがそれは、三叉の槍(トリアイナ)を形象した印をつけた、ヒズメト軍のガザール戦車だった。
    手脚をもがれた糞虫(スカラベ)のごとき、濃緑の車体。
    六つの動輪と、角のような主砲が一門。
    難民の叫喚など意に介さず、対戦機砲がプラズマ光を吐きだす。
    そのたびに、数瞬おくれの轟音と衝撃が肌に貼りつく。
    なにかを攻撃しているようだ。
    「奥さん、坊ちゃん、こっちへ隠れるんだ!」
    運搬車を路傍に寄せたカルドゥルが、エルギンたちを呼ぶ。
    統合四界連合の交戦協定により、無抵抗な民間人への攻撃は厳禁とされている。
    軍事行動は逐一記録、精査されているため、重大な協定違反が発覚すれば、最悪は確定した勝利を無効化される場合もある。
    当時のエルギンは、そんな協定のことは知らなかったが、戦う意志のないことを明確にすれば、不用意に攻撃されないことは常識であった。
    「ほら、母さん、あそこへ隠れていれば安全だよ」
    「……いえ、でも……」
    母は、エルギンが引く手にあらがった。
    なぜそうしたのかはわからない。
    だが、それが正しい判断だったのだ。
    強引に母親を運搬車の陰へ引っぱりこんだエルギンは、あらためて周囲の様子をうかがう。
    カルドゥルは、無骨な笑みを見せたが、彼と一緒にいた男たちは、厳しい表情で四囲を警戒している。
    運搬車の下からのぞくと、三両の戦車のうち、二両はすでに煙を噴いて沈黙している。
    残る一両が、こちらに対戦機砲をむけていた。
    話が違う!
    そう思ったつぎの瞬間、背後からなにかが飛びだした。
    現れたのは、青い半球状の外殻を持つ戦闘車両。
    両脇に機関砲を据え、中央に据えられた対戦機砲を装甲車にむけている。
    それが、グレシア軍の所有する、ネルギア製の戦兜(ヘルム)と呼ばれる自動機であると知ったのは、後になってからのこと。
    戦後にエルギンが対峙することとなる白い自動機よりも、ふたまわりほど大きい。
    青い自動機は横滑りしながら、戦車が狙いをつけるより早く、対戦機砲からプラズマ光を閃かせる。
    プラズマの膨張圧による衝撃波が、全身に打ちつけられた。
    不意に、視界が暗転。
    耳もとで荒い息遣いが聞こえる。
    鼻をつく、甘い匂い。
    かたわらにいた母が、エルギンに覆い被さったのだ。
    「大丈夫、怖くないから、トーゴ」
    かすれる声で、彼を安心させようとする母。
    わずかな時間だったかもしれない。
    それでもエルギンは、母の身を案じることを失念した自分を恥じた。
    母の腕の中から首だけだして、周囲を確認する。
    どうやら、戦車はすべて撃破されたようだ。
    「……第三分隊、一五〇右三分の一、敵戦兜へ速射」
    母子のそばでしゃがみ込んでいたカルドゥルが、自動機を睨みながら、つぶやいた。
    その言葉に応じるように。
    自動機の背後、道路脇の茂みから、人型の巨人が二機、起立する。
    対戦機砲を装備した、ヒズメト軍の人形闘機、K38ヒサール。
    巨砲は両手持ちで、右側面に細長い三角形の盾がついている。
    二機のSKMは、起立と同時に対戦機砲を構え、撃つ。
    ふたつのプラズマ光が瞬く直前に、後背を突かれた青い戦兜は電動機を唸らせて、全速で後退。
    二発の硬土弾は、戦兜の上部装甲をかすめて、エルギンたちが隠れている運搬車の先、三〇メトレほどの地面に着弾。
    巻き上げられた土砂が、盛大に路傍へ待避した難民たちへ降りそそぐ。
    青い戦兜は後退しながら一八〇度旋回し、主砲をSKMにむけ。
    「ほら、坊ちゃん、出番だぜ!」
    毛深い腕が、エルギンを引きずり上げた。
    「トーゴ! あなた、息子をどうするつもり!」
    母親の叫びを無視して、剛腕の持ち主、カルドゥルは少年の襟首を軽々と掲げ、運搬車にむけて放る。
    不意の浮揚感と高まった視界に、運搬車の外装が、空気の抜けた風船のように萎んで外れ、そこから金属製の物体が出現するさまが見えた。
    運搬車の荷台の上にいた男が、宙を舞う子供を受け取る。
    人は、死の危険にさらされた時、かならずしも死を予感しないし、恐怖もしない。
    エルギンは、異常なまでの冷めた心で、周囲を観察する。
    運搬車の荷台から出現したのは、ヒズメト軍の持っている巨砲と同じもの。
    人形闘機用の対戦機砲だ。
    違うのは、その射手である人形機が、軍用の大型機ではなく、作業用に用いられる、三メトレほどの小型機であること。
    エルギンを受け取った男は、少年を小脇に抱えながら人形機の操作桿に飛びつくと、腕部を操作して青い戦兜の背後を狙う。
    荷台に固定された対戦機砲は、人形機の腕によってわずかに角度を変える。
    天井に青い空、左手に蒼い光輝海、右手にガリトニア東部の丘陵。
    青い戦兜は一機のSKMを撃破し、回避しながら砲撃を続けるもう一機のSKMを狙う。
    SKMが対戦機砲を放つ直前、戦兜はすでに真横への回避運動を開始している。
    その先へ、運搬車の対戦機砲は狙いをつけていた。
    「喰らっときな!」
    砲手の男が、酒臭い息をまぜてつぶやく。
    エルギンは反射的に、両手で耳を塞ぎ、目をきつく閉じた。
    まぶたを貫通して閃光が疾り、衝撃が対戦機砲を大きく跳ね上げる。
    数秒後。
    「チッ、狂ってやがる……」
    舌打ちとともに、砲手の男が毒づく。
    なにが狂っていたのかは、いまだにわからない。
    薄目を開けて見ると、戦兜の左側面が横一文字にえぐれていたが、大破はしていない。
    どうやら砲撃は失敗したようだ。
    健在だったもう一機のSKMは、すでに撃破され、崩れ落ちていた。
    「クソッ、撤退だ、装備は放棄!」
    運搬車の脇で、カルドゥルが叫ぶ。
    周囲にいた男たちは、いつの間にか小銃を手にしており、蒼い戦兜とは反対側、装甲車が大破した方向へ駆けだしている。
    「んぎぃおおおおお!」
    「のぐうんあっ!」
    何人かが、絶叫を上げて地面に叩きつけられた。
    遅れて断続的な発砲音。
    振り返ると、蒼い戦兜の両脇から腕のようなものがのび、その先に据えられた機関砲が、白煙を上げている。
    その時は、てっきり撃ち殺されたと思ったが、自動機は極力人を殺さない。
    威力を弱めた硬土弾により、昏倒させられたのだろう。
    視界が突如、高まった。
    荷台の上で対戦機砲を撃った男が、エルギンを蒼い戦兜にむけて掲げたのだ。
    肉叢(ベデン)の盾、そう呼ばれていたらしい。
    非武装の民間人を盾にして、自動機の攻撃から身を守る。
    カルドゥルがこのために、エルギンたちを呼び寄せたことに、ようやく気づいた。
    眼下では、カルドゥルが母、ユゼレを盾にしている。
    母親はぐったりとうつむき、動かない。
    「母さん!」
    肉親の窮状が、ようやくエルギンに自身の窮状を認識させる。
    「はっ、放せ、母さんを放せ!」
    男に抱え上げられながら、少年はあらん限りに身をよじり、手足をばたつかせた。
    商店主を自称した男は、動かぬ母を引きずっていたが、やがて諦めたのか、盾を放りだして駆けだす。
    すかさず、蒼い戦兜は機関砲を放つが、かろうじて荷台の陰に転がりこむのが見える。
    「母さん、大丈夫? 母さん!」
    「なろっ、大人し……ぐぶっ」
    泣き叫びながら、滅法に暴れまくるエルギンの右足が、硬いもの──酒臭い男の顔面に痛撃を加える。
    少年を拘束していた腕の力が抜け、景色が揺らぐ。
    それが、エルギン自身の揺らぎだと認識するより早く、彼は男の胸板を蹴って、荷台に転がり落ちた。
    「おうぬがぁあああああ!」
    すかさず、戦兜の機関砲が、弱装弾の礫を乱打する。
    男は吐瀉物を撒き散らしながら、荷台から転落した。
    酒臭い臭気が、エルギンの鼻を不快に撫でる。
    「トーゴ、トーゴはどこ!」
    荷台の下で、母親がわが子を求めて地べたを這いずっていた。
    目が見えないのか、耳が聞こえないのか。
    「お母さん、ここだよ! お母さん!」
    「どこ、返事をして、トーゴ!」
    エルギンの叫びが届かない。
    そして、獲物を狩りつくした青い戦兜が旋回し、こちらに対戦機砲をむけた。
    いまならわかる。
    それは、ただ、新たな敵を求めて移動を開始しただけだ。
    こちらがなにもしなければ、自動機は走り去っただろう。
    だがその時のエルギンには、母親が戦兜に狙われているように見えた。
    怒りもある。
    敵である戦兜にも、味方のはずのヒズメト軍にも、戦闘に巻きこんだ男たちにも。
    なにより、されるがままの自分自身にも。
    かたわらの対戦機砲を見る。
    これだけの犠牲をだして、なぜ外した?
    せめて、撃破して見せろよ。
    ぼくならもっと、うまくやれた。
    やれるに決まっている。
    やらなきゃ、やられる!
    人形機の操縦なら、家の裏手の軍事基地でも、遊び場にしている港湾施設でも見慣れていた。
    操作法は、わかる。
    発砲させるぐらい、造作もない。
    彼は立ちあがると、人形機の右腕を動かすための操作桿に飛びつく。
    身長設定がまるで合っていなかったが、構わない。
    右腕の動きを同調させ、対戦機砲用の銃把を握り、発砲釦(デユーメ)を押そうとして。
    黒髪の少年は見た。
    青い自動機の機関砲が、こちらにむけられているのを。
    民間人でも、敵対行為を見せれば発砲対象となる。
    子供でも知っている理屈を、彼は失念していた。
    とっさに操作桿から手を放したが、遅い。
    防護盾すらない、むきだしの繰者に、プラズマ光とともに硬土弾が放たれた。
    ズググググ。
    数十発の硬土弾が着弾した音は、低く、短く、軋むような音だった。
    「!……」
    無意識に瞑(つむ)られた視界が開けると、機関砲と少年の間に立ち塞がった何者かが、硬土弾に打ちのめされ、白煙を上げていた。
    いつ気づいたのか?
    いつ荷台に登ったのか?
    「……さん?」
    その人物は、耳朶の先から血をしたたらせ、か細く開けられた両目から落涙し、右手を差し上げながら。
    乾いた唇が、衣擦れのようにかすかな、上ずった声音を紡ぐ。
    「エルギン……モウ、ダイジョ、ブ、ヨ。カア、サン、ガ、マモッテ、アゲル……カラ」
    彼が見たのは、変わり果てた肉叢の盾。
    彼が聞いたのは、母、ユゼレ・ゼフラの最後の言葉だった。

                                              03

    それとも、露骨すぎる罠なのか?
    エルギンは自問する。
    待ち合わせの場所に現れたのは、ヒズメト陸軍の将校服に身を包んだ、若い女性。
    頭頂に飾り房、前面に階級章のついた、赤い円筒形のギヨト帽をかぶり、立折襟と肩章のついた灰緑色の上着に、丈の短いスカート、黒いロングブーツという出で立ち。
    腰に拳銃を吊り、背嚢を背負っている。
    伸縮性のある生地は、軍服の上からでも張り出す胸を浮き立たせていた。
    女性士官は言う。
    「その……あまり見ないでもらえませんか?」
    古びた駅舎の隅で、コルン・イマード少尉心得は、両腕を抱いて身をよじらせた。
    その仕草が、規格外に張りだした胸と尻をさらに強調している。
    凛々しい出で立ちで恥じらうさまは、灰色の人形闘機でともに戦ったあの日よりも、はるかに艶めかしい。
    「いや、その、スイマセン」
    まじまじと固定されていた視線をそらせつつも、エルギンの思考は空転を続けている。
    まったくもって、想定外の相手だった。
    あるいは無意識に、想定外にしようとしていた相手だったかもしれない。
    ギュゼルに指定された、士官との待ち合わせ場所は、ロメリア側にあるドラシュム親方の商館から路面電車(トラム)を乗り継いで一時間ほど。
    海峡大橋(ボアズキヨプリユス)を渡ったのちに南下した、トリアイナ側の南東岸にあるスルトパシャ駅。
    トリアイナ半島を横断する、ジムラット鉄道の終着駅は、水上に打たれた杭を土台の上に建設されたため、三方を海に囲まれた特異な立地にある。
    駅舎には、貨客車から降りてきた、南部戦線からの避難民や帰還兵でにぎわうほかに、軍用列車から降りてきた、新品の軍服に身を包んだ、新品の士官が多く見られた。
    トリアイナ側のリバティノブル市郊外にある陸軍基地で行われた、士官学校の卒業式からの帰りだそうだ。
    落ち合う場所として指定された場所は、駅舎の隅にある柱と柱の間。
    目印は上半分が破れた、ヒズメト陸軍志願兵募集のチラシ。
    人の流れから外れた、死角となる場所のはずだった。
    だが、エルギンは気づいていた。
    妙に殺気立った軍服の青年たちが、まばらに周囲を取り囲んでいることを。
    官憲のたぐいではない。
    一様に、真新しい将校服を着ているところを見ると、コルンの同輩らしい。
    コルンはそれに、まったく気づかない様子で告げる。
    「その、まさかエルギンがくるなんて、思ってなくて……」
    「ぼくもまさか、その、コルンが士官候補生だったなんて……」
    「わたし、大学生なんですけど……」
    「大学に入ると、士官の資格がついてくるんでしたね……」
    「そうなんです……」
    「そうなんですか……」
    気まずいわけではない、妙な沈黙。
    それを、コルンが破る。
    「こ、この格好では目立つので、ちょっと着替えてきますね」
    「は、はい、じゃ、じゃあ待ってます」
    いそいそと場を離れるコルンと、見送るエルギン。
    彼女が柱の角を左折して、視界から消失した直後。
    距離を置いてとりまいていた軍服男子たちが、近づいてくる。
    一同を代表して、彫りの深い顔立ちの青年が歩みでる。
    エルギンの方が年若く見えたが、実際はさほど変わらないはずだ。
    青年将校はたっぷりと時間をかけて、頭の先から足の先までを睨めつけてから問う。
    「君、イマード少尉心得(アステグメン)とは、どのような関係だ?」
    「え……?」
    「どうなんだ!」
    青年は、必死に冷静さを装っているが、目が血走っている。
    陸軍士官が、束になってエルギンを逮捕しにくるはずもないと思っていたが、その質問は想定外だ。
    どういう意図なのかとしばし考えて、気づく。
    つまりこの連中は、コルンに憧れている男子たちなのだ。
    彼女の器量からすれば、想いを寄せる人間が十二個単位(デユズィネ)でいても不思議はない。
    なぜか、無性に不愉快だった。
    名乗りもしない相手へ、真面目に対応するのも面倒だ。
    エルギンは意図的に目を泳がせた。
    「ドーモ、ドーモ」と言いながら、水飲み鳥のように、断続的なお辞儀をして見せる。
    外国人が、慣れない言葉を慎重に使っている、といった感じで告げる。
    「ワタシ、は、旭陽(キヨルンヤ)からきた留学生、です。こないだ、コルンさんに、道で迷っている、ところを、案内して、もらいました。これからその、お礼です、ドーモ」
    旭陽とは東洋の端にある、小国の名だ。
    北方の大国メリヤとの戦争に勝利したことで知られている。
    この喋り方は以前、本物の旭陽人に同郷と間違われた時に覚えた。
    意表をつかれた青年将校たちが、目に見えて狼狽する。
    「そ、そうだったのか。い、いやいや、わるかったな」
    「ドーモ。ワタシ、の、言葉、ちゃんと通じて、ますか?」
    「あ、ああ、とてもわかりやすいよ」
    「とてもありがとうございます(チヨク・テシユクキユル・エデリム)。コルンさんが、待っているので、さようなら、ドーモ」
    「いや、君、その……」
    ボロがでないうちに、青年将校団の包囲網を突破。
    コルンが消えた角まで歩くと、足音を殺して駆けだす。
    彼女が戻ってくるまで、どこかに身を隠さなければ。
    そう考えながら構内を進む。
    振りむかずとも、気配で青年将校団が追跡を開始しているのはわかっていた。
    エルギンは追跡者の立場を想定し、追っ手の死角になりつつ、逃走ルートを特定しづらい地点を探す。
    角を曲がった先がすぐ十字路になった地点の隅に、目立たない隙間を見つける。
    追跡方向から見ると、ただの継ぎ目に見えるのが、おあつらえむきだ。
    まばらな視線が、こちらへ意識をむけていない瞬間を狙って。
    細く開けた書物のページに、黒いしおりを差し入れるように、隙間へ四肢を差し入れる。
    隙間の先は、入口よりも広がっているようだ。
    エルギンはあせった。
    追っ手が角を曲がって、駆けてくる足音にではなく、隙間の先に、先客がいたことに。
    コルンが着替えをしていたのだ。
    「きゃっ……」
    エルギンは、叫ぼうとする彼女の口を右手でおさえ、隙間から死角となる位置へ体を押しつける。
    密着する、弾むような柔肌の感触。
    右手の平を、熱い吐息が加熱する。
    丸く膨張したふくらみが、左手からあふれそうだ。
    聞こえてくる鼓動は、自身のものか、彼女のものか。
    隙間の外で、青年将校たちがわめいている。
    コルンも気づいたのか、身をくねらせるのを止めた。
    「消えたぞ、どっちへいった?」
    「わからん。あの動きは民間人じゃないぞ」
    「間諜(ジヤースス)か?」
    「可能性はあるな。イマード少尉心得が取りこまれた可能性がある」
    「なんだよあの女、男には興味ないとか言いやがったくせに」
    「上に報告するか?」
    「待て、もう少し調べてからだ」
    「わかった、手分けして探そう」
    青年たちの足音と気配が遠ざかるのを確認して、エルギンはコルンから離れる。
    いきなり束縛してわるかった。
    そう、謝罪すべきタイミングで、彼は言葉に詰まった。
    コルンが、薄暗い隙間の片隅で──おそらくは、顔を真っ赤にして──肌の大半をエルギンの眼前にさらしていたからだ。
    鍛えられた、健康的な肉体であると同時に、体のラインが顔から胸、胸から腰、腰から腿へ優美な筆致を描きいている。
    若草色の下着は定位置を外れ、隠すべき部位をわずかながら露出させていた。
    さっきまで、そんな彼女と息がかかる距離に身を寄せ合っていたのだ
    あまりにも大胆すぎる自身の行為に、エルギンはめまいがしそうだった。
    コルンが、乱れた栗色の髪を手櫛でなでつけながら言う。
    「その、エルギン……状況は、だいたい把握したのですが、その……」
    「は、はい……」
    コルンが、ブラジャーの肩紐をかけ直しながら言う。
    「トイレが満員だったので、ここで着替えていたのですが、その……」
    「は、はい……」
    コルンが、パンツの裾を引き上げながら言う。
    「その……あまり見ないでもらえませんか?」
    「は、はい……い、いや、緊急事態だったもので……ス、スンマセン、続けて下さい!」
    遅ればせながら、謝罪とともに一八〇度回頭し、コルンを視界から消した。
    脳裏に焼きついた媚態を振り払いながら、外の様子をうかがうが、集中できない。
    背後から、着替えを再開したコルンが立てる衣擦れの音が、さらに心をかき乱す。
    ほんのりと、汗と香料の匂いが漂ってくる。
    頬が熱く、動悸が高鳴り続けた。
    隙間から差しこむ光が、手ににじむ汗を、白砂のように光らせる。
    スィヒルの人形闘機と対峙した時も、これほど緊張はしていない。
    ぼくは一体、どうしちまったんだ?
    「あの……もう、終わりました」
    その言葉に振りむくと、コルンははじめて合った時と同じ、つなぎの作業着へ着替え終わり、背嚢を背負うところだった。
    彼女が頬を赤らめ、瞳を潤ませているのがなぜなのか、わからない。
    なにもかも、まったくわからない。
    「……あっ、そうだ」
    不意に、コルンはそう言って背嚢を降ろし、小さな包みを取りだす。
    「なんですか?」
    「エルギンへ、お土産です」
    彼女は満面の笑みとともに包みを開き、手の平に納まる物体を手渡す。
    それは、手の平に納まる大きさの、円盤状の蒼い硝子細工だった。
    硝子の中央に、白と蒼の目玉模様が入っており、上部に飾り紐がついている。
    この国では定番の御守り、目玉守(ナザルルク)だった。
    「これを、ぼくに?」
    「はい。また会えるかわからなかったですけど、渡せてよかった。これがエルギンを守ってくれます」
    「あ、ありがとう……ございます」
    差しこむ光に当てて見ると、飾り紐にエルギンの名が金糸で刺繍されている。
    間に合わせの土産ではないようだ。
    宙に浮かぶような心地で、目玉守を半ズボンのポケットに仕舞う。
    エルギンには理解できない。
    なぜ彼女は、いつ会えるかわからない自分のために、こんなものを用意したのか?
    そんなことをする価値が、自分にあるのだろうか?
    好意を寄せる男性には、事欠かないだろうに。
    惑乱(わくらん)したまま、エルギンは思ったことを、そのまま口にしていた。
    「コルンは……」
    「はい」
    「コルンはずいぶんと、人気があるみたいですね」
    「……?」
    「さっきの人たち、ずいぶんとコルンのこと、気にしてましたよ」

    「!……そんな……」
    彼女は意表をつかれた。
    あらためて見ると、エルギンは目を伏せがちにして、心なしか不機嫌そうだ。
    コルンも目を伏せて、ぽつりと答える。
    「そんなこと……ないです」
    実際その通りなのだから、それ以外に言いようがない。
    生まれ故郷である、トリアイナ半島中央部に位置する都市、サロノシェヒルから上京して四年。
    テケル親方の援助でリバティノブル大学に進学して三年。
    大戦終結後、半年間だけ陸軍士官学校に編入され、機甲車両科の士官養成課程を履修。
    自動機の機動性に対抗するための高機動制御訓練では、生粋の陸軍士官を差し置いて、いちばんの成績を収めた。
    その一方で、テケル親方のもとで人形機の操縦も学んでいる。
    たしかに彼女の人生において、何度か、何人かに、交際を申しこまれたことはある。
    だが、いまのコルンにとって重要なのは、この国の将来のことである。
    崩壊しつつあるこの国を立て直すまで、色恋沙汰に溺れる暇はない。
    そう信じ、すべて断っていた。
    つい、先日までは。
    コルンがふたたび顔を上げる。
    出会った時は大人びた男性に見えたが、ならんで立てば姉弟か、やもすれば姉妹にすら見えるかもしれない。
    やがて、エルギンの漆黒の瞳と視線がぶつかった。
    恥ずかしくてたまらなかったが、そらすことができない。
    「……すみません」
    先にそう言ったのは、エルギン。
    「え?」
    戸惑うコルンに、少年は言葉を重ねる。
    「ぼくが、コルンのことをとやかく言うのは筋違いですね。どうかしてました、忘れて下さい」
    その言葉は、残酷なまでに正しい。
    彼は雇われた人形機繰者であって、雇用側の個人的な事情に、なにを言う権利もない。
    立場をわきまえた発言に、コルンは驚くほど腹が立った。
    言葉よりも、思考よりも早く、右手がエルギンの頬に疾る。
    「!……」
    平手が頬を打つ寸前、彼女は理性で動きを止めた。
    いまこの場で、大きな音を立てるべきではない。
    エルギンは回避することも忘れ、その手を凝視している。
    平手は止まっても、あふれる想いが止められない。
    先日、エーミアから聞かされた話が、それを倍加する。
    コルンは、ふり絞るように言う。
    「嫌……です、忘れません。わたしは、あなたと出会ったことを……忘れたくありません」
    そして、留め置いた右手を、そっとエルギンの頬に当てる。
    つるりとした温もりは、想像していたよりも熱かった。
    そんな彼女を、少年は不思議そうに見つめていたが。
    右手を上げ、やさしくコルンの手に重ねながら言う。
    「──わかった。ぼくも、君のことを忘れないよ」
    真剣な、そしてやさしげな漆黒の瞳が、真実を語っている。
    そう信じたコルンは、ささやくような甘い声でささやいた。
    「……はい」

    エルギンはうなずき、そっと彼女から身を引き離し、深呼吸をひとつする。
    「いきましょう」
    「エルギン、駐車場にわたしの車があります」
    「わかりました」
    外に連中の気配がないことを確認し、隙間からでる。
    目視でも、追跡者の姿はなかった。
    彼の合図でコルンが隙間からでた直後。
    「いえ、そんな人は見てませんねぇ……」
    手前の角で、大きな荷物を背負い、腰を曲げた老婆が、そんなことを言っているのが聞こえた。
    角の先で、誰かと話をしているようだ。
    エルギンを数々の危機から救ってきた本能が、高らかに警鐘を鳴らす。
    不意に、顔を横にむけた老婆と、わずかに視線が交錯する。
    老婆がなにか言おうとするより早く、エルギンはコルンの手を握る。
    彼女はわずかに体をこわばらせる気配を見せたが、黙って彼の手を握り返す。
    可能な限り平静さを装って、ふたりは歩きはじめる。
    「軍人さん……思いだしましたよ。そのおふたりさんなら、大慌てで路面電車乗り場の方へ走っていかれましたよ」
    それは、いまからむかう駐車場とは、真逆の方向。
    老婆の言葉が耳を衝き、ふたりは歩調をゆるめた。
    背後に迫った危険な気配が遠のいていく。
    肩越しに振りむくと、老婆がこちらに小さく右手を挙げ、片目を瞑って見せる。
    その手には、エルギンがもらったものと同じ、目玉守があった。
    コルンが小声でささやく。
    「さっきの目玉守、あのお婆さんから買ったんです」
    「いきなり、すごい効き目ですね」
    「……よかった」
    ふたりは誰にも見とがめられることなく、駅舎の南側まで到達する。
    そこまでが、目玉守の限界だったらしい。
    「いたぞ、捕らえろ!」
    背後に、青年士官の声が響く。
    瞬間、ふたりは全力で走りだした。
    ふたりは半開きになった搬入用の扉から駅舎の外へでる。
    駅の南側は駐車場になっており、一般車や軍用車が雑然とならんでいた。
    「こっちです」
    コルンは迷いなく車の間を駆け、銀色のシートがかかった車の前へみちびく。
    シートを外すと、そこに車高の低い三輪駆動車(ユチユスィクレト)が姿を現す。
    前輪二輪、後輪一輪という逆三角形のシルエットに、ふたり乗りの、尖った三角形の運転席。
    自動車というより、二輪車の前輪をふたつにしたような、スポーツタイプの車だ。
    コルンは運転席の風防を前にスライドさせると、左側の運転席に体を滑りこませ、慣熟された手つきで起動する。
    流れるような挙措に見とれかけ、あわててエルギンも助手席につく。
    計器に火が入ると、三つの車輪に内蔵された電動機が低騒音を発する。
    その時、駅舎の西側で、低く短く、汽笛が鳴った。
    「そんな、早すぎます!」
    コルンの言う通りだった。
    海峡に突きでたスルトパシャ駅は西側に船着き場が隣接しており、そこから海峡連絡船でロメリア側へ渡ることができる。
    段取りでは、いま汽笛を鳴らした連絡船に乗ることになっていたが、出港予定よりも五分ほど早かった。
    ヒズメト海軍が運営するリバティノブル海峡連絡船は、予定通りに動かないことで知られる存在だったが、予定が早まるのは珍しい。
    「ちょっと、手荒くしますよ」
    「よろしく」
    否応もない。
    エルギンは、ベルトの固定を再確認し、彼女のお手並み拝見。
    彼女は正面のハンドルと足もとのペダルのほかに、右脇の操縦桿を握り、左へ倒す。
    ハンマーで側頭部を叩かれたような衝撃。
    電動機が高鳴り、急速に視界が横滑りする。
    灰色の人形機の脱出機構と同じで、車輪に横移動用の小径輪がついているのだ。
    機構そのものは、港湾施設でも見慣れたものだが、速度が違う。
    左側に車が迫ったかと思うと、寸前に直角に前進させる。
    不意に、車の間から通行人が出現。
    彼女が急制動をかけると、停止と同時に後輪が跳ね上がる。
    通行人の中年男性が呆気に取られる前で、三輪車は後輪を浮かせたまま横移動。
    車が前後にならんだ、本来なら通り抜けられない幅をすり抜け、直進とともに後輪を落とす。
    そこから左、右、前、そして後ろにも車体を自在に滑らせ、駐車場内を縦横無尽に駆けぬけていく。
    尻の下を、ヤスリがけされているようだ。
    荒ぶる慣性に翻弄されながら、あごを引いて耐える。
    人形機の専門家であるエルギンには、車体の動きそのものは把握できたが、どのような操作でこの動きが実現できるかまでは理解できない。
    先日彼女が見せた、珍妙な人形繰りとは比ぶべくもない、洗練された運転技術だ。
    デュルトで格闘していた時も、自動機から逃れる時も、妙に落ち着いていると思ったが、軍人でかつ、この技量なら納得できる。
    三輪駆動車が駅舎の前にでると、先ほどの青年将校たちがでてくるところだった。
    なにか叫んでいる。
    言いたいことは予想がつくが、聞いてやる義理はない。
    先ほどエルギンに詰問した青年将校が、前方に立ち塞がる。
    青年に拳銃を抜いたが、撃つことができない。
    コルンは青年にむかって、まっすぐに車を加速させる。
    エルギンはコルンの手元を見た。
    激突する寸前、操縦桿が細かく左右に動き、車は直前で左に旋回し、青年を回避。
    へたりこんだ、将校の背中が見える。
    車はそのまま後進し、海峡の手前で真横をむいて直進に戻り、最大加速。
    左手に、海峡をはさんでヒズメト・ギヨト旧総帥府の威容が見える。
    なるほど、小径輪を併用することで、旋回を最適化しているわけか。
    「コルン、運転はどちらで覚えたんですか?」
    「軍で少々。いきますよ!」
    車は閉まりかけた海峡連絡船の後部口に飛びこみ、車体を旋回させて見事、空きスペースに停止させる。
    ゆっくりと離岸する海峡連絡船。
    呆気に取られた車止め係の水兵(デニズジ)に、風防を開いたコルンは軍人らしく、右手をぴんとのばして敬礼をして見せた。

                                              04

    リバティノブルを追われたギヨト再建委員会は、新たな指導者としてエミール・ナスレディン准将を指命する。
    ロメリア大戦時、リバティノブル防衛戦をはじめとして、軍事的に多大な功績を上げた実績。
    そして、汎ギヨト主義へ懐疑的であったため、再建派に賛同しつつもケローラン派と距離を置いていたことが決め手となった。
    一方、ナスレディンの腹心であり、リバティノブル防衛戦における活躍により、〈ヒズメトの月(アイ)〉として名が知られていた、スィヒル・ハリデ少佐は、再三に渡る再建委員会への参加要請を固辞していた。
    両名が幹部となることが理想であったが、結果として、名よりも実を取る形となる。
    統暦五九九年五月十八日、ナスレディン准将は、ヒズメト連邦総帥(パーディシヤー)、アーレム・バシュカン=アズィズの命により、軍監察官としてトリアイナ半島北部、紫海(モルデニズ)沿岸の都市、サマノスに上陸。
    翻意を疑われた、ヒズメト陸軍第二軍、トリアイナ東部方面軍の綱紀粛正が目的だった。
    六月一日、彼は総帥の命令に反し、ヒズメト軍から離脱し、正式に再建委員会首班の職を拝する。
    六月十日、現地のヒズメト軍を糾合し、ギヨト軍を結成。
    六月二十日、半島中央部に位置する高原都市、サロノシェヒルを無血占領。
    だが、拠点を得たとはいえ、彼に従う者はヒズメト全軍の三分の一にも満たなかった。
    トリアイナ東部方面軍指令、ハルレト・アーギャーフは、翻意の噂に反してナスレディンに呼応せず、サロノシェヒルを包囲。
    両者のにらみ合いは、ひと月以上におよんでいる。

    リバティノブル西地区の南部に鎮座する、蒼いタイルで覆われた低層の建築群。
    ヒズメト・ギヨト旧総帥府。
    威厳を重視しすぎた広大さゆえに、現在は西地区中部の新総帥府へ機能を移転している。
    かつて、三大陸にまたがる経済圏を支配したヒズメトの、錆びた心臓部。
    五二五大会議室、進歩(イレルレ)の間。
    薄暗く、茫漠とした空間。
    その中央に明かりが点り、〈ヒズメトの月(アイ)〉と称された英雄(カフラマン)、スィヒル・ハリデ少佐の査問会が開かれていた。
    本来は奪回作戦に不参加のスィヒルが、略奪された試作SKMと会敵。
    その上、撃破されたとなると事態は深刻だった。
    情報統制はされていたものの、スィヒルが破れたという噂は、尾鰭を生やしながらリバティノブルに浸潤しつつある。
    首都防衛を専任する、ヒズメト陸軍第四軍団、リバティノブル経済特別区防衛軍、通称、特区軍より召喚されたスィヒルは、棘のある問いかけに淡々と事実を語った。
    「なぜ、単独行動を取ったのかね?」
    「奪回作戦への参加願いを却下されたため、督戦という形で参加いたしました」
    「戦闘員として作戦に組みこまれていないにもかかわらず、なぜ戦闘を行った?」
    「当該SKMが、小官と敵対する行動を取ったからです。包囲網を突破するとは予測できませんでした」
    「図らずも都合よく、新型機が出現したと言うわけか。スィヒル君、君はKX41の開発凍結に反対したそうだね」
    「現在の情勢下で、より強力な兵器を求めることは、軍人として妥当な要求と考えます」
    「だが、君の言う妥当な要求とやらは却下された。その腹いせに、わざと負けたのではないのか?」
    査問官の挑発に、スィヒルはわずかに息を飲む。
    「──小官はヒズメト軍人の誇りにかけて、死力を尽くしました。その上での敗北が咎められると言うなら、甘んじて享受いたします」
    「死力を尽くした、と言ったね。だが当時、現場には君のテズヒサールのほかに、ネルギア軍より提供された巡航戦兜(クルーザーヘルム)が存在したはずだ。くだんの試作SKMを撃破したのも、その自動機と聞いているが」
    「その通りです。小官との交戦により中破した盗難機を大破せしめたのは、僚機として同行した巡航戦兜カムロスです」
    「君の主張通り、やむを得ず交戦状態になったとする。それは認めるとしよう。だが、なぜ僚機である自動機と協力して戦闘を行わなかった?」
    「巡航戦兜カムロスは、ヒズメト軍の兵器ではなく、ネルギア軍より提供された兵器です。今回の奪回作戦は、あくまでもヒズメト軍内での不祥事の解決と認識しております。よって、ヒズメト軍人である小官は、ヒズメト軍の兵器のみによる解決を図った次第です」
    「つまり君は、ヒズメト軍人としてヒズメト軍の兵器にこだわったあげく、略奪機に破れた上に、部外者であるネルギア軍の兵器に救われたと言うのかね?」
    「その通りです。新型とはいえ、当該SKMは小官のテズヒサールと格闘性能では同等のはずでした。ですが、当該SKMの繰者の技量は、小官と同等以上でした」
    スィヒルの率直な証言に、査問官たちに動揺が走る。
    ヒズメトの英雄とうたわれる彼女を凌駕する繰者が、反政府勢力の中に存在すると言うのだから、当然だろう。
    「みなさん、落ち着いて下さい」
    一同をなだめたのは、軍事顧問として派遣された、ネルギア人の若い技術士官、ウスル大佐だった。
    金髪を短く刈り上げた技術士官は流暢なギヨト語で言う。
    「少佐がはじめに、単独で盗難機と対峙したことは妥当であると、小官は考えます。軍事顧問である立場からも、過度にネルギア製の兵器に依存されることは、推奨いたしかねます」
    戦勝国であるネルギア総国から、敗戦国であるヒズメト連邦への言葉。
    それが、場に充満しはじめた悪意の霧を中和する。
    軍事顧問はスィヒルにむきなおる。
    「スィヒル少佐、再度確認させて下さい。盗難機は、あなたのSKMと同等、もしくは凌駕する性能を有しているのですね?」
    「はい」
    「同等以上ということは、少佐にも勝算はあったのですか?」
    「はい。不覚を取りましたが、勝敗は僅差でした」
    「結構です。戦闘記録からも、少佐が善戦されていることは確認されております。では、もし最初に、わが国の巡航戦機、タイプVIIカムロスが、盗難機と対峙していた場合、どのような結果になると予想されますか?」
    「……それは、戦闘記録から推測できるのではありませんか?」
    「質問に答えて下さい。小官は、少佐の心証をうかがいたいのです」
    ここにきて、スィヒルは若い軍事顧問の意図が理解できた。
    結果のでた戦いに仮定を持ちこむ愚をあえて犯す、その理由を。
    それでも彼女は、軍人としての信念にもとづいて答えた。
    「巡航戦機が勝利するでしょう。巡航戦機は火器を有しており、当該SKMは火器を有しておりません。格闘のみでは対抗しようがありません」
    「では仮に、盗難機がタイプVIIと同等の対戦機砲を所持していた場合はどうです? 火力が同等で、機体の状態も万全であればどうです?」
    スィヒルは拳を握りしめる。
    もはや、査問とは無関係な問いだった。
    屋上屋を架すことに、一体なんの意味があるというのか。
    「スィヒル君、顧問の質問に答えたまえ!」
    査問委員会のひとりが、スィヒルを急き立てる。
    金髪の軍事顧問は、余裕の笑みでこちらを見ていた。
    どうしても、それを彼女に言わせたいらしい。
    スィヒルは期待に応えた。
    「それでも巡航戦機が勝利するでしょう。開地での遭遇戦において、人型のSKMは巡航戦機と比較して、前方投影面積が大きく、機動力、命中精度、ともに劣ります」
    彼女の言葉に、場にざわめきが走る。
    「率直なご意見、ありがとうございます。大戦時に、わが国の巡航戦兜を十五両も撃破された少佐にそう言っていただけるのは、望外の喜びです。タイプVIIは、大戦時の戦訓を取り入れ、開発された最新鋭機です。たとえ最新型のSKMでも、対抗し得ないことを認識されているようだ」
    若い軍事顧問は言葉を切り、満足げに一同を見まわす。
    「スィヒル少佐の証言が、すべてを明らかにしています。新型SKMのかわりに、わが国の巡航戦兜を導入することがきわめて有効であることを。統合四界連合傘下における交戦協定に準ずる限り、わが国の巡航戦兜は陸戦最強兵器であると自負しております。タイプVIIが正式採用された暁には、再建派なる反政府勢力に最新型のSKMと優秀な繰者があろうとも、恐れるに足らずと言うことです」
    査問委員会の中から、まばらな拍手が起こった。
    親ネルギア派は、ヒズメト軍内部でも確実に増えつつある。
    屈辱的な事実ではあるが、人形闘機は格闘戦以外では、巡航戦兜に対抗できない。
    リバティノブル防衛戦において、スィヒルが十五両の戦兜を撃破できたのも、元上官の立案した作戦により、近接戦闘へ持ちこめたからだ。
    彼女は、その作戦を忠実に実行したにすぎない。
    にもかかわらず、スィヒルは救国の英雄〈ヒズメトの月〉として祭り上げられてしまった。
    不満はあるが、祖国がそれを望むなら従うしかない。
    査問委員の過半数は納得したように見えるが、先ほどスィヒルを詰問した査問官は納得せず、露骨な指摘する。
    「だが、事実はどうあれ、スィヒル君の敗北がリバティノブルの巷間に広まりつつあるのも事実だ。部下からの報告では、情報管制が敷かれているにもかかわらず、すでに公然の秘密と化している。風評被害だけでも、ヒズメト軍の威信は大いに傷つけられている。この責任は……」
    沈静化させようとした事柄を蒸し返された軍事顧問はしかし、表面上は冷静に切り返す。
    「ヒズメト軍、およびヒズメト・ギヨト経済圏連邦の威信は、その程度で揺らぐのですか? 三大陸を股にかけ、諸国の心胆を寒からしめた貴国の盛名が!」
    ヒズメト領を蚕食せしめた一味であるネルギア人は、その事実を堂々と無視した。
    厚顔無恥を極めた強弁に、先ほどよりも威力を増した拍手すら沸き起こる。
    この国はすでに、感性を鈍らせなければ安住できないほど、澱んでいた。
    スィヒルは黙然と、事実を受け入れる。
    その後、査問会はスィヒルの行動を是認する方向で進んだ。
    峠は越えたという安堵が、彼女の緊張をやわらげた時。
    「スィヒル・ハリデに問う──」
    その問いかけは、会議場の中央で腕を組み、開会から瞑目瞑目を続けていた人物から発せられる。
    茶色のギヨト帽を被り、濃緑色のスーツに身を包んだ、白い髪と髭を蓄えた老人。
    査問会へ急遽出席が決まった、第三十三代ヒズメト・ギヨト経済圏連邦総帥、アーレム・バシュカン=アズィズその人が、発言した。
    「──君はなぜ、いまだにヒズメト軍人を続けているのか? 君の元上官のように、軍籍を除し、再建委員会へ参加してもよかったはずだ」
    そのひと言で、場の空気をを瞬時に凍結乾燥する。
    スィヒルをふくめ、誰もがアーレムの問いに即応することができない。
    それは、厳然たる選択肢として存在しているが、決して公の場で発言してよいことではなかった。
    「総帥(パーディシヤー)。スィヒル少佐は奪回にこそ失敗しましたが、反政府組織への物資横流しを阻止したのですよ。奪回作戦の不手際を責められこそすれ、ヒズメト軍への忠誠を疑われるのは……」
    先ほどまで、スィヒルを糾弾していた委員のひとりが取りなす。
    だが老人は、普段の無機質さとは異質な意地を見せる。
    「君に問うた覚えはない。スィヒル・ハリデ、返答せよ」
    太く白い眉の下。
    細く鋭利な眼光が、彼女の双眸に据えられて、動かない。
    スィヒルは数瞬、瞳を閉じ、老人をも凌駕する冷徹な眼光をもって答える。
    「小官は軍人であります。軍人は、国家の命令を忠実に遂行する、器械たらねばなりません。小官は今後も、軍人として、従うべき国家に忠誠を尽くす所存です」
    その返答に、ヒズメト総帥は表情をやわらげる。
    「あくまでも、軍人としての信念を貫き通すというわけか。なるほど。君の忠誠心に、疑念を差し挟む余地はないようだ──」
    老獪な笑みが、凍結した場の空気に潤いをあたえる。
    だが、老人の目に笑みとは真逆の鋭さが宿っていることを、スィヒルは見逃さない。
    張りつめたままの彼女だけが、つぎなる言葉を真正面から受け止める。
    「──それと、これはあくまでも市井の噂だが、再建委員会は、〈ナスレディン・ギア〉なる新兵器を開発していると聞く。君が破れた盗難機が、くだんの〈ナスレディン・ギア〉だと思うか?」
    さらなる言語による砲撃に、査問委員会側が恐慌をきたす。
    国外逃亡を図った再建委員会元首班、カラル・ケローラン・パシャになりかわり、首班となった、元ヒズメト陸軍准将、エミール・ナスレディン・パシャ。
    性格面で評価の分かれる人物ではあるが、軍事的手腕に対する評価は、総じて高い。
    リバティノブル防衛戦における真の英雄が誰なのか、軍関係者で知らぬ者はなかった。
    造反者となったいまでも、その名は畏怖の対象となっている。
    ナスレディンを賞賛してはならない。
    ナスレディンに共感してはならない。
    ナスレディンに恐怖してはならない。
    ヒズメトの禁忌を、ヒズメトを統べる総帥自身が、大きく逸脱していた。
    ナスレディンの元部下であるスィヒルは、その問いにあえて答える。
    「最新の人形闘機(サヴァシユ・ククラマキネ)では、最新の巡航戦兜(クルーザーヘルム)に対抗し得ません。よって、盗難機は反政府組織の劣勢を打開し得る新兵器たり得ません」
    ネルギア人の軍事顧問が、小さな笑みを浮かべた。
    老人はさらに問う。
    「では、くだんの盗難機以外に、劣勢を挽回し得る、〈ナスレディン・ギア〉なる新兵器が実在するならば、君はどう対処する?」
    「……そのような兵器が実在し、かつ小官に討伐の命あらば、全力をもって排除いたします」
    そこでようやく査問委員の長が、自身の責務を思いだす。
    「総帥、よろしいですか?」
    「うむ」
    委員たちのざわめきが続く中、アーレムだけがひとり、うなずく。
    気勢を削がれたまま査問会は終了し、スィヒルは処分なしとされた。

    閉塞した五二五大会議室の空気が解放された後。
    会議室からでたスィヒルが、休息所に届けさせた珈琲(カフヴェ)をすすっていると。
    ひとりの下士官が近づいてくる。
    大戦時は彼女の部下であり、先日の奪回作戦では盗難機と対峙する機会を作ってくれた、メルジェキ挺曹長だ。
    兵卒からの叩き上げながら、軍人としてのバランス感覚には一目置いている。
    彼の部下であるダヴル専伍長が、休憩所の入口で控えていた。
    敬礼もそぞろに、メルジェキは言う。
    「少佐、例の盗難機の所在が判明し、再度奪回作戦が行われるそうです。ご存じでしたか?」
    「いや、初耳だ。指揮官は誰です?」
    「先日着任した、カルドゥル大尉であります」
    「カルドゥルと言うと、第一軍の工作部隊上がりと聞いていますが」
    「ええ。戦時中、えげつないドサ廻りで勲章を稼いだって、評判のわるい男です。それと、例の自動機も作戦に投入されるそうです」
    「自動機……巡航戦兜カムロスが投入されるのか。詳しく聞かせて下さい」
    「統制が厳しくて、これ以上の情報はありません。少佐の方で、なにか情報を得られませんか?」
    「そうですね……」
    思案とともに、スィヒルが声を一段落とした時、休息所にもうひとり、顔見知りが入ってくる。
    「単機投入だと? どういうつもりだ!」
    先ほどの査問会では、お国自慢に余念のなかったネルギア人の軍事顧問、ウスル大佐だった。
    ダヴル専伍長が、ひらりと道を開けながら敬礼する。
    耳にかけた小型端末で、誰かと話しているようだ。
    ウスルは、周囲をはばからずにまくしたてる。
    「タイプVIIの性能が問題ではない。相互支援のない環境に単機で……話にならん、作戦担当を……もう進発しただと? 査問会で釘付けにした隙に、勝手な作戦を……もういい!」
    金髪の技術顧問は、耳から小型端末をむしり取ると、思い切り床に投げつける。
    鈍い光沢を放つ床を跳ねた小型端末が、スィヒルの足もとに転がった。
    それを彼女の俊敏な腕が拾い上げ、やわらかく投げ返しながら言う。
    「ウスル大佐、蚊帳の外に捨て置かれたのは、小官と同様のようですね」
    怒りの頂点を超えた男は、呆け顔で受け取った端末とスィヒルを見くらべる。
    「スィヒル少佐……貴官も、作戦を知らされていなかったのか」
    「はい。よろしければ、情報交換をいたしましょう。そちらの情報いかんによっては、ご協力できるかもしれません」
    そこですかさず、メルジェキが口をはさむ。
    「待って下さい、少佐。ネルギア人なんぞの助けがなくとも、われわれだけで対処できます」
    そうと知らなければ、縄張り意識の強すぎる、古参兵の強弁だと思えるだろう。
    元部下の絶妙な支援に感謝しつつ、スィヒルは言う。
    「いや、より万全を期するために、情報は多いにこしたことはない。大佐、あなたの協力が必要だ。情報をご提供いただけますか?」
    同胞よりも異邦人である自分が頼られているという状況に、ウスルはいたくプライドを刺激されたようだ。
    組織に長くいれば、腹芸も相応にこなせるようになるものだな。
    必要以上の情報まで提供してくれる、軍事顧問の長広舌に耳をかたむけながら、スィヒルはそう考えている。
    長い話になりそうだ。
    彼女はメルジェキに命じ、追加の珈琲を注文させた。

                                              05

    船底に鎮座するのは、ふたり用の棺。
    そうとしか見えなかった。
    エルギンが、おそるおそる訊ねる
    「これに……入るんですか?」
    コルンは済まなそうにうなずく。
    「はい、窮屈ですがご辛抱ねがいます」
    「それは構わないですけど……」
    スルトパシャ駅でコルンを出迎え、追っ手から逃れて海峡連絡船に乗ったまではよかった。
    海峡の中ほど、左手にヒズメト・ギヨト旧総帥府、右手のトリアイナ側から、リバティノブル海峡大橋が見えるころ。
    連絡船の船倉で待っていたのは、エルギンとコルンのふたりと背格好の似た男女。
    服装も、ほぼ一緒だ。
    コルンが愛車の鍵を渡す。
    身代わりのふたりは、終始無言。
    演技か本気かわからないが、エルギンとコルンの着衣を身につけた男女は、仲むつまじく手を握り合って甲板へでていった。
    ああいう風に、他人からは見えるのか。
    そんなことを考えていると、コルンと視線が合った。
    彼女は、両手を腰のあたりで揉み合わせながら、少し困ったように微笑する。
    もしかすると、同じことを考えていたのかもしれない。
    打合せ通り、ふたりは連絡船の船底へ降りる。
    水音と推進機の駆動音に満ちた、薄暗い空間。
    淡い照明に照らされた一画に、その棺はあった。
    はじめは、長さ二メトレ、幅一メトレほどの板が置かれているように見えた。
    だが、コルンが板の上部にあるスイッチを押すと、長辺が中央から分割され、棺のような空間が出現する。
    彼女に入れと言われ、エルギンはおっかなびっくり、棺に片足を入れた。
    内部は緩衝材が敷かれており、やわらかな素材の下に、硬い底が感じられる。
    エルギンが棺の右半分に体を横たえると、続いてコルンの入棺が、緩衝材ごしに伝わってきた。
    薄暗い空間に、男女の温もりと、息遣いが感じられる。
    窮屈というほどではないが、相手の姿はよく見えない。
    「閉めますね」
    コルンの影が身をくねらせると、頭上の扉が自動的に閉じる。
    同時に、棺の内側に淡い照明が点った。
    エルギンの眼前に、コルンの瞳がまたたいている。
    ふたりは、息のかかる距離で、むかい合っていた。
    頭上から、清涼な空気が流れてくる。
    空調とは別な要因で、息苦しく、動悸が高鳴る。
    「あの……これからガスが……」
    彼女がなにか言いかけた時。
    カコンと乾いた音が腹に響き、棺の底が抜けたような感覚。
    海峡連絡船の底部に据えつけられた小型潜行艇が、リバティノブル海峡の底へ放たれたのだ。
    周囲の状況はまったくわからないが、自動的にギヨト再建委員会の施設へ送りとどけてくれると言う。
    「きゃっ!」
    コルンが小さく叫んだのは、棺が沈んだからではない。
    沈降が不均等で、潜行艇がかたむいたからだ。
    「くっ!」
    エルギンは、とっさに彼女をかばうよう、四肢を突っ張る。
    揺れはしばらく続き、床が斜めにかたむいた状態で安定した。
    その時、棺の内部では、エルギンがコルンに覆い被さる姿勢で、左隅に身を寄せ合っている。
    彼女の両手が、彼の背中を抱きしめいていた。
    彼の唇が、わずかに彼女の唇に触れていた。
    しかし、ふたりがその状況を認識することはない。
    まどろむ意識の中で、ふたりは互いを感じ、多幸感に包まれながら意識を失っていた。
    ふたりを乗せて、潜行艇は海峡の底へと沈んでいく。

    同時刻、午後十四時三十一分八秒。
    首都リバティノブル防衛を任務とするヒズメト特区軍第四小隊は、ヒズメト・ギヨト旧総帥府の北、モノポル街区の中央に位置する、アダーレト勧業銀行本店の制圧を完了していた。
    連邦内でも有力なアダーレト財閥は、再建派との繋がりが深く、その契りは再建派が非合法組織となった現在も続いているとされている。
    第四小隊隊長、カルドゥル・ハーフズ大尉は、アダーレト勧業銀行本店地下にある、巨大な縦坑の入口に施された封印を解放させていた。
    縦坑は、冥府への入口であるかのように、直径十メトレの口を開けている。
    カルドゥルは、赤いギヨト帽をずるりと一回転させてから、気だるげに言う。
    「作戦目標は、盗難機の確保だ。後は俺たちが追いつくまで、適当に暴れとけ」
    ヒズメト軍へ供与されたネルギア製自動機、巡航戦兜タイプVIIカムロスは、命令をギヨト語で復唱した。
    『報告、作戦内容を確認。敵施設内における盗難機の捜索、確保、および抵抗勢力の排除』
    縦坑の脇に接地された指揮所の端末が、自動機からの返答を読み上げた。
    カルドゥルは、張りだした口髭を気にしながら答える。
    「ああ、そうだ、それでいい、ロバ野郎。いってこい。ついでに、逝っちまっても構わんさ」
    作戦行動に即した内容である限り、どのような命令であろうとも従うののは、軍属である人も自動機も変わらない。
    白い自動機は、縦坑へ機体を突入させた。
    作戦と呼べるほどの、明確な行動指針はない。
    その位置が特定された、敵対勢力であるギヨト再建委員会リバティノブル支部の地下基地へ急襲をかけ、盗難機であるKX41を確保、または行動不能にすること。
    敵対するものは実力をもって排除する。
    ただ、それだけだ。
    地下基地の詳細な情報はなく、ただ入口となる縦坑に放りこまれた。
    アダーレト勧業銀行本店の大深度地下に存在する、未知の工業遺跡。
    統合四界連合成立以前に建設された工場区画の深奥に、再建派の地下基地があるとの情報が入った。
    本来なら、不可侵であるはずのアダーレト財閥の所有地を、カルドゥル大尉はなんの躊躇もなく制圧した。
    先日同行したスィヒル・ハリデ少佐とは、また違った意味で覚悟を持った軍人であるようだ。
    ヒズメト・ギヨト経済圏連邦は、肥大化した支配地域を維持できず、さまざまな社会基盤も崩壊しつつある。
    電子通貨の破綻による、物理通貨の復活をはじめとして、エネルギー供給、食料生産、工業生産、軍事、警察機構にいたるまで、多くの社会機構が人手を介さなければ維持できない水準にまで低下していた。
    ちょうど、ネルギア総国とは真逆の変化を続けている。
    作戦行動が、人間の士官の思いつきだけで立案され、それが実行されるなど、ネルギア軍ではあり得ないこと。
    カルドゥルが、対戦中に巡航戦兜と遊撃戦で死闘を繰り広げたことは知っている。
    ネルギア製の自動機に対して、根深い敵意をいだいていることも理解している。
    それでもなお、カムロスは命令に忠実であろうとした。
    命令遂行のためには、縦坑からの落下で大破することはできない。
    落下速度過大。
    機関砲が据えられた左右の腕を伸張し、壁面に摩擦をかける。
    盛大に火花が散り、張りだしたパイプ類を巻きこむことで、落下速度が低下。
    左腕機関砲脱落。
    落下速度、なお過大。
    着地。
    過大な接地音発生。
    損害確認。
    左腕破損。
    駆動系への過度の負荷を認めるも、作戦行動可能。
    敵に察知されたことを前提に、周囲を索敵。
    落下地点から、直進可能な通路が前方に一〇〇メトレ続き、左右に分岐。
    路面状況良好。
    カムロスは、平行移動可能な小径車輪を備えた四つの駆動輪を高速形態に移行。
    タイプVIIは従来型と同等の火力、防御力を有しながら小型軽量で、舗装路ならば時速二〇〇キロメトレまでだすことができた。
    主砲である一三〇ミリ対戦機砲一門と、両脇の可動腕に据えられた一二・七ミリ機関砲二門を備える。
    本作戦では民兵との戦闘を想定し、機関砲は対人用の弱装弾に設定。
    感知器(ドゥヤルガ)を駆使し、地下工場の構造把握と索敵を同時に実行する。
    情報結合はされていたが、情報支援はなく、こちらから送る一方だ。
    『報告、一号着地。捜索開始。』
    T字路の手前で、民兵十名を確認。
    小銃九丁、および対戦機狙撃銃一丁の所持を確認。
    『報告、一号会敵。交戦協定にもとづく攻撃を開始』
    副砲速射。
    弱装硬土弾の命中により、民兵五名を無力化。
    民兵は攻撃を開始していたが、小銃による攻撃は無視。
    唯一脅威となり得る対戦機狙撃銃についても、計算上は最適角度でも正面装甲を貫通することは不可能。
    それでも安全策を取り、対戦機銃が発砲する直前に軌道を予測し、小径輪による平行移動によって安全な入射角度で火線を受ける。
    T字路の手前で、平行移動と可動腕を駆使し、掩蔽の背後にいる民兵を掃討。
    対戦機狙撃銃の射手も沈黙。
    カムロスは、沈黙した民兵を排除するため、左右の可動式機銃腕に併設された作業腕で、前進の障害となる民兵を脇へ寄せようとした。
    だが、民兵二名を作業腕で掴みあげた直後に、全力後退。
    直後に爆発が起こり、衝撃で民兵の体が四散する。
    T字路左奥一〇〇メトレからの対戦機砲による砲撃。
    カムロスの主砲と同等の破壊力を持つため、直撃すれば撃破される危険がある。
    T字路の左右は索敵が完了していた。
    右奥は行き止まり、敵対勢力なし。
    左奥に通路、民兵八名を確認、対戦機砲は一門のみ。
    進路上に生存者なし。
    再度T字路に最大加速で横向きに突入。
    殺傷は禁じられていても、交戦中に死体保全の義務はない。
    四散した民兵の死体を踏みつぶしながら、敵対戦機砲陣地に主砲を撃ちこむ。
    硬土弾が敵対戦機砲の側面を狙いあやまたずえぐり、発射機構を破壊。
    同時に、こちらも砲撃を受けるが、敵の狙いは細いパイプが這う天井だった。
    カムロスは砲撃を受けた場合の回避を考慮して、過大な速度で侵入したため、T字路の正面奥壁面に真横から激突。
    着弾により天井が崩落する寸前、めりこんだ壁の中から離脱。
    その上面装甲へ、経年劣化した天井のパイプ群が砕け、槍衾のごとく降りそそぐ。
    半球状の中空カスタード装甲は、尖った配管の先端を表面の軟質衝撃吸収材で受け、弾く。
    全力加速で崩落を回避。
    『報告、通路が一部崩落。復旧の必要あり』
    カムロスは前進しつつ、副砲を斉射し、民兵を沈黙させていく。
    発砲せずにやり過ごし、後背を衝こうとするものもいたが、武装していれば掃討する。
    すでに地下施設の門前は突破し、複数の移動可能経路を把握。
    トラップによる、遅滞行動を取られる危険は低下している。
    施設の路面には、二四時間以内に走行したと見られる、戦闘車両の痕跡。
    照合可能な戦闘車両は存在しない。
    『報告、敵SKMのほかに、未知の戦闘車両が一両以上存在する可能性あり。対処の指示を求む』
    指揮官からの命令は、「そいつもブッ潰すに決まってんだろ、ロバ野郎」。
    『報告、KX41一機、および巡航戦兜と同等の戦闘車両一両が存在することを仮定し、捜索を継続』

    自動機が、孤立無援の決死行を繰り広げているころ。
    エルギンは、まどろみの中で悔恨していた。
    幾度となく夢見る、ガリトニア州からの逃避行。
    母子で難民の列に加わり。
    ヒズメト軍とグレシア軍の戦闘に巻きこまれ。
    悪意と、愚かな判断により、母を失った。
    夢なのだからと、たらればの好都合な夢想はしない。
    いつも母は自動機に撃たれ、最後の言葉を発する。
    それがたまらなく悲しく、そして嬉しかった。
    母は最後まで、彼を守り抜いたのだから。
    「う……うう、んっ」
    エルギンが、見慣れた悪夢から目覚めると。
    ぼやけた視界の先に、ふた粒の大きな瞳があった。
    「…ギン……丈夫ですか? うなされていましたよ」
    「ん?……ああ、大丈夫だよ、お母さん」
    ふたつの瞳が見開かれ、凍結する。
    なにを驚いているのだろう?
    そう考えて、考えて、考えて──気づいた。
    彼を見下ろしているのが、コルンであることを。
    背中に、反り返る床の感触。
    後頭部に、しっとりと沈む心地よい感触。
    エルギンは白い部屋の床に寝かされ、横座りしたコルンに膝枕されていたのだ。
    直上に張りだし、視界を半分さえぎっているのは、彼女の豊かな胸のふくらみ。
    手をのばせば届く距離に、それはある。
    体を起こそうとする。
    「コルン。ぼくは……ぐっ」
    視界に火花が散った。
    頭から血が抜け落ちていくような酩酊感。
    コルンの腕が、そっと体に添えられる。
    「まだ寝ていて下さい。ガスの影響が残っているみたいですから」
    「……ここは?」
    「リバティノブルの大深度地下にある、再建派の支部です」
    「そう……なんですか」
    ふたたびコルンの膝に頭をうずめながら、周囲を見る。
    白い照明に照らされた、球形の部屋。
    左上に、磔台のような機械装置。
    わずかな時間ではあるが、忘れようのない場所。
    灰色の人形機、デュルトの操縦席だ。
    どこか遠くで、地響きがしたような気がする。
    「もう……らく……で、いて……さい」
    貧血らしい。
    視界が火花とともに暗転し、コルンの声が遠くなる。
    目を閉じて、想起する。
    コルンとふたりで、リバティノブル海峡を渡る連絡船の中から、小型の潜水艇で海峡にもぐった。
    その先は、ヒズメト再建委員会の地下施設だと言う。
    場所を知られないため、潜水艇の乗員はガスで眠らされるが、了解して欲しい。
    そう、ギュゼルから説明されていた。
    頭上で、コルンが誰かと会話をはじめる。
    「はい、エーミアさん……そうです、目覚めました……いえ、まだ操縦できる状態では……でも……その、エルギンは……そんなこと!……でっ、鬼女(デヴアナス)並のおっぱいとか言わないで下さい!……はい……ですから色仕掛けとか、あり得ませんから、ごめんなさい!」
    彼が目を開けると、ちょうどコルンが耳から小型端末を外したところだった。
    端末からは、小さく女性の叫びが漏れ聞こえたが、彼女は指でつまんで沈黙させる。
    視界に舞い散る火花の群れが薄れ、世界が明瞭さを取り戻しはじめる。
    貧血のピークは過ぎたようだ。
    「なにか、あったんですか?」
    膝に頭を載せたまま、エルギンは訊ねる。
    「……いえ、なにも。エルギンは、ゆっくり休んで下さい」
    彼女の笑みは、贋物めいている。
    「そうは思えないな。だってここは、デュルトの操縦席じゃないですか。用もなく、ぼくたちがここにいる理由がありません」
    そう指摘すると、コルンは諦めたように言う。
    「……エルギンは、なんでもお見通しなんですね」
    「まさか。もしそうなら、状況はもう少し好転しているはずですよ」
    悪気はなくとも、皮肉にしか聞こえない。
    エルギンの苦笑を見つめながら、コルンがか細い声で言う。
    「わたし、エーミアさんにエルギンのこと、聞きました。お母様を、ガリトニアで亡くされたそう……ですね」
    固いものが、喉に詰まる感覚。
    わだかまりを吐きだすように、エルギンは平然と答える。
    「ええ。いまのご時世、戦争で親しい人を亡くすなんて、珍しい話じゃないですよ」
    「でも、お母様は自動機に撃ち殺されたって……」
    「!……そんなことまで聞いたんですか? いえ、母は自動機に撃ち殺されたわけじゃありませんよ」
    「えっ?……」
    「自動機に撃たれた怪我がもとで、十日後に野戦病院のベッドで亡くなりました。最後まで、意識は戻りませんでしたけど。書類上は、病死扱いです。グレシア軍の衛生兵が、それは熱心に看護してくれましたから」
    「……?」
    言わんとすることが理解できず、コルンはきょとんとしている。
    「つまり、敵兵すら殺さないはずの自動機が、誤射で難民を撃ち殺した、なんてことにしないために、ぼくの母を十日間も生かしてくれたんですよ。ついでにぼくを、難民収容所ではなくヒズメト側へ送りとどけてもくれました」
    「!……」
    コルンが両手で口を覆い、小さくのけぞる。
    あの時は、装置に繋がれた死に逝く母を、ただ見つめているしかなかった。
    このみじめな気持ちは、どう言葉で説明しても伝わりはしないろう。
    エルギンは薄く微笑みかける。
    「もう、誰も恨んではいませんよ。誰かひとりがわるいわけじゃない。ぼく自身にも汚点はある。けどね、コルン……」
    「……はい」
    「母親を失ってから、ぼくは人形機の操縦を覚えました。乗ったのは、ほとんどベベキです。まともに動く奴の方が少ないぐらいだ。リバティノブルに流れ着いたころには、ベベキ専門の人形繰りとして、いっぱしに名前が売れてました。……ぼくがなぜ、ここまで人形繰りにこだわっていると思いますか?」
    「それは……ごめんなさい、わかりません」
    心底済まなそうに言う、頭上のコルンに、膝上のエルギンは、いびつな笑みとともに独白する。
    「ぼくが人形繰りにこだわっているのはね──この技術が、戦争の役に立ちそうもないからです。戦闘機械として、人形機では自動機に太刀打ちできませんから。ぼくは人形繰りとして、誰かを殺したくも、誰かに殺されたくもありません──」
    だから絶対に、再建派へ参加するつもりはない。
    最後に続く言葉を、彼は飲みこんだ。
    女の両手が、少年の頬を包む。
    ぼたり、ぼたり、ぼたり……。
    滴が、コルンの頬を伝わり、エルギンの頭上に丸い涙滴の雨を降らす。
    滴が、熱い。
    彼女は、声を殺して泣いていた。
    自然に、彼の右手が彼女の濡れた頬に触れる。
    拒絶の言葉にかえて、言う。
    「──けれど、コルンが望むなら、ぼくは戦います。なにが起こってるんです? まず、それを教えて下さい」
    コルンは、かき乱された心のままに、表情を転変せた。
    悲嘆、憐憫、困惑、微笑、無表情……そして請う。
    「わたしも、あなたに傷ついて欲しくありません。傷つけて欲しくもありません。でも……でもね、人形機が自動機に勝つ方法は、あるんです。お願い……わたしたちを、助けて下さい」

    作戦開始から二十分後、午後十四時五一分四十二秒。
    カムロスは左腕と右前輪を全損するも、主砲と右副砲は健在。
    施設の全貌は、管理端末から入手している。
    『報告、全施設の七二パーセントを制圧。盗難機の捜索を継続』
    十分ほど前から、指揮官との通信が途絶。
    途絶理由不明。
    カムロスは独自の判断で捜索を続けていた。
    散発的な抵抗を排除しつつ、かつての構造都市製造施設の間を抜ける。
    ヒズメト・ギヨト連邦の前身である、トリアイナ半島に興った共同企業体、ギヨト時代のもの。
    当時のギヨトは、環境対応型の都市再生技術で、世界最高水準にあった。
    都市の機能を損なうことなく、再生可能資源のみを使用した計画都市へと再生する。
    その技術はあらゆる分野に波及し、揺り篭から墓場にいたるすべてが、ギヨトによって造りかえられていった。
    これだけの遺構が、手つかずで残っている例は珍しい。
    放棄された都市の部品たちは、後代の工業製品であるカムロスを、無言で品定めしているようだ。

    自動機を見定めているのは、過去の遺物ばかりではなかった。
    カムロスが求めるKX41デュルトが、工業遺跡の隙間で、息をひそめている。
    前席にはコルン、後席には上半身を露出させたエルギン。
    エルギンは望まぬ形で、因縁浅からぬネルギア製の自動機と、みたび対峙していた。
    コルンが訓練された平板な口調で、状況を報告する。
    「発砲は任せます。敵自動機、目標地点到達まであと五(ベシユ)、四(デヨルト)、三(ユチユ)、二(イキ)、一(ビル)、発車(カルクシユ)!」
    彼女の宣言と同時に、視界が真横に動く。
    戦場は、高さ十五メトレ、幅二十メトレの直線通路。
    戦闘には十分すぎる広さだ。
    デュルトは朽ちた浄化装置の影から、自動機の射界に出現する。
    その姿は、人型ではなかった。
    両脚を前に突きだし、上半身を斜め後方に倒した姿勢。
    胸の先端から左肩にかけて、自動機に撃たれた向こう傷が残っていた。
    腰の巨大な動輪ふたつのほかに、脚部の脛にも動輪がふたつ、計四つの動輪によって走行している。
    路面に刻む轍の跡は、カムロスが予測した戦闘車両のそれと一致した。
    専用の脚部を装着することで、デュルトは単独での地上走行が可能だった。
    右腕には三角形の盾のついた人形闘機用の対戦機砲が据えられ、左の腰には鞘つきの長大な長剣(クルチユ)を佩(は)いている。
    彼はデュルトの後席で、上半身だけ操縦権を得て、両腕で対戦機砲を構えていた。
    銃も剣も人形闘技で使ったことはあるが、剣はともかく銃は模擬弾しか撃ったことがない。
    その対戦機砲は、奇しくも、かつてエルギンがガリトニアからの脱出行の途中で撃とうとしたものと同型だった。
    武器の扱いと戦術の説明は受けていたが、例によって、ほとんどの操作は手動で行わなければならない。
    球状の銀幕(エクラン)に表示された照星が、自動機に重なる寸前、彼は敵の回避運動を予測し、操作桿に追加された銃把の発砲釦(デユーメ)を押しこむ。
    あの時、撃てなかったプラズマ光を、エルギンは放った。
    不思議と気持ちがざわつかず、感慨じみたものは、ない。
    自動機を狙った硬土弾は、予想通りの狙点を穿ったにもかかわらず、敵は予想した通りには回避しなかった。
    ──チッ、狂ってやがる……。
    あの時、酒臭い息とともに吐かれた声が、聞こえた気がした。
    次弾が装填される、ガドンと重い金属音。
    コルンは小径輪を回転させ、デュルトを左右へ不規則に振る。
    エルギンの幻聴を打ち払うように、彼女は言う。
    「はじめから偏差射撃をしても、通用しません。現在位置に照準し、発射寸前に未来予測位置へ修正して下さい」
    「了解。難しいな」
    「わたしは、エルギンを信じています」
    無限の信頼を秘めた言葉とともに、コルンはデュルトに回避運動をさせつつ接近を試みる。
    自動機並の回避運動に、敵は照準を合わせられず、わずかに対応を遅らせた。
    デュルトは右腕の盾が面前となる姿勢で距離を詰めていたが、不意に自動機が急激な加速を見せる。
    エルギンが照準を合わせる前に、自動機はデュルトの右側方を高速で通過。
    対戦機砲が邪魔で、右腕で掴むことはできない。
    「廻しますよ」
    コルンは大径輪と小径輪の組み合わせで、右旋回を開始。
    景色が横に流れている間に、エルギンは照準を自動機に合わせている。
    自動機も旋回を終了しており、砲口は互いをとらえていた。
    ここからが勝負だ。
    回避はコルンの腕を信じ、右人差し指に力をこめる。
    発射前のわずかな瞬間、自動機が右に横移動を開始。
    反射的に軸線をずらして右人差し指を引き絞る。
    自動機もほぼ同時に発砲しながら、回避運動を開始。
    二門の対戦機砲より放たれた二発の硬土弾は、互いの右側面装甲を擦過し、壁面に着弾。
    衝撃で、デュルトの対戦機砲に装着された盾が、もぎ取れる。
    コルンがデュルトを回避させた分、照準がずれた。
    その誤差すらも、自動機は読んでいたのだろうか?
    「前進します」
    言い終える前に、デュルトが加速を開始。
    互いに、同性能の対戦機砲を装備しているため、次弾装填までの空隙は同等だ。
    コルンはそのわずかな間で、距離を詰めようとしている。
    自動機が砲口をこちらにむけたまま後退。
    直後に次弾が装填される。
    デュルトは左右への回避運動を開始。
    自動機も左右への回避運動を行っているため、仮想的な火線が複雑に絡み合う。
    手動で、まともに命中させることは不可能だ。
    にもかかわらず、自動機は対戦機砲からプラズマ光を吐く。
    左右に揺らすことで、わずかに露出した右後部動輪が、硬土弾に撃ちぬかれる。
    デュルトはバランスを崩しかけるが、コルンの腕がそれを許さない。
    従来の回避運動に加えて、回復運動を組み合わせた奇矯な挙動をして見せる。
    そこで、コルンの指示。
    「目標接近。発砲用意……三(ユチユ)、二(イキ)、一(ビル)、発砲(アテシユ)!」
    エルギンは彼女の指示通り、可能な限り自動機に照準を合わせつつ、人差し指を引く。
    指が引き絞られた時、照準の先に自動機の姿はない。
    衝撃とともに、プラズマ光が砲口から吹きだし、反動が右腕の操作桿を後退させる。
    発砲された硬土弾は、自動機の後方三〇メトレの壁に突きでた円柱に着弾。
    直後、通路の床が長さ五〇メトレに渡って抜け落ちた。
    落下する床に圧迫され、隙間から粉塵が吹き上がった。
    感知器が補正しているため、視界は正常に保たれている。
    エルギンは操作桿から右手を離し、半ズボンのポケットに収めた、蒼い硝子細工に手を当てる。
    コルンからもらった、目玉守。
    瞑目とともに、つぶやく。
    「これで仕舞いにするよ……お母さん」
    エルギンの脳裏に、母親が自動機に撃たれたあの日の、強烈な陽光が閃いた。

    後退しながら、宙を舞う自動機。
    前進しながら、斜めむきに跳躍するデュルト。
    カムロスは落下速度を殺しきれず、金属音とともに階下へ着地。
    後部の動輪二基が圧壊し、残る動輪は左前輪一基のみ。
    遅れて跳躍したデュルトは下半身を先に降ろし、走行形態から人型形態に移行しながらの着地。
    機体重量で地面が踏み砕けるが、理想的な負荷分散で衝撃を吸収する。
    瓦礫とともに落下した場所は、工業製品的な上階とは異なる、岩を削って造られた地下空間。
    大理石の柱がならび、闇の奥に続いている。
    近代以前の、地下宮殿(イェレバタンサラユ)だ。
    直近に盗難機。
    自動機は機体を旋回させ、対戦機砲をむける。
    査問会でスィヒル・ハリデ少佐は指摘した。
    ──開地での遭遇戦において、人型のSKMは巡航戦機と比較して、前方投影面積が大きく、機動力、命中精度、ともに劣ります。
    直立したデュルトは、彼女の発言にある通り、過大な前方投影面積を露呈する。
    早い話が、いい的だ。
    カムロスは盗難機が対戦機砲を保持する、右腕肩部にむけて対戦機砲を発砲。
    盗難機も対戦機砲をこちらにむけて、発砲。
    ふたつのプラズマ光が、いにしえの回廊を照らし、衝撃が粉塵を穿つ。
    そこで、カムロスはあり得ない光景を記録する。
    回廊に充満した粉塵が消し飛び、人形闘機に命中したはずの硬土弾が粉砕し、土塊と化していた。
    それどころか、盗難機が発射した硬土弾も、着弾前に粉砕されている。
    自動機の対戦機砲でも、人形闘機の対戦機砲でもない、第三の爆発を確認。
    カムロスはすでに、盗難機の後方三〇メトレ、粉塵の舞い散る通路の先にもう一機、身長三メトレほどの作業用人形機の存在を確認していた。
    大理石の柱の横。
    背をむけて直立した人形機は、判別不能の機械装置を背負っている。
    KX41の無力化を最優先しているため、無視していた。
    この装置が未知の爆発の原因のようだ。
    盗難機が、悠然と距離を詰める。
    動輪一基と左の可動腕だけでは、機体の方向を変えるので精一杯。
    カムロスは次弾が装填されるたびに、明確な攻撃対象である人形闘機に対戦機砲を放つ。
    一発。
    二発。
    盗難機の右膝と腰に命中するが、どちらも着弾時には土塊へと変じている。
    有効射程距離内では、徹甲弾として機能するはずの硬土弾が、役割を放棄していた。
    KX41は、対戦機砲を手放し、腰の長剣に手をかける。
    同時に、鞘にならぶ六角形の穴列が、轟然と白煙を噴出。
    人形闘機が鞘を払う。
    白煙とともに抜きだした刃は、半透明。
    磨り硝子のような刃の表面に、波打つ玄妙な縞模様が浮かんでいた。
    使用が許可されたばかりの、瞬硬エアロゲルの長剣。
    JSエアロゲルを、超臨界乾燥と電磁硬化を併用することで固めた、使い捨ての白い刃。
    再度発砲。
    硬土弾は、敵の頭部に土塊を浴びせかけるだけ。
    盗難機が両手で長剣を斬り下ろす。
    ガゴシャン。
    斜めに切断された主砲の先端が落下し、瓦礫をさらに粉砕する。
    主砲、発砲不能。
    三度の発砲で、カムロスは確信を得た。
    この現象の原因は、背後の作業用人形機が背負った装置が、こちらの発砲と同時に放つ衝撃にある。
    作業用人形機の背にあるのは、蒼く丸い球状の装置。
    中央が赤く、白と青の円が幾重にも重なった、目玉模様。
    その形状はこの国に伝わる、目玉守(ナザルルク)、もしくは目玉硝子(ナザルボンジユ)と呼ばれる、目玉模様の御守りに酷似していた。
    対戦機砲を無力化する、目玉守。
    人形機の影から、白髪に赤い目をした少女が姿を現した。
    先日、盗難機への砲撃を、二輪車を投擲することで妨害した人物と一致。
    カムロスは、右の可動腕に据えられた機関砲を動かすことができた。
    この状況下でも、あの少女を撃つこと可能だ。
    だが、果たしてあれは、敵対行為なのだろうか?
    状況証拠はそろっていたが、発砲を決断できない。
    それを承知しているかのように、少女は、粉塵で汚れた顔をぬぐいながら赤い瞳を細め、喜悦の笑みを浮かべる。
    少女のかたわら。
    石柱の基部に、上下が逆転した、巨大な顔が据えられている。
    毒蛇を頭髪として生やした女。
    伝承によれば、その目に映じたもの、すべてが石に変じる。
    目玉守は、その怪異たる女の目を模したものだと言う。
    盗難機が一歩、踏みこむ。
    カムロスは、わずかに残った一基の動輪で全力加速。
    自身を旋回させて、体当たりを加える。
    体勢を崩したところで、残った右の機関砲を人形闘機の長剣を持つ右手に押しつけ、連射。
    機関砲は有効。
    対人用の弱装弾から、対物用の強装弾に変更済み。
    しかし、小口径の徹甲弾では指の関節すら砕くことはできない。
    以前、カムロスが撃破した時と比べ、手脚の強度が格段に上がっていた。
    盗難機はのけぞった姿勢から、左脚を軸に右脚を後ろに旋回させる。
    右脚のかかとが、自動機の側面装甲に命中。
    側方に飛ばされたカムロスは、円柱を折り砕き、瓦礫の上に背面をさらす。
    KX41は、前傾しながら距離を詰め、低い姿勢から下段に構えた長剣を凜と斬り上げる。
    瞬硬エアロゲルの刃は、ナイフがチーズを切り断つように、屹立した半球状の中空カスタード装甲を、斬り断つ。
    『報告、盗難機により一号大破。対戦機砲を無効化する装置が存在する可能性あり』
    返答は期待できない。
    可能な限りの情報収集と保全につとめる。
    そこで、予期しなかった指揮官の返答が送信されてくる。
    内容は、「いいざまだな、ロバ野郎。派手に逝きな」。
    同時に送られてきた信号により、主砲用に装填された硬土弾のひとつから、規定値を大幅に超えた電圧が加わる。
    安全装置は作動せず、限界以上に増大したプラズマの膨張圧が、機体を四散させた。
    大理石の列柱が爆風で砕け、倒れる。
    多くの支えを失った、地下宮殿の天井全体が崩落。
    統暦五九九年七月二十六日、午後十五時三分二十秒。
    ヒズメト特区軍所属、ネルギア総国製巡航戦兜、タイプVIIカムロス一号機、自爆により、沈黙。

     

    続く

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