鎌倉を舞台にした【短編小説】『死神俥夫は眠れない』を公開 #twnovel

道楽の邪魔はさせません!

みじかい小説を書いてみました。炎上案件で疲れた青年が、鎌倉駅のホームでみかけた白い女性俥夫の人力俥に乗って、夜の鎌倉をめぐる物語です。

本作の冒頭部分を動画化してみました。

死神俥夫は眠れない

郁雄/吉武

 横須賀線の車窓に側頭をつきながら、流れる鎌倉の夜をながめている。
北鎌倉側から鎌倉駅のすぐ手前に、朽ちた洋館があったはずだ。
子供のころから廃屋だったあの館は、はじめから廃墟の姿で建てられていたのかもしれないな。
そんな想いをたゆたわせていると、いつしか電車は鎌倉駅をすぎ、逗子駅へと到着するところだった──。

──次に意識を取りもどすと、下りの電車は、上りに変わっていた。
西田解(かい)は鎌倉駅で東京行きの電車を降り、ホームの北側で、闇に流れる二筋の線路をながめている。
──また、切り戻しだな──。
帰宅ラッシュの時間はとうにすぎている。ひと気のないホーム北端のさらに先には、東側の小町通りと西側とを結ぶ踏切があり、ときおり、ひとや自動車がわたっていく。
青年は無意識のうちにズボンのポケットに手をつっこみ、じゃらつく感触をたしかめる。四角い穴のあいた金属片が六枚、たしかにあった。
アナウンスが横須賀行きの列車が到着することを告げると、北端の踏切が鳴りはじめ、遮断機がおりる。
そう言えば、あの踏切の小町通り側に、例の洋館があったはずだ。
やがて北鎌倉側の闇から、光る大蛇のような電車が流れてきた。
現場に缶詰になって三日。仮眠はとっていても、疲労が蓄積していた。
システム障害からの切り戻し作業はまだ完全には終わっていないが、ひとまず自宅に戻れる。残件である、成果物せいかぶつの納品手順を思い浮かべながら、接近する電車を見つめていると──。
不意に、足元でなにかがきしむ音がして、体がふらつく。
傾斜する視界の先に、先頭車両の閃光が近づいてくる。
拡大する電車の脇に、白いなにかがみえた気がした。
衝撃で正気を取りもどすと、西田はホームの縁で尻もちをついており、眼前では減速した横須賀線が停車するところだった。起き上がり、あらためて踏切の先を凝視する。
そこにあるのは廃屋ではなく、白い洋館。
玄関前に、白い人力俥と俥夫が客待ちをしていた。
思わず、ホームを飛びおりようとしかけたが、思いなおして反対方向、ホームのなかごろにある改札口をめざす。
西口改札を出て、旧鎌倉駅舎の時計塔が飾られた広場の脇を抜け、横須賀線のホームを右手にみながら自転車のならぶ小道を北に駆ける。
思った以上に距離がある。北端の踏切につくころには、かるく息が上がっていた。
闇に浮かぶ白い洋館の前に、俥夫と人力車は、たしかにいる。
洋館は最近改装されたというより、最初からこうだったと言わんばかりのたたずまいだ。
さきほど見おろしていたホームの突端を見あげながら、踏切へはいる。
背後で警報器が鳴りはじめた。
西田が小町通り側に駆け込むと同時に、遮断機が背後をふさぐ。銀色のゲートを抜け、一直線に俥夫の元へ進む。
観光地の俥夫と言えば、浅黒く日焼けた男性のイメージだったが、白装束の俥夫は、若い女性だった。
二十六歳の西田と同年代か、わずかに若い。
人力俥も俥夫も、真珠のような光沢をはなつ白を基調とし、要所を黒と茶と金で締めている。
なにより目を惹くのは、女俥夫の整った顔立ちと、街灯に照らされた白い肌。長い黒髪は後頭部でまとめられ、白い法被には白鳩屋と刺繍されている。
色白の女性であることは異質だが、鍛錬された体躯と、凛としたたたずまいには、無言の安心感がただよう。
「あの、西田と申しますが……」
そう言いかけてから、自分がなぜ、ここへはせ参じたか、その理由が思い出せなかった。
大切ななにかを切望していたことだけが強く脳裏に浮かぶのみだ。
西田が言葉を紡ぐより先に、女俥夫がよく通る声音で告げる。
「いらっしゃい。白鳩屋、夜の鎌倉巡行です。行き先はおまかせ、お代は六文になります」
六文? 二十一世紀の日本で、おかしなことを言うなと思いながら、癖でズボンのポケットに手をつっこむと、なかから寛永通宝と刻まれた古銭が六枚、出てきた。
「お、お願いします」
わけがわからないが、そのまま差し出す。
「文銭六枚、たしかに頂戴いたしました。では、梶棒の間に前をむいて立ち、うしろむきにお乗りください」
女俥夫は、白い人力俥の車軸に引っかけてあった踏み台をおろし、車体をおさえて乗車をすすめる。
よくある人力俥はふたり乗りだった気がするが、これはひとり乗り。
後傾した幌に囲まれた白い椅子を背にして、おっかなびっくり俥に乗ると、板ばねがふわりと衝撃を吸いこむ。
中背の体がぴたりと嵌まった。背もたれに身をしずめて周囲を見わたすと、自転車や自動車よりも視線が高い。
女俥夫は、白い膝掛けで西田の下半身を覆うと、両脇の隙間を埋めるように端をおさめる。じんわりとしたぬくもりが心地よい。
「……申し遅れましたがわたくし、白鳩屋の俥夫、小鳩こばとと申します。以後、お見知りおきを」
小鳩と名乗った女俥夫は、手漉き和紙の名刺をくれた。
静かに梶棒が上がり、前傾していた人力俥が水平になる。
俥載灯から白光がはなたれると、俥はゆるりと前進をはじめた。
なめらかな歩調にあわせて、小鳩の口上が流れだす。
「夜分遅くのご乗俥、ありがとうございます。今宵は白鳩屋の小鳩が、夜の鎌倉をご案内させていただきます」
昼間なら観光客でごったがえす界隈も、いまは家路を急ぐまばらな人影がみえるのみだ。
俥がスーツ姿の中年男性を追い抜くと、ぎょっとした視線がむけられる。
小町通りのメインストリートを直角に横切ると、二体の狛犬と赤い大鳥居がみえてきた。信号をわたって小鳩が俥を停めたのは、左右の車道にはさまれた参道の入口。
小鳩はくるりと振りむき、後ろ手に梶棒をつかみながら、西田と正対する。
「こちらは鎌倉を南北に貫く若宮大路のなかごろ、みっつある鳥居のうちふたつ目、参道である段葛だんかづら入口にある二の鳥居です。鶴岡八幡宮前にあるのが三の鳥居、海岸の近くにあるのが一の鳥居となります。二、三の鳥居は鉄筋コンクリート造りとなっておりますが、一の鳥居のみ石組みとなっております」
彼女が示す先には海までつづく若宮大路がのびているが、赤信号がならぶのみで、一の鳥居とやらはよくみえない。
一拍おいて、小鳩は声音を低く落とす。
「元来、みっつの鳥居はすべて石造りでしたが、関東大震災で倒壊し、一の鳥居のみ元の石材を組み直して再建されました。破壊と再生、あるいは荒廃と消滅……。一の鳥居のほど近くに、磯野と標札がかかげられた廃屋、通称サザエさんの家がございます。家人が心中した、無人であるはずの廃屋に人影をみた、などの噂が絶えない場所として全国的に知られております。ご存知ですか?」
「い、いえ、知りません」
「そうですか。残念ながら、通称サザエさんの家は、火災により取り壊されてしまいました。著名な心霊スポットですので、希望されるなら跡地へむかいますが……ご興味はなさそうですね」
西田の淡泊な反応をみて、小鳩は気にしたふうもなく、俥を曳きはじめた。
若宮大路をわたりきり、教会の十字架を左手にみながら道をさらに進むと、左右につづく道と、ちいさな神社に突きあたる。
大通りから外れると、とたんに虫の音が高く響きはじめた。
俥は右折して南に進む。幾重もの電線が頭上をわたり、厚く覆われた雲はいまにも泣きだしそうだ。
人力俥は夜の鎌倉を次々と進む。
この寺は、鎌倉時代に謀殺された比企一族の居館があった。この寺では尼僧が、斬首されそうになった日蓮上人に胡麻ぼたもちを振る舞うことで法難を逃れた。この寺は江戸時代末期、桜田門外の変で井伊直弼を暗殺しようとした浪士がかくまわれていたが、仲間が死刑になったことを知って切腹した……などなど。
死と伝承とオカルトに満ちた夜の鎌倉を案内する、というのが趣旨のようだった。
小鳩の曳く快適な俥と巧みな口上に、退屈はしなかったが、期待したものとなにかがちがう。
「お客さんは、このあたりの方ですか?」
小鳩がそう問いかけてきたのは、長い直線のゆるいのぼり坂。方角的には西、逗子市へむかっている。
「はい、横須賀です。小鳩さん……は、俥夫歴は長いんですか?」
会話をかわすうちに、西田もいくらか打ち解けてきていた。
小鳩は、前をむいたままこたえる。
「まだ新米ですよ。兼業なもので、夜間限定で個人俥夫をやらせていただいております」
「ほかに、お仕事を?」
しばしの間をおき、小鳩がふり返る。
「……忘れん坊さんには、ナイショです」
そう言って、子供っぽく人差し指を頬にあてると、にっこり笑って会話を打ち切った。
意味がわからないが、追求もできない。
俥は踏切をわたり、大きく左にカーブする。鎌倉材木座霊園入口と書かれた看板の脇を進むと、急なのぼり坂の先に巨大な清掃工場の煙突と、黒塗りの山がみえてくる。
この先になにがあるかは、オカルトにさして興味がない西田でも知っていた。本日の目玉と言える場所、小坪トンネルだ。

「この名越坂を登坂した先にありますのが、名越トンネル、もしくは小坪トンネルと称される上下六本のトンネル群となります」
急坂をものともせず、小鳩は俥を曳きながら語る。ちいさな吐息がリズミカルにつづく。
ときおり、自動車が脇を追い抜いていくが、台数は多くない。
名越坂をのぼりきると上りと下り、ふたつのトンネルが開口していた。
「三方を山に囲まれた鎌倉に出入りする道である、鎌倉七口のひとつが名越切通です。名越切通の南側、県道三一一号線として鎌倉市と逗子市を穿つトンネル群のうち、名越隧道と小坪隧道の二本が開通したのは、明治十六年のことです。左の名越隧道にはいります」
入口がレンガで組まれ、ツタが垂れ下がる、下りのトンネルに侵入する。
天井はコンクリートむき出しでせまく、オレンジ色のライトが頭上で一列にならんでいた。歩道としてお情けていどに白線が引かれた、道の左端を進む。
ひとつ目のトンネルを抜けたところから道幅がひろがり、左脇に一段高い歩道、すぐ先にふたつ目のトンネルが口をひらいている。
小鳩は歩道の手前、トンネルとトンネルの間で俥を停めた。
「右手をごらんください。現在は仕切りでふさがれておりますが、いま通過した名越隧道が開通した当時、前方の逗子隧道は開通しておりませんでした。かわりにここを右折して山を迂回し、奥の小坪隧道に接続するルートとなっておりました」
言われてみると、たしかに上りのトンネルと合流する道がある。
「この付近には火葬場があり、名越切り通しには、まんだら堂やぐら群と呼ばれる鎌倉時代の墓所もございます。死に近しい場所として、川端康成の短編小説『無言』では夜、タクシーでこのあたりを走ると、女の霊が乗ってくるとのエピソードが登場します。白鳩屋の人力俥がひとり乗りなのは、あやまって不適切な客を乗せてしまわないため、という配慮でもあります」
西田は思わず左脇を確認したが、灰色のブロックが規則的にならんでいるのみだった。
俥は前方の逗子隧道にはいる。路面に小坪、葉山と書かれたふたつの車線があり、閉塞感はすくない。出口の先にある信号で停まると、上下四つのトンネルと右側にも道がつづいていた。おそらく山を迂回する道だろう。
信号が赤から直進可能な上矢印に変わる。
「それでは、これより小坪隧道を通過いたします」
古びた入口から橙色の照明に照らされたトンネルの内部へ侵入すると、出口付近に数名の人影が動いていた。
「なっ、なにかいませんか?」
ひきつる青年の言葉に、小鳩は動じない。
「……地元の学生さんでしょうか」
人力俥が近づくと、相手側も気づいたのか、全員がこちらを凝視する。
少年たちの目は……恐怖に固まっていた。
「で、で、出た……し、死神、死神俥夫だ! マジで出やがった……」
集団は、悲鳴とも奇声ともつかぬ声を発し、われ先にとトンネル出口をめざす。金属が路面にたたきつけられる音が響く。
しばらくすると数台のスクーターが、違法な爆音をとどろかせて去っていった。
集団がいた場所には、スプレーで大きく『逗葉戦団参……』と書きつけられているが、最後は電気ショックを受けた心電図みたいにのたくっている。
「度胸だめしのようなものでしょうね」
小鳩は路面に転がったスプレー缶を、俥を傾けず器用にひろいながら言う。
高名な心霊スポットである小坪トンネルに、あらたな都市伝説を産んでしまった気がする。
惜しむらくは、西田が心霊体験をする側ではなく、仕掛ける側になってしまったことだ。
噂の小坪トンネルは、開通当時はともかく現在は走りやすく整備されており、両脇に貼られたパネルにスラングや自己主張の落書きがみられるのみ。
小鳩は小坪トンネルにまつわる『ケンちゃん事件』なる話をしてくれたが、すっかり気分が削がれてしまった。
それにしても、死神俥夫とはうまいことを言うな……死神……死……。
苦笑する西田の足元でなにかがきしみ、蜘蛛の巣状にひび割れる音がした。
トンネル先の道路端に俥を停めて、小鳩は最後の口上をのべる。
「本日は白鳩屋の人力俥にお乗りいただき、まことにありがとうございます。これにて夜の鎌倉巡行はひとまず終了となります。横須賀にお住まいでしたら、逗子駅へお送りすれば……お客さん?」
西田の異変に気づいた小鳩が、怪訝そうに見つめている。
曇天は限界をこえ、ぽつりぽつりと水滴をふりまきはじめていた。
青年は、うめくように言葉をしぼり出す。
「……俺は、鎌倉観光にきたわけじゃない。鎌倉の、死神俥夫の俥に乗りにきたんだ──」
小鳩の表情が、急速に凍りついてゆく。
この先を告げてしまうと、もう後戻りできない気がした。
やめろ、やめとけ。自身を制止したが、言葉は止められなかった。
「──この俥に乗れば、安らかに死ねるんだろ? どうか、どうか俺を、殺してほしい」
女俥夫はそれ以上、表情を変えなかった。驚きもせず、呆れもせず、ただ言った。
「お客さんは……こちら側の方、だったんですね」
地の底からにじみ出るような、低く通る声。
鎌倉駅北側の洋館、白鳩屋敷前で夜、まれに客待ちをしている白い人力俥夫がいる。三途の川の渡し賃とおなじ、六文銭を払って鎌倉をめぐると、最後には安らかな死を迎えることができる。鎌倉の死神俥夫。最近話題になっている、都市伝説だ。
意外に安かったので、冗談半分で六文銭を買ってはみたものの、仕事が忙しすぎてすっかり忘れていた。
自分はこれほどまでに死を望んでいたのか。実感がないまま沈黙をつづけていると、女俥夫は言葉をつなげる。
「白鳩屋の俥に乗るお客様には、三種類の方がいらっしゃいます。心霊スポットめぐりなど、夜の鎌倉を楽しみたい方。死神俥夫の伝説を聞き、安らかな死を望む方。それと……」
「……それと?」
「みずからの死に、気づけないお客様です」
その言葉に、さきほど鎌倉駅でせまってきた電車の閃光が、脳裏をよぎる。
西田の返事を待たず、俥は鎌倉方向、先ほど通った下りとは逆のトンネルへ走りはじめる。死神俥夫の言葉がトンネル内に響く。
「お客さんは、小坪隧道と名のつくトンネルが、もうひとつ存在するのをご存知ですか?」
「……いえ」
「これから、もうひとつの小坪トンネルまでご案内いたします。そうすれば、お客様の望みがかなうかもしれません」
言葉は丁寧なままだが、反論を許さぬ静かな決意がこめられている。
俥は上りのトンネルをひとつ抜けると信号を左折し、山を迂回する旧道を行く。迂回路の中間地点、名越トンネルへつづく道をさらに左折する。闇にのたうつくだり坂が、どこまでもつづいていた。
「お客さんの話を聞かせてください。なぜ、死を望まれるのですか?」
死神俥夫が問う。小鳩と名乗った女俥夫は、さきほどから一度もこちらをふり返らない。
雨足が強くなってきた。西田は額の雨粒をぬぐうと、もとめられるまま語りはじめる。
「自分はSE──コンピュータ関連のシステムエンジニアをやってます。現在はある銀行のシステム統合案件を担当してまして、それが大炎上──トラブルまみれになりました。仲間は次々にリタイアし、そのぶん責任は増えました。それでもなんとか、三日前にシステム統合が実施されましたが、大規模な不具合が発生して、結局やり直しになったんです」
「雪城銀行と黒山銀行の統合にともなうシステム障害は、ニュースにもなってましたね」
死神俥夫も、ニュースはみるようだ。
「はい。最初は、案件もうまくまわっていました。それが半年ほどで急な方針転換となり、案の定の大炎上。当初の予定どおりなら、まともに統合できたはずなんですけど」
「方針転換に、異論は出なかったんですか?」
「異論と言うか……ああ、忘れてた。最初に方針転換を聞いたときは逆上して、案件を統括するPM──プロジェクトマネージャーに直談判したんです。越権行為もいいところなんですけどね。PMの方は若かったけど、ちゃんと話を聞いてくれて、経緯まで説明してくれました。でも、問題は技術的なことではなく、社内の政治的な理由とやらで、撤回はできないと。PMとしても不本意な方針転換であると、わかったことだけが成果でしたよ」
「申し訳ないです──」
「えっ?」戸惑うまもなく、俥は高架道路をくぐる手前で、右に急旋回する。
クラクションと閃光がせまり、白いトラックが左側を、法定速度の倍以上ですれ違っていった。
人力俥はすぐに安定を取りもどし、道はひとまわり細いのぼりの坂道に変わった。つらなる白い街灯が、ゆっくりと流れてゆく。
「お客さんは、仕事を変えようとは思われないのですか?」
「よく言われます。でも、自分は逆に、なんとしてでも案件を成功させようと努力したつもりですよ」
かるく記憶が飛んで、楽して死ねる死神俥夫の都市伝説を忘れるていどには、努力をかさねたつもりだ。
「自分は凡才ですが、努力するのは好きなんです。でも、努力が評価されるのは学生時代まででしたね。社会人になると、結果の出ない努力には、なんの価値もない」
笑みをきしませる西田に、死神車夫が、ぽつりとこたえる。
「──努力とは、祈りのようなものです。どれほどの努力をしても、結果がともなう保証は、どこにもありません。病気、事故、災害、紛争など、努力とは別の理由で、すべてが台無しになることもあります。せっかく努力をするのなら、結果がともなう確率の高い努力をしたいものです。……ほら、もうひとつの小坪隧道がみえみてきますよ」
坂道をのぼりきり、くだりはじめた先に、ちいさなトンネルの入口があった。
その先に闇はなく、白い輝きが満ちていた。
「お客さん……西田さん……」
一瞬だけ、せつない瞳が西田を見つめた。
「──あなたは本当に、死を望むのですか? 生きて努力をつづけることを、本当にあきらめてしまったのですか?」
死神俥夫の曳く白い人力車は、輝きとともに、もうひとつの小坪隧道へ突入していった。
瞳を閉じる。これで苦しみから解放される。
──本当に?
事ここにいたっても、西田は自身の気持ちを理解しかねていた。たしかに仕事はつらい。だれがどうみてもブラックな炎上案件に、どっぷりとつかっている。
それでも、いまも心の片隅で、炎上を収束させるプランを練りつづけている。
動けるし、考えられる。死を望むほど仕事に嫌気がさした人間が、そんな心持ちでいられるだろうか?
──みずからの死に、気づけないお客様です──。
白い闇のなかで、足元が激しくきしみ、砕け落ちる音が聞こえた。俥は宙を駆けるように、なめらかな加速をつづけている。
死にたがりの西田解はようやく理解した。自分がなにをもとめていたのかを。
「死にたくない……死にたいわけじゃない。俺はただ、報われたかったんだ……」
たとえ積み方がまちがっていても、積み上げてきたプロジェクトを、なんとしても成功させたかった。
これでうまく行かないようなら、いっそ死んでやると、呪うがごとき暗示をかけてしまうほどに。だから三日前、大規模障害が発生したあのとき、西田の心は気づかぬうちに、死の引き金を引いてしまったのだ。
たれた液体が、シャツの胸元をにぶく染める。それが涙だと気づいても、液体はとめどなくあふれつづけた。

もうひとつの小坪トンネルを抜けた先は、幸か不幸か黄泉の国ではなかった。小坪隧道という名のトンネルが二本、あるだけの話だ。
雨は本降りになる前に上がり、次第に雲が晴れてゆく。
西田は到着した山の上で涙をぬぐい、ペットボトルのお茶を飲み、人力俥をおりる。
そこは、低くちいさな展望台の前。
「こちらは神奈川の景勝五〇選、光明寺裏山の展望です。どうぞ、鎌倉の夜景をごらんください」
言われるまま進むと、三隅を手摺りに囲まれた展望台の先に、鎌倉の旧市街と、海と山がひろがっていた。雲が去ったあとから、秋の星々が天蓋をかけはじめている。
「正面奥、江ノ島と稲村ヶ崎の右横に遠く、富士山がみえるのがわかりますか?」
目をこらす。夜空にうっすらと黒い八の字の山影がみえたので、「はい」とうなずく。
「ここから、百キロぐらいですね。お客さんは、あの黒い山まで、これから人力俥で行くことは可能だと思いますか?」
「そりゃ、道はつながってるから行けるでしょうけど、直行するのはきびしいのでは?」
背後で、しゅるりと衣擦れの音がする。なぜか、振りむいてはいけない気がした。
「そうですね。白鳩屋の小鳩として、おすすめはいたしません」
一拍間をおいて、言葉がつづく。
「お客さん……西田、解さん」
ふり返ると、白い法被を脱いだ小鳩が、白い人力俥のかたわらに立っていた。黒髪を解き、黒のビジネススーツを着ている。
雪のように白い肌が、俥載灯に映えた。
「あなた、だったのですね」
「わたくしは雪城小鳩。兼業俥夫にして、雪城銀行と黒山銀行のシステム統合案件にて、プロジェクトマネージャーを務めるものです」
眼光鋭い女性は、たしかに西田が直談判した、若いPMそのひとだ。
「最初から、気づかれてたのですか?」
「それはもう。面とむかって喧嘩をふっかけてきた殿方を、そうそう忘れるものではないと、思われませんか?」
上目づかいで睨む姿に、気圧される。
「うっ……スイマセン。忘れん坊さんでした」
若いPMはフフッと笑い、展望台にのぼると、表情をあらため、深々と頭をさげた。
「今回は西田さんをはじめ、統合案件メンバーの皆様に、多大なご迷惑をかけてしまったこと、深くお詫びいたします」
「い、いえ、自分も努力がいたらず、雪城さんには申し訳ないと思っとります、ハイ」
吸収合併される、黒山銀行系システムエンジニアである西田にとって、合併先の雪城銀行系プロジェクトマネージャーである雪城小鳩は、最上流の『お客様』だ。
「そう、緊張なさらないで。西田さんもわたくしの、大切な『お客様』、なのですから」
銀行としての格は上だが、旧式な雪城系システムと、格は下だが新式の黒山系システム。当初は新式である、黒山系主体での統合がなされる予定だった。
だが、雪城の守旧派が横槍をいれ、旧式をすてて新式に一本化する方針が、新旧の長所を活かして統合するという、聞こえはよいが複雑怪奇な方針転換を強行。案件は一気に大炎上した。
若いPMが告げる。
「そう言えば一点だけ、共有事項があります」
「な、なんでしょう……」
どうしても身構えてしまう青年に、小鳩はすこしだけムッとしてから、富士山を指さす。
「わたくし雪城小鳩は、プロジェクトマネージャーとして宣言します。われわれはもういちど、あの黒い山、黒山をめざします!」
「え? それって、当初の予定どおり、黒山系主体で、統合案件を仕切り直す、という認識でよろしいでしょうか?」
「たいへんよろしい認識です!」
力強くうなずくが、西田は納得できない。
「自分もずっと、それを考えてきました。技術的には可能です。けれども以前、黒山系への一本化は無理だと断言されましたよね?」
「おっしゃる通りです。お飾りの新人PMが分をわきまえ、八方美人を演じた末路が、この惨状。……ですがわたくしは、雪城の人間です。分をわきまえず、あらゆる努力をかさね、再度の方針転換を実現させてみせます!」
どれほど努力したところで、結果がでる保証などない。それでも、『当初の予定』に進路変更させると言うのだ。
西田はしばし、鎌倉の夜に浮かぶ黒富士を見つめてから、手をのばす。
つかもうと握られた指は空を切り、拳を結ぶ。まだ届かない──。
──けれども、じきに雪をいただく、あの黒い山まで、たしかに道はつながっている。
「わかったよ、小鳩さん。俺もやれるだけ……祈るように努力するよ」
のばした拳を小鳩が握り、ふたりは握手をかわす。
か細く冷たい小鳩の指に、熱い西田の体温が、じんわりと伝わってゆく。
このひとは、本当に死神なのかもしれない。
都市伝説の死神俥夫としてではなく。
いちどは死を望んだ自分に希望をかかげ、死の決意すら忘れてしまう炎上案件でまた、努力しろと言うのだ。よしんば再度の方針転換が実現したところで、現場は大混乱だろう。
楽に死なせては、もらえそうにない。
それでも、とびきりブラックな死神からの誘いに、歓喜する自分がいる。
雲間から月があらわれ、ふたりを照らす。
名残惜しげに手を離し、小鳩は言った。
「わたくしは人力俥夫にあこがれて、なりたくて、努力してきました。でも家からは反対され、それでもあきらめず家業のかたわら、夜間限定の個人俥夫になりました。利益はもとめない。死神呼ばわりも大歓迎。これが鎌倉の死神俥夫、雪城小鳩が寝る間をおしみ、努力をかさねて得た、とっておきの『成果物』なのですから──」
女俥夫は跳躍し、白い法被を羽織ると梶棒をおこし、見得を切る。
「──炎上案件ごときに、道楽の邪魔はさせません!」

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