ある帰宅難民の顛末

それは、会議中のことだった。

品川シーサイドのオフィスビル。中層階がぐらりと揺すられる。数日前の昼にあった地震と同じぐらいか……そう思う間もなく、揺れは長く、激しく、輪を描くように続く。しまいには、立っているのも困難なほど揺れ踊る。窓外のビルが、目に見える動きで左右に振れている。柔構造の構築物だけに、折れはしないが荒波にもまれた船内にいるようだ。ピシリと壁に、真一文字の亀裂が走る。そろそろ終わるだろう、という安易な予測をはるかに上回る激震が終わった時には、もはや会議どころではなく、仕事どころでもなかった。

それが、宮城県沖を震源とする『東北地方太平洋沖地震』の私的体験だった。

定時近く。頻発する余震でビルは揺れ続けていた。軽く気分が悪い。電車は私鉄もJRも止まっているという。鎌倉の自宅までは約40キロ。歩けば8時間以上かかる距離だ。歩けないことはないが、電車が復旧することを期待して、私鉄ぞいに歩くことにした。経験上、JRより私鉄の方が復旧基準が緩かったからだ。京急の駅まで行くと、入口が封鎖され、復旧のめどは立っていないと告げている。想定内だ。横浜、川崎方面をめざして線路に併走する道を歩く。

自宅に電話をかけるが、繋がらない。地震直後は繋がったので、両親の無事は確認していたが、以降の消息がわからないのは不安だ。道路は車が数珠繋ぎになっている。こういう時は、歩いたほうが早い。最速なのは、自転車やバイクだろう。どこかで安い自転車を買おうかとも思ったが、思いとどまる。かわりに、牛丼屋で腹ごしらえをする。こういう時は、ダイエットよりも栄養補給が優先だ。

ビルの谷間に見え隠れする高架線路の上に、京急の電車が横たわっていた。紅白の車両は電力を絶たれ、暗く沈んで見える。いずれは復旧するにしても、ここ数時間では無理に思えた。はじめは歩いてでも鎌倉に帰るつもりだったが、考えをあらため、川崎の親戚の家に厄介になることにする。品川から川崎までなら、歩くのも無理ではない。人波に揉まれながら、多摩川を越え、東京都から神奈川県へと渡る。鉄橋の上にも、動きを止めた京急の車両が、漆黒の中に伏していた。会社を出てから2時間半で、川崎に到着。親戚の家で暖を取り、パソコンを借り、こうして顛末を記している。午後8時すぎ、ようやく自宅から電話があり、たがいの無事を確認し、電車が動くのを待っている。

不安や不便はあっても、この国の人間は秩序を守る。きっと、世界が終わるその瞬間に至っても、理路整然と滅びを迎えるに違いない。

■付記

震災当日の、地震発生から川崎までの『歩いてわかる生活リズムDS』による歩行記録。

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