【都市伝説】『鎌倉の死神俥夫』

ハッハッハ、鎌倉ではよくあることだよ。

と、『鎌倉ものがたり』の一色先生もおっしゃってますが、僕も鎌倉の都市伝説をご紹介します。現代の鎌倉駅前で、深夜に客待ちをしている人力車の車夫(俥夫)。その俥に乗ることになった、とある女性の物語です。

2018/02/20追記

人力俥をテーマにした新作小説『死神俥夫は眠れない』を公開しました。

鎌倉の死神俥夫

郁雄/吉武

終電間際のJR鎌倉駅ホーム。
闇夜に沈む西側の一隅に、古びたホテルが見える。それは、誰にでも見える。
だが、錆でペンキの浮く看板脇に、濃い影を帯びたひとりの俥夫と、一台の人力車が見える者は、そう多くない。

――もし見えたというのなら、あなたには資格がある。

その日、久里浜行きの最終電車から降りた鈴貴三菜(二十三歳・仮名)も、その存在に気づいた。ホームを流れる人の群れから外れ、彼女だけがその姿を睨みつけている。
暗がりの俥夫は腕を組み、静かな佇まいで路傍に立つ。熱心に客をもとめる様子はなく、それでいていつ客が来てもいいように、油断なく身構えていた。昼間の大通りならいざ知らず、こんな時間、こんな場所で客待ちをしている俥夫の存在に、理不尽な怒りが沸く。
今夜は、すべてが腹立たしい。無視などしてやるものか。
対する三菜は、朱を帯びた白肌に、純白のパーティードレスを纏っていたが、着衣は下品に堕する寸前まで乱れ、汚れ、手には皮のウォレットを握りしめていた。涙と汗はすでに引き、悪寒と虚脱が全身を覆っている。乱れた女の放つ香気が、整いすぎた容貌に、ただならぬ魅力を加えていた。
場違いであることにかけて、彼女も負けてはいない。
ヒールの欠けた片足を曳きながら、三菜は西口の改札を抜ける。バスはとうに絶えた時刻。駅前ロータリーにはタクシー待ちの行列が延びる。車に頼らぬ人々は、江ノ電に乗り換えるか、徒歩で自宅を目指す。
彼女は時計台広場の脇を抜け、駅のホームと平行して走る細道を進む。駅前にもかかわらず、その道は暗く、人通りは絶えていた。金属の轍が隔てる、光の道と闇の道が、鎌倉の夜に融け込んでいる。
その先に、目指す俥夫と人力車があった。
観光地の俥夫といえば、日光で炙られて浅黒く、健脚剛碗の筋肉を纏った青年。客が近づけば、いかがですかと乗車を勧めてくる。
だが、ここで辻待ちをしている俥夫は、炭のように黒い半纏に身を包みながら、四肢が白く浮き立つような肌を持つ、痩身の青年。蝋人形のごとき面貌が視線を定め、生命を宿す存在であることを、わずかに主張しつつ、告げる。
「こんばんは」
ただ、それだけだった。
不躾に彼女は問う。
「こんばんは。こんな夜中に、客なんて来るの?」
俥夫は腕組みを説き、白亜の面立ちに静かな笑みを浮かべて答える。
「はい。夜間営業の俥夫は珍しいですからね。一部のお客様には、ご好評をいただいております」
異様な外見に反し、俥夫の応対は柔らかなものだった。
その余裕が、三菜の憎しみを増長させる。
「わざわざ夜に走るなんて、酔狂なことするのね」
「恐れ入ります」
「今夜は何人乗せたの?」
「まだひとりも……」
俥夫が語り終える前に、三菜は手にした皮財布を投げつけた。
顔面をねらった一撃を、俥夫は片手でぱしゃりと受ける。
「行き先、予算のご希望は、ありますでしょうか?」
「任せるわ。どこへでも連れてって」
艶のある、乱れた女の放言。俥夫は平然と高額紙幣を引き抜き、戻す。乱暴に皮財布をもぎ取る三菜に、続けて語る。
「ようこそ、暗き鎌倉へ――」
「いいから出してよ、即刻!」
闇夜にぎらつく視線を真っ向から受けながら、俥夫は準備をはじめる。梶棒の先端を地につけ、前かがみに停車する人力車。その車軸に掛けられた、木製の踏み台を手前に置き、座席に置かれた毛布を腕に掛ける。俥の傍らに立ち、うやうやしく一礼。
「どうぞ、お乗りください」
現代の鎌倉では見慣れた光景となった観光人力車だが、乗るのは初めてだった。
三菜は、乱暴な足取りで乗り込むが、ふわりとしたばねの沈み込みが、衝撃を吸収してしまう。至極上等な肘掛け椅子に誘われた気分。その心地よさが不快だ。
手早く走行中の注意をしながら、俥夫は毛布を彼女の膝に掛け、四隅に詰めた。白い指の動きに、よどみはない。
「俥を上げますので、体重を後方に掛けてください」
言われるまでもなく、大仰に反り返って座す三菜を確認し、俥夫は梶棒を持ち上げる。
「いざ、鎌倉を参ります」
俥が、ぞろりと闇夜に流れ出した。

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